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研究活動

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論文「環境問題に対して宗教が果たす役割──『ラウダート・シ』を手がかりとして」、『福音宣教』2018年4月号、20-26頁

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はじめに

 環境問題と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。信仰を心の問題と考えれば、環境問題は信仰とは無関係の事柄であり、仮に関心を向けたところで、個人の力の及ばない、その意味でやはり関係のない問題となるだろう。実際、教派を問わず、教会の中で環境問題がどれほど積極的に語られてきただろうか。プロテスタント教会では、差別や戦争などの社会問題に対しては議論の蓄積があるが、自然への関心は「自然神学」的逸脱として否定的に見られることが多く、環境問題に対し積極的な応答がなされてきたとは言い難い。カトリック教会では、どうだろうか。回勅『ラウダート・シ』が発表されて以降、一般信徒の間で問題に対する関心は高まってきただろうか。
 いずれにせよ、環境問題に向き合うことは、すぐれて信仰の内実を問う作業であることを本稿では明らかにしたい。信仰は単に個人の内面的事柄にとどまらない。広く世界とのつながりの中に信仰を位置づけることによって、現代において我々が向き合わなければならない課題が明確になると同時に、「神のいつくしみ」の大きさにあらためて驚かされることになるだろう。その大きさを知る一端として、本稿ではキリスト教以外の宗教伝統にも目を向け、環境問題をめぐる課題が、宗教の違いを超えた「共通善」の追求と密接に結びついていることを共に考えていきたい。

 

『ラウダート・シ』とその前史

 二〇一五年六月に教皇フランシスコが発表した『ラウダート・シ』は、気候変動、水問題、生物多様性など、多岐にわたる課題を扱っているが、同時に環境危機の最初の犠牲者となる「社会的弱者」に寄り添おうとする教皇の姿勢が反映されたものとなっている。これまでキリスト教の保守派の中には地球温暖化を積極的に否定する動きも見られ、環境問題と信仰をどのように結びつけるかについては、否定派から無関心層まで様々であったが、この回勅は広くキリスト教界に環境問題を考えるきっかけを与えることになった。
 もちろん、それ以前、キリスト教が環境問題に背を向けていたわけではない。環境問題をめぐる神学的な議論は、問題が顕著になってきた一九六〇年代に始まっている。その議論のきっかけの一つとなったのが、科学史家リン・ホワイト・ジュニアによる論文「今日の生態学的危機の歴史的源泉」(『サイエンス』誌、一九六七年)である。ホワイトは、キリスト教が持つ人間と自然の二元論を批判し、それが環境破壊の一因になったと批判した。しかし、キリスト教にも、環境破壊的なものとは違う伝統があるとして聖フランシスコの名前をあげ、「わたくしはフランチェスコを生態学者の聖者におしたい」という文章で締めくくっている(『機械と神──生態学的危機の歴史的源泉』みすず書房、一九七二年、九五頁)。ホワイトが示そうとした希望的なオルタナティブ(新たな選択肢)が『ラウダート・シ』において一つの形を与えられたと見るのは、あながち間違いではないだろう。
 また、『ラウダート・シ』に先立ち、レオナルド・ボフによって『エコロジーと解放──新しいパラダイム』(原著一九九三年、英訳一九九五年、邦訳なし)が記されていたことも思い起こされる。解放の神学が「社会的弱者」を重要な神学的課題として取り上げたことは言うまでもないが、それを一九九〇年代初頭にエコロジーとの関係でテーマ化していたことは慧眼であると同時に、当時のラテンアメリカの現実を照らし出していて興味深い。
 このように『ラウダート・シ』をその前史との関係において見ると、それが担っている特別な歴史的使命をいっそう強く感じさせられる。『ラウダート・シ』については本誌においても、すでに扱われてきているので、ここではそれを論じることはせず、むしろ、以下の諸テーマをつなぎとめる「横糸」として適宜言及することにしたい。

 

一神教と環境問題

 環境問題に対する過去半世紀に及ぶキリスト教の取り組みがあるにもかかわらず、日本社会ではそのような事情はほとんど理解されておらず、むしろ、環境に対して敵対的な姿勢を持つ宗教として、キリスト教をはじめとする一神教が理解されてきた。「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです」(梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、一九九五年、一五八頁)といった言葉に代表されるように、一神教と多神教とを対比させ、後者を称揚するスタイルは、いわゆる「日本人論」の定番となってきた。端的に言えば、先のホワイトの主張と同様に、自然破壊の元凶を西洋の自然支配やキリスト教の人間中心的自然観に見ている(詳細については拙著『宗教のポリティクス』[晃洋書房、二〇一〇年]第四章参照)。日本において環境問題を論じる際には、このような言説を踏まえることが必要となる。
 確かに、アニミズムや多神教的伝統とは異なり、一神教は自然の中に神的実在を認めない。それは『ラウダート・シ』においても「ユダヤ・キリスト教の考えは、自然を非神格化します。その雄大さと広大さに感嘆しつつも、自然を神聖なものとは見ません」(LS78)と記されている通りである。さらに付け加えれば、まったく同じ伝統をユダヤ・キリスト教だけでなくイスラームにも見出すことができる。では、イスラームにおける環境意識はどのようになっているだろうか。
 中東イスラーム圏の多くは産油国であり、現時点ではエネルギー消費に対して抑制的な政策や、積極的な環境保護政策をとっているようには見えない。しかし、イスラームは東南アジアを中心に非中東圏にも広がっており、現地の自然観の影響を受けながら、中東とは異なる自然観や環境意識を形成している。たとえば、インドネシアのジャワ島バロンとジェパラにおける反原発運動では、二〇〇七年、ジェパラにおいてイスラームのウラマー(イスラームの学者・宗教指導者たち)が宗教者会議を開催し、原発建設を禁止するファトワ(宗教判断)を発表した(加藤久典「対峙するグローバル文明とローカル文明──ジャワにおける反原発運動の示唆するもの」、比較文明学会・関西支部編『地球時代の文明学2』京都通信社、二〇一一年、一五九─一八一頁)。運動の背景には「自然との調和」を重視しようとするジャワの文化の影響を見ることができる。このようなイスラームの多様性を視野に入れれば、イスラームを環境問題に対し消極的と簡単に言うことはできない(一神教の創造論の比較については拙著『一神教とは何か──キリスト教、イスラーム、ユダヤ教を知るために』[平凡社新書、二〇一八年]第三章参照)。

 

日本宗教と環境問題

 神道や仏教に代表される日本宗教でも「自然との調和」が伝統的に重視されてきたと言える。ただし、「近代は、行き過ぎた人間中心主義によって特徴づけられてきましたが」(LS105)と評される「近代」以降、そうした日本の自然観が環境保全に役立ったとは到底言えない。富国強兵というスローガンのもと、自然環境から徹底して資源とエネルギーを収奪することが正当化されてきた。こうした傾向は、戦後の経済成長至上主義の時代風潮の中でも大きく変わることはなかった。もちろん、そこで人間中心主義が問題にされることはなかった。
 しかし、二〇一一年の東日本大震災が未曾有の被害をもたらす中、いち早く仏教界から出された声明は、環境問題・エネルギー問題に対する新たな意思表示として注目された。全日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」(二〇一一年一二月、http://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/2395/170.html)は、要約すれば、次のような仏教に特徴的な視点が含まれており、結論として、原発に対する批判の表明となっている。①原発は人間だけではなく様々な「いのち」を脅かす。②原発は負の遺産を未来に残す。③誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願わない。④個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ぶ。⑤足ることを知り、自然の前で謙虚である生活を実現する。
 また、原発への直接的な批判の他に、日本の宗教界では、これまで十分な関心が注がれてこなかったエネルギー問題、とりわけ自然エネルギーへの取り組みが、三・一一以降の新たな課題をとして現れてきた。「生長の家」によるメガソーラー施設の建設(二〇一五年)のような大規模なものはまだ多くはないが、宗教施設などに積極的に太陽光パネルを設置する動きは広がりつつある。
 原発事故により、広範囲に及ぶ土地が放射能に汚染され、人間にとどまらない様々な「いのち」、さらには未来世代の「いのち」をも脅かす危機的状況に対し、どのように向き合うべきかが、三・一一以降、模索されてきたと言えるだろう。『ラウダート・シ』の「(創世記の中の創造記事は[著者注])密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。・・・・・・この断絶が罪です」(LS66)というメッセージが、ここにおいて共鳴している。『ラウダート・シ』では「霊性」という言葉が一七回ほど出てくるが、大地との関係で思い起こされるのは、鈴木大拙『日本的霊性』(初版一九四四年)である。
 「霊性はどこでもいつでも大地を離れることを嫌う。霊性は最も具体的なることを貴ぶ。何が具体かというと・・・・・・山を山と見、水を水と見るのが、具体的な見方なのである。・・・・・・有が無で、無が有であるとか、心がどうの、意がどうの、識がどうのと云うのは、抽象的である」(『鈴木大拙全集』第八巻「日本的霊性」七二頁)。
 現在、少なくとも一般社会においては「霊性」という言葉はきわめて多義的に使われるが、宗教伝統におけるその普遍的な意義を、日本の文脈で語るためには、「日本的霊性」に見られる、大地に根ざした具体的な霊性のイメージから学ぶことができるだろう。それは、「身体や物質や世事を蔑視する哲学から、イエスは遠くかけ離れておられました」(LS98)という言葉とも符合するに違いない。また、身体を酷使し「過労死」を生み続ける日本の劣悪な労働環境、それを正当化する経済成長至上主義のただ中で、「キリスト教の霊性は休息と祝祭の価値を総合します」(LS237)という言葉の普遍的な意義を、どう受肉させるかは喫緊の課題であろう。

 

「大きな物語」の必要性

 多様な宗教伝統は我々に多くのヒントを与えてくれる。しかし、環境問題のような地球規模の大問題の前では個人の力はあまりに非力である。国際機関や各国政府の取り組みが求められるのは言うまでもないが、信仰者ができる固有の貢献はどこにあるのだろうか。その手がかりとして、「大きな物語」(共通善の語り)の必要性について最後に論じたい。
 人間と自然そして技術の関係は人類史と同じ長さを有しているが、その関係が大きく変わってきたのは近代以降である。しかし、近代(モダン)の理想を支えた、理性や科学技術による進歩といった「大きな物語」は、二度の世界大戦の災禍を経て信用を失い、我々は今やポストモダンの時代にいると言われることもある。宗教の世界に目を向けても、中世カトリックのような巨大な統治システム、言い換えれば、「大きな物語」の単一の担い手は、この世界に存在しない。伝統宗教が持っていた求心力は、ほとんどの国において低下しており、多くの人々は、伝統宗教に帰属することなく、自分自身に合った宗教性やスピリチュアリティ(霊性)を求める。すなわち、今日の宗教性は、個人別にカスタマイズされた「小さな物語」の集合体であると言える。
 しかし、そうした個人単位でセグメント化(細分化)された「小さな物語」では、個人の精神世界を満足させることができたとしても、地球環境問題のような課題には対応できない。なぜならば、環境問題やエネルギー問題は、人間一人ひとりが何を信じているか、信じていないかにかかわらず、強制的にすべての人間を巻き込むことになる「大きな物語」だからである。つまり、「小さな物語」による充足に慣れきった社会の中で、いかにして「大きな物語」としての環境問題を語ることができるのか、そして、その際の宗教や信仰の固有の役割とは何なのかが、ここで問われているのである。
 その意味では、こうした課題に向き合うことは、近代以降、精神的なもの、個人的なものに矮小化されてきた信仰のあり方を、あらためて問い直す機会にもなる。『ラウダート・シ』の「総合的なエコロジー」において記されている「それゆえ、知識の断片化や情報の細分化は、現実に対するより広範な展望へと統合されないのなら、実際には一種の無知となりうるのです」(LS138)というメッセージは、こうしたポストモダンの困難を正確にとらえている。『ラウダート・シ』が持つ、多様な価値観や伝統をつなぎとめる包括的なプラットフォームとしての可能性を実践的に展開していくことが求められる。
 環境問題のような巨大な課題の前では、小さな実践の積み上げもさることながら、長期的に人々の生活意識や世界観に倫理的な影響を与えていくことの意義は決して小さいものではない。「物語る」ことによって、近代の枠組みの中で、我々が何を見失ってきたのかに気づきを与え、別の可能性へと目を開くことができれば、それが社会の意識を基底から刺激することになる。幸い、物語の素材は聖書の中にふんだんに隠されている。「わたしの父は農夫である」(ヨハネ一五・一)と語るイエスは、数々のたとえの中で、自然の細部にまで働く神の創造の力(神のいつくしみ)を明らかにする。イエスのたとえを生きること、聖書の物語を生きること、それが私たちが語るべき「大きな物語」への一歩となる。
 「食べる」ことの神学的意義、将来世代の倫理的重要性(「共通善の概念は、将来世代をも広く視野に収めるものです」[LS159])については紙幅の制限により、触れることができなかったが、関心のある方は拙論「不在者の倫理──科学技術に対する宗教倫理的批判のために」(『宗教と倫理』第一六号、二〇一六年、三─一七頁。オンラインでアクセス可)を参照していただきたい。