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    <title>研究活動</title>
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    <title>講演「一神教と多神教をめぐる倫理的課題──日本社会を視野に入れて」、同志社大学 一神教学際研究センター 公開講演会「日本宗教と一神教──宗教概念、普遍性をめぐって」</title>
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    <published>2012-01-24T14:21:11Z</published>
    <updated>2012-01-24T14:44:36Z</updated>

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    <author>
        <name>小原克博</name>
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    <title>新教出版社編集部編『原発とキリスト教──私たちはこう考える』新教出版社、2011年</title>
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    <published>2011-11-02T11:27:34Z</published>
    <updated>2011-11-02T14:27:05Z</updated>

    <summary>原発問題の神学的課題小原克博その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどう...</summary>
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        <name>小原克博</name>
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        <category term="02 共著" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="キリスト教" label="キリスト教" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><font class="Apple-style-span" face="Times"><img alt="genpatsuto_kirisutokyo_c-thumb-205xauto.jpg" src="http://www.kohara.ac/research/genpatsuto_kirisutokyo_c-thumb-205xauto.jpg" width="205" height="293" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0 0 20px 20px;" /></font><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>原発問題の神学的課題</b></font><div style="text-align: right;font-family: Times; ">小原克博</div><div style="font-family: Times; "><br /></div><div style="font-family: Times; "><div>その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。</div><div>エレミヤ書31章29-30節</div><div><br /></div><div>１．神によって創造された光と人によって作り出された光</div><div>　冒頭のエレミヤ書の言葉を知っている日本人は、ほとんどいないだろう。しかし、罪が遺伝するかどうかに関心がなくても、今や圧倒的多数の日本人が、世代を超えて継承される深刻な問題があることを再認識している。二〇一一年三月一一日、東日本を巨大地震と津波が襲い、その結果、福島第一原発が大きなダメージを受け、放射能が拡散することになった。放射能の恐ろしさは、今、生きている世代に対する健康被害をもたらすだけでなく、まだ生まれていない将来世代に対しても影響を及ぼす点にある。原子力発電によって現代世代は、一定の便利さ・快適さを享受してきたが、絶大な負の遺産を将来世代に残すことになった。今、多くの日本人は、「先祖が酸いぶどう（セシウムなどの放射性物質）を食べれば、子孫の歯が浮く」ということの重大さを受けとめつつある。</div><div>　日本にとって、原子力エネルギーの負の側面を経験したのは、もちろん、今回が初めてではない。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下によって放射能のおぞましさを刻印された日本の戦後史において、核兵器は「絶対悪」として理解されてきた。核保有国が核兵器を「必要悪」と考えてきたのとは違う立場を、わが国は取ってきたのである。ところが、そのような日本にとっても必要悪としての原子力は、官民一体の推進政策の結果、悪としての側面を限りなく薄められ、むしろ「よきもの」としてアピールされ、大多数の国民がそれを信じてきた。そして、３・11の惨事が起こったのである。</div><div>　こうした歴史的経緯を、次のような問いに置き換えることもできるだろう。天地創造の始まりに「光あれ」（創世記一・三）と言われて輝き出た光と、一九四五年、ヒロシマ、ナガサキの上空で輝いた光と、二〇一一年、フクシマの原子炉の中で暴走した光の間の違いは何か。自然界の恵み、それを生み出す自然界の法則は、人間やその他の被造物の生命を支えてきた。自然の恵みなしには、いかなる生物もこの地球上で生きることはできない。しかし同時に、自然から生み出されたいかなる道具も両義性を持っていることを人類は知っている。夜に光や暖を取るために有用な火は、人やモノを焼き尽くす業火ともなる。火の発見・利用から、原子力エネルギーの発見・利用に至るまで、人間によって自然界から取り出された道具やエネルギーは、人間社会を生かすこともできれば、破壊することもできるという両義性を備えている。</div><div>　この破壊的側面を軽視し、原発は安全だという官民一体の主張はフクシマでの事件によって完全に覆された。安全神話は崩壊した。人間が、原子核分裂に見ようとした光は、人や動物の命を奪う力となった。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマにおいて人が見た光は、天地創造の始まりに現れ出た光に由来しているのか。あるいは、人類は単に、その使用方法を誤っただけであって、正しく用いれば問題はなかったのであろうか。フクシマでの事件は、日本を超え、世界中にエネルギー政策の見直しを促すことになったが、神学的には、これは創造論の現代的意義を問う課題である。</div></div></span><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; font-size: 16px; line-height: 27px; font-family: Times; ">（続きは本書をご覧ください）</span><span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div><br /></div>
</span>

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    <title>講演「宗教と教育の危険な関係」、日本仏教教育学会 第20回学術大会シンポジウム「仏教と教育と臨床──改めてつながり・縁を問う」、大谷大学</title>
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    <published>2011-10-28T15:00:49Z</published>
    <updated>2011-11-02T14:28:26Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 【講演要旨】&nbsp;１．はじめに──臨床とは　「臨床」という言葉は多義的で...]]></summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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        <![CDATA[<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/LsHwODGsNrs" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>

<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div style="font-family: Times; "><span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><br /></span></div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1em; ">
【講演要旨】&nbsp;</font></b></span><div><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; font-size: 16px; line-height: 27px; font-family: Times; "><b>１．はじめに──臨床とは</b></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div style="font-family: Times; "><div>　「臨床」という言葉は多義的であり、臨床を冠した言葉の中には単に「臨床ブーム」に便乗しているだけのものも少なくない。「臨床」という視座によって何が変わるのか、どのような方法論的特徴があるのか。「臨床教育学」も同様の課題を負っている。ここでは「臨床」という言葉を思弁的に振り回すことをせず、「歴史的・社会的な現場」として位置づけ、宗教と教育の関係について考えてみたい。</div><div><br /></div><div><b>２．歴史的な現場──宗教と教育</b></div><div>　宗教と教育の関係を考える際、両者が歴史的にどのような関係にあったのか、を踏まえておくことが重要である。ここでは、近代日本における「教育と宗教の衝突」論争を一例として取り上げたい。各界に飛び火した、この論争は、内村鑑三の不敬事件（1891年）を契機として始まり、国家主義的道徳主義のイデオローグであった井上哲次郎（東京帝国大学 哲学教授）が中心となって、キリスト教批判の論陣を張った。井上は、普遍的な愛を説くキリスト教は国家への忠誠を尽くすことができないと批判した。国家道徳を至上の価値とする井上にとっては、キリスト教だけでなく仏教もまた不要な存在であり、道徳こそがすべての宗教の上に立つ「理想教」であった。好む好まずとにかかわらず、ほとんどすべての宗教が国家道徳の一部となって戦争協力の道を歩むことになった。</div><div>　戦後の教育では、戦前の国家と宗教（国家神道）の強い結びつきへの反省から、公教育から宗教教育は一掃されることになる。そして、宗教性を排除した新しい道徳教育が公教育の中で制度化されていった。このような歴史的経緯を踏まえ、宗教と教育の関係、仏教と教育の関係を考えていく必要がある。仏教は公教育が抱えている諸問題にどのような貢献ができるのか。あるいは、「臨床」の場を仏教関係学校に自己限定すべきなのだろうか。宗教と教育のもたれ合い的「つながり」ではなく、批判的な相互関係が求められる。</div><div><br /></div><div><b>３．社会的な現場──グローバル化・宗教の多元化が進む社会の中で</b></div><div>　日本仏教は社会的現実をどの程度、またどれくらいの範囲で視野に入れているだろうか。若者たちがグローバル社会で生きていくためには、宗教であれ、教育であれ、国際社会を無視することはできない。身近に安住の場を求める若者たちに対し、国内外の猥雑な、しかし、生きた「現場」に向かわせる動機付けを、宗教や教育はどのように提供することができるのだろうか。</div><div>　国際社会は宗教多元化が進行している場でもある。宗教多元社会に対応した仏教教育は、どのような形でなされているのだろうか。日本文化の核にある日本の幅広い宗教伝統を学ぶことも、自らの宗教的・文化的アイデンティティの形成には必要であろう。</div><div style="text-align: right;">（2011年10月29日）</div></div>
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    <title>書評「内藤正典著『イスラム━癒しの知恵』」、『同志社時報』No.132、2011年10月</title>
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    <published>2011-10-07T14:45:59Z</published>
    <updated>2011-11-02T14:29:33Z</updated>

    <summary> 　世界人口の四分の一近くを占め、現代世界に多大な影響を与えるイスラムに知的好奇...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div>　世界人口の四分の一近くを占め、現代世界に多大な影響を与えるイスラムに知的好奇心を抱いている人は多い。しかし、イスラムから積極的に学び、それを我々の生き方を見直す糧としている人はどれくらいいるだろうか。本書は、我々がよりよく生きるための知恵の宝庫としてイスラムを紹介する実践の書である。イスラムの「癒しの知恵」を知ることによって、読者は既成のイスラム像、特に過激・厳格といったイメージを修正させられるだけでなく、イスラムの魅力を著者と共に味わうことになるだろう。</div><div>　本書では、日常生活にかかわる具体的な事例が多数取り上げられている。全体を通じてわかるのは、ムスリムは決して無理をせずに、時には自分の欲望に素直になり、互いを支え合う共同体を持っているということである。本書冒頭で取り上げられている自殺の問題は、日本社会とイスラム社会のコントラストを明瞭に示している。年間三万人を超す自殺者を生み出す日本社会の問題は深刻そのものである。では、なぜイスラム社会では自殺者が少ないのか。「神にゆだねる」ことによる思考停止は、自分を必要以上に追い詰めない。また、イスラム社会は「助けて！」と叫べる社会である。自己責任の重荷を背負わされ、我慢することが美徳とされる社会とは、ずいぶん違う。随所に挿入されている著者の体験談は、かなりおもしろい。著者はムスリムではないが、その生き方の知恵を体得していることがわかる。</div><div>（同志社大学 神学部 小原克博）</div><div><br /></div> 
</span>

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    <title>講演「人格と尊厳をめぐる神学的・倫理的考察──古代世界の葛藤から現代の認知症まで」、日本基督教学会第59回学術大会、シンポジウム「生命科学・倫理・キリスト教」、同志社大学</title>
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    <published>2011-09-08T02:51:43Z</published>
    <updated>2011-09-08T04:10:17Z</updated>

    <summary> 【講演要旨】　我々が日常的に使っている「人格」という概念は長い歴史を持っており...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="生命倫理" label="生命倫理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<iframe width="560" height="345" src="http://www.youtube.com/embed/OX9fq8_u-60" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div><b><br /></b></div><div><b>【講演要旨】</b></div><div>　我々が日常的に使っている「人格」という概念は長い歴史を持っており、それゆえに多義的である。しかし、医療の現場、とりわけ終末期医療において、人格をどのように理解するかは、患者の延命の仕方にもかかわってくる重要な倫理的次元を有しており、人格およびそれに付随する「尊厳」について問題点を整理することは急務とも言える。特に、この問題が切実となるのは、認知症患者のケアに関してである。本発表では、こうした課題に向き合うための準備作業として、西洋における人格概念の形成を素描し、それを受容した日本社会において（西洋とは異なる）倫理的な問題点がどこにあるのかを考察する。</div><div>　「人格」は西洋語のpersonの訳語として、日本社会においてすでに定着している。しかし、当の西洋において、この語が人間一般に対して使われるようになったのは、それほど遠い昔のことではない。啓蒙思想の人間中心主義の中で、特にデカルト以降、「人格」概念が広く使われるようになってきたが、それ以前、personと結びつけられてきたのは、もっぱら「神」であった。三位一体をめぐる議論に代表されるように、personとは何かという問いは、高度に神学的な議論に属していた。三位一体のそれぞれの位格（ペルソナ）を実体的にとらえるか、関係論的にとらえるか、という問いもそこに含まれており、これは今日の「人格」理解においても重要な意味を持っている。</div><div>　西洋社会の近代化・世俗化の中で、「人格」はキリスト教の教義とは切り離され、人間の尊厳の根拠として理解されていく。ただし、「人格」概念は医療技術の発展の中で、その定義を大きく揺さぶられており、人格と人格を持たないものの間の境界設定の議論（パーソン論）は、ヒト胚から認知症患者に至るまで、なおも安定した答えを見いだしていない。</div><div>　「人格」概念を狭く設定することは、認知症患者の排除につながる。しかし、「人格」概念を無制限に拡大すると、限られた医療資源の中で、一切の延命治療（胃ろうの設置もその一部）が正当化され、促進されることになる。</div><div>　パーソン論の一部に見られるように、「人格」を合理的な思考ができる自律した人間のみに認めると、認知症患者はその対象から外れていく。確かに、末期における理解力の低下、記憶の喪失は顕著であり、その中で、合理的思考を保持することのできる人格は「実体」としては存在しない。それでも、人間に尊厳があると言えるのは、家族をはじめとする人間社会こそが尊厳という理念を補完することができるからである（人格の関係論的理解）。</div><div>　ただし、日本の医療現場では家族の論理が優先され、個人の自己決定権が軽視される傾向が強く、それが過剰な胃ろう設置の一因になっているとも言われているので、個人倫理（実体的人格）と家族倫理（関係論的人格）のジレンマについても考える必要がある。</div><div style="text-align: right;">（2011年9月7日）</div> 
</span>]]>
        
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    <title>研究発表「「日本宗教史」の教え方──特に一神教の論じ方と関連して」、日本宗教学会 2011年度学術大会、パネル「「日本宗教史」を大学でどのように教えるか」、関西学院大学</title>
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    <published>2011-09-04T14:18:54Z</published>
    <updated>2011-09-04T14:52:04Z</updated>

    <summary>※以下は当日の配付資料１．シラバス（一部抜粋）１）宗教学５「日本文化の中の宗教─...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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        <![CDATA[<font class="Apple-style-span" face="Times" size="3"><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; line-height: 27px;">※以下は当日の配付資料<br /></span></font><span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b><br /></b></font></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>１．シラバス（一部抜粋）</b></font></div><div style="font-family: Times; ">１）宗教学５「日本文化の中の宗教──古代からグローバル時代に至る宗教のポリティクス」</div><div style="font-family: Times; ">＜概　要＞</div><div style="font-family: Times; ">　この授業では，日本宗教の成り立ちやその基本的な思想・世界観を学びます。その際，古代世界からグローバル世界までを時代背景として，日本宗教が文化や政治とどのような相互関係にあったのかを考えていきます。</div><div style="font-family: Times; ">　みなさんは日本の宗教について，どの程度知っているでしょうか。たとえば，客人のために京都・奈良観光をすることになったと考えてみてください。八坂神社，北野天満宮，東大寺などに客人を連れて行くことはできるでしょう。しかし，そこでそれぞれの観光地（宗教施設）を眺める以外に，みなさんはどのような歴史的・宗教的知識を語ることができるでしょうか。神社仏閣は，それが根ざしている宗教的伝統をシンボライズしたものです。日本宗教についての基礎知識を身につけることによって，みなさんは，身の回りにある歴史的建造物や芸術について，より深く理解し，また語ることができるようになるはずです。</div><div style="font-family: Times; ">　この授業では伝統的な日本宗教として，神道，仏教，儒教，道教，民俗宗教を取り上げます。仏教，儒教，道教は中国・朝鮮半島経由で日本に入ってきた外来宗教ですが，それ以前にあった日本の土着の伝統と相互に影響を及ぼし合いながら，日本宗教の多様性と一体性を形成してきました。また，古代世界の頃から，宗教は共同体や社会と深い関係を持っています。仏教が国教的役割を果たした時代もありました。宗教の教えの側面だけでなく，宗教のポリティクスについても，この授業では重点的に扱っていきます。</div><div style="font-family: Times; ">　明治期以降，日本社会は欧米の視線を強く意識することになり，それは日本宗教にも大きな影響をもたらしました。キリシタン弾圧以降，キリスト教との再度の接触も，この時期に本格的に始まります。この授業では，日本宗教を一国史の中で自閉的に語るのではなく，世界史的な比較の視点を導入していきます。</div><div style="font-family: Times; ">　キリスト教をはじめとする一神教の伝統は，日本宗教とはかなり異なる性格を持っています。しかし，そうした一神教の歴史観や自然観をも視野に入れることによって，日本文化に根ざした歴史観や自然観を，より客観的に見ることができるようになります。この授業では，そうした比較宗教学視点を通じて，そもそも「宗教」とは何なのか，ということについても理解を深め，グローバル社会における日本宗教の語り方を考えていきます。</div><div style="font-family: Times; ">　現代の日本社会は，あまり宗教的ではないと言われます。しかし，その一方で，霊魂やあの世（来世）の存在は当たり前のように受けとめられています。たとえば，日本の漫画やアニメには，しばしば日本の伝統的宗教観が反映されています。授業では漫画やアニメなども素材として利用していく予定です。</div><div style="font-family: Times; "><br /></div><div style="font-family: Times; ">２）Introduction to Japanese Religion（※ international students 向けのコース）</div><div style="font-family: Times; ">Course Description</div><div style="font-family: Times; ">This course is designed to introduce students to the history, teachings and practice of Japanese religions. It requires no prior knowledge of the topic. We shall examine the Japanese religious landscape from a variety of perspectives, paying particular attention to the issue of how multiple traditions have continued to coexist in Japan.</div><div style="font-family: Times; ">This course will be dealing with representative Japanese religions such as Shinto, Buddhism, Confucianism and folk religions. At the same time we will compare Japanese religions with world religions including Christianity to get a comparative perspective of religion in the world history. It has been often said that the contemporary Japanese society is not religious, rather very secular, but in reality most of the Japanese people take the existence of spirits, ghosts and the afterworld for granted. Japanese popular culture, especially manga and anime, reflects such tendency in the unique way. In order to gain insight into the hidden religiosity, we will be looking at some representative manga and anime from the perspective of religious studies.</div><div style="font-family: Times; "><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>２．授業の特徴（配慮している点）</b></font></div><div style="font-family: Times; ">１）宗教は「怪しい」「危ない」「理解不能」といった先入観をできるだけ取り除く（アニメ・マンガの利用）。</div><div style="font-family: Times; ">２）身近な神社仏閣を訪ねてみたくなるようなインセンティブを与える。</div><div style="font-family: Times; ">３）世界史的・アジア史的な文脈の中で、日本宗教の特徴を理解する。特に、一神教との比較を行うことによって、諸宗教に対する単純な優劣意識（一神教 vs 多神教など）を持たないようにすると同時に、宗教の普遍性やグローバルな課題にも目を向ける。</div><div style="font-family: Times; ">４）国外で活動している日本宗教（仏教や新宗教）の実情や課題を紹介し、国際社会における日本宗教の役割を考える。</div><div style="font-family: Times; ">５）海外で日本宗教を英語で説明できるように、講義におけるキーワードは日英を並記する。</div><div style="font-family: Times; ">６）日本宗教を教えや儀礼の側面からのみとらえるのではなく、文化や政治力学（宗教と国家、宗教と戦争、政教分離等）との関係の中で理解する。</div><div style="font-family: Times; ">７）国際学生に対しては、彼ら・彼女らの宗教的背景を考慮し、また、それとの比較を通じて、日本宗教や日本人の宗教観について説明する。</div><div style="font-family: Times; "><br /></div><div style="font-family: Times; ">【参考】小原克博 On-Line（http://www.kohara.ac）：Educationの項目に授業資料あり。</div>
</span>]]>
        
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    <title>書評「アクセル・カーン著『モラルのある人は、そんなことはしない──科学の進歩と倫理のはざま』」、『週刊読書人』2011年9月2日号</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/09/02.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2011:/research//7.2231</id>

    <published>2011-09-03T13:59:57Z</published>
    <updated>2011-09-03T14:11:52Z</updated>

    <summary> ■ PDFファイル（197KB）　本書は、その副題が示しているように、科学の進...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
    </author>
    
        <category term="05 書評" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="生命倫理" label="生命倫理" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■ <a href="http://www.kohara.ac/research/dokusyojin20110902.pdf">PDFファイル</a>（197KB）</font></div></span><font class="Apple-style-span" face="Times" size="3"><span class="Apple-style-span" style="border-collapse: collapse; line-height: 27px;"><br /></span></font><span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><div>　本書は、その副題が示しているように、科学の進歩がもたらす倫理的課題について語っている。著者のアクセル・カーンはヨーロッパを代表する遺伝学者であり、それゆえ、本書で扱われている科学は、生命科学が中心となっているが、その射程範囲はかなり広い。安楽死、出生前診断、人工妊娠中絶、生殖医療、遺伝子検査、脳科学、臓器移植など、これまで倫理的な議論を引き起こしてきたテーマは、ほとんどすべて触れられると言ってよい。その他、一見生命科学とは関係のなさそうな売春、ポルノ、イスラームのブルカなどもテーマとしてあげられ、自由とは何か、尊厳とは何か、を探求する素材とされている。</div><div>　科学と倫理の関係を論じている類書は少なからず存在するが、本書ならではの醍醐味をいくつか指摘することができる。一つは、一章を割いて詳細に記されている、カーンおよび彼の家族史を通じて垣間見るヨーロッパ近現代史の一断面が、彼や彼を取り巻く社会の倫理的判断に及ぼした影響を実感できる点にある。倫理は、個人の次元においても、社会の次元においても、時代状況とのせめぎ合い（あるいは迎合）の中から生み出されてくることを如実に伝えている。</div><div>　著者は自らを人間中心主義者、不可知論者（神など超越的な存在を人間は知り得ないという立場）と見なしているが、同時に、母親から引き継いだカトリック精神の影響を受けていることを率直に認めている。著者は宗教から離れているが、隣人愛に基づく道徳心の探求を忘れることはなかった。彼自身の思想的・政治的遍歴は、ヨーロッパ社会の変化をも映し出している。ちなみに、本書のタイトルは、著者の父親が子ども時代の著者を叱責した際に発した言葉に由来している。「そんなことはしない」とは差別的な発言を指していたが、価値相対主義に陥らずにモラルの普遍的次元を追求する姿勢は、本書全体において貫かれている。</div><div>　本書の醍醐味のもう一つは、普段、我々が十分な関心を向けていないフランス社会における価値のせめぎ合いを、著者の批判的視線を通じて見ることができる点にある。一般に生命科学や生命倫理の問題は、アメリカ的な背景において紹介され、理解されることが多い。しかし、本書を通じて、一つひとつ倫理的課題の是非にとどまらず、問題設定そのものにおいて、フランスがアメリカとは異なる議論をしてきたことを知ることができる。さらに、自らの見解が国内外の大勢の意見と時に異なっていることを認めながら、著者が自説を一貫した原則の下に骨太に展開している点は、読者に対して刺激的な問題提起となっている。訳者は「あとがき」で適切にもマイケル・サンデルと対比させているが、サンデルに飽き足らない読者には、本書は倫理的議論の別種のおもしろさを教えてくれるだろう。</div><div>　遺伝学者である著者は、伝統倫理学の諸説を振り回すようなことはしない。著者にとって重要なのは、他者を尊重するという原則である。ユダヤ系フランス人である著者は、ユダヤ人にもたらされた災禍に言及しながら、優生学をはじめとする近代科学の一部が、人種差別の増長や、ナチスによって精神薄弱者と見なされた人々の殺害につながっていったことを指摘する。科学はイデオロギーによって悪用される可能性があることを、著者は多くの事例を引きながら警告し、科学には倫理が必要であると語る。議論や安全性を省略してでも科学的成果をあげることが優先される国に住んでいる人々は、本書から多くのことを学ぶことができるはずである。（小原克博氏＝同志社大学教授・キリスト教思想専攻）</div><div><br /></div> 
</span>

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    <title>講演「宗教は民主主義に必要か」、同志社大学 一神教学際研究センター主催 公開シンポジウム「激変する中東の深層を読む」、2011年7月30日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/07/30.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2011:/research//7.2213</id>

    <published>2011-07-30T15:14:28Z</published>
    <updated>2011-09-04T14:34:33Z</updated>

    <summary> ■ プレゼンテーション資料（PDFファイル、631KB）【日時】２０１１年７月...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">
■ <a href="http://www.kohara.ac/research/20110730.pdf">プレゼンテーション資料</a>（PDFファイル、631KB）</font><div style="font-family: Times; "><br /></div><div style="font-family: Times; "><div>【日時】</div><div>２０１１年７月３０日（土）１３：００〜１５：１５</div><div>【会場】</div><div>同志社大学今出川キャンパス　明徳館1階　М１教室</div><div><br /></div><div>◆ 第１部：講演</div><div>"宗教は民主主義に必要か"　小原克博（同志社大学神学部教授、CISMORセンター長）</div><div>"「アラブの春」への懐疑"　内藤正典（同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授／研究科長、CISMOR幹事）</div><div>"オバマの苦悩"　　　　　　村田晃嗣（同志社大学法学部教授／法学部長、CISMOR幹事）</div><div>◆第２部：パネルディスカッション</div><div>パネリスト：小原克博、内藤正典、村田晃嗣</div></div>
</span>
<div><br /></div><iframe width="500" height="311" src="http://www.youtube.com/embed/gq9CPEnWGJs" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>]]>
        
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    <title>基調講演「現代世界と宗教間対話」、日本宗教ネットワーク懇談会主催 シリーズ「いま、なぜ宗教間対話なのか」、慶應義塾大学、2011年7月9日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/07/09.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2011:/research//7.2197</id>

    <published>2011-07-13T16:15:34Z</published>
    <updated>2011-07-13T16:23:10Z</updated>

    <summary>■ プレゼンテーション資料（PDFファイル、627KB）...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■ </font><a href="http://www.kohara.ac/research/20110709.pdf"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">プレゼンテーション資料</font></a><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">（PDFファイル、627KB）</font></font>]]>
        
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    <title>研究発表「生物多様性に対する神学的考察」、日本基督教学会 近畿支部会、2011年3月29日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/03/29.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2011:/research//7.2126</id>

    <published>2011-03-31T12:16:05Z</published>
    <updated>2011-10-14T15:19:04Z</updated>

    <summary> １．はじめに──生物多様性とは何か　生物多様性は生態系の豊かさやバランスだけで...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<iframe width="560" height="315" src="http://www.youtube.com/embed/iW-e21Q4PXw" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe>
<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">１．はじめに──生物多様性とは何か</font></b></div><div>　生物多様性は生態系の豊かさやバランスだけでなく、生物が過去から未来へと伝える遺伝情報の多様性を問題にしている。したがって、環境問題に歴史的な次元を加え、自然や動物と人間の宗教史的な関係の多様性を評価し直す上でも、生物多様性は有益な視点を与えてくれる可能性がある。</div><div>　生物多様性は、近現代のキリスト教においては、進化論論争として現象化していた。ただし、進化論論争が創造論を中心主題としていたのに対し、現代の生物多様性をめぐる問題は終末論への親和性を持つ。自然災害は突発的なカタストロフィーをもたらすが、生物多様性は、漸進的なカタストロフィーを暗示している。</div><div><br /></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">２．現代神学における生物多様性への手がかり</font></b></div><div>１）無生物に対する畏敬── H. リチャード・ニーバーの徹底的唯一神主義（1960）</div><div>　シュヴァイツァーの「生への畏敬」を「生けるものの共同体という単一神主義（henotheism）」として批判し、「徹底的唯一神主義（radical monotheism）は、死せるものへの畏敬をも含む」として、それが非有機的存在への畏敬をも含むと主張する。（Niebuhr 1993: 37）</div><div>　一神教概念の新しい可能性が示されているが、観念的なレベルにとどまっている。</div><div>２）環境の神学──サリー・マクフェイグ：「神の体」（The Body of God）</div><div>　世界を「神の体」とみなすメタファーとしての有効性と共に限界も自覚している。"I am not even afraid of pantheism; the line between God and the world is fuzzy" (McFague 2008: 120).</div><div>　示されている神学的ビジョンは有益。しかし問題は、この世界にどのような形で神の霊が宿っているかではなく、むしろ、人間が自らの「身体性」をどのように自然世界に拡張できるかにあるのではないか。また、自然と人間をつなぐ媒介項（たとえば動物）に対する言及はほとんどない。</div><div>３）動物の神学──アンドリュー・リンゼイ：「寛大さ」の倫理（弱者の道徳的優先権）</div><div>「私が示唆したいのは、権利の概念は道徳神学と十分に両立するものであり、それは動物をも含むように正しく拡張されるのが正しいということである」（リンゼイ 2001: 20）。</div><div>　権利論を中心に主張を展開。非西洋圏ではどの程度有効か。</div><div><br /></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">３．動物と人間の関係をめぐる歴史的考察──生物多様性の多様な前史</font></b></div><div>１）動物供儀──動物を殺すことによって生じる罪責感</div><div>　ヘブライ語聖書における焼き尽くす捧げもの（ホロコースト）：神と人の断絶</div><div>　農耕文化における動物供儀：神人共食、動物供養</div><div>２）聖書の自然観・世界観──神による創造、人間による支配</div><div>　アウグスティヌスはストア派の動物観の影響を受けた。動物は理性を持たないので、人間は動物に対して道徳的な責任を負わないという考え方が、後の（西洋）キリスト教においても支配的になる。</div><div>３）日本の伝統的な動物観──神・人・動物の交流（身体的連続性）</div><div>　欧米の動物権利論では、動物を権利主体と見なし、倫理的共同体の中に取り入れる。変身譚の比較：[グリム童話] 人間から動物へ（疎外のシンボル）、[日本の昔話] 動物から人間へ（交流の物語として）</div><div>４）動物の家畜化</div><div>　動物の家畜化（道具化）が極度にまで進んだ現代においては、動物の犠牲や絶滅は、私たちにとっての直接的な痛みにはならない。動物に対する繊細な関係を失ったとき、「ヒトは産業による動物の虐殺を超え、他のヒトを強制収容する技術を洗練させて、ついにはヒト自身の大量殺戮へと向かうことにもなったのだろう」（鷲田 2009: 313）。強制収容所という例外空間は、我々の日常から遠く離れているのではなく、現代社会の中に内在化されてしまっている。「今日における哲学のさまざまなアポリアは、動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符合するのである」（アガンベン 2004: 25）。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>４．アニミズムの復権というディスコースに対する批判</b></font></div><div>１）日本の自然観の優位性を説く文化ナショナリズム</div><div>　しばしば一神教批判を伴う（一神教と多神教をめぐるディスコースについては、小原克博『宗教のポリティクス』第四章を参照）。この種の議論は環境問題に対する責任意識を麻痺させるため、有害な側面を持つ。安易に「自然との共生」などを説くことができないほど、人間による自然破壊が深刻であることを「生物多様性」は教える。</div><div>２）呪術的畏れの回復ではなく、科学的手法による「畏敬の念」の回復</div><div>　アニミズム的世界観においては、動物と人間の間には不断の緊張関係があった。現代人とペットの関係のような、弛緩した友愛的関係ではなかった。暴力的に命を奪うことに対しては「祟り」という呪術的な畏怖の念がつきまとった。アニミズムの前提となる、そうした呪術的恐怖を現代社会に回復することは不可能。ここでは、呪術的概念に回帰せずに、自然に対する「畏敬の念」を回復するための科学的手法として「生物多様性」を理解する。呪術的メカニズムが全体的連関を考慮しない閉じた因果論であるのに対し（悪行→祟り）、「生物多様性」は閉じることのない生命の連鎖と系譜へと視線を向けさせる。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>５．結論──生物多様性から見える課題</b></font></div><div>１）地域別の環境戦略（生物多様性保護）の必要性：生物多様性は環境意識に「具体性」を与える。</div><div>２）動物と人間の関係への関心の喚起。それに基づく社会学的洞察（ホロコースト）の進展。</div><div>３）人間中心的ではない間身体的認識。サクラメントの生物学的次元の認識。</div><div>　西洋では「身体」は人間（個人）の専有物。日本では、身体は人間と動物の「間」にあるものとして理解することができる。サクラメントを広義の身体理解のためのアナロジーとして用いることができる。イエスと信仰者の「間」には新しい身体性（キリストの体）が形成される。新しい身体性の認識としてサクラメントを広義に解釈すれば、動物供養の中にさえ、サクラメンタルな側面を見いだすことができる。生命圏へと拡張されるサクラメント解釈。</div><div><br /></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">【引用文献】</font></b></div><div>アガンベン、ジョルジュ　2004　『開かれ──人間と動物』平凡社。</div><div>リンゼイ、アンドリュー　2001　『神は何のために動物を使ったか──動物の権利の神学』教文館。</div><div>鷲田清一　2009　「人間性と動物性」、林ほか編『動物観と表象』岩波書店、305-313頁。</div><div>McFague, Sallie　2008　<i>A New Climate for Theology: God, the World, and Global Warming</i>. Minneapolis: Fortress Press.</div><div>Niebuhr, H. Richard　1993　<i>Radical Monotheism and Western Culture: With Supplementary Essays</i>. Louisville: Westminster John Knox Press.</div> 
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    <title>講演「チュニジア、エジプトそして今後の中東は？」、大本イスラエル・パレスチナ平和研究所主催、2011年3月18日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/03/18.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2011:/research//7.2122</id>

    <published>2011-03-19T15:10:56Z</published>
    <updated>2011-03-19T15:20:51Z</updated>

    <summary> 　【キーワード】民主化、イスラーム、イスラーム復興運動、情報テクノロジー、宗教...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">

<div><a href="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1618-1934.html" onclick="window.open('http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1618-1934.html','popup','width=400,height=267,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1618-thumb-300x200-1934.jpg" width="300" height="200" alt="IMG_1618.JPG" class="mt-image-none" style="" /></a>　<a href="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1627-1937.html" onclick="window.open('http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1627-1937.html','popup','width=400,height=267,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2011/03/IMG_1627-thumb-300x200-1937.jpg" width="300" height="200" alt="IMG_1627.JPG" class="mt-image-none" style="" /></a></div><div><br /></div><div>【キーワード】民主化、イスラーム、イスラーム復興運動、情報テクノロジー、宗教、日本</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">１．はじめに──歴史を予測すること</font></div><div>１）秩序（日常）の崩壊（漸進的／突発的カタストロフィー）、秩序の再生</div><div>２）私の経験から</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">２．変化する中東の背景</font></div><div>１）多い若年人口（高い失業率）：30歳未満の人口が全人口の6割を占める。</div><div>２）情報テクノロジーの活用：携帯電話、衛星放送、Twitter、facebook</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">３．民主化運動とイスラームの関係</font></div><div>１）チュニジア：路上で（違法に）果物を売っていた失業青年の焼身自殺が意味するもの。</div><div>２）エジプト：スンナ派（90％）とコプト教会（10％）。ムスリム同胞団の役割。</div><div>３）リビア：圧倒的多数がスンナ派。国際社会の介入の是非。</div><div>４）バーレーン：シーア派（75％、被支配者層）とスンナ派（25％、支配者層）の対立</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">４．エジプトの民主化運動は「宗教」とは関係ない？</font></div><div>１）ムスリム同胞団は運動の前面には出てこなかった（これからも慎重）。</div><div>２）政治運動であっただけでなく、イスラーム的な「公正」を求める宗教運動でもあった。</div><div>３）民主化運動は宗教とは関係なかった、とするアメリカ型のディスコース（語り）に注意をする必要がある。「関係がない」（記述）→「関係すべきではない」（規範）を誘導。</div><div>４）欧米が恐れているものは何か。</div><div>５）イスラーム的かどうか以前の、より根源的かつ普遍的な宗教体験（「祭り」の共同体。祝祭と悼みの場）。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">５．イスラーム復興運動（イスラーム主義運動）──イスラーム原理主義</font></div><div>１）ムスリム同胞団</div><div>　西洋（イギリス）からの独立とイスラーム文化の復興を目的として、ハサン・アル＝バンナーにより1928年に設立。イスラーム的価値に基づく、幅広い「世直し運動」。非合法とされてきたが、実質的には最大野党。穏健派が主流であるが、1970年代以降、「イスラーム集団」「ジハード団」など急進派少数集団が分離。ハマスも、同胞団のパレスチナ支部として出発している。</div><div>&nbsp;&nbsp;現在では、教育歴の高い若い世代が組織をリードしている。内部では世代間対立があるが、表面化はしていない。</div><div>２）イスラーム原理主義</div><div>　原理主義（ファンダメンタリズム）は歴史的にはキリスト教原理主義（アメリカ）を指していたが、イラン・イスラーム革命（1979年）以降、欧米メディアによってイスラームの過激派を指す名称として用いられてきた。「テロリスト」と同義に用いられることもある。こうした欧米の用語法と、「イスラーム復興運動」を区別する必要がある。</div><div>３）政教分離との関係</div><div>　イスラームは西欧型の政教分離論で計ることが難しい。政教一元論。民主化プロセスも当然、西欧型とは異なることになる。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">６．終わりに──日本社会との関係</font></div><div>１）宗教とは何か</div><div>　政教分離の枠組みの中で考えたとき、信仰（思想・信条、「私的領域」）と政治（社会的表象、「公的領域」）の分離を求めることになるが、宗教とは二つの領域に分離可能なものか。</div><div>　心と身体（社会的表象、「公的領域」）を簡単に切り離すことはできず、心の身体的「可視化」を求める運動、および、それを封じ込めようとする運動が様々な形で起こっている。中東における民主化運動の底流にも、そのような力関係が作用している。</div><div>２）日本社会における政教一致と政教分離</div><div>　誰が「宗教」を定義するのか。国家と宗教の関係。</div><div>３）民主化と宗教</div><div>　世直し運動の現代における形。民主化（平和）のための暴力は正当化されるか。日本の平和主義は国際社会に貢献できるのか。宗教と平和・暴力の根源的な問い。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">【参考文献】</font></div><div>小原克博『宗教のポリティクス──日本社会と一神教世界の邂逅』晃洋書房、2010年。</div><div>小原克博・中田考・手島勲矢『原理主義から世界の動きが見える――キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像』PHP研究所、2006年。</div><div>横田貴之『原理主義の潮流──ムスリム同胞団』山川出版社、2009年。</div> 
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    <title>パネルディスカッション発表「キリスト教と利他的実践」、フォーラム「共生社会と宗教──利他の実践は社会を救済するか？」（主催：同志社大学ソーシャル・イノベーション研究センタ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2011/03/06.html" />
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    <published>2011-03-06T14:10:48Z</published>
    <updated>2011-03-10T12:28:44Z</updated>

    <summary><![CDATA[■ 音 声（KOHARA Podcasts @&nbsp;iTunes）１．利他...]]></summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">■ </font></font><a href="http://itunes.apple.com/jp/podcast/kohara-podcasts/id289934472"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">音 声</font></font></a><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">（KOHARA Podcasts @&nbsp;</font></font></font><span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">iTunes</font></font></span><span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; ">）</font></font></span></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><br /></font></b></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">１．利他的行為の聖書的根拠</font></b></div><div>１）隣人愛：「隣人を自分のように愛しなさい」（律法の最重要事項）。よきサマリア人のたとえ（ルカ福音書10:25-37）。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」（マタイ福音書25:40）。</div><div>２）イエスの倫理：共同体倫理ではなく、「個」への強いまなざし。徹底した利他性を帯びているが、既存の秩序に対しては脅威となる。例：「見失った羊」のたとえ「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」（ルカ福音書15:1-7）。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」（マタイ福音書10:34）。</div><div>３）キリスト教NPOの活動：カリタス（カトリック）から福音派（プロテスタント）まで</div><div><br /></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">２．共生社会における宗教教育──（元）キリスト教社会における取り組み</font></b></div><div>「では、わたしの隣人とはだれですか」（ルカ福音書10:29）。</div><div>１）英国：Qualifications and Curriculum Authority （QCA）による宗教教育のガイドライン</div><div>　イギリスにおける六つの主要宗教、すなわち、キリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラーム、ユダヤ教、シーク教を義務教育の間に学ぶよう指示。</div><div>２）ドイツ：「基本法」（1949年制定）第7条第3項「公立学校においては、宗教教育は正規の科目である。宗教教育は、国の監督権に関係なく、宗教共同体の基本理念と一致して行われる。」</div><div>　上記「宗教共同体」は当初、カトリック教会とプロテスタント教会を意味していたが、今日では、無宗教者やムスリムも視野に入れたカリキュラム作りがなされている。</div><div>３）アメリカ：アメリカ宗教学会による宗教教育のガイドライン（2010年）：公立学校の世界史、アメリカ史、社会、英語（英文学）、地理などの授業の中で宗教を教えるための教師向け手引き書。</div><div><br /></div><div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><b>３．利他的実践の功罪：「（自己）犠牲」の両義性</b></font></div><div>１）個人的次元：利他的な奉仕を促す。</div><div>２）社会的次元：共同体（国家を含む）への犠牲を要求し、正当化する場合がある。</div><div>「愛国心はそのなかに倫理的パラドクスをもっており、最も鋭い凝った批判でなければいかなる批判も受けつけないものである。そのパラドクスとは、愛国心は、個人の非自己中心主義が国家の利己主義に転化する、ということである。国家への忠誠心とは、もしより低い忠誠心や地方的利害などとくらべるならば、それは高度な利他主義の形態である。（中略）このようにして、個人の非自己中心主義は、国家の自己中心主義を助長するのである」（R. ニーバー『道徳的人間と非道徳的社会』1932年）。</div><div><br /></div> ]]>
        
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    <title>パネルディスカッション発表「キリスト教と世俗教育・宗教教育──宗教多元的状況に向き合うキリスト教社会の現状」、「現代における宗教の役割研究会」（コルモス）第57回研究会</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2010/12/20101227.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2010:/research//7.2075</id>

    <published>2010-12-27T14:56:41Z</published>
    <updated>2010-12-27T15:05:58Z</updated>

    <summary> １．キリスト教と教育をめぐる争点１）キリスト教宣教における教育の役割　宣教師は...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
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    </author>
    
        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-family: Times; font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">１．キリスト教と教育をめぐる争点</font></b></div><div>１）キリスト教宣教における教育の役割</div><div>　宣教師は西洋型の近代教育の普及に貢献したが、教育の内容は時として軋轢を引き起こした。</div><div>（事例）</div><div>・初期の同志社：役所から校内で聖書を教えることを禁じられていた。</div><div>・アメリカンボード（1810年設立）によるネストリアン・ミッション（1835年開始、中東のキリスト教化を目指す）：聖書の配布はイスラームに対する敵対行為と見なされた。</div><div><br /></div><div>２）米・公立学校における争点</div><div>・進化論論争：ファンダメンタリストとリベラル派知識人の対立。宗教と科学の対立。</div><div>・同性愛をめぐる議論（Anti-Gay Bullying）：「文化戦争」の火種となる可能性。</div><div><br /></div><div><b><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">２．（元）キリスト教社会における宗教教育の取り組み</font></b></div><div>１）イギリス</div><div>　Qualifications and Curriculum Authority （QCA）による宗教教育のガイドライン</div><div>　イギリスにおける六つの主要宗教、すなわち、キリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラーム、ユダヤ教、シーク教を義務教育の間に学ぶよう指示。</div><div><br /></div><div>２）スペイン</div><div>　カトリック主導の宗教教育のプランに対する見直し</div><div><br /></div><div>３）ドイツ</div><div>　「基本法」（1949年制定）第7条第3項</div><div>　「宗教に関係のない学校を除いて、公立学校においては、宗教教育は正規の科目である。宗教教育は、国の監督権に関係なく、宗教共同体の基本理念と一致して行われる。いかなる教師にも、その意思に反して、宗教教育を行う義務を負わせてはならない。」</div><div>　上記「宗教共同体」は当初、カトリック教会とプロテスタント教会を意味していたが、今日では、無宗教者やムスリムも視野に入れたカリキュラム作りがなされている。</div><div><br /></div><div>４）アメリカ</div><div>　アメリカ宗教学会（AAR）による宗教教育のガイドライン（Guidelines for Teaching About Religion in K-12 Public Schools in the United States Produced by the AAR Religion in the Schools Task Force, 2010）：公立学校の世界史、アメリカ史、社会、英語（英文学）、地理などの授業の中で宗教を教えるための教師向け手引き書。</div><div>1. Why Teach About Religion? 2. Religion, Education and the Constitution, 3. How to Teach About Religion, 4. Teacher Education</div><div><br /></div><div>５）「心の教育」の位置づけ</div><div>　「心の教育」は、公立学校での宗教教育とは切り離されている。宗教教育に情操教育の役割は与えられていない。</div><div><br /></div> 
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    <title>講演「科学・政治・宗教をめぐる暴力の系譜──21世紀的身体（こころ）を展望する」（同志社大学神学部 基督教研究会主催、一神教学際研究センター共催）、2010年11月20日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2010/11/20.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2010:/research//7.2046</id>

    <published>2010-11-20T15:08:11Z</published>
    <updated>2011-08-19T13:55:33Z</updated>

    <summary> ■ 当日配付資料（PDFファイル、180KB）■ 音声＆プレゼンテーション画像...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
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        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="科学と宗教" label="科学と宗教" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    <category term="戦争・紛争・暴力" label="戦争・紛争・暴力" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; border-collapse: collapse; line-height: 27px; ">
<font class="Apple-style-span" style="font-size: 1em; ">■ <a href="http://www.kohara.ac/research/lecture2010120.pdf">当日配付資料</a>（PDFファイル、180KB）</font><div><font class="Apple-style-span" size="4"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 16px; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 0.8em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■ <a href="http://itunes.apple.com/jp/podcast/kohara-podcasts/id289934472">音声＆プレゼンテーション画像</a>（KOHARA Podcasts @ iTunes</font>）</font><br /></span></font><div style="font-family: Times; "><font class="Apple-style-span"></font><div><br /></div><div><a href="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120b-1637.html" onclick="window.open('http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120b-1637.html','popup','width=800,height=600,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120b-thumb-300x225-1637.jpg" width="300" height="225" alt="20101120b.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a>　<a href="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120-1641.html" onclick="window.open('http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120-1641.html','popup','width=800,height=600,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.kohara.ac/research/assets_c/2010/11/20101120-thumb-300x225-1641.jpg" width="300" height="225" alt="20101120.jpg" class="mt-image-none" style="" /></a></div><div><br /></div></div></div><div style="font-family: Times; "><div><b>（講演要旨）</b></div><div>　西洋では近代化と共に社会は機能分化を遂げ、公的領域には政治や科学が配置され、宗教は私的領域に置かれるようになった。政教分離は近代化・世俗化の帰結であるだけでなく、宗教と結びついた過剰な暴力を抑制するための知恵でもあった。しかし、近代化によって暴力全体が抑制されることはなく、むしろ、科学・政治・宗教において、暴力の現象形態は分化していった。</div><div>　また、社会の機能分化と共に、人間の身体もまた分割的に理解されてきた。しかし、思想・信条（こころ）と身体（社会的次元）を簡単に切り離すことはできず、こころの身体的「可視化」を求める運動が様々な形で起こっている。それは世界各地の宗教復興現象から、同性愛をめぐる議論（アメリカ）やムスリム女性のヴェール論争（ヨーロッパ、トルコなど）に至るまで多岐にわたる。そして、それぞれの議論の場が、時として、暴力的言説、さらには暴力そのものを生み出すことがある。多様な暴力を21世紀的身体はどのようにコントロールしていくことができるのか。</div><div>　本講演では、暴力の系譜をたどりつつ、21世紀における暴力（紛争・戦争を含む）とどのように向き合っていったらよいのかを考える。</div></div><div style="font-family: Times; "><br /></div>
<font class="Apple-style-span" face="Times"><iframe width="615" height="491" src="http://www.youtube.com/embed/-mmiStFC5V0" frameborder="0" allowfullscreen=""></iframe></font></span>]]>
        
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    <title>講演「宗教と暴力」、第23回国際霊長類学会大会 市民公開講座「暴力の起源とその解決法」、京都大学百周年時計台記念館百周年記念ホール、2010年9月18日</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.kohara.ac/research/2010/09/20100918.html" />
    <id>tag:www.kohara.ac,2010:/research//7.2014</id>

    <published>2010-09-18T15:59:17Z</published>
    <updated>2010-09-18T16:09:35Z</updated>

    <summary>■ プレゼンテーション資料（PDFファイル、344KB）...</summary>
    <author>
        <name>小原克博</name>
        <uri>http://www.kohara.ac/</uri>
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        <category term="06 口頭発表" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="戦争・紛争・暴力" label="戦争・紛争・暴力" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.kohara.ac/research/">
        <![CDATA[<div><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">■ </font></font><a href="http://www.kohara.ac/research/lecture20100918.pdf"><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">プレゼンテーション資料</font></font></a><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; "><font class="Apple-style-span" style="font-size: 1.25em; ">（PDFファイル、344KB）</font></font></div><div><br /></div><div><br /></div>]]>
        
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