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        <title>新聞・雑誌記事等</title>
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        <language>ja</language>
        <copyright>Copyright 2013</copyright>
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            <title>「三・一一以降の宗教と公益──「近代」への批判的問いかけ」、『アンジャリ』（真宗大谷派・親鸞仏教センター）第25号、2013年6月、8-11頁</title>
            <description><![CDATA[<p><strong>■<a href="http://www.kohara.ac/essays/Anjari25.pdf">PDFファイル</a>（944KB）</strong><a href="http://www.kohara.ac/essays/Anjari25.pdf"><br /></a></p>
<hr />
<p><br /><strong>●三・一一以降の社会状況の中で</strong></p>
<p>　三・一一東日本大震災は、日本社会に大きな影響を与えたが、それがどのような規模と質のものであったのかを歴史的に検証するには、数十年の月日が必要となるだろう。我々は、その途上にいるわけであるから、今向いている方向が正しいのかどうかも、はなはだ心許ない。しかし、このような時であるからこそ、時代の推移を大きく捉えることが必要ではないか。<br />　それは日本社会を豊かにし、快適にしてきたと思われる「近代化」や「近代」とは、そもそも何であったのか、という問いにつながっていく。原子力発電は、近代科学の最先端の技術を使い、エネルギーの大量消費を前提とした快適な生活をもたらしてくれる夢の技術として、長きにわたり信奉されてきた。もちろん、三・一一の原発事故以降、そうした安易な信頼は崩れつつある。三・一一以降、何度「安全神話」の崩壊という言葉を見聞きしたことだろうか。確かに、原子力発電は安全だという言い方は、根拠のない「神話」であったと多くの人が感じているに違いない。しかし、古来、様々な宗教の中で蓄積されてきた神話や物語は人間の慢心を批判し、自然への畏れを教え、人知の限界を知ることの大切さを語ってきた。<br />　安全神話の崩壊をきっかけとして、神話的に語られてきた安易な安全対策を改め、いっそう安全な原発の建設を目標とすべきなのか。あるいは、古くからの神話的知恵に背を向けることなく、節度を持って自然の恵みを分かち合う自然エネルギー（代替エネルギー）の開発に大きく踏み込み、原発への依存度を低減していくべきなのか。エネルギー問題の解決は決して一筋縄にはいかないが、おおざっぱに言えば、このような分岐点に我々は立たされている。</p>
<p><br /><strong>●神話を振り返る</strong></p>
<p>　その分岐点を前にして、我々がこれまで依拠してきた「安全神話」とは何であったのかを振り返ってみることが必要だろう。安全神話を構成していた物語の一つは、原子力を「必要悪」として許容してきたことである。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下によって放射能のおぞましさを刻印された日本の戦後史において、核兵器は「絶対悪」として理解されてきた。核保有国が核兵器を「必要悪」と考えてきたのとは違う立場を、わが国は取ってきたのである。ところが、そのような日本にとっても必要悪としての原子力は、官民一体の推進政策の結果、必要「悪」としての側面を限りなく薄められ、むしろ「よきもの」としてアピールされてきた。そして、大多数の国民がそれを信じた。</p>
<p>　安全神話の根っこにあるもう一つの物語は、成長神話という別の神話的語りである。日本経済が成長し続けることに最大限の価値が置かれ、そのために大量生産・大量消費が前提とされた。経済成長には大量のエネルギーの安定供給が必要であると言われれば、それに異論を挟むことは難しい。しかし、もはや、そうした暗黙の追認を続けることはできない。我々もまた成長神話に信頼を置き、結果的に安全神話の一部を支えてきたことを自覚すべきであろう。<br />　安全神話の崩壊という言葉に触発されて、行き場のない怒りを政府や東京電力に向けるだけでは、長期的な展望を開くことはできない。がむしゃらに成長を求める時代は終わった。多くの経済大国は、成長の副産物として貧富の格差や環境破壊を生み出してきた。わが国は、それとは異なる「脱成長」の経済モデルを示し、エネルギー消費を抑制しながら、安定した社会基盤と豊かな自然環境を備えた、成熟した国作りを目指すべきであろう。再生の物語は、信頼に足る、新しい神話を世界に伝えることになる。では、宗教はそのプロセスにどのような形で関わることができるのだろうか。宗教は変わりつつある社会の中で役に立つのか、公益に資することができるのか、といった問題は、古くて新しい問いである。</p>
<p><br /><strong>●公益にかなう「よい宗教」</strong></p>
<p>　近代日本においては、政教分離を前提とした宗教と倫理（道徳）の分離と、それに基づく国民道徳の普及が、国家の宗教政策の中核を占めた。仏教、キリスト教などの諸宗教は、そうした枠組みの中で、天皇を中心とした国民道徳に従う限りにおいて「よい宗教」として認められ、その活動を許された。反対に、国家秩序への従順を示さなかった一部のキリスト教や新宗教は、「悪い宗教」（邪教・妖教・外教等）として弾圧の対象になった。宗教および公益の境界設定をしたのは国家であった。<br />　戦後の日本社会では、戦前の宗教政策に対する反省も一因となって、宗教団体に対しては寛容な政策が取られてきた。その結果、信教の自由が広範囲に保証されたが、他方、宗教法人の乱立や、オウム真理教に代表される「カルト宗教」を生み出すことにもなった。一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、宗教は一般的に「悪い」ものとしてイメージされることが多くなり、特に公的領域において宗教が現れることは忌避されてきた。<br />　しかし、東日本大震災は、宗教に対し、別のイメージを付与するきっかけを与えた。多くの宗教団体が震災支援に関わり、宗教の利他的な機能を発揮したことは、多くの場合、好意的に受けとめられ、それは結果的に、宗教の公益性という新しいテーマを喚起した。しかし、うがった見方をすれば、公益性が「よい宗教」であるための条件とされ、多くの宗教が「公益」を味方につけることによって「よい宗教」であることを演じようとしているとも言える。戦前の日本社会の公益（国益）に従った宗教と、三・一一以降の公益に奉仕する宗教との間の根本的な違いはどこにあるのだろうか。宗教による社会貢献が増進するのは望ましいことであるが、同時に、宗教固有の役割がどこにあるのかを意識しておかなければ、公益という、それ自体決して中立的ではない場に宗教的実践が取り込まれていく危険性がある。そのことを考えるための素材を自民党の憲法改正草案（二〇一二年四月）に見出すことができる。</p>
<p><br /><strong>●表現の自由そして信教の自由の今後</strong></p>
<p>　改憲草案は多くの条文に言及しているが、ここでは宗教と公益の問題を考える際に重要な第二一条に注目したい。現行の条文では「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」となっているが、改憲草案では「これを」を削除し、次のような第二項を追加している。「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」。第二項が第一項に記された「自由」を制限しているのは明らかであるが、この改正草案に対する説明を兼ねた「Ｑ＆Ａ」では以下のような、注目に値する理由が述べられている。「オウム真理教に対して破壊活動防止法が適用できなかったことの反省などを踏まえ、公益や公の秩序を害する活動に対しては、表現の自由や結社の自由を認めないこととしました。内心の自由はどこまでも自由ですが、それを社会的に表現する段階になれば、一定の制限を受けるのは当然です」。<br />　簡単に言えば、「公益や公の秩序を害する」ものには自由を認めない、ということである。たとえ宗教法人であったとしても公益に反するもの（その例としてオウムがあげられている）には積極的に介入する準備がある、と読むことができるだろう。しかし、政府や裁判所が宗教法人の公益性をチェックするような体制ができると、宗教法人は自らが公益にかなっていることを「社会的に表現する」必要に迫られることになりはしないか。それは明らかに信仰の本義に反する。公益との関係にかかわらず、信教の自由は保障されるべきだからである。公益に貢献する宗教が「よい宗教」とされるようでは、「いつか来た道」をまたたどることになってしまう。<br />　宗教法人は世俗的側面と宗教的側面から成っている。財産などの管理・運営をする世俗的側面に関して問題があれば、指導を受けるのは当然である。しかし、信心や信仰、祭儀に関わる宗教的側面に関しては、公益との関係を問われる必要はない。国家の再生が声高に叫ばれる時代においては、公の秩序や公益が強調されがちである。しかし、そうであればこそ、宗教の固有の役割は、単にその一部となることではなく、世俗的な秩序や公益に還元されない役割と自由を自覚することにあるのではないか。</p>
<p><br /><strong>●記憶のエシックス</strong></p>
<p>　ところで、世俗的な公益に左右されない宗教固有の役割とは何であろうか。この問いに対しては言うまでもなく複数の解答が考えられるが、私が強調したいのは「記憶」である。伝統宗教の多くは何らかの形で「記憶のエシックス（倫理）」を有している。二〇一一年には、法然八〇〇年、親鸞七五〇年大遠忌を記念する行事が行われた。二〇一一年、日本社会がどのような状況であったのかという記憶と共に、大遠忌はさらに五〇年後の八五〇年、八〇〇年大遠忌へと引き継がれていく。信仰共同体が継承する記憶は、個別の記憶を集合させるだけでなく、それを儀礼化し、身体化していく。<br />　現代の情報技術は、電子的な記録装置により膨大な情報を集積し、それへの検索を可能にするが、それは身体とのつながりがきわめて希薄な、しかし、それゆえに安易にネットワークを構築できる自由度を持っている。ソーシャル・ネットワークを介して誕生した運動は、社会を変えるほどの力を有している。しかし同時に、熱しやすく冷めやすいという現代的特性を考慮に入れるならば、今ある運動の勢いが三年後あるいは五年後に持続されているかどうかについて楽観することはできないだろう。<br />　膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに記憶喪失に陥りやすい現代社会において、世代を超えて記憶するという高度に身体的な行為を宗教が担っていくことができるとすれば、それをポスト三・一一の宗教の役割の一つに数えてよいのではないか。急速に冷えていく関心を「世の常」として傍観するのではなく、また、結論を出すのを急ぎすぎるのでもなく、問題を考え、逡巡し続けるためのエネルギーを供給することが大切であり、そのためには歴史の風化に抵抗できる記憶のエシックスが必要なのである。</p>
<p><br /><strong>●「宗教の公益性」から「公益の宗教性」の模索</strong>へ</p>
<p>　三・一一は宗教の社会的位置づけに変化を与え、その役割を問い直すきっかけを与えた。それは宗教の境界線への問いと言い換えることもできるが、もう一つの別の課題を取りあげてみたい。三・一一によってもたらされた危機は、自然災害と人災の複合体であるが、この未曾有の出来事は、あらためて自然への畏怖を引き起こすことになった。公益とは歴史的に何であったのかを日本に即して考えてみると、それは人間社会における利害関係を意味するにとどまらず、むしろ、人間と自然の間にこそ日常的な意味での公益が存在していたのではないかと推論することができる。人は自然を畏れつつ、そこから日々の糧を得てきたのであり、動物の命を奪う場合には、供養という形で、畏れと感謝の念を表してきた。この視点から見ると、現代社会における公益理解が明らかに人間中心的で、自然・動物と人間との間で成り立っていた公益をそぎ落とした上に構築された近代的な公益であることがわかる。<br />　三・一一以降、「宗教の公益性」が議論されてきたが、私が問題にしたいのは、むしろ「公益の宗教性」、公益の失われた宗教的的次元である。自然を社会の産業化のための資源と見なし、動物を大規模工場畜産の中で製品として扱い、人間の利益を最大化する中で、近代的な「公益」概念が成立してきた。しかし、三・一一によって、近代的な構築物がひっくり返されることにより、皮肉にも、その基底にある失われたもの、失われた公益が垣間見えたのである。<br />　失われたものは、日常の風景からは見えない。しかし、それが非常事態において終末論的風景として立ち現れてくることがある。こうしたことを私が考えるようになったきっかけの一つに、三・一一がもたらした動物に対する惨状がある。牛、豚、鶏などの家畜は放置され、なすすべもなく肉塊と化し腐敗していった。近代化された畜産により、食肉の大量消費に対応する大規模な食肉流通が可能となっているが、ひとたび家畜が感染や放射能汚染にさらされると、まさに人間の都合により、大量の命が廃棄されることになる。文字通り、公益のために。自然や動物と人間の関係を現在のように規定した「近代」が立ち現れてきた状況を想起しながら、近代的動物観（自然観）や人間観を批判的に検証するための足場を探ることが、公益の失われた次元を再発見・再評価する一歩になるはずである。<br />　さらに、生者と死者の間に成り立っていた関係を視野に入れ、過去から未来へと向かう時間軸を用いて、公益概念を拡大すれば、未来世代に対する現代世代の倫理的責任（非存在者への倫理）を考えることもできる。このようにして、人間中心的ではなく、現代世代中心的でもない公益理解（公益の宗教性）を再発見・再解釈することが、日本の宗教界に求められる現代的使命ではないか。そのような作業の中で、それぞれの宗教は公益に関与しつつも、そこに安易に吸収されることのない固有の役割と責任を果たすことができると思う。そして、それはポスト三・一一における近代批判の実践となる。<br />（こはら　かつひろ・同志社大学神学部教授）<br />著書に『宗教のポリティクス──日本社会と一神教世界の邂逅』晃洋書房</p>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2013/06/01.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">03 雑誌執筆原稿</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 01 Jun 2013 21:33:15 +0900</pubDate>
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            <title>「ゼミ生卒論 電子出版──スマホでも講読」、『京都新聞』2013年5月16日、夕刊</title>
            <description><![CDATA[<p>■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/Kyoto20130516e.pdf">PDFファイル</a>（536KB）<br /><a href="http://www.kohara.ac/essays/Kyoto20130516e.pdf"><br /></a></p>
<p><img alt="Kyoto20130516e.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/Kyoto20130516e.jpg" width="650" height="378" class="mt-image-none" /></p>
<p><br />※ ICT (Information and Communication Technology) を利用した教育については、<a href="http://www.kohara.ac/education/ict.html">こちら<br /><br /></a></p>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2013/05/16.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">02 新聞取材記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">京都新聞</category>
            
            <pubDate>Sat, 18 May 2013 11:52:30 +0900</pubDate>
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            <title>「学位論文に電子化の波」、『朝日新聞』2013年5月7日、夕刊（大阪版）</title>
            <description><![CDATA[<p><strong>■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130507e.pdf">PDFファイル</a>（980KB）</strong><a href="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130507e.pdf"><br /></a></p>
<p><br /><br /></p>
<p><img alt="Asahi20130507e.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130507e.jpg" width="650" height="409" class="mt-image-none" /></p>
<p><br />※ ICT (Information and Communication Technology) を利用した教育については、<a href="http://www.kohara.ac/education/ict.html">こちら<br /><br /></a></p>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2013/05/07.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">02 新聞取材記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">朝日新聞</category>
            
            <pubDate>Thu, 09 May 2013 00:08:05 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「かぞくの肖像──小原克博さん」、『朝日新聞』2013年3月21日、夕刊</title>
            <description><![CDATA[<p><strong>■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130321e.pdf">PDFファイル</a>（2.6MB）</strong></p>
<p></p>
<p><a href="http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2013/03/Asahi20130321e-2677.html" onclick="window.open('http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2013/03/Asahi20130321e-2677.html','popup','width=1200,height=722,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2013/03/Asahi20130321e-thumb-650x391-2677.jpg" width="650" height="391" alt="Asahi20130321e.jpg" class="mt-image-none" /></a></p>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">朝日新聞</category>
            
            <pubDate>Sat, 23 Mar 2013 22:36:15 +0900</pubDate>
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            <title>「非西洋に向かうカトリック──「世俗化」進み 信者減る欧州」、『朝日新聞』2013年3月5日、夕刊（東京版）</title>
            <description><![CDATA[<p><strong>■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130305e.pdf" target="_self">PDFファイル</a>（2.2MB）</strong></p>
<p><strong> </strong></p>
<p><img alt="Asahi20130305e.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/Asahi20130305e.jpg" width="650" height="920" class="mt-image-none" /></p>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2013/03/05.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01 新聞執筆記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">朝日新聞</category>
            
            <pubDate>Sun, 10 Mar 2013 00:09:40 +0900</pubDate>
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            <title>「神学部 小原ゼミ」、同志社大学通信『One Purpose』173号「ゼミ探訪 学びの時間」、2012年12月</title>
            <description><![CDATA[<font style="font-size: 1.5625em; ">■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/OnePurpose173.pdf">PDFファイル</a>（1.2MB）</font><div><br /><div><a href="http://www.kohara.ac/essays/OnePurpose201212.jpg"><img alt="OnePurpose201212.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2013/01/OnePurpose201212-thumb-650x459-2630.jpg" width="650" height="459" class="mt-image-none" /></a></div><div><br /></div></div>]]></description>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">06 同志社広報関係</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 01 Jan 2013 17:11:45 +0900</pubDate>
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            <title>「公共空間の宗教と公益──3・11以降の変化の中で」、『中外日報』2012年11月8日号</title>
            <description><![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div style="text-align: right;">小原克博（同志社大教授）</div><div><br /></div><div><b>公益にかなう「よい宗教」</b></div><div>　近代日本においては、政教分離を前提とした宗教と倫理（道徳）の分離と、それに基づく国民道徳の普及が、国家の宗教政策の中核を占めた。仏教、キリスト教などの諸宗教は、そうした枠組みの中で、天皇を中心とした国民道徳に従う限りにおいて「よい宗教」として認められ、その活動を許された。反対に、国家秩序への従順を示さなかった一部のキリスト教や新宗教は、「悪い宗教」として弾圧の対象になった。宗教および公益の境界設定をしたのは国家であった。</div><div>　戦後の日本社会では、戦前の宗教政策に対する反省も一因となって、宗教団体に対しては寛容な政策が取られてきた。その結果、信教の自由が広範囲に保証されたが、他方、宗教法人の乱立や、オウム真理教に代表される「カルト宗教」を生み出すことにもなった。一九九五年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以降、宗教は一般的に「悪い」ものとしてイメージされることが多くなり、特に公的領域において宗教が現れることは忌避されてきた。</div><div>　しかし、東日本大震災は、宗教に対し、別のイメージを付与するきっかけを与えた。多くの宗教団体が震災支援に関わり、宗教の利他的な機能を発揮したことは、多くの場合、好意的に受けとめられ、それは結果的に、宗教の公益性という新しいテーマを喚起した。しかし、うがった見方をすれば、公益性が「よい宗教」であるための条件とされ、多くの宗教が「公益」を味方につけることによって「よい宗教」であることを演じようとしているとも言える。戦前の日本社会の公益（国益）に従った宗教と、３・１１以降の公益に奉仕する宗教との間の根本的な違いはどこにあるのだろうか。社会的な貢献を宗教はいっそう増進すべきであるが、同時に、宗教固有の役割がどこにあるのかを意識しておかなければ、公益という、それ自体決して中立的ではない場に宗教的実践が取り込まれていく危険性がある。</div><div>　宗教が公益性を発揮することを期待されている場面の一つに、脱原発の議論がある。これまでも、全日本仏教会をはじめ、各種の宗教団体やその連合体から、脱原発の声明が発表されてきた。国民的な広がりをもって展開されている脱原発は、多様な政治的スペクトラムを有しているが、左派だけではなく、保守派の人々も関わっている点が興味深い。その際だった例として、小林よしのりの『脱原発論』をあげることができるだろう。小林にとって、国土を守り、戦争で亡くなった英霊に感謝の念を献げることと、脱原発を実現することは、同一線上にある。宗教界においても、この種の議論に賛同する人たちもいれば、目的は同じでも、異なる論理を持っている人たちもいるに違いない。３・１１以降の公共空間も、不可避的に雑多な運動や思想を含みこんでいる。それゆえ、それぞれの宗教グループは公益に資する社会奉仕を進めると同時に、公益に還元されない宗教の固有性がどこにあるのかを自覚することが、結果的に、長い目で活動を続けることにつながるだろう。</div><div><br /></div><div><b>記憶のエシックス</b></div><div>　ところで、公益に関与しつつ、公益に左右されない宗教固有の役割とは何であろうか。この問いに対しては言うまでもなく複数の解答が考えられるが、私が強調したいのは「記憶」である。伝統宗教の多くは何らかの形で「記憶のエシックス（倫理）」を有している。２０１１年には、法然８００年、親鸞７５０年大遠忌を記念する行事が行われた。２０１１年、日本社会がどのような状況であったのかという記憶と共に、大遠忌はさらに５０年後の８５０年、８００年大遠忌へと引き継がれていく。信仰共同体が継承する記憶は、個別の記憶を集合させるだけでなく、それを儀礼化し、身体化していく。</div><div>　現代の情報技術は、電子的な記録装置により膨大な情報を集積し、それへの検索を可能にするが、それは身体とのつながりがきわめて希薄な、しかし、それゆえに安易にネットワークを構築できる自由度を持っている。ソーシャル・ネットワークを介して誕生した運動は、社会を変えるほどの力を有している。しかし同時に、熱しやすく冷めやすいという現代的特性を考慮に入れるならば、今ある運動の勢いが三年後あるいは五年後に持続されているかどうかについて楽観することはできないだろう。</div><div>　膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに記憶喪失に陥りやすい現代社会において、世代を超えて記憶するという高度に身体的な行為を宗教が担っていくことができるとすれば、それをポスト３・１１の宗教の役割の一つに数えてよいのではないか。急速に冷えていく関心を「世の常」として傍観するのではなく、また、結論を出すのを急ぎすぎるのでもなく、問題を考え、逡巡し続けるためのエネルギーを供給することが大切であり、そのためには歴史の風化に抵抗できる記憶のエシックスが必要なのである。</div><div><br /></div><div><b>「宗教の公益性」から「公益の宗教性」の模索へ</b></div><div>　３・１１は宗教の社会的位置づけに変化を与え、その役割を問い直すきっかけを与えた。それは宗教の境界線への問いと言い換えることもできるが、もう一つの別の課題を取りあげてみたい。３・１１によってもたらされた危機は、自然災害と人災の複合体であるが、この未曾有の出来事は、あらためて自然への畏怖を引き起こすことになった。公益とは歴史的に何であったのかを日本に即して考えてみると、それは人間社会における利害関係を意味するにとどまらず、むしろ、人間と自然の間にこそ日常的な意味での公益が存在していたのではないかと推論することができる。人は自然を畏れつつ、そこから日々の糧を得てきたのであり、動物の命を奪う場合には、供養という形で、畏れと感謝の念を表してきた。この視点から見ると、現代社会における公益理解が明らかに人間中心的で、自然・動物と人間との間で成り立っていた公益をそぎ落とした上に構築された近代的な公益であることがわかる。</div><div>　３・１１以降、「宗教の公益性」が議論されてきたが、私が問題にしたいのは、むしろ「公益の宗教性」、公益の失われた宗教的的次元である。自然を社会の産業化のための資源と見なし、動物を大規模工場畜産の中で製品として扱い、人間の利益を最大化する中で、近代的な「公益」概念が成立してきた。しかし、３・１１によって、近代的な構築物がひっくり返されることにより、皮肉にも、その基底にある失われたもの、失われた公益が垣間見えたのである。</div><div>　失われたものは、日常の風景からは見えない。しかし、それが非常事態において終末論的風景として立ち現れてくることがある。こうしたことを私が考えるようになったきっかけの一つに、３・１１がもたらした動物に対する惨状がある。牛、豚、鶏などの家畜は放置され、なすすべもなく肉塊と化し腐敗していった。近代化された畜産により、食肉の大量消費に対応する大規模な食肉流通が可能となっているが、ひとたび家畜が感染や放射能汚染にさらされると、まさに人間の都合により、大量の命が廃棄されることになる。文字通り、公益のために。自然や動物と人間の関係を現在のように規定した「近代」が立ち現れてきた状況を想起しながら、近代的動物観（自然観）や人間観を批判的に検証するための足場を探ることが、公益の失われた次元を再発見・再評価する一歩になるはずである。</div><div>　さらに、生者と死者の間に成り立っていた関係を視野に入れ、過去から未来へと向かう時間軸を用いて、公益概念を拡大すれば、未来世代に対する現代世代の倫理的責任（非存在者への倫理）を考えることもできる。このようにして、人間中心的ではなく、現代世代中心的でもない公益理解（公益の宗教性）を再発見・再解釈することが、日本の宗教界に求められる現代的使命ではないか。</div><div><br /></div><div><a href="http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2012/1108rondan.html">http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2012/1108rondan.html</a></div>
</span>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/11/08.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">01 新聞執筆記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">中外日報</category>
            
            <pubDate>Wed, 14 Nov 2012 19:27:04 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「イスラムと西欧──対立は「宗教」のせいか」、『朝日新聞』2012年10月22日、夕刊</title>
            <description><![CDATA[<p><span style="font-size: 1.5625em;">■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/asahi20121022e.pdf">PDFファイル</a>（236KB）</span></p>
<div><br />
<div><img alt="asahi20121022e.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/asahi20121022e.jpg" width="650" height="403" class="mt-image-none" /></div>
<div></div>
</div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/10/22.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">02 新聞取材記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">朝日新聞</category>
            
            <pubDate>Wed, 24 Oct 2012 16:09:10 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>&quot;Nuclear disasters are lessons for the generations, says Japanese theologian,&quot; Ecumenical News International, 3 Aug 2012</title>
            <description><![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; "><font face="Times" size="3"><div><span style="line-height: 27px;">By Hisashi Yukimoto</span></div><div style="line-height: 27px; ">Tokyo (ENInews). A Japanese theologian whose grandfather survived the 6 August 1945 atomic bombing of Hiroshima has written that such nuclear disasters should remind people of their responsibilities to future generations.&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">"We cannot attribute our sin to others, including our ancestors, or hold others responsible for our sin; sin is not something to be inherited, and we should accept responsibility for what we have done on our own," Katsuhiro Kohara told ENInews.&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">Kohara, a professor at Doshisha University in Kyoto, cited a verse from the book of Jeremiah (31:29-30) in an article in the book Creation and Salvation: A Companion on Recent Theological Movements: "The fathers have eaten a sour grape and the children's teeth are set on edge. But everyone shall die for his own iniquity."&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">His grandfather's experience affected his view, he said. "My grandfather had his atomic bomb victim's handbook and spent his later years telling people about the experience."&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">The purple handbooks, identifying the holder as a nuclear bomb survivor eligible for free medical tests, were issued 12 years after the U.S. dropped bombs on Hiroshima and, on 9 August 1945, on Nagasaki. Kohara's grandfather died in 1999. Kohara also cited the disaster last year at the Daiichi nuclear plant in Fukushima that was caused by the March 2011 earthquake and tsunami.&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">"I kept thinking vaguely in the corner of my mind about this issue [of radiation]," Kohara said, adding "that is the reason why I mentioned the 'sour grapes' in Jeremiah."&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">He continued, "we know that if we eat sour grapes -- radiation, ultraviolet rays, etc. -- not only our teeth but also 'the children's teeth are set on edge.' Therefore, we should have as much awareness as possible of our responsibilities. We are no longer allowed to postpone performing our responsibilities to tomorrow."&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">In his article, titled "A Theological Lesson Learned from the Hiroshima, Nagasaki and Fukushima Disasters," Kohara said Jesus' words in Matthew 6:34 ("Sufficient unto the day is the evil thereof") do not release us from our responsibilities to future generations.&nbsp;</div><div style="line-height: 27px; "><br /></div><div style="line-height: 27px; ">Creation and Salvation was published in July by LIT Verlag of Münster, Germany.</div><div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><span style="line-height: 27px;">ENI News Headlines and Featured Articles are now available by RSS feed.</span></div><div><span style="line-height: 27px;">See http://www.eni.ch/rss/</span></div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><span style="line-height: 27px;">All articles (c) Ecumenical News International</span></div><div><span style="line-height: 27px;">Reproduction permitted only by media subscribers and</span></div><div><span style="line-height: 27px;">provided ENI is acknowledged as the source.</span></div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><span style="line-height: 27px;">Ecumenical News International</span></div><div><span style="line-height: 27px;">PO Box 2100</span></div><div><span style="line-height: 27px;">CH - 1211 Geneva 2</span></div><div><span style="line-height: 27px;">Switzerland</span></div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><span style="line-height: 27px;">Tel: (41-22) 791 6088 - 6111</span></div><div><span style="line-height: 27px;">Fax: (41-22) 788 7244</span></div><div><span style="line-height: 27px;">Email: eni@eni.ch</span></div></div><div><span style="line-height: 27px;"><br /></span></div><div><a href="http://www.eni.ch/featured/article.php?id=5846">http://www.eni.ch/featured/article.php?id=5846</a></div><div><a href="http://www.ekklesia.co.uk/node/16893">http://www.ekklesia.co.uk/node/16893</a></div></font></span>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/08/03.html</link>
            <guid>http://www.kohara.ac/essays/2012/08/03.html</guid>
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">02 新聞取材記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">ENI</category>
            
            <pubDate>Tue, 07 Aug 2012 10:34:16 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「CISMORアプリをiTunes にアップ」、『同志社大学広報』No.437、2012年7月15日</title>
            <description><![CDATA[<div><b><span style="font-size: 1.25em;">CISMORアプリをiTunes にアップ</span></b></div>
<div><b><span style="font-size: 1.25em;">社会貢献・広報戦略のためにスマートフォン・アプリの活用を</span></b></div>
<div><b><span style="font-size: 1.25em;"> </span></b></div>
<div style="font-family: Times;"><a href="http://www.kohara.ac/essays/img_app.png"><img alt="img_app.png" src="http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2012/07/img_app-thumb-500x328-2506.png" width="500" height="328" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" /></a></div>
<div style="font-family: Times;">　6月下旬、一神教学際研究センター（CISMOR）のiOSアプリ「同志社大学CISMOR」がAppleのiTunes Storeに掲載された。iPhoneやiPadなどのiOSに対応した機器で、CISMORの出版物（CISMOR Voice、『一神教学際研究』等）、講演会（動画）、最新情報を見ることができるアプリである。iTunes から「同志社大学」あるいは「CISMOR」を検索すると簡単に見つけることができるので、一度ご覧いただきたい。アプリ開発に着手した背景には、情報閲覧のプラットフォームの中心がパソコンからスマートフォンに急速に移行しているという事情がある。</div>
<div style="font-family: Times;">　欧米や韓国の大学では、大学のポータル・アプリを作っているところが増えている（米スタンフォード大学が先進的）。Appleから聞くところによると、こうしたアプリを在学生、その親、卒業生、高校生などが、こぞってダウンロードするという。通知設定により、最新情報（入試説明会など）をプッシュすることも可能であることを考えれば、アプリはきわめて強力な広報ツールとして機能する。また、大学の教育・研究成果を手軽に知ってもらうことができる点で、アプリは社会貢献への窓口にもなる。日本では、大学が公式にアプリを出しているのは、明治大学、中央大学など、きわめて限られているが、今後増えてくることが予想されるので、同志社としても早期の取り組みをなすべきであろう。</div>
<div style="text-align: right; font-family: Times;">（一神教学際研究センター長　小原克博）</div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/07/15.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">06 同志社広報関係</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">IT</category>
            
            <pubDate>Tue, 24 Jul 2012 23:24:07 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「先生おじゃまします──自立した国際人となるために」、『同志社タイムス』第678号、2012年6月15日</title>
            <description><![CDATA[<font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.5625em; ">■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/DoshishaTimes678.pdf">PDFファイル</a>（1.5MB）</font><div><br /><div><img alt="DoshishaTimes678.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/DoshishaTimes678.jpg" width="650" height="1607" class="mt-image-none" style="" /></div><div><br /></div></div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/06/15.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">06 同志社広報関係</category>
            
            
            <pubDate>Tue, 26 Jun 2012 21:43:24 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「死刑制度と平和主義──キリスト教を参照軸として」、『まなぶ』（労働大学出版センター）第661号（2012年6月号、特集「「開かれた司法」は、いま」）、14-16頁</title>
            <description><![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><img alt="1206.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/assets_c/2012/06/1206-thumb-200x284-2446.jpg" width="200" height="284" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" />■<a href="http://www.kohara.ac/essays/manabu201206.pdf"> PDFファイル</a>（248KB）</font></span><div><font class="Apple-style-span" face="Times"><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; font-size: 16px; line-height: 27px; "><br /></span></font><span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div><div><b>■はじめに──死刑に値する犯罪とは</b></div><div>　死刑制度に対する賛否の論点は時代と共に変化するが、ここで</div><div>は、伝統的な論点を比較考量して、どちらに正当性があるのかを論じるのではなく、むしろ、死刑制度に隣接する問題を視野に入れて考えてみたい。また同時に、日本における議論をより客観的に見るために、外部の参照軸としてキリスト教における死刑理解を取り上げる。キリスト教は、数ある宗教の中でも、その最初期から死刑と向き合ってきた宗教である。その創始者と言われるイエスは、当時のローマ法の極刑である十字架刑に処せられたからである。ただし、後に述べるように、死刑に対する理解はキリスト教の歴史の中で変遷し、今なお賛否両論がある。</div><div>　そもそも、死刑制度の前提には、死をもって報いるしかない許し難い凶悪犯罪があるという考え方がある。二〇一一年七月にノルウェーで連続テロ事件を起こし、七七人の死者をもたらしたアンネシュ・ブレイビク被告の公判が今年四月から始まり、世界中の注目を集めている。七七人もの犠牲者の数は、日本の一般的な死刑制度存置論者が、被告人の死刑の適否を即答するのに十分な数だと思われる。実際ノルウェーでも、公判に先立ち審理に加わる予定であった一般の参審員の一人（参審員は陪審員と異なり任期制で選任される）が「被告への処罰は死刑しかない」とのコメントをインターネット上に書き込んだ。わが国であれば、十分に許容されるコメントであろう。しかし、この参審員は即座に解任された。ノルウェーは死刑を認めていないからである。ノルウェーだけではなく、ＥＵ全体が死刑を廃止しており、死刑を廃止していない国はＥＵに加盟することができない。</div><div>　同じ四月、米国コネティカット州が死刑を廃止した十七番目の州となった。これにより、死刑廃止の州は全五〇州の三分の一を超えることになった。アメリカは、日本や韓国と並んで、「民主主義国家」の中では例外的な死刑存置国であり、その筆頭にあげられてきた。しかし、州単位では着実に死刑廃止の数が増えてきており、活発な議論が米国内で継続されてきたことを物語っている。ごく最近起こっている以上のような出来事に敏感に耳を傾けていれば、日本においても現状をただ踏襲するだけでよいのかという素朴な疑問がわいてくるはずである。しかし、わが国においては、自らを対象化するための外部的な視点がまだ十分ではない。</div><div><br /></div><div><b>■キリスト教と死刑制度</b></div><div>　ＥＵ諸国も米国もキリスト教の文化圏でありながら、なぜ一方は死刑廃止を選び、他方は死刑を維持しているのか。これはキリスト教の多様性だけでなく、死刑をめぐる理解の変遷と関係がある。初期のキリスト教を担った人々は、自らの師を極刑によって失うというトラウマから出発せざるを得なかった。刑を執行したローマの側には大義があった。パックス・ロマーナ（ローマの平和）を乱す者は万死に値するのであり、まさにイエスの十字架刑は、平和と秩序維持のためになされたのである。死刑を正当化するこの論理はローマ時代から現代に至るまで基本的に受け継がれていると言ってよいだろう。</div><div>　イエスが十字架につけられたことの意味は後にキリスト教信仰の本質部分を形づくっていくことになるが、それとは別に最初の三世紀の間、キリスト教徒は死刑に対し特別な態度を取ることになった。キリスト教徒は処刑にかかわること、公開処刑の場に居合わすことのないよう、さらには、死刑に至るかもしれない犯罪者の訴追を行わないよう指導されていた。端的に言えば、初期キリスト教は明確に死刑反対の立場を取っていた。そして、この立場は同じく初期キリスト教徒が、殉教覚悟で死守した絶対平和主義（一切の暴力の否定）と密接な関係を持っていた。</div><div>　ところが、この基本姿勢に大きな変化が訪れた。コンスタンティヌス帝が三一三年にキリスト教をローマ帝国の公認宗教と認め、それまで迫害されてきたキリスト教が、徐々に政治的・社会的影響力を強めていったからである。その中で、キリスト教内部の異端を排除するための必要悪として死刑が容認されるようになっていった。また同じ時期に、ローマ市民としての役割を果たし、同胞の命を守るという名目のもと、必要な場合には戦わなければならないという「正戦論」の基礎が形づくられていった。この時代以降、初期の絶対平和主義は傍流となり、西洋キリスト教世界においては正戦論の伝統が主流をなしていくことになる。</div><div>　ここには注目すべきポイントがある。死刑反対と絶対平和主義の結びつき、および、死刑容認と戦争肯定の結びつきである。死刑は刑罰として人の命を奪うことであり、それは国家権力によってなされる。国家権力によって生命が奪われるという点で、死刑は本質的に戦争と同じである。殺される人間の数は両者の間で大きな差があるとはいえ、その論理構造に根本的な違いはない。</div><div>　西洋社会では、中世の頃まで、死刑は、対象となる人物をできるだけ苦しめる方法で行われた。残酷さが高いほど、犯罪への抑止力となると考えたのである。近代になって、人道的な理由から、できるだけ苦しみを与えない処刑方法が模索されてきたが、現在行われている絞首刑、致死薬注射、電気処刑などと中世の残虐な処刑方法との間に圧倒的な優劣の差が存在するのだろうか。</div><div>　中世に執行されていた残虐な刑罰を当時のカトリック教会は容認していた。現在のカトリックは、そこから大きく態度を変え、死刑廃止論者が圧倒的多数派を占めている。中世カトリック教会を否定する形で誕生したプロテスタント教会は、その後、無数の教派に分かれ世界中に散在しているが、伝統教派の多くは死刑廃止を要求している。もっとも、正戦を積極的に支持し、死刑存置を主張するキリスト教保守派も存在している（特に米国において）。</div><div><br /></div><div><b>■日本の歴史的文脈の中で</b></div><div>　以上述べてきた西洋キリスト教社会における死刑理解の変遷と現状を、日本の近現代史に照射させた場合、何が見えてくるだろうか。原爆の悲劇を境に戦後を出発した日本は、戦争の残虐さ・愚かさを繰り返さない道として平和主義を選び取った。近代国家が前提とする暴力の国家的占有が対外的に行使されるのが戦争であるが、わが国はこの戦争を放棄している。しかし、個人に対する究極の暴力行使である死刑を容認することは、国家による暴力行使全般に対しても寛容度を高めることになる。キリスト教の歴史は、死刑容認と戦争肯定が互いに補完的な関係になることを教えていたことを、ここで教訓として想起することができる。死刑容認が、結果的に平和主義を支えるパトス（情念）を奪っていくのである。</div><div>　死刑の現実を十分知らないままに法務大臣の恣意に一任している死刑存置論と、世界の困難な現実を見ようとしない観念的な平和主義は共犯関係にある。安易な死刑容認は平和主義への無関心を増長させるだろう。また、呪文のように繰り返されるだけの緊張感を失った平和主義は、国家権力のもとになされる殺人に対する寛容度を高めていくだろう。しかし、我々はつぐなえないものがあることに対する畏れの感覚を麻痺させてはならない。平和主義（憲法九条の精神）が死刑廃止へと結びつく中でこそ、弛緩する感覚に対し、適切な緊張を取り戻すことができるはずであるし、日本はその道へと踏み出す中で、世界に対し先導的モデルを示すべきであると思う。</div></div>
</span></div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/06/01.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">03 雑誌執筆原稿</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">まなぶ</category>
            
            <pubDate>Mon, 04 Jun 2012 00:11:39 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「一神教批判に異議──小原克博さんに聞く」（「心のページ」）、『毎日新聞』2012年4月30日、朝刊</title>
            <description><![CDATA[<font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.5625em; ">■ <a href="http://www.kohara.ac/essays/Mainichi20120430.pdf">PDFファイル</a>（905KB）</font><div><br /><div><img alt="Mainichi20120430.jpg" src="http://www.kohara.ac/essays/Mainichi20120430.jpg" width="650" height="724" class="mt-image-none" style="" /></div><div><br /></div></div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/04/30.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">02 新聞取材記事</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">毎日新聞</category>
            
            <pubDate>Mon, 30 Apr 2012 01:35:34 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「一神教学際研究センターがYouTube EDUに登録」、『同志社大学広報』No.434、2012年3月31日</title>
            <description><![CDATA[<div><b><span style="font-size: 1.25em;">一神教学際研究センターがYouTube EDUに登録</span></b></div>
<div><b><span style="font-size: 1.25em;">情報化と国際化の有機的な連動を</span></b></div>
<div style="font-family: Times;"></div>
<div style="font-family: Times;">　2月中頃、一神教学際研究センター（CISMOR）のYouTubeチャンネル（<a href="http://www.youtube.com/user/CISMOR1">http://www.youtube.com/user/CISMOR1</a>）が、日本の大学関係では初めて、YouTube EDUに登録された。YouTube EDUは、サンデル教授の白熱授業などを発信していることでも知られているYouTubeの教育専門のチャンネルである。ハーバード大学、スタンフォード大学、MIT、オックスフォード大学など欧米の一流大学が、そのすぐれた講義コンテンツを配信しており、YouTube EDUの大学一覧は、<a href="http://www.youtube.com/education">http://www.youtube.com/education</a>から「大学・短期大学」のカテゴリーを選ぶと見ることができる。この一覧を見ればわかるように、圧倒的に欧米の大学が多く、その中にDoshisha Universityの名前が、日本の大学としては唯一掲載されている。</div>
<div style="font-family: Times;">　YouTube EDUに対し、多くの一流大学が多彩なコンテンツを提供しているのには理由がある。一つは、大学における教育研究成果の社会への還元という側面であり、もう一つは、優秀な学生を集めるための広報戦略という側面である。欧米では、高校生たちが大学選びをするときに、YouTubeやアップルのiTunes U（大学の講義コンテンツの配信システム）を見て、より魅力的な講義のある大学を選ぶという。</div>
<div style="font-family: Times;">　今や世界中の若者がYouTubeを見ている。日本においても、すでに多くの大学がYouTubeアカウントを取得し、大学としての取り組みを始めている。本学が国内にととまらず国際社会にその魅力をアピールし、本格的な国際化を推進していくためには、それに見合った情報化を積極的に講じていく必要がある。CISMORにとどまらず、同志社大学としての取り組みを期待する次第である。</div>
<div style="font-family: Times;">（一神教学際研究センター長　小原克博）</div>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/03/31b.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">06 同志社広報関係</category>
            
            
                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#tag">IT</category>
            
            <pubDate>Sat, 31 Mar 2012 11:13:54 +0900</pubDate>
        </item>
        
        <item>
            <title>「宗教の出会いがもたらす争いと豊かさ」、『同志社大学広報』No.434、2012年3月31日</title>
            <description><![CDATA[
<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div><b>「宗教の出会いがもたらす争いと豊かさ─ユダヤ教・キリスト教・イスラームの記憶から未来へ─」</b></div><div><b>多文化共生社会を実現していくための手がかりを求めて</b></div><div><br /></div><div>　2月18日、京都国際会館において、本学 一神教学際研究センター主催による標記国際シンポジウムが開催された。このシンポジウムは、本センターの研究プロジェクト「多文化共生時代における一神教コミュニティ間の相互作用と対話」が、日本学術振興会による「頭脳循環を加速する若手研究者戦略的海外派遣プログラム」に採択されたことを受け、その研究の意義を広く社会に知ってもらうことを目的として行われた。</div><div>　最初に八田学長より挨拶がなされ、京都の文化・宗教伝統と同志社のかかわりや、同志社の国際主義の近年における展開について紹介された。それに続き、小原克博センター長より、四つの海外研究機関と国際共同研究を進めていくことの目的と意義が説明された。その後、四つの海外研究機関より招待したヤフヤー・ミショット（米国、ハートフォード・セミナリー教授）、ジョナサン・マゴネット（英国、レオ・べック・カレッジ名誉教授）、ポール・メンデス＝フロール（イスラエル、ヘブライ大学 名誉教授）、イブラーヒーム・ザイン（マレーシア国際イスラーム大学 教授）の各氏による講演がなされ、続けてパネル・ディスカッションがなされた。共生、寛容、価値、正義といった様々な角度から対話の重要性が確認された。また、自らを学ぶためのチャンスとしてマイノリティに耳を傾けることの大切さが強調された。</div><div>　この冬一番の大雪であったにもかかわらず、250名もの来場者に恵まれた。</div><div>（一神教学際研究センター長　小原克博）</div><div><br /></div> 
</span>]]></description>
            <link>http://www.kohara.ac/essays/2012/03/31a.html</link>
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                <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">06 同志社広報関係</category>
            
            
            <pubDate>Sat, 31 Mar 2012 11:08:06 +0900</pubDate>
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