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「21世紀の『生命の尊厳』」、『週刊仏教タイムス』2001年1月1日

 「生命の尊厳」という言葉は、すでに日常的に馴染み深い言葉となっている。その言葉は、人間(あるいは他の生物)の生と死をめぐる議論の際に、必ずといってよいほど引き合いに出されてきた。また、生命科学の急速な進展がわれわれに突きつける倫理的な難問の前で、とりわけ宗教家によって好んで用いられてきたとも言える。
 しかし、「生命の尊厳」をわれわれに生来与えられた既得権として主張できる時代は終わりつつある。「生命の尊厳」を声高に叫べば叫ぶほど、複雑な社会状況の中に置かれた生命の微細な叫び声に対し無頓着な返答をしていることになりかねない。それほどに生命が置かれた場は多様化し、複雑化している。
 したがって、今日の課題は、科学の侵攻に対する最後の砦として「生命の尊厳」を維持あるいは強化することにあるのではなく、むしろ、その尊厳の中身がどのように成立しているのかを丹念に探求することにあると言えよう。その意味で「生命の尊厳」は、当然の権利として主張されるべきものではなく、むしろ、もはや容易に前提にできないものとして、絶えず創造的に紡ぎ出されなければならない価値なのである。
 ところで、複雑かつ根本的な倫理的課題を抱えた現代社会において、宗教はどのような役割を果たしているのであろうか。先端医療にかかわる問題の多くは欧米に端を発しているが、そこでは具体的な検討を委ねられた倫理委員会のメンバーに宗教学者や神学者が加えられることが普通である。
 もちろん、日本でも脳死・臓器移植に関する議論をはじめとし、宗教者が関与する例は見られる。しかし、その際、宗教者はもっぱら旧来の「生命の尊厳」の代弁者と見なされている。少々うがった見方をすれば、政府が伝統的価値観をも尊重しているということを主張するためのアリバイ作りを宗教者が手伝わされている。
 問題は脳死・臓器移植だけではない。人工授精や体外受精などの生殖技術は、われわれに生殖の新しい可能性を提示し、それに対応したガイドライン作りが進められている。しかし今のところ、それらは伝統的な家族観・男女観に基づいて実施が認められているのが現状である。つまり、新しい技術は、皮肉にも旧来の家族イデオロギーを強化する働きをしている。聖書の言葉を借用するなら、新しいぶどう酒が古い皮袋に入れられている(マルコ福音書二・二二)。このような実情の中で、宗教は「古い革袋」と「新しい革袋」のいずれを提供することができるのであろうか。
 「古い革袋」を提供することは簡単である。「生命の尊厳」を呪文のごとく唱えていればよいからである。では、新しいぶどう酒(21世紀の多様な生命観)を入れるための新しい革袋を提供するために、宗教は21世紀を見据えて、どのような取り組みができるだろうか。最低限クリアーしなければならない課題を次に列挙してみる。
一)テクノロジーに対する批判的洞察。価値中立的な技術は存在しない。それゆえ、技術に対するバイアスのかかり方が、特定の社会集団の利益となるように誘導されていないかどうか、その公正さを吟味できる視点を宗教は持たなければならない。その意味で、宗教は単に「技術嫌悪」であることはもはやできない。
二)宗教的言説の再検討。ほとんどの宗教は、女性の生殖・出産を管理するための社会的機能を果たしてきた。言葉を変えれば、伝統的な宗教的言説は、少なからず女性の自己決定権を阻害する要素を持っている。したがって、新しい生殖技術に対し適切な距離を取るためには、まず自らの宗教的言説を分析し、それをあらたに解釈する必要がある。たとえば、キリスト教では、男性を霊的・理性的存在と見なし、女性を肉体的・性的・非理性的・感情的存在と見なす性的二元論が様々な教えの中に反映されている。これを放置するのであれば、キリスト教は男性主導の医療技術を補完することしかできない。
三)公共的にアクセス可能な表現・方法の提供。生殖医療がもたらす生命倫理的課題に対し社会的意義のある応答をしようとするなら、宗教は公共的にアクセス可能な表現と方法を示さなければならない。たとえば、エホバの証人の輸血拒否がいくら説得力をもったとしても、それは公共的な基盤になり得ない。信仰への誠実が自己充足になるのではなく、公共性へと広がっていく言葉と実践を、われわれは求められているのである。
四)安易な還元論に対峙できる人間理解の提示。ヒトゲノムの解析もほぼ完了し、今後、遺伝情報が個々人の人生設計に大きな役割を果たすようになるだろう。「わたしとは何者か」という古典的な問いは、今や遺伝情報によってもっとも説得的に答えられようとしている。それだけに、人の優劣が科学的装いを持って論じられるようになったとき、宗教は、遺伝情報に還元し尽くすことのできない人間の価値がどこにあるのかを明確に示す必要がある。
 以上、「生命の尊厳」を取り巻く21世紀的な課題について概観してきたが、その尊厳性は個々人が幼少期より、様々な試行錯誤を経て獲得して行かざるを得ない価値である。もし宗教がそのプロセスに対し画一的な生命観や道徳を押しつけるとすれば、それは「生命の尊厳」への冒涜にもなりかねない。しかし同時に、宗教は人の人生に寄り添いながら、生命の尊厳の「初期値」あるいは「帰一点」を示し続けなければならない。なぜなら、人は年齢にかかわらず、自らの尊厳がくずおれるような不幸や失敗の経験に直面することが少なくないからである。アイデンティティが瓦解するような危機の中で、存在の基底になお尊厳があることを共感的に示すことは、21世紀になっても変わらない宗教の課題である。