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「安全神話とは何だったのか」(「現代のことば」)、『京都新聞』2011年5月10日、夕刊

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 神話は世界の起源や人間の誕生だけでなく、滅亡への恐怖をも語り伝えてきた。人類は太古の昔から滅亡のトラウマを神話的に保持してきたと言い換えてもよい。ノアの洪水物語はその一例であるが、他にも、シュメール文明からアジア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカ大陸の先住民に至るまで、大洪水による人類滅亡と再生の神話は多数存在している。
 3・11以降、何度「安全神話」の崩壊という言葉を見聞きしたことだろうか。確かに、原子力発電は安全だという言い方は、根拠のない「神話」であったと多くの人が感じているに違いない。しかし、多くの神話は人間の慢心を批判し、自然への畏れを教え、人知の限界を知ることの大切さを語ってきた。
 安全神話の崩壊をきっかけとして、神話的に語られてきた安易な安全対策を改め、いっそう安全な原発の建設を目標とすべきなのか。あるいは、古代からの神話的知恵に背を向けることなく、節度を持って自然の恵みを分かち合う自然エネルギー(代替エネルギー)の開発に大きく踏み込み、原発への依存度を低減していくべきなのか。エネルギー問題の解決は決して一筋縄にはいかないが、おおざっぱに言えば、このような分岐点に我々は立たされているのではなかろうか。
 その分岐点を前にして、我々がこれまで依拠してきた「安全神話」とは何であったのかを振り返ってみることが必要だろう。安全神話を構成していた物語の一つは、原子力を「必要悪」として許容してきたことである。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下によって放射能のおぞましさを刻印された日本の戦後史において、核兵器は「絶対悪」として理解されてきた。核保有国が核兵器を「必要悪」と考えてきたのとは違う立場を、わが国は取ってきたのである。ところが、そのような日本にとっても必要悪としての原子力は、官民一体の推進政策の結果、必要「悪」としての側面を限りなく薄められ、むしろ「よきもの」としてアピールされてきた。そして、大多数の国民がそれを信じた。
 安全神話の根っこにあるもう一つの物語は、成長神話という別の神話的語りである。日本経済が成長し続けることに最大限の価値が置かれ、そのために大量生産・大量消費が前提とされた。経済成長には大量エネルギーの安定供給が必要であると言われれば、それに異論を挟むことは難しい。しかし、もはや、そうした暗黙の追認を続けることはできない。我々もまた成長神話に信頼を置き、結果的に安全神話の一部を支えてきたことを自覚すべきであろう。
 安全神話の崩壊という言葉に触発されて、行き場のない怒りを政府や東京電力に向けるだけでは、長期的な展望を開くことはできない。がむしゃらに成長を求める時代は終わった。多くの経済大国は、成長の副産物として貧富の格差や環境破壊を生み出してきた。わが国は、それとは異なる「脱成長」の経済モデルを示し、エネルギー消費を抑制しながら、安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた、成熟した国作りを目指すべきであろう。再生の物語は、信頼に足る、新しい神話を世界に伝えることになる。