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研究活動

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論文「犠牲の論理とイエスの倫理」、『福音と世界』2018年3月号、6-11頁

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201803.jpg「犠牲」を問う

 「犠牲」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。テロの犠牲、戦争の犠牲、貧困の犠牲、犯罪の犠牲、いじめによる犠牲、過労死による犠牲等々、犠牲に関わる出来事は枚挙にいとまがない。ニュース・メディアはセンセーショナルな犠牲の出来事を追うという特性を持っているため、我々は結果的に犠牲に関する膨大な情報を日々得ているが、個別の出来事の背景にある、それを引き起こしている構造的な問題にまで思索をめぐらすことは容易ではない。

 そこで本稿では、犠牲の歴史的な役割や意義そして問題性をキリスト教の文脈において考察し、現代において我々が考えるべき構造的な課題を明らかにしていきたい。ただし、犠牲をめぐる課題を、キリスト教の内部的な課題として矮小化してしまわないように、本稿では犠牲を人類史的な文脈でとらえると共に、これまでキリスト教における犠牲を批判的に論じてきた哲学者・高橋哲哉の議論を取り上げる。彼はキリスト教に関係する数々の事例を取り上げながらも、それを広く他の事例との比較において対象化し、キリスト教の犠牲理解が抱える危うさを外部的な視点から(ほぼ)的確に描写している。

 本稿のタイトルにも含まれ、また、高橋がその著作の多くで用いている「犠牲の論理」あるいは「犠牲のシステム」という言葉の意味を最初に確認しておこう。広く宗教と暴力や犠牲との関係は、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』(一九七二年)以降、人類学や宗教学においても重要なテーマとされてきた。そうした研究において主題化されてきたのが「犠牲のシステム(メカニズム)」である。ここでは、犠牲を必要とし、犠牲を正当化する論理を「犠牲の論理」と呼んでおきたい。そして、犠牲の論理と意味的にはかなり重なるが、それを制度的に持続させる安定した仕組みを「犠牲のシステム」と呼ぶことができる。

 

歴史の中の犠牲

 人類史的に見れば、動物供犠を中心とする儀礼こそが宗教そのものであった。洋の東西を問わず、人間は何らかの媒介なしに直接的に超越者や超越的な世界にアクセスすることはできなかった。農耕社会では雨が降るか降らないかは死活問題であるから、雨乞いの儀礼は重要な役割を果たしたが、その際には様々な動物が犠牲として捧げられた。また、犠牲は動物にとどまらず、世界の各地に人身御供や人柱の習慣が存在していた。人類は進歩とともに、こうした残酷性を克服してきたと考えられがちであるが、それが形を変えて現代にまで引き継がれていることが本稿の示したいポイントの一つである。

 キリスト教はその最初期から犠牲を捧げない宗教、すなわち、非供犠的な宗教として出発したが、それはその当時においては異例なことであった。ローマ帝国において、犠牲を捧げる儀礼こそが宗教であったので、初期キリスト教は「宗教」(religio)ではなく「迷信」(superstitio)と見なされた(皇帝崇拝の拒否も、そのように見なされた一因である)。

 聖書に記されているイスラエルの民は、バビロン捕囚(前六世紀)以前には神殿を中心とした動物供犠を行っていたが、捕囚以降は動物供犠と律法遵守が信仰の中心になっていった。そして、第二神殿の崩壊(七〇年)以降、動物供犠を行う神殿を失い、律法を中心とする宗教共同体として再出発することになる。ユダヤ教から分派したキリスト教が、非供犠的な特性を強めたユダヤ教を強く意識したことは想像に難くない(拙著『一神教とは何か──キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』[平凡社新書、二〇一八年]参照。本稿も一部引用している)。

 

キリスト教における犠牲の理解

 キリスト教が犠牲を捧げない宗教として始まったのは、ユダヤ教との関係の他、キリスト教自体における神学的な理由がある。それは、イエスの十字架を人類の罪をあがなうための犠牲と考えた贖罪的解釈である。これはイエスが人類のための犠牲となったのだから、我々はもはや別の犠牲を捧げる必要はないということだ。こうした考え方は後に神学的に展開されていくが、その土台を与えているのは「ヘブライ人への手紙」(特に一〇・一〇─一四)である。「ヘブライ人への手紙」では、繰り返され続けてきた犠牲の祭儀の完成としてイエスの十字架が位置づけられ、またそれゆえに従来の犠牲の祭儀は無効化されている。しかし、イエスの十字架が、歴史的に継承されてきた犠牲のリアリズムの中に位置づけられている点は見逃すことはできない。

 同じことは、最後の晩餐に関しても言える。最後の晩餐は、イエスの「体」と「血」が分け与えられる場となっており(第一コリント一一・二三─二六)、伝統的な犠牲の祭儀を強く想起させる。犠牲を通じて共同体の連帯が再確認されるという点では、伝統的な犠牲の祭儀との連続性の中にある。ただし、最後の晩餐は、イエスが自ら積極的に「体」と「血」を分け与えようとする給仕の場となっている点で、他の犠牲的神話・伝承とは異なる特徴を有している。

 さらにイエスの犠牲の特徴をつかむためには、最後の晩餐がイエスの食卓との連続性において理解される必要がある。イエスの食卓は、異邦人、サマリア人、徴税人、「罪人」と見なされた人々を招き入れた、当時の清浄規定という境界線を越境する行為であった。つまり、清浄規定のゆえに犠牲、スケープゴートとされてきた人々の「犠牲を終わらせる」という意味がそこにはあった。

 

近代国家へと引き継がれる「尊い犠牲」

 このように、「ヘブライ人への手紙」による十字架解釈、最後の晩餐、イエスの食卓はいずれも「犠牲の終わり」を告げるものとして理解することができる。しかし、後に展開されていく十字架理解の一部には、イエスの十字架を自己犠牲の模範として、信仰者にも同様の犠牲を求めるものが出てくる。特にその理解の一部がクリスチャンの殉教にも影響を及ぼした点に注意を払う必要があるだろう。

 パウロを通じて「十字架につけられたままのキリスト」に着目する青野太潮が『パウロ──十字架の使徒』(岩波新書、二〇一六年)においてジラールの次の言葉を引用し、伝統的な贖罪論や犠牲理解の危うさに注意を促していることは興味深い(一八一─六頁)。「そのような供犠を求める神は事実「死んでしまうことが必要」である。ただし、その神は福音書のイエスが告知した神ではない。彼の十字架上の死も、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死である。それを解明し、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めたのは、パウロ一人だった。こうして、イエスとパウロにおいては、〈神の暴力〉、すなわち供犠の要求が終結している」(『世の初めから隠されていること』法政大学出版局、二〇一五年)。「尊い犠牲」を捧げ続けなければ神をなだめることができなかった供犠および犠牲の歴史の終わりを、パウロはイエスの十字架において見たということである。

 しかし、後の時代には「尊い犠牲」を鼓舞するような考え方が、教会や国家によって広く利用されてきた。殉教や殉国はその帰結でもある。実際、近代国家は伝統的な「犠牲」の観念を迷信や野蛮として破棄したのではなく、むしろ「犠牲のシステム」としてアップグレードした。その時代、多くのクリスチャンにとって、国のために戦って死ぬことと信仰とは矛盾しなかった。なぜなら、そこでは尊い目的のために命を差し出すことが模範的な自己犠牲として称賛され、殉国と殉教はほぼ同義とされたからである。

 

高橋哲哉によるキリスト教の犠牲批判

 キリスト教にとっての問題点をより明確にするために、ここから高橋の議論に言及していきたい。高橋はキリスト教の贖罪信仰を彼の語る「犠牲の論理」と同型のものと見ており、その一例として内村鑑三が非戦主義者こそ積極的に戦地に赴くべきだと主張した事例(「非戦主義者の戦死」、一九〇四年)を取り上げている(『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書、二〇一二年、一三〇─一三二頁)。クリスチャン、とりわけ非戦主義者の死によってこそ、これまで戦争を繰り返してきた人類の罪悪があがなわれるという内村の論理は、結果的にキリスト教の贖罪信仰に基づいて「尊い犠牲」を正当化していると高橋は批判する。

 別の事例として、高橋は戦時下のプロテスタント教会の状況を描写するものとして「靖国の英霊」(『日本基督教新報』一九四四年四月一一日)を引用している。そこでは「血の尊さ」「血の意義」が強調され、それをもっとも深く理解した宗教としてキリスト教があげられている(『靖国問題』ちくま新書、二〇〇五年、一三五─九頁)。「犠牲」の論理を介して、高橋はキリスト教と靖国の間に同型性を見ている。

 戦後の事例として高橋が取り上げるのはカトリックの医師・永井隆によるベストセラー小説『長崎の鐘』(一九四九年)である。この作品の中で、長崎、より具体的には浦上地区に投下された原爆の犠牲者となった多くのカトリック信者が「貴い犠牲」、神に捧げられた「燔祭」と呼ばれ、この出来事が「神の恵み」と見なされている。当時、浦上地区への原爆投下が「天罰」と呼ばれたこと、その背景には、浦上地区に隠れキリシタンの集落や被差別部落があったことなどを踏まえ、永井による逆説的な発想が、生き残った者に慰めを与えた点を評価しつつも、永井の言説には、アメリカおよび日本による戦争責任を封殺する「尊い犠牲」の論理があることを高橋は批判する(『国家と犠牲』NHKブックス、二〇〇五年、五七─七六頁)。

 高橋は多くの著作の中で、キリスト教の事例を取りあげ、そこに「犠牲」の論理があることを指摘してきた。それらは丁寧な資料分析に裏打ちされており、説得力がある。ここでは紙面の都合上、ごく一部の事例を紹介するにとどめたが、高橋のキリスト教に対する問いかけをまとめれば次のようになるだろう。すなわち、伝統的な贖罪論や十字架理解には、イエスの「尊い犠牲」を模範として自己犠牲を促すような「犠牲のシステム」が、ナショナリズムを含む、他の歴史的事例と同様、組み込まれているのではないか。さらに端的に言えば、伝統的な贖罪論・十字架理解こそが、「尊い犠牲」を正当化してきた問題の根源ではないか、ということになるだろう。

 しかし、この問いの立て方は神学的には必ずしも正確ではない。むしろ問うべきは、どのような贖罪論において死の美化(殉教の美化を含む)が生じるのか、であろう。イエスの生涯や十字架において再認識すべきは犠牲の再生産ではなく、それを終わらせることである。その文脈を無視し、犠牲(自己犠牲)を正当化する贖罪論は批判されてしかるべきであろう。贖罪論が、イエスの食卓・最後の晩餐を含む、その生涯から切り離され、十字架のみに収斂される自己完結したシステムとして了解されるとき(「イエスは罪のあがないのため、十字架にかかって死ぬために生まれてきた」がその代表)、高橋が指摘するように、自己犠牲的な死を美化・栄光化する論理として機能するおそれがある。罪が精神化され、犠牲が元来持っていた「体」と「血」という身体性が失われていくとき、イエスの生涯と十字架が「犠牲の終わり」を指し示していたことが忘れられ、犠牲の再生産が始まるのである。

 

イエスの倫理

 確かに、犠牲という概念はキリスト教にとって重要である。しかし、殉国も殉教も、命を差し出すことが、模範的な自己犠牲として称賛(顕彰)される。それを交換の論理として高橋は批判する。交換の論理を支える犠牲の観念は、イエスの教えに合致するのだろうか。そもそも、イエスは、教会や国家によって鼓舞されて起こる「尊い死」を望むのだろうか。こうした問いに答え、高橋からの問題提起に応答するため、次にイエスの倫理の特徴を見ることにする。

 イエスの語りの多くは、たとえ話によってなされており、そこから体系的な倫理を導き出すことはできない。しかし、イエスのたとえには、既存の社会秩序を転倒させるような力があり、それを広い意味でイエスの倫理と呼ぶことができるだろう。犠牲との関係で、ここではイエスの倫理の特徴として次の三点を挙げたい。

(1)交換の論理の否定

 イエスは単純な善悪二元論や勧善懲悪を否定し、むしろ、それを超える倫理的地平を指し示した。勧善懲悪は言うまでもなく、交換の論理に基づいている。正しい者が報われ、悪い者は懲らしめを受けるべきだと考えるからである。しかし、敵を愛することを命じ、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ五・四三─四五)と語るイエスの言葉は、交換の論理を明確に否定している。また、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ二〇・一─六)も、我々の日常的な交換の論理を超えた神の愛を示している。このたとえでは、丸一日働いた者が一時間しか働いていない者と同じ賃金しかもらえず、不平不満を言っている。交換の論理に従えば、その異議申し立ては理に適っている。しかし、交換の論理では計ることのできない神の「気前のよさ」、神のラディカルな愛が、このたとえ話のテーマとなっている。言い換えるなら、イエスの倫理は、交換の論理に縛られる人々を解放する力として立ち現れている。

(2)徹底した個の倫理

 犠牲の論理は、しばしば、より大きな全体のため個人が犠牲となるべきことを促す。国家のために個人が命を捧げることは尊い死とされ、それが戦争を動かす原動力になってきた。イエスは集団のために個が犠牲になることを拒否し、徹底して個の存在に我々の注意を促す。「見失った羊のたとえ」(ルカ一五・一─七)はその一例である。我々の日常の論理は、通常功利主義的な考えに基づいているので、一匹の羊よりも九九匹の羊を保護することを優先する。イエスの倫理は「見失った一匹」に注意を促すという点で、徹底した個の倫理であり、集団のために個の犠牲を正当化する集団倫理とはまったく異なっている。

(3)犠牲の内面化

 イエスの教えは、律法の形式的な側面を、より内面化しようとする特徴を有しているが、犠牲に関しては次の言葉がその特徴を表している。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ一二・七)。問題が起こったとき、人はいけにえやスケープゴートを求める。しかし、イエスの倫理は犠牲ではなく「憐れみ」へと我々の心を向けさせる。

 以上、犠牲との関係でイエスの倫理を素描した。ここからわかるのは、集団や国家のために個人がその命を犠牲にすることを、イエスの倫理が正当化することはない、ということである。イエスの生涯が「犠牲を終わらせる」という側面を持ち、イエスの十字架の死を「最後の犠牲」として受けとめるならば、人を死に追いやる犠牲を繰り返すことは正当化されない、という帰結を聖書から導き出すことができる。そう理解することによって、徹底した非暴力、平和主義は、イエスの言葉に表れているだけでなく、暴力の極みとしての十字架において、逆説的にも頂点に達しているという洞察を得ることができるのである。

 

犠牲のシステムに抗する力

 高橋が示す多くの事例から知ることができるように、どのような宗教や国家も、あるいはそれ以外の組織(日本では企業を考えるとよいかもしれない)も「犠牲のシステム」となり得る。太古の昔から受け継がれ、現代において廃棄されるどころか、さらに精緻化された「犠牲のシステム」にどのように対抗できるのだろうか。ここではキリスト教における課題を考えてみたい。

 巧妙なシステムに対抗するために、巧妙なシステムを整備する(たとえば、狭義の精緻化・体系化)というのも一案かもしれない。ここでは、その方向ではなく、新約聖書学者ジョン・ドミニク・クロッサンを手がかりに、「たとえ」の特性に再度目を向けたい。クロッサンは、神話とイエスのたとえを区別しなければならないと語る(The Dark Interval: Towards a Theology of Story, Polebridge Press, 1988)。神話の中では、悪人は受けるべき罰を受け、善人は報われる。また、この世にある表面上の不条理に対する説明がなされ、そこから模範や規範が作り出される。クロッサンによれば、この神話の対極にあるのが、イエスのたとえである。イエスのたとえは安定を与える説明ではなく、「地上に火を投ずる」(ルカ一二・四九)もの、「剣をもたらす」(マタイ一〇・三四)ものだからである。

 神話や科学、そして政治システムはこの世界を説明し、安定させる役割を果たし、他方、イエスのたとえは世界を不安定にする。これまでの議論を踏まえれば、神話に対応するのが「犠牲のシステム」であることは明らかであろう。たとえは日常的なものの見方を転倒させ、安定した日常の中に裂け目を作り出す。イエスのたとえは、誰もがわかる日常的な素材を用いながら、日常をひっくり返し、その奥にある何かに気づかせようとする力であると言える。

 イエスがその生涯を通じて、また「たとえ」による語りによって伝えようとしたものの中に、巧緻な「犠牲のシステム」の虚を暴き、そのシステムが前提とする秩序を転倒させる力があることを、我々は見出さなければならない。システムに対抗するのに必要なのはシステムではなく、イエスのたとえ、イエスの倫理を生きることではなかろうか。

小原克博(同志社大学 神学部 教授)