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「公共空間の宗教と公益──3・11以降の変化の中で」、『中外日報』2012年11月8日号

小原克博(同志社大教授)

公益にかなう「よい宗教」
 近代日本においては、政教分離を前提とした宗教と倫理(道徳)の分離と、それに基づく国民道徳の普及が、国家の宗教政策の中核を占めた。仏教、キリスト教などの諸宗教は、そうした枠組みの中で、天皇を中心とした国民道徳に従う限りにおいて「よい宗教」として認められ、その活動を許された。反対に、国家秩序への従順を示さなかった一部のキリスト教や新宗教は、「悪い宗教」として弾圧の対象になった。宗教および公益の境界設定をしたのは国家であった。
 戦後の日本社会では、戦前の宗教政策に対する反省も一因となって、宗教団体に対しては寛容な政策が取られてきた。その結果、信教の自由が広範囲に保証されたが、他方、宗教法人の乱立や、オウム真理教に代表される「カルト宗教」を生み出すことにもなった。一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、宗教は一般的に「悪い」ものとしてイメージされることが多くなり、特に公的領域において宗教が現れることは忌避されてきた。
 しかし、東日本大震災は、宗教に対し、別のイメージを付与するきっかけを与えた。多くの宗教団体が震災支援に関わり、宗教の利他的な機能を発揮したことは、多くの場合、好意的に受けとめられ、それは結果的に、宗教の公益性という新しいテーマを喚起した。しかし、うがった見方をすれば、公益性が「よい宗教」であるための条件とされ、多くの宗教が「公益」を味方につけることによって「よい宗教」であることを演じようとしているとも言える。戦前の日本社会の公益(国益)に従った宗教と、3・11以降の公益に奉仕する宗教との間の根本的な違いはどこにあるのだろうか。社会的な貢献を宗教はいっそう増進すべきであるが、同時に、宗教固有の役割がどこにあるのかを意識しておかなければ、公益という、それ自体決して中立的ではない場に宗教的実践が取り込まれていく危険性がある。
 宗教が公益性を発揮することを期待されている場面の一つに、脱原発の議論がある。これまでも、全日本仏教会をはじめ、各種の宗教団体やその連合体から、脱原発の声明が発表されてきた。国民的な広がりをもって展開されている脱原発は、多様な政治的スペクトラムを有しているが、左派だけではなく、保守派の人々も関わっている点が興味深い。その際だった例として、小林よしのりの『脱原発論』をあげることができるだろう。小林にとって、国土を守り、戦争で亡くなった英霊に感謝の念を献げることと、脱原発を実現することは、同一線上にある。宗教界においても、この種の議論に賛同する人たちもいれば、目的は同じでも、異なる論理を持っている人たちもいるに違いない。3・11以降の公共空間も、不可避的に雑多な運動や思想を含みこんでいる。それゆえ、それぞれの宗教グループは公益に資する社会奉仕を進めると同時に、公益に還元されない宗教の固有性がどこにあるのかを自覚することが、結果的に、長い目で活動を続けることにつながるだろう。

記憶のエシックス
 ところで、公益に関与しつつ、公益に左右されない宗教固有の役割とは何であろうか。この問いに対しては言うまでもなく複数の解答が考えられるが、私が強調したいのは「記憶」である。伝統宗教の多くは何らかの形で「記憶のエシックス(倫理)」を有している。2011年には、法然800年、親鸞750年大遠忌を記念する行事が行われた。2011年、日本社会がどのような状況であったのかという記憶と共に、大遠忌はさらに50年後の850年、800年大遠忌へと引き継がれていく。信仰共同体が継承する記憶は、個別の記憶を集合させるだけでなく、それを儀礼化し、身体化していく。
 現代の情報技術は、電子的な記録装置により膨大な情報を集積し、それへの検索を可能にするが、それは身体とのつながりがきわめて希薄な、しかし、それゆえに安易にネットワークを構築できる自由度を持っている。ソーシャル・ネットワークを介して誕生した運動は、社会を変えるほどの力を有している。しかし同時に、熱しやすく冷めやすいという現代的特性を考慮に入れるならば、今ある運動の勢いが三年後あるいは五年後に持続されているかどうかについて楽観することはできないだろう。
 膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに記憶喪失に陥りやすい現代社会において、世代を超えて記憶するという高度に身体的な行為を宗教が担っていくことができるとすれば、それをポスト3・11の宗教の役割の一つに数えてよいのではないか。急速に冷えていく関心を「世の常」として傍観するのではなく、また、結論を出すのを急ぎすぎるのでもなく、問題を考え、逡巡し続けるためのエネルギーを供給することが大切であり、そのためには歴史の風化に抵抗できる記憶のエシックスが必要なのである。

「宗教の公益性」から「公益の宗教性」の模索へ
 3・11は宗教の社会的位置づけに変化を与え、その役割を問い直すきっかけを与えた。それは宗教の境界線への問いと言い換えることもできるが、もう一つの別の課題を取りあげてみたい。3・11によってもたらされた危機は、自然災害と人災の複合体であるが、この未曾有の出来事は、あらためて自然への畏怖を引き起こすことになった。公益とは歴史的に何であったのかを日本に即して考えてみると、それは人間社会における利害関係を意味するにとどまらず、むしろ、人間と自然の間にこそ日常的な意味での公益が存在していたのではないかと推論することができる。人は自然を畏れつつ、そこから日々の糧を得てきたのであり、動物の命を奪う場合には、供養という形で、畏れと感謝の念を表してきた。この視点から見ると、現代社会における公益理解が明らかに人間中心的で、自然・動物と人間との間で成り立っていた公益をそぎ落とした上に構築された近代的な公益であることがわかる。
 3・11以降、「宗教の公益性」が議論されてきたが、私が問題にしたいのは、むしろ「公益の宗教性」、公益の失われた宗教的的次元である。自然を社会の産業化のための資源と見なし、動物を大規模工場畜産の中で製品として扱い、人間の利益を最大化する中で、近代的な「公益」概念が成立してきた。しかし、3・11によって、近代的な構築物がひっくり返されることにより、皮肉にも、その基底にある失われたもの、失われた公益が垣間見えたのである。
 失われたものは、日常の風景からは見えない。しかし、それが非常事態において終末論的風景として立ち現れてくることがある。こうしたことを私が考えるようになったきっかけの一つに、3・11がもたらした動物に対する惨状がある。牛、豚、鶏などの家畜は放置され、なすすべもなく肉塊と化し腐敗していった。近代化された畜産により、食肉の大量消費に対応する大規模な食肉流通が可能となっているが、ひとたび家畜が感染や放射能汚染にさらされると、まさに人間の都合により、大量の命が廃棄されることになる。文字通り、公益のために。自然や動物と人間の関係を現在のように規定した「近代」が立ち現れてきた状況を想起しながら、近代的動物観(自然観)や人間観を批判的に検証するための足場を探ることが、公益の失われた次元を再発見・再評価する一歩になるはずである。
 さらに、生者と死者の間に成り立っていた関係を視野に入れ、過去から未来へと向かう時間軸を用いて、公益概念を拡大すれば、未来世代に対する現代世代の倫理的責任(非存在者への倫理)を考えることもできる。このようにして、人間中心的ではなく、現代世代中心的でもない公益理解(公益の宗教性)を再発見・再解釈することが、日本の宗教界に求められる現代的使命ではないか。