小原克博 On-Line

新聞・雑誌記事等

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「フェミニズムとキリスト教」(『南日本新聞』1998年8月18日、『四國新聞』8月18日、『日本海新聞』8月19日、『中國新聞』9月4日、『神戸新聞』9月6日、『京都新聞』9月7日、他)

 苦しい時の神頼み。宗教や信仰の有無を問わず、人間は苦境に立たされたとき、思わずこの世を超えた力にすがりたくなるものだ。ところで、問題解決を期待されているその神は、果たして男なのか、女なのか。
 日本では特に気にも留めてこられなかった、そのような問いが、近年、欧米では大問題になっている。キリスト教の影響が強い欧米社会では、長い間、神は男というイメージで見られてきた。しかし、この暗黙の前提が、今やフェミニズムからの問いかけによって、激しく揺らいでいる。
 フェミニズムとは何か。多様な内容を包含するその思想・運動を一言でまとめるのは困難であるが、フェミニズムは、女性の政治的・経済的・社会的権利を可能な限り擁護するという共通基盤を持っていると言えるだろう。男か女か、という性の違いによって不平等が生じてはならないのである。

 翻って考えるなら、フェミニズムが男としての神を問題視しているということは、男としての神が、女性に不利益をもたらしたということを示している。このことをメアリ・デイリは『父なる神を越えて』(一九七三年)において明快に次のように述べている。「神が男なら、男が神である」。
 男が神であるなら、それは即座に、男が女を支配する強力な根拠となる。実際にはキリスト教に限らず、世界のほとんどすべての宗教が、男性による女性支配の理由付けを行ってきたのである。男性支配が当然視されてきた伝統社会において、その社会的メカニズムを支える中枢に宗教が存在していた点を見過ごすことはできない。その聖なる暗部が、フェミニズムによって明るみに出されつつあるのである。
 伝統的理解に対するフェミニズムの影響の一端を、最近の英語圏の聖書翻訳の中に見てみよう。例えば、教会の礼拝で毎日曜日唱えられる「主の祈り」(マタイによる福音書六章九―一三節)において、神はこれまで「天におられるわたしたちの父(Father)よ」と呼びかけられてきたが、最近出版された翻訳の中では「わたしたちの天の親(Parent)よ」、「天にいるわたしたちの父母(Father-Mother)よ」、「天にいるアッバ神(God)よ」とされている。

 前二者では父と母を対等に扱おうとする意図が見られる。また、後者において「アッバ神」という中性的な表記が、性における中立を意図していることは明らかである。後者の類例はイエスの呼び名にも見られる。「神の息子(son)」を「神の子(child)」と修正することにより、生物学的には明らかに男性であったイエスの男性性を弱めて、なるべく中性的なイメージでとらえようとするのである。
 このように伝統に対する見直しがラディカルに進展している一方で、宗教的保守主義への回帰が同時に見られることも現代の特徴であろう。例えば、昨年一〇月、ワシントンで数十万人という男性キリスト教徒によるプロミスキーパーズの大集会が開催された。彼らは伝統的な意味で良き夫・良き父親であることを約束し守ろうとしている。しかし「男は神に近い精神的なリーダー」との教えに、全米女性機構をはじめとするフェミニスト諸団体が危惧の念を表明した。

 また、米国最大のプロテスタント教会である南部バプテストが今年六月に「妻は夫に服従すべきだ」という新たな教義を定めた。南部バプテストに所属するクリントン大統領も困惑したと伝えられている。
 伝統からの解放と伝統への回帰。近代社会の中では不可避的に、この両者が共存し、せめぎ合っている。その生々しい現場をフェミニズムとキリスト教の関係の中に明瞭に見ることができるのである。
 最初の問いに戻ろう。日本人が寄り頼む神は、男なのか、女なのか。神という概念を持たない宗教においてさえ「男が神である」という現状は存在しているかもしれない。