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世界キリスト教情報

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世界キリスト教情報 第1616信(2022.01.10)

  • 教皇、1月の祈りの意向「人類の真の友愛」
  • ペットを子どもの代わりにしている人は「わがまま」と教皇
  • 主の公現=教皇説教「礼拝は心の謙遜から」
  • 十字架めがけて冷たい水の中へ東欧各地で公現祭
  • 《メディア展望》

 

◎教皇、1月の祈りの意向「人類の真の友愛」

 【CJC】バチカン・ニュース(日本語)の報道によると、教皇フランシスコは1月5日、2022年1月の祈りの意向について、ビデオを通しメッセージを寄せた。
 カトリック教会は、毎月、「教皇の祈りの意向」を示し、教会全体が日々の祈りの中で、その意向に基づいて祈るように招いている。
 1月は、「人類の真の友愛」をテーマに「宗教的な差別や迫害に苦しんでいるすべての人々のために祈ります。人間家族の兄弟姉妹であることに裏付けされた一人ひとりの権利と尊厳が認められますように」と祈る。
 教皇は、この祈りの意向をめぐり、ビデオを通し次のように話した。

 「今、少数派の宗教に属する多くの人々が差別や迫害を受けているのは、いったいどうしたことでしょうか。
 かくも文明化されたこの社会で、自分の宗教を公に表すだけで迫害される人々がいるということを、どうして認められるでしょうか。
 宗教的自由とは、礼拝の自由、信仰の書に定められた日課を行う自由にとどまりません。それは、他者をその違いにおいて理解し、彼らを真の兄弟姉妹として認識させるものでもあります。
 人間として、わたしたちは分かち合える多くの共通のものを持つと共に、兄弟であることの喜びをもって互いの違いを受け入れることができます。
 小さな違いも、あるいは宗教のような重要な違いも、兄弟であるという大きな一致に影を落とすことがあってはなりません。
 兄弟愛の道を選びましょう。なぜなら、わたしたちは兄弟であるか、それともすべてを失ってしまうかのどちらかだからです。
 宗教的な差別や迫害に苦しんでいるすべての人々のために祈りましょう。人間家族の兄弟姉妹であることに裏付けされた一人ひとりの権利と尊厳が認められますように。」


◎ペットを子どもの代わりにしている人は「わがまま」と教皇

 【CJC】教皇フランシスコは1月5日、ペットを子どもの代わりにしている人について「一種のわがまま」だとする見解を示した。世界中の子どものいない愛犬家や愛猫家の怒りを買いそうだ、とAFP通信が報じている。
 教皇は、水曜日恒例のバチカンでの一般謁見で、親になることについて語った際、社会においてペットが「子どもの代わりになることがある」と嘆き、「今日、私たちは一種のわがままを目の当たりにしている」「子どもを持ちたくないという人々がいる」と述べた。
 さらに教皇は、子どもをもうけずにペットを飼育する行為は「父性や母性の否定であり、私たちを損ない、人間性を奪う」と主張。「私たちが父性や母性の豊かさを失うことで、文明は人間性をなくして老いていく。その苦しみを負うのは国家だ」と語った。
 その上で教皇は、生物学的理由で子どもをもうけられないカップルは養子縁組を検討するよう呼び掛け、親になることを「恐れてはならない」と諭した。
 これに対しイタリアの動物保護団体「OIPA」は、献身的に動物の命を救うボランティアを引き合いに出し、「教皇が私たちの人生における愛情の量に限りがあると考えているのは、奇妙なことだ」との見解を表明した。
 教皇は2014年にも、子どもをもうけずペットを飼うことは「文化的劣化現象の一つ」であり、ペットとの感情的な結び付きは親子関係の「複雑さ」に比べて「気楽」だと伊日刊紙メッサジェロに語っている。


◎主の公現=教皇説教「礼拝は心の謙遜から」

 【CJC】教皇フランシスコは、「主の公現」を祝った1月6日午前、バチカンの聖ペトロ(サピエトロ)大聖堂でミサを捧げ、正午にはお告げの祈りを広場の巡礼者たちと共に唱えた。
 教皇は祈りの前に、マタイ福音書の東方からの博士たちのエピソードを取り上げ、「礼拝は心の謙遜から」を強調する説教を行った。
     ◇
※教皇説教「礼拝は心の謙遜から」は次の通り。バチカン・ニュース(日本語)によって紹介する。
 
 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。主の公現を祝う今日、福音書は東方からの博士たちのエピソードを語っています(参照=マタイ2・1~12)。
 東方からの博士たちは、ユダヤ人の王を礼拝するために、長く困難な旅に出ます。
(同2・2)。不思議な星に導かれ、ようやく目的地に達した彼らが見たものは、荘厳な何かからはほど遠い、母と共にいる幼子の姿でした。「こんな貧しい幼子のために、苦難の長旅をしたわけではない」と、彼らは不満を言うこともできたでしょう。しかし、彼らは臆することも、驚くことも、嘆くこともなく、幼子の前にひれ伏しました。
 福音は伝えています「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝んだ」(同2・11)。
 考えてみてください。遠方からやって来た豊かで学識ある賢者たちが、地面にひれ伏して幼子を礼拝するのです。この賢者たちが示したこれほどまでも謙虚な態度に驚かされます。
 その時代、大きな権力や栄光のしるしを帯びて立つ権威者の前に、ひざまずくことは普通でした。今日でもそれが普通でしょう。しかし、ベツレヘムの幼子の前でひざまずくことは、容易ではありません。神性の隠された神、威光が見えないこの神を礼拝することは、簡単ではありません。それは小ささの中に表される神の偉大さを受け入れるということです。
 博士たちは神の論理の前にぬかずきます。想像していたような偉大な姿ではなく、小さく貧しいそのままの主を受け入れます。この博士たちの態度は、自分自身の思いよりも、神に場を譲る者の姿勢を表しています。
 福音書はこの点を強調します。博士たちは、単に礼拝したのではありません。ひれ伏して、拝んだ、と強調しています。礼拝とひれ伏すことが共に語られています。博士たちはこうして、謙遜の中にご自分を示されるお方を、自分たちも謙遜をもって受け入れることを示しているのです。このように、彼らは神への礼拝に開かれていくのです。開かれた宝の箱は、開かれた彼らの心の象徴です。
博士らの本当の豊かさは、その名声や成功にあったわけではありません。その謙遜に、救いを必要とするその心にあったのです。
 親愛なる兄弟姉妹の皆さん、神の御前で、いつも自分の考えにとらわれ、自負するようならば、決して真の出会いにも、礼拝にもいたることはないでしょう。様々な野望や競争に没頭しているとしたら、人生で誰かと出会い、何かを獲得することはできるかもしれません。しかし、それは決して主ではないでしょう。それに対し、謙遜であり、内的に小さな者となるならば、イエスを真に礼拝する驚きを得るでしょう。なぜなら、礼拝は心の謙遜から来るものだからです。
 高ぶる者は、主の存在に気づくことはありません。あの時、イエスは皆のそばにいましたが、多くの人から無視されていました。しかし、博士たちはイエスに気づいたのです。
 博士たちを見つめながら、わたしの謙遜はどうだろうかと自問しましょう。傲慢がわたしの霊的成長をはばんでいることを、しっかり理解しているでしょうか。神や隣人に奉仕するために、柔軟な心を持つ努力をしているでしょうか。
あるいは、いつも自分のことや、自身の考えにとらわれてはいませんか。神や他人の思いを受け入れるために、自分の見方を犠牲にすることができるでしょうか。何かを必要とする時だけ、祈ったり、礼拝したりしてはいないでしょうか。あるいは、自分はいつもイエスを本当に必要としていると信じて、そのようにしているのでしょうか。
 神のはしため聖母マリアが、真の謙遜と礼拝が何であるかを理解させてくださいますように。アーメン。(CJC)


◎十字架めがけて冷たい水の中へ東欧各地で公現祭

 【CJC】AFP通信が、ギリシャやブルガリア、北キプロスなどで1月6日、キリストの顕現を祝う公現祭を迎え、氷のように冷たい水に入る信者たちの姿が見られた、と伝えている。
 正教会には、聖職者が海や川に投げ入れた十字架を手にすると、その1年を健康に過ごせるとの言い伝えがある。


《メディア展望》

 =カトリック新聞(1月9日=年末年始休刊)=http://www.cwjpn.com/cwjpn/
 
 =KiriShin(1月1日・年末年始休刊)=http://www.kirishin.com
 
 =クリスチャン新聞(1月2日・9日年末年始休刊)=http://クリスチャン新聞.com

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