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第五期科学技術基本計画において提唱されたSociety 5.0(サイバー空間とフィジカル空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会)に代表されるように、科学技術の高度な進展を前提として未来社会をデザインすることが増えてきた。こうした事例を取りあげながら、未来社会のデザインの中に宗教がどのような役割を残しているのかを考察することによって、近未来社会における科学技術と宗教の相互浸透性のあり方を示したい。
コロナ禍により仮想空間におけるコミュニケーションが急速に拡大した。サイバー空間を情報技術によって構成されたものに限定せず、広く仮想空間(バーチャル空間)と考えれば、バーチャルなものに対する志向性やそれを生み出す力は、すでに狩猟社会(Society 1.0)の頃から存在していると言える。ライオンの頭部、人間の体を持つ彫像「ライオンマン」(三万二千年前)はその一例である。
「科学技術に浸透する/される宗教」という本パネルの課題設定は、科学技術と宗教が分離した現代的な文脈では有効である。しかし、人類史的な視点から見れば、技術と宗教は表裏一体となってリアルとバーチャルの間の往復運動を可能にしていたと言えるのではないか(技術と宗教の根源的な相互浸透性)。近未来においても、人間と人工物(技術)の根源的な相互浸透性を視野に入れることのできる倫理や法、宗教概念が求められる。
近年の技術革新を踏まえて未来社会を描く事例を三つ取りあげる。NEC未来創造会議「未来シナリオ二〇五〇」では、ソーシャルメディアによる「パーソナルユートピア」、環境共生を共同体の信仰とする「環境信仰社会」、人の思いやりを可視化する「守護霊ロボット」等が取り上げられ、また、東工大 未来社会デザイン機構「未来シナリオ」では「他者・社会に気を遣うことなく、最期を笑顔で迎えられる」、「記憶を自由に選択し、心の傷を癒やす」ということが未来の科学技術によって可能になることが示されている。京都大学・日立「Crisis 5.0 二〇五〇年の社会課題の探索」は、未来において起こり得る危機について論じており、「信じるものがなくなる」がその一つとされている。
人類史を俯瞰しながら未来社会を論じているユバル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス──テクノロジーとサピエンスの未来』では、技術によってホモ・サピエンスは神性の獲得を目指し、「ホモ・デウス」へとアップグレードするとされている。宗教と科学の区別は困難となり、データ教(dataism)によって人間至上主義が克服される未来を描く。
以上のことをまとめると次のようになる。
【未来における宗教の姿】日本の未来シナリオにおいて、宗教的要素(宗教の残滓)は部分的に示されているが、現実の宗教組織の行く末は、ほとんど視野に入っていない。ハラリは、宗教組織だけでなく、資本主義など各種のイデオロギーも宗教に含め、宗教を広義に理解しているが、神や魂については科学的視点から明確に否定している。
【宗教と技術の関係】いずれの未来社会像においても、宗教の伝統的な働きの多くを、いずれ技術が代替するという見方が支配的である。肯定的な言い方をすれば、宗教的要素は未来の技術によって部分的に生き残るということになる。
【人間至上主義の次の段階】Society 5.0は「人間中心」という価値を強調するのに対し、ハラリの「データ教」は人間中心主義(人間至上主義)を超える視点を示す。一見、宗教否定のように見える部分もあるが、必ずしもそうではなく、科学によって旧時代の宗教的残滓を除去した、新しい宗教のあり方を示していると見ることもできる。
※引用する際には、必ずページ数等を含め、正確に出典を示すようにして下さい。
新型コロナウイルスの感染拡大は、人々の健康状態だけでなく、社会構造にも大きな影響を与えた。感染症に限らず、地震や津波などの災害も、多くの人の命と生活に影響を与え、また、いずれも自然災害(天災)と人災の複合体となり得ることを、我々はすでによく知っている。
ヘブライ語聖書には、戦争・飢饉・疫病が、大量の人の命を奪う災厄として繰り返し言及されている。そして、いつの時代も「なぜ」という因果への問いかけがあり、神学的には後に神義論と呼ばれる議論が重ねられてきた。
新約聖書にも因果への問いは見受けられる。天災あるいは人災の犠牲者に対し、当時の人々は因果を問うたが、イエスの答えは次のようなものであった。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・4─5)。また弟子たちが、生まれつき目が見えない人がそうなった理由を、本人あるいは両親が罪を犯したからと問うた際、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と答え、弟子たちが立っている論理の外部に、神の業を示したのであった。
悲惨な事態を天罰として説明しようとする人々は、今でいう「自己責任」の代弁者であった。悪いことをしたら、その報いを受けるのは当然だ、という考えは実に腑に落ちやすく、共感を得やすい。しかし、イエスは、その裁きの論理の外側に出ること、そして同時に自らの内面へと深く目を向けることを求めたのではなかったのか。
ところが、後のキリスト教は必ずしも因習的な因果論から自由になることはできなかった。人を裁くための原因探しに熱心であった時代すら存在したが、それは異端裁判や魔女狩り、十字軍に限らない。14世紀ヨーロッパにおけるペスト流行の時代、その流行に勝るとも劣らぬ勢いで広がっていったのがユダヤ人元凶説であった。ペストを流行させた原因と見なされたユダヤ人たちの処刑を多くのクリスチャンが望み、町によっては、ユダヤ人ゲットーが丸ごと殲滅させられた。そうした人々はキリスト教的正義を実行していると信じて疑わなかったのである(村上、一九八三、一三九─一四七頁)。自らは正しいことをしていると信じている人によって行われている悪を、どのように受けとめることができるのだろうか。
善意と悪意をめぐる、この問いは、アルベール・カミュの代表作『ペスト』においても取り上げられているが(カミュ、一九六九、一九三頁)、ここではまず、カミュが登場人物の一人、イエズス会の司祭パヌルーに天罰を語らせていることに触れておこう。ペストが蔓延した後に行われた最初の礼拝でパヌルーは「皆さん、あなたがたは禍いのなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります」(同、一三七頁)と語り始める。そして、それが終わったとき「この説教はある人々に、それまではおぼろげであった観念、すなわち自分たちは何か知らない罪を犯した罰として、想像を絶した監禁状態に服させられているのだという観念を、一層はっきりと感じさせたのである」(同、一四五─六頁)とカミュは述べる。架空の説教ではあるが、無神論者カミュのキリスト教に対する繊細な観察眼を感じさせられる。
もっとも、現代のリベラルなクリスチャンは、新型コロナウイルスの感染拡大を天罰などとは考えない。しかし、広く宗教界を見渡せば、この事態を天罰あるいは天意ととらえ、道徳的教訓を引き出そうとする動きは決して少なくはない(日本の状況については、藤山、二〇二〇)。では、一般社会は、かつてあったような因果論から、今や自由になっているのであろうか。
日本では感染者が出るたびに、感染者探しがなされ、また、糾弾する声が絶えない(特に小さな町や村では深刻である)。文部科学省は8月25日、新型コロナウイルス感染症による差別・偏見の防止に向け、児童生徒や学生、学校関係者、保護者や地域住民などに向けたメッセージを発表した(文部科学省、二〇二〇)。こうした注意勧告を文科省が出さなければならない状況は、現代人の精神性が14世紀ペスト蔓延の頃と大きくは変わっていないことを示している。
とはいえ、明らかに変化している部分もある。京都の祇園祭は、例年、10万人を超える見物客が集まる夏の風物詩であるが、今年は山鉾巡行が中止となった。祇園祭は平安時代に疫病が流行したとき、疫病退散を願った御霊会が起源となっている。起源に即して言えば、今年こそ盛大に疫病退散を祈願すべきであったのかもしれないが、「疫病退散を本義とする祭りで、病人を出しては本末転倒だ」というきわめて現実的な理由により中止が決定された。一言で言えば、宗教的な祈願より、密集を避けるべきという科学的知見が優先されたのである。感染症の拡大という状況の中で、宗教や神学は出る幕があるのだろうか。
宗教より科学に信頼を置くのが当然とされる時代の中で、確かに感染症に対する見方は大きく変化した。科学や医学こそが、病の因果を明らかにしてくれるのである。しかし、世の不条理は決してなくなることはなく、科学は(そして宗教も)それに対して明快な回答を持ち合わせてはいない。また、今も変わることなく、自己責任や責任追及の論理から逃れることのできない人間心理を我々は目の当たりにしている。こうした人間の実態を冷静に見据えることは、パンデミック時代における神学的営為の大前提となる。
危機的状況の中では、特に宗教的でない人も、日常の裂け目から非日常を見たり、日常の中で意識しなかったことを改めて認識する。その一つは、我々の日常が管理や制御の行き届いたものであり、また、それゆえに予測可能なものであったということである。制御することもできず、正確な予測も難しいウイルスの感染拡大に、安全と健康を脅かされる中で、我々の「生」が根源的に偶然や不条理にさらされていることを垣間見たのである。
先に挙げたカミュもまた、時代の不条理のただ中にありながら、人間がいかにそれに抵抗し、自由であり得るかを問い続けた。カミュと同時代に生き、同じく抵抗の精神を持った人に、ディートリヒ・ボンヘッファーがいる。無神論者カミュは、不条理からの救済を、決して彼岸や超越的な解決の中に求めなかった。ただの人間として誠実に生きる様々な姿を『ペスト』の中でも描いている。一方で獄中にあったボンヘッファーは「非宗教的キリスト教」という着想を得る中で、「われわれは──「タトエ神ガイナクトモ」──この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そしてまさにこのことを、われわれは神の前で認識する! 神ご自身がわれわれを強いてこの認識に至らせ給う」(ベートゲ、一九八八、四一七頁)と記した。
カミュとボンヘッファーの、おそるべき近さをどのように受けとめたらよいのだろうか。『ペスト』の主人公とも言える無神論者の医師リウーが、見解をまったく異にしながらも、ペスト最前線で共に戦う同労者のパヌルー神父(彼はペストを天罰として語ったが、後に態度を変えていく)の手をとり語りかけた、冗談めいた言葉は興味深い。「神さえも、今ではわれわれを引き離すことはできないんです」(カミュ、一九六九、三二四頁)。医療と宗教という異なる領域のすれ違いと邂逅が、新たな神認識を強いている。
この課題を現代において受けとめようとするなら、科学と宗教のどちらに信憑性があるのかという問いの立て方は間違っていることに気づかされる。いずれの一方も他方の代わりをすることはできない。伝統的な神義論では「(全知全能の)神がいるとすれば」という前提に立って、この世の不条理の形而上学的な説明へと向かう。しかし、カミュとボンヘッファーが垣間見たのは、「タトエ神ガイナクトモ」誠実な行動へと向かわせる実践の地平である。科学では説明できない不条理や限界状況においてのみ宗教を登場させるべきではない。それでは科学的知見を備えた「成人した世界」(ベートゲ、一九八八、三七八頁)において、宗教の出番は極小化していくしかないだろう。
科学も宗教も、単独では、応報的な因果法則に基づいた自己責任論に支配されやすい。その論理が破綻する地平に立つことによって、支配されていることをようやく認識できる。イエスのたとえは、常識的かつ支配的な因果法則を破綻させる力を持っていた。たとえば、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20・1─6)は、我々の日常的な因果を超えた神の愛を示している。このたとえでは、丸一日働いた者が一時間しか働いていない者と同じ賃金しかもらえず、不平不満を言っている。応報的な因果法則に従えば、その異議申し立ては理に適っている。しかし、そうした論理では計ることのできない神の「気前のよさ」、神のラディカルな愛が、このたとえ話のテーマとなっている。言い換えるなら、イエスのたとえは、応報的な因果法則や自己責任論に縛られている人々を解放する力として立ち現れている。この力は、リウー医師とパヌルー神父が手を取り合ったように、医療と宗教という異なる領域を邂逅させ、新たな神認識へと我々を導く駆動力となり得る。そして、その力はこの世の不条理に誠実に対向する中で顕現するという意味で、地に根ざした根本的(ラディカル)な挑戦となっている。
新型コロナウイルスの感染拡大がもたらした社会環境の大きな変化として、人との会食を控えることや、ビジネスや教育の急速なオンライン化をあげることができる。教会では、礼拝のオンライン化が急速に広まり、オンライン聖餐式も行われている。これらは、ウイルス感染拡大防止のための緊急的な措置ではあるが、共同体験としてのオンライン対応は、ポスト・コロナの近未来社会に間違いなく影響を及ぼすだろう。礼拝のオンライン化にとどまらず、こうした社会の変化としっかり切り結ぶことのできる神学的英知が、今、求められていると言える。
各種のミーティングや大学での授業をはじめ、オンラインでのやり取りが急増し、バーチャル空間での滞在時間が長くなる中で、我々の身体は新しいバランス感覚を必要としている。そして、避けがたく拡大するバーチャルな世界を批判的に対象化しつつ、それを包摂することのできる新しい世界観(コスモロジー)が求められている。
そもそも、「バーチャル」という概念は、中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入された。彼は、物はその属性(特徴)を形式的にではなく、バーチャル(潜在的)に含んでいると主張した。つまり、リアルを、潜在能力であるバーチャルの現れと見なすことで、リアルの本質を省察できるようになると考えたのである。現代においてバーチャルは「仮想的」と訳されることが多いが、語源的には「仮想」以上の実体的・能動的なニュアンスを持っている。また、「見える教会」(現実の教会)と「見えない教会」(「キリストの体」としての教会)という区別は、リアルとバーチャルの間で展開されるダイナミズムを前提にしている。聖餐論争においても、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血がどの程度リアルに存在しているかを論じて思索が重ねられていったのである。このように、時代を先取りするような思考過程がキリスト教の中には無数に存在している。コロナによって半ば強制的にもたらされた変化によって、そういった遺産を歴史の夾雑物の間から解放し、新たに活性化することもできる。
また、感染防止の一環として食事作法にも大きな制限が加えられている今日、それを「食」の意義や問題を根本的に問い直す機会とすべきだろう。オンライン聖餐式やオンライン飲み会など、新たな共食の作法が模索されているのは興味深いが、それによって「共食」の伝統や、そこに刻まれた身体経験が完全に代替されるわけではない。オンラインによって代替し得ないものが何なのかを探究するための最適な事例が「食」であると言える。何を食べ、何を食べるべきでないか、誰と食べるのか、といった「共食」の作法は主として宗教によって担われてきた。そして、宗教的・文化的アイデンティティは、食べ物の中に埋め込まれており、また、食べること、あるいは、食べないことを通じて表現されてきたのである。
バーチャル空間で人は飢えや渇きを満たすことはできない。「食」なしに、人間は身体を維持することができない。また、食物の形で低エントロピー(乱雑さの程度が低いもの)の物質を体内に取り込み、高エントロピーの老廃物を排出することによって、身体内のホメオスタシス(恒常性)を維持しているという点では、人間は他の動物(生物)と何ら変わるところはない。分解と合成の流れを維持し、身体的同一性を保つために必要な「食」は、すべて地球環境が生み出したものであり、食の圧倒的多くは「大地」に関係している。
しかし、これらの基本要件を西洋キリスト教は正当に取り扱ってきたわけではではなかった。むしろ、精神の身体に対する優位性を語り、人間の動物に対する優越性を大前提とし、自然の支配者としての人間を当然視してきた。しかし、感染症と人類が今後も戦いつつ、共生を続けていかざるを得ないことを覚悟すれば、人間の身体性や動物性、さらには命や食を生み出す大地への再評価を欠くことはできない。端的に言えば、身体性・動物性・大地性を統合する世界観の再構築が必要なのであり、その基盤として「食」の神学を考えることは、新奇な好奇心の発露ではなく、むしろ、神学そのもののあり方を問い直すことになるだろう。
ただし、食の規範に拘束されない自由を誇ってきたプロテスタントは、その代償として、食に対する繊細な感覚を失ってしまったことを自覚しなければならない。プロテスタントは現状では周回遅れとも言える位置にある。非宗教的であったとしても、「倫理的消費」の理念に基づいて、新たな自己形成をしようとするビーガン(完全菜食主義者)のような人々は、伝統宗教より、はるかに急進的な感覚を有している。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリも、そうした人々の中から生まれてきた。食が気候変動に及ぼす影響が今や明らかにされつつある。食はもはや個人的な行為にとどまらないことを、イエスとの「共食」を信仰の原体験とするキリスト教は、より積極的に受けとめるべきなのである。
コロナの感染拡大がもっとも大きな打撃を与えたものの一つが経済活動であった。物流や人の動きが止められることによって、多くの産業が苦境に立たされた。しかし、経済成長を至上の価値として、立ち止まることを怠惰と見なす資本主義的道徳の中にあって、幼少期から、ひたすら目的に向かって走らされてきた多くの人々が、一時的とはいえ、立ち止まる時間を与えられたことの意義は大きい。
17世紀、イギリスのペストがもたらした大きな副産物として語り継がれているエピソードに、ニュートンの「創造的休暇」がある。ニュートンはペストで休校中の大学を離れ、故郷の田舎に帰ったときに科学史上の重要な着想を得たと言われている(村上、一九八三、一八〇─一頁)。都会とは異なる、ゆったりとした時間の流れの中で創造的な着想を得たというこの物語は、現代において、そのままの形で再現することはできないにしても、コロナ下の我々に示唆するものがある。
日本では、勤勉の美徳が邪魔をするのか、休むことへの罪悪感はなおも根強く存在している。それゆえに、休むことの積極的意義、さらに言えば、その創造的意義を、聖書が示す安息日の視点から力強く提示することは、今後の社会に対し重要な貢献となる(小原、二〇一八、二七一─八〇頁)。幼い頃から、立ち止まり「休む」ということの積極的意味を味わうことなく大人になっていった場合、繰り返す日常を、その外部に立って批判的に見つめる目を養うことは難しい。コロナ下であろうとなかろうと、不自由への忍耐を要求する世界に隷従することなく、複数の世界(たとえば、リアル世界とバーチャル世界)を渡り歩く自由は、充足した安息の内にこそ宿るのである。
ポストコロナの時代を迎えたとしても、次のパンデミックが待ち構えている。グローバルな人口移動・人口集中・人口増加・自然破壊が続く限り、パンデミックが途絶えることはない。その意味で私たちはインター・パンデミック時代を生き続けなければならない。「中間の時間(時代)」をいかに生きるかは、キリスト教神学、とりわけ終末論にとって重要な問いであり続けてきた。終わりはいまだ到来しないが、それを先取りする出来事をイエスの生涯と復活の中に見るとき、私たちは困難の中に希望を見出し、弱いときこそ、強いという逆説的な生へと招かれる。今の時代のパンデミックは、私たちをまだ見ぬ世界へと強制的に投げ出す終末論的契機であるのかもしれない。
カミュ、アルベール『ペスト』(一九六九)『ペスト』(宮崎嶺雄訳)新潮文庫。
小原克博(二〇一八)『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』日本実業出版社。
藤山みどり(二〇二〇)「新型コロナに対して宗教界はどう対処せよと説いたか?」(https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=8111)
ベートゲ、エバハルト編(一九八八)『ボンヘッファー獄中書簡集』(村上伸訳)新教出版社。
村上陽一郎(一九八三)『ペスト大流行──ヨーロッパ中世の崩壊』岩波新書。
文部科学省(二〇二〇)「児童生徒等や学生の皆さんへ」(https://www.mext.go.jp/content/20200825-mxt_kouhou01-000009569_1.pdf)
高度に進化したAIは人間の知能を凌駕し、神の如き存在となるのではないかという危惧は洋の東西にかかわらず存在するが、日本ではAIの推進が「一神教的神話の21世紀バージョン」「人間が神と一体化するという思想」(西垣通『AI原論──神の支配と人間の自由』)といった具合に、一神教的世界観との関係で批判的に論じられることがある。こうした言説をオクシデンタリズム的宗教観として批判するだけでは十分ではない。本稿では、キリスト教における「神の像」(創世記1・26─27)を手がかりに、人間とAIの再帰的関係に光を当て、宗教学的思索のAI研究への貢献可能性を提示する。
「再帰的」の辞書的な意味としては、①自己の行為の結果が自己に戻ってくること。フィードバック。②(数学などで)定義の中に定義されるものが含まれていること(『大辞林』)をあげることができるが、ここでは、②の意味から出発し、「再帰的」を自己への言及として理解する。新しいもの(価値)を表現する際にも、自己にとって既知のものへの言及が必要となる。そして、いったん表現されたものが自己理解に影響を与えるという意味で、①の視点も考慮する。
「神が自分の姿にかたどって人を創造した」ので人間(だけ)に「神の像」が宿っているという考え方は「再帰的」と見なすことが可能である。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』において「人間は自らの姿に似せて神を作った」と語り、神とは人間の自己意識であり、また神学とは人間学だと主張した。キリスト教批判、無神論の出発点に「再帰的」気づきがあったと言える。
また現代においては、(超越的な)宗教経験を脳内現象として考察する傾向が強まっている。これもまた「再帰的」考察と言える。未知のものを語ることと、再帰的作法との間には不可分の関係があり、この点に関して、宗教学は一定の知見を蓄積している。
人間はいつでも理性的・自律的存在であるわけではない(誕生・終末期、各種の身体的・精神的障がい)。その理解のもとでは「神の像」は、人間を他の生物から区別する特権的・存在論的な概念ではなく、むしろ、人間が徹底して非自律的・依存的な存在であることの受容と、特定の人間類型(力を持ち自律した理性的人間)を偏重することの拒否を促していると言える。
「神の像」を手がかりとして、AIと一神教(ただし、イスラームは「神の像」を語らない)の間には、それぞれが再帰的関係を組み込んでいるという共通点を見出すことができる。ただし、一神教においては、人が神以外のものを神と見なすことは偶像崇拝として厳しく禁じられており(再帰的欲望の禁止)、また、聖書における「神の像」は「理性」や「知能」と同一視することはできない。つまり、人間が自らを参照することによって神を語ろうとする再帰的欲望に対して、きわめて強い警戒を向けている。
AI研究の場合はどうであろうか。「知能」を中心とした人間観が形成されることに対し、自覚的であるだろうか。AIの知能を強化すればするほど、それとの比較の中に人間は置かれることになる。理性的・合理的・自律的な人間類型が、人間理解の基準とされるとき、そこから、こぼれ落ちているものが何かを宗教研究は示す必要があるだろう。
AIと一神教は再帰的欲望に絶えずさらされているという点で、共通の土台を持つ。しかし、後者はそのことを自覚的に引き受けてきた伝統を有しており、そこで養われてきた批判的人間理解は、AI研究から派生し、また、そこにフィードバックされる人間観に対し、自己批評を可能とさせる外部的視点を提供することができるのではないだろうか。
神の国(支配)を開示するイエスの食卓(最後の晩餐)、ペトロの食卓をめぐる問題(ガラ2:11-14)や彼の回心(使10:1-48)など、新約聖書における重要部分が「食」にかかわっている。また、大胆な開放性を伴ったイエスの「共食」を伝統的な宗教・政治秩序への挑戦と見なすなら、食の神学的重要性を再認識することは、キリスト教の起源と現代性を鋭利に問う作業となる。本発表では、西洋キリスト教が人間の身体性や動物性、さらには命や食を生み出す大地を過小評価してきた伝統を、食の神学を通じて批判的に考察する。また、イスラームにおけるイフタール(断食後の「共食」)と比較することにより、一神教伝統内における差異を明らかにしつつ、現代の食の問題への応答を試みる。
また、食の神学を考えることは、ポスト・コロナの神学的営為ともなる。大学での授業や会議をはじめ、オンラインでのやり取りが急増し、バーチャル空間での滞在時間が長くなる中で、我々の身体は新しいバランス感覚を必要としている。避けがたく拡大するバーチャルな世界を批判的に対象化しつつ、それを包摂することのできる新しい世界観(コスモロジー)が求められている。感染防止の一環として食事作法にも大きな制限が加えられている今日、共に食することの意義を問い直すこともできるだろう。
序 章 苦しみの消し方──仏教か、キリスト教か、それとも 佐々木閑
第1章 仏教には救済者がいない
信仰者として、学者として/仏教は真理発見の宗教/釈迦の教えは現存しない/縁起は科学的思考となぜ合うか/「出家」こそ仏教/諸行無常と諸法無我/一切皆苦、救済者はどこにもいない/癒しとしての仏教、「こころ教」の誕生/「こころ」は何も指していない/末法思想の本当の意味/エンゲージドブディズムは釈迦の教えからの逸脱?
第2章 宗教は原理主義である
ファンダメンタリズムはアメリカのキリスト教から生まれた/非暴力主義も原理主義/経典至上主義はなぜ間違いか/教団の本来の姿は原理主義/親鸞の「極楽」はどこに?/キリスト教の目指す「神の国」とは
第3章 ネットカルマという無間地獄
永遠に逃れられない苦の世界/「カルマ=業」の厳しさを教えない日本の仏教/恐るべき監視社会の到来/天国に行くか、地獄に行くか/「いいね!」は渇愛の証左/ネットから逃れるためのサンガ/煩悩の箍を外してしまったネット社会/生きる価値はネットの外に自らつくれ!/安息日は週に一度の出家/子どもたちに「出家アプリ」を!/出家的人生とは何か/正しく見るためには、我を殺せ/死と全面的に関わる仏教へ/宗教と宗教をつなぐ教育こそ大事
第4章 聖書の教えに背を向けるキリスト教
進化論と文献学に挟撃されたキリスト教/辺境の宗教としての日本仏教/鈴木大拙と日本的霊性/明治に起こった「仏教vs.キリスト教」/日本仏教、万国宗教会議でキリスト教と出会う/自ら宗教を選ぶということ/人類としての普遍性、他者への眼差し/イエスから遠く離れた「キリスト教階級社会」/国家に閉じ込められる宗教の自由/違う幸せの道を指し示す
第5章 プロテスタンティズムと大乗仏教、二つの道
弱くなる教団、減少するお寺と信者/仏教は日本でだけ大きく変容した/セクハラで訴えられた日本の禅僧/プロテスタントが始めた宗教の「シンプル化」/最新モードを目指した大乗仏教/日本仏教の本質は「ヒンドゥー化」/律を守るアジア、律を持たない日本仏教/キリスト教の倫理観はどこで担保されるか/プロテスタントは自分たちでルールをつくる/「供養」とは何か/日本人はなぜ供養が好きなのか/犬は天国に行けないのか/仏性思想は東アジアの特徴/山川草木、天台本覚思想はなぜ生まれたか
第6章 アジアの中のキリスト教と仏教
キリスト教に圧倒される韓国の仏教/日本の支配への抵抗がキリスト教を広めた/お寺は修行の場から祈願の場所へ/中国の仏教と共産主義の関係/海外に広がる禅の修行スタイル/魂の救済とは――キリスト教の場合/欲求の否定――仏教の場合/親鸞による思想の大転換/浄土信仰は日本的プロテスタント――カール・バルトの慧眼/逃れられる場所としての宗教
終 章 変化する世界の実相を複眼的に見る 小原克博
科学的世界観と宗教的世界観/原理主義をめぐる課題/ネット世界の拡大と宗教/日本のエコシステムの活用/仏教とキリスト教の間から見える未来世界
【書評】
・2020年6月5日『夕刊フジ』
]]>[入試問題(国語)に採用されました]
2020年 慶應義塾大学 環境情報学部、埼玉医科大学、神奈川県立高校 入試、新潟青陵高校 入試、2022年 ノートルダム清心女子大学 人間生活学部 入試、2023年 かえつ有明高等学校
《目次》
●対談
人間が生きる意味/犬に祈りはあるか/仲間を信じて食物を食べるということ/宗教の起源は「共同体のエシックス」/秩序を重んじ、不公平を甘受するニホンザル/「物語」が世界の外に人類を導いた/想像力こそホモ・サピエンスの力/集団に再び帰れるという人間の特性/集団に依存する生存戦略の理由/多産こそ集団形成の原動力/死者はいつか帰ってくる/魂はいつ現れたのか/ジャングルの未知のコミュニケーション/「言葉で空間を再現する」という能力の獲得
宗教は農耕牧畜より以前に生み出された/おばあさんザルの紛争解決/富の収奪、土地の価値が武器を人に向けた/共感能力の暴発と、暴力の頻発/儀式が「仲間」という共感能力を育てる/人口爆発に追い付けない人類の社会性/コミュニケーションの限界は一五〇人/「抵抗勢力」として始まった世界宗教/宗教の強大化が「犠牲」を求める/人類は「未来」をいつから信じ始めたのか
資本主義化したキリスト教/歴史と哲学を重んじるヨーロッパの伝統/キリスト教の暴力性はなぜ生まれたか/価値の一元化とキリスト教の分裂/貨幣が宗教を追い越していった/「ヒューマニズム」の発明/人間中心主義のもとにある「孤立した人間理解」/欲望を放置する利己主義/解体される人間と魂の問題/「ホモ・デウス」、人間から神へのアップグレード/AIは人間を「排除」する/AIが人間を評価する愚
今西錦司と西田幾多郎/人間が「ルール化されたロボット」になる日/身体なきリアリティの幻想/生の身体行動からしか得られないもの/スマホ・ラマダーンで、データから脱出せよ!/なぜ宗教に「断食」があるのか
コミュニティが救う自己不安/新たな社会力を生み出す場として/ジャングルではつねに新しい種が生まれる/「知のジャングル」の未来像
●補論
言葉、人間と動物を分かつもの/集団化するチンパンジー、孤独を好むゴリラ/人間にはなぜ言葉が必要だったか/子供を守るためのコミュニケーション/重さを持たないコミュニケーションの道具/身体を離れてしまった「言葉」/想像の欲求が人間の心を蝕む/超越者、神、神殿の始まり/西田幾多郎の「無の哲学」と生命の本質
霊長類研究と宗教研究/「宗教」の歴史/家族・社会の来歴/人間の言語的特徴と宗教/動物と人間/動物観・自然観の違い/自然と人工物/ロゴスと肉(身体)/食と新たな社会性/不在者の倫理
◎ 佐藤優「「AI 万能神話」に足を掬われない術を「知的異種格闘技戦」から学べ」(『週刊現代』2020年10月9日号「名著、再び」第175回)
◎『朝日新聞』2019年7月6日、朝刊
]]>世俗化と宗教復興、この相反する動きは、実は同時進行していた! 本書は戦後日本の宗教と社会の関係を、このパラドクシカルな動きから理解する。政教分離の建前のもと、国家と宗教はどう関係してきたか、教団はそれにどう適応してきたか。見逃されてきた課題は何なのか。日本社会の転機を根本から問う。
【主要目次】
はじめに(堀江宗正)
序章 戦後七〇年の宗教をめぐる動き――いくつかの転機を経て(堀江宗正)
I 理論編――戦後宗教史を読むための視座
1章 近代の規範性と複合性――「世俗化」概念の再検討と丸山眞男の近代化論(上村岳生)
2章 政権与党と宗教団体――自民党と保守合同運動、公明党と創価学会の関係を通して(伊達聖伸)
3章 戦後宗教史と平和主義の変遷(中野毅)
II 歴史編――国家と宗教の関係性
4章 国家神道復興運動の担い手――日本会議と神道政治連盟(島薗進)
5章 靖国神社についての語り――明治維新百五十年で変わりうるか(小島毅)
6章 忠魂碑の戦後――宗教学者の違憲訴訟への関与から考える(西村明)
III 教団編――諸宗教の内と外
7章 キリスト教と日本社会の間の葛藤と共鳴――宗教的マイノリティが担う平和主義(小原克博)
8章 戦後の仏教をめぐる言説と政治――近代性、ナルシシズム、コミュニケーション(川村覚文)
9章 新興宗教から近代新宗教へ――新宗教イメージ形成の社会的背景と研究視点の変化(井上順孝)
終章 宗教と社会の「戦後」の宿題――やり残してきたこととその未来(黒住真・島薗進・堀江宗正)
年表・宗教と社会の戦後史
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※引用する際には、必ずページ数等を含め、正確に出典を示すようにして下さい。
エネルギー問題は、エネルギー消費のあり方、優先すべきエネルギーの種類などをめぐって、今日、重要な倫理的課題になっている。しかし、その課題に対し、宗教は何か寄与できるのだろうか。取り扱うべき問題は多岐にわたる。しかし、問題の細部に目を奪われるのではなく、それぞれの問題が、どのような人類史的な来歴を持っているのかを解き明かしていくことにより、我々が取り組むべき将来的な課題を俯瞰することができるはずである。科学的な世界観は、現代においては圧倒的な影響力を有している。しかし、その有益性を正しく用いるためには、科学を批判的に対象化する視点が欠かせない。宗教(宗教的世界観)がその一つとなり得るかどうかを本稿では論じてみたい。
まずは、エネルギー問題において問うべき論点がどこにあるのかを「電気学会行動規範」を手がかりとして抽出してみよう。「電気学会倫理綱領」も別に定められているが、「倫理綱領」で示された指針を具体的に展開したものが「行動規範」と考えてよいだろう。「行動規範」は10項からなる比較的長文であるが、その趣旨は前文にまとめられている。倫理的に重要な部分を以下に引用する。
その一方で、急激な人口の増加を背景に、物質的に豊かな社会を追求する人々の願いを重ねあわせ、経済発展を優先した近代文明社会は、大量の資源・エネルギーを消費し、環境への負荷を増大させ続けてきた。エネルギー供給と人・物資の輸送等に関わる技術も、人々に多大な便益をもたらすのと引き換えに、大気汚染など地域的な環境問題から、気候や生態系への影響が懸念される温暖化など地球規模の問題にまで影響を与えている。(中略)このような中で電気学会会員は、電気技術の専門家としての自覚と誇りをもって、主体的に持続可能な社会の構築に向けた取組みを行い、国際的な平和と協調を維持して次世代、未来世代の確固たる生存権を確保することに努力する。
ここでは、現状分析と問題解決の方向性が示されている。すなわち、近代以降、人間は大量の資源とエネルギーを消費し、それが地球規模の環境問題を引き起こしてきたのであり、その問題を解決するためには、次世代・未来世代の生存権を視野に入れた持続可能な社会を目指す必要があることが述べられている。現代社会の利便性と快適さを支える基幹エネルギーは電力であり、電気学会は、現代社会おけるエネルギー問題に向き合う倫理的責任があると言える。自然災害等によって電力供給が停止すれば、都市機能のほとんどが麻痺することを日本は繰り返し経験してきた。こうした電力依存型の社会形成、それに基づく資源・エネルギーの大量生産・消費(廃棄)、さらに、それが未来世代に及ぼす影響を推論し、対策を講じていくことの必要性は、「倫理綱領」や「行動規範」を見る限り、電気学会の中で認識されていると思われるが、問題は、その認識を一般社会にどのように波及させていくかにある。そして、それが本稿で考えたい課題でもある。
大気汚染から地球温暖化に至るまで環境問題のすべては、人間のエネルギー消費と関係している(松木 2006: 58-65)。20世紀になってから人類はそれ以前と比べ桁違いのエネルギーを消費するようになり、その消費活動が地域環境や地球環境に看過できない影響を及ぼすようになった。そこで、このような変化がどのように引き起こされ、どのような影響をもたらしたのかを、日本における電気時代の幕開けとなった近代の事例を次に取り上げ、考えてみたい。
19世紀末は、銅の需要が急増した時代であった。そこには、日露戦争等を通じて兵器製造という軍需の側面もあったが、それに並行して社会の電気化が進行したという事情があった。全国に電力網を張り巡らすために、大量の銅が必要とされたのである。
日本の近代化を支えるために大量の銅の産出を支えた場所の一つが足尾銅山であった。当時、もっとも近代的な採掘機械を導入し、足尾銅山がその需要に応える中で、そこから有毒重金属を含む廃水が流れ、漁業・農業に甚大な被害をもたらした。いち早く、その問題の深刻さに気づいた田中正造は1891年、国会で政府の対応を批判したが、企業も政府も聞く耳を持たなかった。結果的に、1907年、足尾銅山近くにあった谷中村は廃村となった。谷中村は、日本の近代化、「富国強兵」の犠牲になったと言える。
経済発展のために多少の犠牲はやむを得ないという論理は、今も大きく変わることはない。都会の莫大なエネルギー消費を支えるために、地方に原発が作られ、犠牲を強いられるのは、この論理に適っている。そして、経済成長によってこそ人や社会は幸せになれるという「成長神話」は、その経済成長を支える基幹エネルギーとして期待された原子力エネギーに対する「安全神話」を生み出すことにもなった。2011年の東日本大震災は、その「安全神話」を揺るがすことになったが、その後も日本のエネルギー政策は大きく変更されることはなかった。それが将来世代のためになるのかどうか、議論は尽くされていないが、問題の倫理的争点を見出すために、ドイツにおける対応を参照してみたい。
ドイツのアンゲラ・メルケル首相はかつて物理学者であったこともあり、エネルギー効率の高い原子力に信頼を寄せた原発推進派であった。そのメルケルが大きな転換をするきっかけとなったのが、東日本大震災の直後に作られた「エネルギーの安全供給に関する倫理委員会」による報告書であった。この委員会は社会学者、哲学者、宗教家、政治家、科学者ら17名で構成されており、その中には、チェルノブイリ原発事故など、致命的な環境破壊をもたらす社会のメカニズムを分析した『危険社会──新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年、原著1986年)で知られている社会学者のウルリッヒ・ベックもいた。委員会は約2ヶ月の作業の後、5月30日、48ページの報告書「ドイツのエネルギー大転換──未来のための共同事業」(Deutschlands Energiewende: Ein Gemeinschaftwerk für die Zukunft)を提出し、その冒頭で「本倫理委員会は、ここに示したエネルギー大転換への対策によって、10年以内に原子力エネルギーの利用から撤退できると強く確信しています」(安全なエネルギー供給に関する倫理委員会、2013、20)と述べている。この報告書を受けて、メルケルは従来の態度を大きく変え、6月6日には、2022年までの原発の全廃を閣議決定した。
この報告書において「倫理」は、「責任」「持続可能性」「世代間の公平」といった概念と常に結びついているが、報告書の結論に至る倫理的背景を、第4章「倫理的立場」の冒頭で次のようにまとめている。
問われているのは、人間の自然とのつきあい方、すなわち社会と自然の関係に関する問いです。キリスト教の伝統とヨーロッパ文化からは、自然に対するひとつの特別な、人間の義務が導き出されます。自然に対する人間のエコロジカルな責任は、環境を保存・保護し、自分たちの目的のために環境を破壊することなく、有用性を高め、未来においても生活条件の保障を維持できるようにめざすことにあります。したがって、後の世代に対する責任は、とくにエネルギー供給や、長期的あるいは半永久的なリスクと負担の公平な分配、これらと結びついたわれわれの行動の諸結果にまで、及ぶものです。(安全なエネルギー供給に関する倫理委員会、2013、40-41)
ここでは、自然環境を将来世代のために保護しなければならない倫理的根拠として、「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」という二つの思想的潮流が挙げられている。それらについて明示的な説明が与えられているわけではないが、次のように理解することができるだろう。西洋のキリスト教には、人間が自らのために自然を利用(搾取)することは神から与えられた権利と考える人間中心主義的自然観がかつては強かったが、近年は、人間にはむしろ自然環境(被造世界)を保護する責務が神により与えられているという考え方が広く共有されてきており、それをここでは「キリスト教の伝統」と呼んでいる。「ヨーロッパ文化」は端的に言えば、啓蒙主義以降の、宗教の違いや有無を超えた普遍的な人権や尊厳を重視する、世俗的でリベラルな価値観や文化を表している。つまり、宗教的な伝統と世俗的な伝統のいずれの視点からも、将来世代のために自然環境を保護することは現代世代の責任であることが結論づけられているのである。
ドイツと日本の電力供給システム(隣国関係を含む)はかなり異なるので、両者を安易に比較できないにしても、東日本大震災に対する対応の違いは何に起因するのだろうか。日本では、原発の是非はもっぱら技術的に安全かどうか、経済効率がよいかどうかを中心に論じられ、結果的に、既得権益を握る経済界・電力業界の意向が重視される。それに対し、ドイツでは、技術的・経済的視点だけではなく、将来世代への責任や、リスクと負担の公平な分配を含む倫理的視点を議論の中心に据えている(環境問題に関しては、「緑の党」などを中心にした長年の議論と運動の蓄積がある)。
ドイツには原発問題に限らず、国が設置する倫理委員会の長い歴史があり、そこではES細胞研究、臓器移植、終末期医療など、生命科学に関係する問題も多く扱われてきた。その議論では科学に対する批判的な態度が常に伴っており、先端的な科学研究を単に正当化するためのアリバイ的な議論ではない。このような議論の背景には、戦前のドイツ、特にナチス時代において、当時の最先端科学の一つと見なされていた優生学に基づいて、精神障害者等の安楽死やユダヤ人虐殺を含む人種優性政策が実施されたことへの反省がある。そして、その反省が、安易な科学至上主義に対する批判的姿勢を育むことになったのである。
日本の場合、こうした姿勢が十分に育つことなく、科学や技術は経済発展に不可欠の道具として称揚されてきた。それゆえ、「科学信仰」とも呼べる現況を、批判的に対象化する視点は決して十分ではない。それゆえ、そのような視点こそが、今、求められていると言えるだろう。また、ドイツにおける「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」とは異なる、日本の宗教的伝統と文化の中で、未来世代への責任はどのように根拠づけることができるだろうか。日本に限らず多くの先進資本主義国家では、科学技術の進展によって現代世代による資源とエネルギー消費が肥大化し、将来世代の資源やエネルギーを先食いしているかのような状況にある。こうした問題を考え、現代世代中心主義を抑制するためには、より広い歴史感覚に支えられたコミュニティ意識(世代間コミュニティ)が必要となる。それを踏まえた後に、日本の文化的文脈で問題を考える一助として「不在者の倫理」を提起したい。
膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに「記憶喪失」に陥りやすい現代社会において、世代を超えて、場合によっては何世紀にもわたって、出来事や記憶を継承する宗教的作法・儀礼は、潜在的に重要な価値を有している。これは宗教固有の力であり、どの宗教もそれぞれの「記憶の倫理」を持っている。過去の出来事、過去の不在者(死者)を記憶し、同時にそれらを現在化する作法を通じてこそ、未来社会への想像力と未来の不在者(将来世代)への責任意識を喚起することができるだろう。しかし同時に、我々のコミュニティ意識はきわめて限定的なもの、自己中心的なものであり、未来世代をそこに含み入れることの困難さも認識しておく必要がある。
そもそも、倫理的な課題を考える上で、もっとも困難な問いの一つは、コミュニティの境界線をどのように引くかである。言い換えれば、等しい尊厳を持った「仲間」としての共同体の範囲の問題である。倫理学では、共同体の構成員や非構成員の「道徳的地位」(モラル・ステータス)をめぐる問いとして議論されてきた。そして、道徳的地位を持つ人々の共同体は「道徳的共同体」(モラル・コミュニティ)と呼ばれる(共同体が道徳的に正しいかどうかは関係ない)。たとえば、生命倫理学では、胎児や脳死患者の位置づけをめぐって、それぞれに道徳的地位を与えることの適否やその境界領域(時期)が問われてきた。ちなみに古代ギリシアにおいて、十全な市民的権利を有していた男性自由人から見れば、女性も奴隷も、ましてや動物は同じ「道徳的共同体」に属する存在ではなく、それぞれ境界線の外側で序列化されていた。
社会階層、人種、性別、宗教の違いなどがコミュニティの内と外を分ける境界線として用いられ、異なるコミュニティ同士が敵対的な関係に置かれてきた。しかし、そうした差別を越えて、普遍的な人権や尊厳が20世紀になって模索されてきた。かつて、動物に尊厳を与えるなど、特定の宗教思想を除けば、問題にすらならなかったが、今日、動物に対する科学的な観察に基づいて動物福祉に関心が向けられるようになった。動物もまた「道徳的共同体」に入れられるべきではないかという議論が真剣になされているのである。
そもそも、人間に限らず、生物は単独で生存することはできない。どの生命体も群れや共同体の中で自己保存していくが、共同体の大きさや働きは生命種によって大きく異なる。人間の場合、他の霊長類と比して大きく異なる特徴の一つとして、脳に占める新皮質の割合が高く、脳容量が大きいという点がある。また、新皮質の割合が、群れの大きさと正の相関関係を持つことが知られている。たとえば、チンパンジーの場合、群れのサイズは50頭が上限であり、新皮質の割合から人類の集団サイズを割り出すと150人となる(山極、2012、277)。人間が互いに仲間として認知できる生物学的な規模は、150人程度だということだ。ただし、即座に深い感情のやり取りができる「共鳴集団」の規模はもっと小さく、せいぜい10〜15人である。
ところが、現代人は、100万人を越える都市で生活し、数え切れないほどの人とコミュニケーションする力を得ている。しかも、それはIT技術によって最近ようやく可能になった力ではない。すでに太古より、人間は言語の力により、150人をはるかに超える共同体を構成し、数千人規模の共同体ですら統率する力を持っていたのである。その際、宗教が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。宗教は「過去の不在者」(死者)との向き合い方から、生者の今の生き方を照らし出し、「未来の不在者」(未来世代)への責任意識を喚起する可能性を有している。それが決して宗教的世界観に自閉するものではなく、科学的世界観とも接続可能であることを「不在者の倫理」として次に提起したい。
科学技術によってもたらされる短期的なコストベネフィットの誘惑に現代世代は引き込まれやすい。近代社会は現代世代の人間の利益を最大化することを当然としてきたので、過去に対しても、未来に対しても倫理的な射程はきわめて限られている。科学技術に対する有効な批判とは、遠回りに見えたとしても、こうした倫理的閉塞に対する挑戦でなければならないだろう。
急速に失われつつあるとはいえ、伝統宗教の多くは「過去の不在者」との対話の作法を有している。ローカルな場においてだけでなく、地球規模の持続可能性を考えるためには、まだ生まれていない「未来の不在者」に対する倫理的責任を欠くことはできない。これら過去と未来に向けられた別々の倫理的ベクトルを統合し、相補的に強化する視点として「不在者の倫理」(Ethics of the Absent)を考えたい。それは「過去の不在者」と「未来の不在者」を統合的に見、その中間存在としての「現在の存在者」(我々)を倫理的に止揚する倫理である(小原、2016、3-17)。
過去の不在者と未来の不在者は対称的な関係にはない。過去の不在者から我々は様々な影響を受けるが、通常、我々の行為が過去の不在者に影響を及ぼすことはない(もちろん、影響を及ぼすという宗教的理解もある)。他方、我々の行為は未来の不在者の利害に直接的に関与する。現代世代が選択したエネルギー政策や消費行動は、未来世代の住環境や経済活動のあり方に大きな影響を及ぼす。
「現在の存在者」の利益を最大化するために用いられる科学技術を、ただ現代世代の利害関係、現代世代の公共性・公益性の内部において批判するだけでは十分ではない。宗教がなし得る固有の働きは、「過去の不在者」にかかわる豊穣なリソースを活用し、同時に「未来の不在者」に対する想像力を活性化することを通じて、過去と未来に対する倫理的射程を拡大し、それによって現代世代に課せられた責任を喚起することであろう。
不在者の倫理は、宗教的世界観(コスモロジー)のみに立脚しているわけではない。それは、この世界における存在は不在のものによって成り立っているという端的な事実を前提にしている。いくつか例をあげてみよう。
宇宙の誕生・形成プロセスについては、今も宇宙物理学がしのぎを削って研究しているが、宇宙はおよそ138億年前にビッグバンによって始まったことが、もっとも有力な仮説となっている。ビッグバンの直後、物質と反物質が対生成し、そのほとんどは対消滅を起こし、エネルギーに転換された。しかし、最初期の混沌の中で繰り返された対生成と対消滅の中で、反物質だけが消滅するケースがあり、現在の宇宙を構成する物質が残った(「CP対称性の破れ」として研究されてきた)。哲学的な表現を用いれば、宇宙の存在は「不在のもの」を介して形成されている。
38億年前、地球上で最初の生命が誕生し、より原初的な段階から多様で複雑な生命体を地球環境は生み出してきた。マクロな視点で生命現象を見れば、食物連鎖に代表されるように「食べる」「食べられる」という連鎖の中で生命は自己保存と繁殖をなしている。生きているものは、無数の「不在のもの」の上に成り立っている。またミクロな視点で見ても同様のことが言える。細胞レベルでの死のメカニズムは、一般的な死・ネクローシス(細胞の壊死necrosis)と区別され、アポトーシス(細胞の自死apoptosis)と呼ばれている。特定の細胞が遺伝子によってプログラムされた死を経ることにより、細胞の集合体がより複雑な組織・器官へと分化していくのである。細胞レベルの生命現象もまた「不在のもの」の上に成り立っている。
今存在しているものが、かつて存在し、今や不在となったものによって生成されているという端的な事実は、あまりにも当たり前すぎて、我々の日常の中で意識されることはない。しかし、そうした事実に、伝承や非日常的な世界観を媒介として、光を当てるのが宗教の役割の一つであり、また、そうした事実に分析的・実証的な世界観から光を当てるのが科学の働きである。その意味で、不在者の倫理は、宗教的コスモロジーと科学的コスモロジーを架橋し、両者の相互補完・相互批判的な関係を構築することを目的としている。
「現在の存在者」の利益を最大化するように構築された現代の社会システムを相対化することは容易ではない。我々はその一部に組み込まれているからである。しかし、科学的知見や宗教的な知見を手がかりとして、今ある存在が「不在のもの」によって構成されていることを認識し、「過去の不在者」との相互関係を「未来の不在者」への責任へと転換することは可能である。死者とのコミュニケーション作法は、どの文化・宗教にも存在するが、日本の場合にも、地域や時代によって異なる多様な作法が存在していた。自然や動物との関係も、大陸とは異なるユニークな側面を見出すことができる。日本には、動物と人間の関係を語る昔話が多数存在するが、動物が人間と会話を交わしたり、時には化かしたり、また結婚したりする昔話は日常の一部となっていた。人間が動物を犠牲にしなければ生きていないことに対する痛みと感謝をおぼえる回路を、昔の人は持っていた。そして同時に、農耕文化に生きる人々は、世代を超えて維持・保存していかなければならない資源や環境があることを熟知していた。社会の産業化の中で、こうした伝統の多くが失われたとはいえ、先述のドイツにおける「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」とは異なる何かをあらためて対象化し、再解釈することによって、それを日本の宗教的・文化的伝統に根ざした価値判断、エネルギー政策の指針に結びつけることは可能であるし、そのような道を模索しなければ、「地に足の付いた」合意形成をなしていくことは難しいだろう。
最後に、これまで論じてきたことは、技術倫理にも応用可能であるという一例を示したい。
コミュニティの境界線の一つに動物と人間の違いがあったが、その境界線も現代ではかなり相対化されていることを先に述べた。それと並行する議論が、人間と人工物の間の境界線として存在していた。人間が作り出したものが、人間と同じコミュニティ(道徳的共同体)に属するのかどうか、という議論は長い歴史を有している。作り出したものに感情移入し、モノ以上の存在感を感じてしまうのも人間に普遍的な特性である。
ギリシア神話には、キプロス島の王ピグマリオンが理想の女性(ガラテア)の像を刻み、その彫像に対する愛情が高まる中で衰弱していき、その姿を見かねたアフロディーテが像に命を与え、ガラテアがピグマリオンの妻となったという物語がある。ピグマリオンほどではないにせよ、人工物を擬人化し、気遣いをする心性は、けなげに働く掃除ロボットに感情移入する現代人にまで引き継がれている。
また、ユダヤ神秘主義の重要文献『セーフェル・イェツィーラー(創造の書)』の読解を確認するために、土から人造人間(ゴーレム)が造られたという説話が、中世ヨーロッパで広まった。ゴーレムは人間と呼ぶに値するのか、また、ユダヤ共同体に入れるべきなのかが議論された。ゴーレムは、ユダヤ共同体を越えて、人造人間の文化的アイコンとして拡散していったが(金森、2010)、そのことは人造人間への関心や恐怖がいかに強いかを物語っている。
かつては、石や土から疑似人間的な人工物が作り出されたが、現代ではそれは電気仕掛けのロボットやAIが同等の役割を果たそうとしている。電気的なものが人間的な知能やインターフェースを具現化しつつある最先端の姿がAIだと言えるだろう。自由意志を持った汎用型AIが誕生するのかどうかという議論もそこには関係している。特定の目的のために設計された他律システムとしての特化型AI(現在のAI)と異なり、自律システムとしての汎用型AIは、「不在者」の世界から「存在者」の世界へと越境してくる可能性を持つ。しかし、「不在者」の「存在者」の世界への越境行為は決して新しいことではなく、むしろ、両者のコミュニケーション作法に関して、我々は膨大な蓄積を有していることを思い起こすべきだろう。
歴史的にコミュニティの境界線が可変的であり、越境可能であることを考慮すれば、人間と人工知能を自律システムか他律システムかで区分し、人工知能の道徳性(尊厳)を排除することに安住すべきではないだろう。むしろ、人間と人工物(技術)の根源的な相互浸透性を視野に入れることのできる価値規範こそが求められるのである(フェルベーク、2015)。
今後、AIはエネルギー消費の最適化にも深く関係してくることが予想される。人工物も視野に入れた「地に足の付いた」技術倫理を構築していくためには、我々の足元にある宗教・文化的伝統への関心を喚起し、同時に、科学的世界観から人間存在を俯瞰することのできる新しい統合的な知恵が必要なのではなかろうか。本稿では、その手がかりとして「不在者の倫理」を提起したのである。
安全なエネルギー供給に関する倫理委員会『ドイツ脱原発倫理委員会報告書──社会共同によるエネルギーシフトの道筋』(吉田文和、ミランダ・シュラーズ編訳)大月書店、2013年。
金森修『ゴーレムの生命論』平凡社、2010年。
小原克博「不在者の倫理──科学技術に対する宗教倫理的批判のために」、『宗教と倫理』第16号、2016年、3-17頁。
フェルベーク、ピーター=ポール『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』(鈴木俊洋訳)法政大学出版局、2015年。
松木純也『基礎からの技術者倫理──わざを生かす眼と心』電気学会、2006年。
山極寿一『家族進化論』東京大学出版会、2012年。
]]> 環境問題と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。信仰を心の問題と考えれば、環境問題は信仰とは無関係の事柄であり、仮に関心を向けたところで、個人の力の及ばない、その意味でやはり関係のない問題となるだろう。実際、教派を問わず、教会の中で環境問題がどれほど積極的に語られてきただろうか。プロテスタント教会では、差別や戦争などの社会問題に対しては議論の蓄積があるが、自然への関心は「自然神学」的逸脱として否定的に見られることが多く、環境問題に対し積極的な応答がなされてきたとは言い難い。カトリック教会では、どうだろうか。回勅『ラウダート・シ』が発表されて以降、一般信徒の間で問題に対する関心は高まってきただろうか。
いずれにせよ、環境問題に向き合うことは、すぐれて信仰の内実を問う作業であることを本稿では明らかにしたい。信仰は単に個人の内面的事柄にとどまらない。広く世界とのつながりの中に信仰を位置づけることによって、現代において我々が向き合わなければならない課題が明確になると同時に、「神のいつくしみ」の大きさにあらためて驚かされることになるだろう。その大きさを知る一端として、本稿ではキリスト教以外の宗教伝統にも目を向け、環境問題をめぐる課題が、宗教の違いを超えた「共通善」の追求と密接に結びついていることを共に考えていきたい。
二〇一五年六月に教皇フランシスコが発表した『ラウダート・シ』は、気候変動、水問題、生物多様性など、多岐にわたる課題を扱っているが、同時に環境危機の最初の犠牲者となる「社会的弱者」に寄り添おうとする教皇の姿勢が反映されたものとなっている。これまでキリスト教の保守派の中には地球温暖化を積極的に否定する動きも見られ、環境問題と信仰をどのように結びつけるかについては、否定派から無関心層まで様々であったが、この回勅は広くキリスト教界に環境問題を考えるきっかけを与えることになった。
もちろん、それ以前、キリスト教が環境問題に背を向けていたわけではない。環境問題をめぐる神学的な議論は、問題が顕著になってきた一九六〇年代に始まっている。その議論のきっかけの一つとなったのが、科学史家リン・ホワイト・ジュニアによる論文「今日の生態学的危機の歴史的源泉」(『サイエンス』誌、一九六七年)である。ホワイトは、キリスト教が持つ人間と自然の二元論を批判し、それが環境破壊の一因になったと批判した。しかし、キリスト教にも、環境破壊的なものとは違う伝統があるとして聖フランシスコの名前をあげ、「わたくしはフランチェスコを生態学者の聖者におしたい」という文章で締めくくっている(『機械と神──生態学的危機の歴史的源泉』みすず書房、一九七二年、九五頁)。ホワイトが示そうとした希望的なオルタナティブ(新たな選択肢)が『ラウダート・シ』において一つの形を与えられたと見るのは、あながち間違いではないだろう。
また、『ラウダート・シ』に先立ち、レオナルド・ボフによって『エコロジーと解放──新しいパラダイム』(原著一九九三年、英訳一九九五年、邦訳なし)が記されていたことも思い起こされる。解放の神学が「社会的弱者」を重要な神学的課題として取り上げたことは言うまでもないが、それを一九九〇年代初頭にエコロジーとの関係でテーマ化していたことは慧眼であると同時に、当時のラテンアメリカの現実を照らし出していて興味深い。
このように『ラウダート・シ』をその前史との関係において見ると、それが担っている特別な歴史的使命をいっそう強く感じさせられる。『ラウダート・シ』については本誌においても、すでに扱われてきているので、ここではそれを論じることはせず、むしろ、以下の諸テーマをつなぎとめる「横糸」として適宜言及することにしたい。
環境問題に対する過去半世紀に及ぶキリスト教の取り組みがあるにもかかわらず、日本社会ではそのような事情はほとんど理解されておらず、むしろ、環境に対して敵対的な姿勢を持つ宗教として、キリスト教をはじめとする一神教が理解されてきた。「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです」(梅原猛『森の思想が人類を救う』小学館、一九九五年、一五八頁)といった言葉に代表されるように、一神教と多神教とを対比させ、後者を称揚するスタイルは、いわゆる「日本人論」の定番となってきた。端的に言えば、先のホワイトの主張と同様に、自然破壊の元凶を西洋の自然支配やキリスト教の人間中心的自然観に見ている(詳細については拙著『宗教のポリティクス』[晃洋書房、二〇一〇年]第四章参照)。日本において環境問題を論じる際には、このような言説を踏まえることが必要となる。
確かに、アニミズムや多神教的伝統とは異なり、一神教は自然の中に神的実在を認めない。それは『ラウダート・シ』においても「ユダヤ・キリスト教の考えは、自然を非神格化します。その雄大さと広大さに感嘆しつつも、自然を神聖なものとは見ません」(LS78)と記されている通りである。さらに付け加えれば、まったく同じ伝統をユダヤ・キリスト教だけでなくイスラームにも見出すことができる。では、イスラームにおける環境意識はどのようになっているだろうか。
中東イスラーム圏の多くは産油国であり、現時点ではエネルギー消費に対して抑制的な政策や、積極的な環境保護政策をとっているようには見えない。しかし、イスラームは東南アジアを中心に非中東圏にも広がっており、現地の自然観の影響を受けながら、中東とは異なる自然観や環境意識を形成している。たとえば、インドネシアのジャワ島バロンとジェパラにおける反原発運動では、二〇〇七年、ジェパラにおいてイスラームのウラマー(イスラームの学者・宗教指導者たち)が宗教者会議を開催し、原発建設を禁止するファトワ(宗教判断)を発表した(加藤久典「対峙するグローバル文明とローカル文明──ジャワにおける反原発運動の示唆するもの」、比較文明学会・関西支部編『地球時代の文明学2』京都通信社、二〇一一年、一五九─一八一頁)。運動の背景には「自然との調和」を重視しようとするジャワの文化の影響を見ることができる。このようなイスラームの多様性を視野に入れれば、イスラームを環境問題に対し消極的と簡単に言うことはできない(一神教の創造論の比較については拙著『一神教とは何か──キリスト教、イスラーム、ユダヤ教を知るために』[平凡社新書、二〇一八年]第三章参照)。
神道や仏教に代表される日本宗教でも「自然との調和」が伝統的に重視されてきたと言える。ただし、「近代は、行き過ぎた人間中心主義によって特徴づけられてきましたが」(LS105)と評される「近代」以降、そうした日本の自然観が環境保全に役立ったとは到底言えない。富国強兵というスローガンのもと、自然環境から徹底して資源とエネルギーを収奪することが正当化されてきた。こうした傾向は、戦後の経済成長至上主義の時代風潮の中でも大きく変わることはなかった。もちろん、そこで人間中心主義が問題にされることはなかった。
しかし、二〇一一年の東日本大震災が未曾有の被害をもたらす中、いち早く仏教界から出された声明は、環境問題・エネルギー問題に対する新たな意思表示として注目された。全日本仏教会の宣言文「原子力発電によらない生き方を求めて」(二〇一一年一二月、https://www.jbf.ne.jp/news/newsrelease/2395/170.html)は、要約すれば、次のような仏教に特徴的な視点が含まれており、結論として、原発に対する批判の表明となっている。①原発は人間だけではなく様々な「いのち」を脅かす。②原発は負の遺産を未来に残す。③誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願わない。④個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ぶ。⑤足ることを知り、自然の前で謙虚である生活を実現する。
また、原発への直接的な批判の他に、日本の宗教界では、これまで十分な関心が注がれてこなかったエネルギー問題、とりわけ自然エネルギーへの取り組みが、三・一一以降の新たな課題をとして現れてきた。「生長の家」によるメガソーラー施設の建設(二〇一五年)のような大規模なものはまだ多くはないが、宗教施設などに積極的に太陽光パネルを設置する動きは広がりつつある。
原発事故により、広範囲に及ぶ土地が放射能に汚染され、人間にとどまらない様々な「いのち」、さらには未来世代の「いのち」をも脅かす危機的状況に対し、どのように向き合うべきかが、三・一一以降、模索されてきたと言えるだろう。『ラウダート・シ』の「(創世記の中の創造記事は[著者注])密接に絡み合う根本的な三つのかかわり、すなわち、神とのかかわり、隣人とのかかわり、大地とのかかわりによって、人間の生が成り立っていることを示唆しています。・・・・・・この断絶が罪です」(LS66)というメッセージが、ここにおいて共鳴している。『ラウダート・シ』では「霊性」という言葉が一七回ほど出てくるが、大地との関係で思い起こされるのは、鈴木大拙『日本的霊性』(初版一九四四年)である。
「霊性はどこでもいつでも大地を離れることを嫌う。霊性は最も具体的なることを貴ぶ。何が具体かというと・・・・・・山を山と見、水を水と見るのが、具体的な見方なのである。・・・・・・有が無で、無が有であるとか、心がどうの、意がどうの、識がどうのと云うのは、抽象的である」(『鈴木大拙全集』第八巻「日本的霊性」七二頁)。
現在、少なくとも一般社会においては「霊性」という言葉はきわめて多義的に使われるが、宗教伝統におけるその普遍的な意義を、日本の文脈で語るためには、「日本的霊性」に見られる、大地に根ざした具体的な霊性のイメージから学ぶことができるだろう。それは、「身体や物質や世事を蔑視する哲学から、イエスは遠くかけ離れておられました」(LS98)という言葉とも符合するに違いない。また、身体を酷使し「過労死」を生み続ける日本の劣悪な労働環境、それを正当化する経済成長至上主義のただ中で、「キリスト教の霊性は休息と祝祭の価値を総合します」(LS237)という言葉の普遍的な意義を、どう受肉させるかは喫緊の課題であろう。
多様な宗教伝統は我々に多くのヒントを与えてくれる。しかし、環境問題のような地球規模の大問題の前では個人の力はあまりに非力である。国際機関や各国政府の取り組みが求められるのは言うまでもないが、信仰者ができる固有の貢献はどこにあるのだろうか。その手がかりとして、「大きな物語」(共通善の語り)の必要性について最後に論じたい。
人間と自然そして技術の関係は人類史と同じ長さを有しているが、その関係が大きく変わってきたのは近代以降である。しかし、近代(モダン)の理想を支えた、理性や科学技術による進歩といった「大きな物語」は、二度の世界大戦の災禍を経て信用を失い、我々は今やポストモダンの時代にいると言われることもある。宗教の世界に目を向けても、中世カトリックのような巨大な統治システム、言い換えれば、「大きな物語」の単一の担い手は、この世界に存在しない。伝統宗教が持っていた求心力は、ほとんどの国において低下しており、多くの人々は、伝統宗教に帰属することなく、自分自身に合った宗教性やスピリチュアリティ(霊性)を求める。すなわち、今日の宗教性は、個人別にカスタマイズされた「小さな物語」の集合体であると言える。
しかし、そうした個人単位でセグメント化(細分化)された「小さな物語」では、個人の精神世界を満足させることができたとしても、地球環境問題のような課題には対応できない。なぜならば、環境問題やエネルギー問題は、人間一人ひとりが何を信じているか、信じていないかにかかわらず、強制的にすべての人間を巻き込むことになる「大きな物語」だからである。つまり、「小さな物語」による充足に慣れきった社会の中で、いかにして「大きな物語」としての環境問題を語ることができるのか、そして、その際の宗教や信仰の固有の役割とは何なのかが、ここで問われているのである。
その意味では、こうした課題に向き合うことは、近代以降、精神的なもの、個人的なものに矮小化されてきた信仰のあり方を、あらためて問い直す機会にもなる。『ラウダート・シ』の「総合的なエコロジー」において記されている「それゆえ、知識の断片化や情報の細分化は、現実に対するより広範な展望へと統合されないのなら、実際には一種の無知となりうるのです」(LS138)というメッセージは、こうしたポストモダンの困難を正確にとらえている。『ラウダート・シ』が持つ、多様な価値観や伝統をつなぎとめる包括的なプラットフォームとしての可能性を実践的に展開していくことが求められる。
環境問題のような巨大な課題の前では、小さな実践の積み上げもさることながら、長期的に人々の生活意識や世界観に倫理的な影響を与えていくことの意義は決して小さいものではない。「物語る」ことによって、近代の枠組みの中で、我々が何を見失ってきたのかに気づきを与え、別の可能性へと目を開くことができれば、それが社会の意識を基底から刺激することになる。幸い、物語の素材は聖書の中にふんだんに隠されている。「わたしの父は農夫である」(ヨハネ一五・一)と語るイエスは、数々のたとえの中で、自然の細部にまで働く神の創造の力(神のいつくしみ)を明らかにする。イエスのたとえを生きること、聖書の物語を生きること、それが私たちが語るべき「大きな物語」への一歩となる。
「食べる」ことの神学的意義、将来世代の倫理的重要性(「共通善の概念は、将来世代をも広く視野に収めるものです」[LS159])については紙幅の制限により、触れることができなかったが、関心のある方は拙論「不在者の倫理──科学技術に対する宗教倫理的批判のために」(『宗教と倫理』第一六号、二〇一六年、三─一七頁。オンラインでアクセス可)を参照していただきたい。
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第1章 今こそ必要とされる「宗教」の知識──グローバル時代を生き抜くために
第2章 現代の宗教地図──今、世界で何が起こっているのか
第3章 一神教を理解する──グローバル・アクターとしての宗教とビジネス
第4章 日本宗教のユニークさ──宝は足元にある!?
第5章 ビジネスの課題と宗教の役割──これからの時代をどう生きるか
はじめに
『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』というタイトルを見て、何を想像したでしょうか。
そもそも、この世の実際的なこと、特に利益を上げることを目的とするビジネスと、一見、浮世離れした「宗教」と、どのような関係があるのかと、いぶかしく思われた方もおられるに違いありません。しかし、反対方向を向いているかのように見える二つのもの、ビジネスと宗教は、かなり、おもしろい組み合わせだということを、本書では述べていくつもりです。
この世には無数のビジネス書が出回っています。それらの多くは、いかに仕事を効率的にこなしていくか、あるいは、成功するビジネスの秘訣は何かを語っています。似たようなものをたくさん読む中で、考えさせられ、身につくことも、きっとあるに違いありません。しかし、本書は、むしろ、ビジネスという営みそのものを外部の視点から対象化し、そこに異質なものの見方を持ち込むことを目指しています。
毎日のように繰り返している「日常」に百パーセント満足している人には、本書は不要かもしれません。しかし、「日常」のしんどさに向き合い、あるいは、慣れきった「日常」を再活性化したいと願っている人には、「非日常」の視点が時として役立ちます。本書は、宗教という素材を駆使して、その視点を提供したいと考えています。
もちろん、「ビジネス教養として知っておきたい」というタイトルを掲げている以上、「ビジネスの役に立つ知識」も十分に意識しています。第一章から、早速、なぜビジネスパーソンにとって、宗教の知識が必要なのかを語っていきますが、実は、本書は現役のビジネスパーソンのためだけの本ではありません。
本書が想定する第一の読者は確かにビジネスパーソンですが、将来のビジネスパーソンである学生にも、ぜひ読んで欲しいと願っています。また、職業の種類・有無にかかわらず、人生を新しい角度から見直してみたいという人にも、本書は考えるヒントを多数提供できるはずです。
近年、多くの企業が研修の一環としてリベラルアーツ型の学びを取り入れるようになってきました。リベラルアーツの重要性については第三章で述べますが、一般に「教養教育」と訳されることの多いリベラルアーツは、その訳語に到底収まりきらない歴史的なダイナミズムを持っています。それぞれの企業が、自分たちの専門領域を極めるだけでなく、持続可能な成長のために、より広い知識と「気づき」を求めようとしていることは、時代の要請に適っています。本書が、そうした新しい取り組みの一助としても用いられることを願っています。
■『世界を読み解く「宗教」入門』に関するインタビュー記事
ブックバン(前編)
https://www.bookbang.jp/review/article/560288
ブックバン(後編)
https://www.bookbang.jp/review/article/560293
Yahoo! ニュース(前編)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181106-00560288-bookbang-soci
Yahoo! ニュース(後編)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181106-00560293-bookbang-soci
【書評】
◎『週刊ダイヤモンド』2018年11月17日号
◎『京都新聞』2018年11月18日、朝刊
◎『中外日報』2018年11月23日
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Ⅰ 思想・信条における良心
第1章 キリスト教と良心 中村信博
第2章 イスラームと良心 内藤正典
第3章 哲学と良心 ライナ・シュルツァ
第4章 法と良心 深谷 格
第5章 新島襄と良心 伊藤彌彦
Ⅱ 社会生活における良心
第6章 社会福祉と良心 木原活信
第7章 経済学と良心 八木 匡
第8章 環境問題と良心 和田喜彦
第9章 ビジネスと良心 北 寿郎
第10章 スポーツと良心 下楠昌哉
Ⅲ 科学の時代における良心
第11章 科学技術と良心 林田 明
第12章 医療と良心 櫻井芳雄
第13章 脳科学と良心 貫名信行
第14章 心理学と良心 武藤 崇
第15章 人工知能と良心 廣安知之
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※引用する際には、必ずページ数等を含め、正確に出典を示すようにして下さい。
「犠牲」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。テロの犠牲、戦争の犠牲、貧困の犠牲、犯罪の犠牲、いじめによる犠牲、過労死による犠牲等々、犠牲に関わる出来事は枚挙にいとまがない。ニュース・メディアはセンセーショナルな犠牲の出来事を追うという特性を持っているため、我々は結果的に犠牲に関する膨大な情報を日々得ているが、個別の出来事の背景にある、それを引き起こしている構造的な問題にまで思索をめぐらすことは容易ではない。
そこで本稿では、犠牲の歴史的な役割や意義そして問題性をキリスト教の文脈において考察し、現代において我々が考えるべき構造的な課題を明らかにしていきたい。ただし、犠牲をめぐる課題を、キリスト教の内部的な課題として矮小化してしまわないように、本稿では犠牲を人類史的な文脈でとらえると共に、これまでキリスト教における犠牲を批判的に論じてきた哲学者・高橋哲哉の議論を取り上げる。彼はキリスト教に関係する数々の事例を取り上げながらも、それを広く他の事例との比較において対象化し、キリスト教の犠牲理解が抱える危うさを外部的な視点から(ほぼ)的確に描写している。
本稿のタイトルにも含まれ、また、高橋がその著作の多くで用いている「犠牲の論理」あるいは「犠牲のシステム」という言葉の意味を最初に確認しておこう。広く宗教と暴力や犠牲との関係は、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』(一九七二年)以降、人類学や宗教学においても重要なテーマとされてきた。そうした研究において主題化されてきたのが「犠牲のシステム(メカニズム)」である。ここでは、犠牲を必要とし、犠牲を正当化する論理を「犠牲の論理」と呼んでおきたい。そして、犠牲の論理と意味的にはかなり重なるが、それを制度的に持続させる安定した仕組みを「犠牲のシステム」と呼ぶことができる。
人類史的に見れば、動物供犠を中心とする儀礼こそが宗教そのものであった。洋の東西を問わず、人間は何らかの媒介なしに直接的に超越者や超越的な世界にアクセスすることはできなかった。農耕社会では雨が降るか降らないかは死活問題であるから、雨乞いの儀礼は重要な役割を果たしたが、その際には様々な動物が犠牲として捧げられた。また、犠牲は動物にとどまらず、世界の各地に人身御供や人柱の習慣が存在していた。人類は進歩とともに、こうした残酷性を克服してきたと考えられがちであるが、それが形を変えて現代にまで引き継がれていることが本稿の示したいポイントの一つである。
キリスト教はその最初期から犠牲を捧げない宗教、すなわち、非供犠的な宗教として出発したが、それはその当時においては異例なことであった。ローマ帝国において、犠牲を捧げる儀礼こそが宗教であったので、初期キリスト教は「宗教」(religio)ではなく「迷信」(superstitio)と見なされた(皇帝崇拝の拒否も、そのように見なされた一因である)。
聖書に記されているイスラエルの民は、バビロン捕囚(前六世紀)以前には神殿を中心とした動物供犠を行っていたが、捕囚以降は動物供犠と律法遵守が信仰の中心になっていった。そして、第二神殿の崩壊(七〇年)以降、動物供犠を行う神殿を失い、律法を中心とする宗教共同体として再出発することになる。ユダヤ教から分派したキリスト教が、非供犠的な特性を強めたユダヤ教を強く意識したことは想像に難くない(拙著『一神教とは何か──キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』[平凡社新書、二〇一八年]参照。本稿も一部引用している)。
キリスト教が犠牲を捧げない宗教として始まったのは、ユダヤ教との関係の他、キリスト教自体における神学的な理由がある。それは、イエスの十字架を人類の罪をあがなうための犠牲と考えた贖罪的解釈である。これはイエスが人類のための犠牲となったのだから、我々はもはや別の犠牲を捧げる必要はないということだ。こうした考え方は後に神学的に展開されていくが、その土台を与えているのは「ヘブライ人への手紙」(特に一〇・一〇─一四)である。「ヘブライ人への手紙」では、繰り返され続けてきた犠牲の祭儀の完成としてイエスの十字架が位置づけられ、またそれゆえに従来の犠牲の祭儀は無効化されている。しかし、イエスの十字架が、歴史的に継承されてきた犠牲のリアリズムの中に位置づけられている点は見逃すことはできない。
同じことは、最後の晩餐に関しても言える。最後の晩餐は、イエスの「体」と「血」が分け与えられる場となっており(第一コリント一一・二三─二六)、伝統的な犠牲の祭儀を強く想起させる。犠牲を通じて共同体の連帯が再確認されるという点では、伝統的な犠牲の祭儀との連続性の中にある。ただし、最後の晩餐は、イエスが自ら積極的に「体」と「血」を分け与えようとする給仕の場となっている点で、他の犠牲的神話・伝承とは異なる特徴を有している。
さらにイエスの犠牲の特徴をつかむためには、最後の晩餐がイエスの食卓との連続性において理解される必要がある。イエスの食卓は、異邦人、サマリア人、徴税人、「罪人」と見なされた人々を招き入れた、当時の清浄規定という境界線を越境する行為であった。つまり、清浄規定のゆえに犠牲、スケープゴートとされてきた人々の「犠牲を終わらせる」という意味がそこにはあった。
このように、「ヘブライ人への手紙」による十字架解釈、最後の晩餐、イエスの食卓はいずれも「犠牲の終わり」を告げるものとして理解することができる。しかし、後に展開されていく十字架理解の一部には、イエスの十字架を自己犠牲の模範として、信仰者にも同様の犠牲を求めるものが出てくる。特にその理解の一部がクリスチャンの殉教にも影響を及ぼした点に注意を払う必要があるだろう。
パウロを通じて「十字架につけられたままのキリスト」に着目する青野太潮が『パウロ──十字架の使徒』(岩波新書、二〇一六年)においてジラールの次の言葉を引用し、伝統的な贖罪論や犠牲理解の危うさに注意を促していることは興味深い(一八一─六頁)。「そのような供犠を求める神は事実「死んでしまうことが必要」である。ただし、その神は福音書のイエスが告知した神ではない。彼の十字架上の死も、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死である。それを解明し、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めたのは、パウロ一人だった。こうして、イエスとパウロにおいては、〈神の暴力〉、すなわち供犠の要求が終結している」(『世の初めから隠されていること』法政大学出版局、二〇一五年)。「尊い犠牲」を捧げ続けなければ神をなだめることができなかった供犠および犠牲の歴史の終わりを、パウロはイエスの十字架において見たということである。
しかし、後の時代には「尊い犠牲」を鼓舞するような考え方が、教会や国家によって広く利用されてきた。殉教や殉国はその帰結でもある。実際、近代国家は伝統的な「犠牲」の観念を迷信や野蛮として破棄したのではなく、むしろ「犠牲のシステム」としてアップグレードした。その時代、多くのクリスチャンにとって、国のために戦って死ぬことと信仰とは矛盾しなかった。なぜなら、そこでは尊い目的のために命を差し出すことが模範的な自己犠牲として称賛され、殉国と殉教はほぼ同義とされたからである。
キリスト教にとっての問題点をより明確にするために、ここから高橋の議論に言及していきたい。高橋はキリスト教の贖罪信仰を彼の語る「犠牲の論理」と同型のものと見ており、その一例として内村鑑三が非戦主義者こそ積極的に戦地に赴くべきだと主張した事例(「非戦主義者の戦死」、一九〇四年)を取り上げている(『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書、二〇一二年、一三〇─一三二頁)。クリスチャン、とりわけ非戦主義者の死によってこそ、これまで戦争を繰り返してきた人類の罪悪があがなわれるという内村の論理は、結果的にキリスト教の贖罪信仰に基づいて「尊い犠牲」を正当化していると高橋は批判する。
別の事例として、高橋は戦時下のプロテスタント教会の状況を描写するものとして「靖国の英霊」(『日本基督教新報』一九四四年四月一一日)を引用している。そこでは「血の尊さ」「血の意義」が強調され、それをもっとも深く理解した宗教としてキリスト教があげられている(『靖国問題』ちくま新書、二〇〇五年、一三五─九頁)。「犠牲」の論理を介して、高橋はキリスト教と靖国の間に同型性を見ている。
戦後の事例として高橋が取り上げるのはカトリックの医師・永井隆によるベストセラー小説『長崎の鐘』(一九四九年)である。この作品の中で、長崎、より具体的には浦上地区に投下された原爆の犠牲者となった多くのカトリック信者が「貴い犠牲」、神に捧げられた「燔祭」と呼ばれ、この出来事が「神の恵み」と見なされている。当時、浦上地区への原爆投下が「天罰」と呼ばれたこと、その背景には、浦上地区に隠れキリシタンの集落や被差別部落があったことなどを踏まえ、永井による逆説的な発想が、生き残った者に慰めを与えた点を評価しつつも、永井の言説には、アメリカおよび日本による戦争責任を封殺する「尊い犠牲」の論理があることを高橋は批判する(『国家と犠牲』NHKブックス、二〇〇五年、五七─七六頁)。
高橋は多くの著作の中で、キリスト教の事例を取りあげ、そこに「犠牲」の論理があることを指摘してきた。それらは丁寧な資料分析に裏打ちされており、説得力がある。ここでは紙面の都合上、ごく一部の事例を紹介するにとどめたが、高橋のキリスト教に対する問いかけをまとめれば次のようになるだろう。すなわち、伝統的な贖罪論や十字架理解には、イエスの「尊い犠牲」を模範として自己犠牲を促すような「犠牲のシステム」が、ナショナリズムを含む、他の歴史的事例と同様、組み込まれているのではないか。さらに端的に言えば、伝統的な贖罪論・十字架理解こそが、「尊い犠牲」を正当化してきた問題の根源ではないか、ということになるだろう。
しかし、この問いの立て方は神学的には必ずしも正確ではない。むしろ問うべきは、どのような贖罪論において死の美化(殉教の美化を含む)が生じるのか、であろう。イエスの生涯や十字架において再認識すべきは犠牲の再生産ではなく、それを終わらせることである。その文脈を無視し、犠牲(自己犠牲)を正当化する贖罪論は批判されてしかるべきであろう。贖罪論が、イエスの食卓・最後の晩餐を含む、その生涯から切り離され、十字架のみに収斂される自己完結したシステムとして了解されるとき(「イエスは罪のあがないのため、十字架にかかって死ぬために生まれてきた」がその代表)、高橋が指摘するように、自己犠牲的な死を美化・栄光化する論理として機能するおそれがある。罪が精神化され、犠牲が元来持っていた「体」と「血」という身体性が失われていくとき、イエスの生涯と十字架が「犠牲の終わり」を指し示していたことが忘れられ、犠牲の再生産が始まるのである。
確かに、犠牲という概念はキリスト教にとって重要である。しかし、殉国も殉教も、命を差し出すことが、模範的な自己犠牲として称賛(顕彰)される。それを交換の論理として高橋は批判する。交換の論理を支える犠牲の観念は、イエスの教えに合致するのだろうか。そもそも、イエスは、教会や国家によって鼓舞されて起こる「尊い死」を望むのだろうか。こうした問いに答え、高橋からの問題提起に応答するため、次にイエスの倫理の特徴を見ることにする。
イエスの語りの多くは、たとえ話によってなされており、そこから体系的な倫理を導き出すことはできない。しかし、イエスのたとえには、既存の社会秩序を転倒させるような力があり、それを広い意味でイエスの倫理と呼ぶことができるだろう。犠牲との関係で、ここではイエスの倫理の特徴として次の三点を挙げたい。
(1)交換の論理の否定
イエスは単純な善悪二元論や勧善懲悪を否定し、むしろ、それを超える倫理的地平を指し示した。勧善懲悪は言うまでもなく、交換の論理に基づいている。正しい者が報われ、悪い者は懲らしめを受けるべきだと考えるからである。しかし、敵を愛することを命じ、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ五・四三─四五)と語るイエスの言葉は、交換の論理を明確に否定している。また、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ二〇・一─六)も、我々の日常的な交換の論理を超えた神の愛を示している。このたとえでは、丸一日働いた者が一時間しか働いていない者と同じ賃金しかもらえず、不平不満を言っている。交換の論理に従えば、その異議申し立ては理に適っている。しかし、交換の論理では計ることのできない神の「気前のよさ」、神のラディカルな愛が、このたとえ話のテーマとなっている。言い換えるなら、イエスの倫理は、交換の論理に縛られる人々を解放する力として立ち現れている。
(2)徹底した個の倫理
犠牲の論理は、しばしば、より大きな全体のため個人が犠牲となるべきことを促す。国家のために個人が命を捧げることは尊い死とされ、それが戦争を動かす原動力になってきた。イエスは集団のために個が犠牲になることを拒否し、徹底して個の存在に我々の注意を促す。「見失った羊のたとえ」(ルカ一五・一─七)はその一例である。我々の日常の論理は、通常功利主義的な考えに基づいているので、一匹の羊よりも九九匹の羊を保護することを優先する。イエスの倫理は「見失った一匹」に注意を促すという点で、徹底した個の倫理であり、集団のために個の犠牲を正当化する集団倫理とはまったく異なっている。
(3)犠牲の内面化
イエスの教えは、律法の形式的な側面を、より内面化しようとする特徴を有しているが、犠牲に関しては次の言葉がその特徴を表している。「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ一二・七)。問題が起こったとき、人はいけにえやスケープゴートを求める。しかし、イエスの倫理は犠牲ではなく「憐れみ」へと我々の心を向けさせる。
以上、犠牲との関係でイエスの倫理を素描した。ここからわかるのは、集団や国家のために個人がその命を犠牲にすることを、イエスの倫理が正当化することはない、ということである。イエスの生涯が「犠牲を終わらせる」という側面を持ち、イエスの十字架の死を「最後の犠牲」として受けとめるならば、人を死に追いやる犠牲を繰り返すことは正当化されない、という帰結を聖書から導き出すことができる。そう理解することによって、徹底した非暴力、平和主義は、イエスの言葉に表れているだけでなく、暴力の極みとしての十字架において、逆説的にも頂点に達しているという洞察を得ることができるのである。
高橋が示す多くの事例から知ることができるように、どのような宗教や国家も、あるいはそれ以外の組織(日本では企業を考えるとよいかもしれない)も「犠牲のシステム」となり得る。太古の昔から受け継がれ、現代において廃棄されるどころか、さらに精緻化された「犠牲のシステム」にどのように対抗できるのだろうか。ここではキリスト教における課題を考えてみたい。
巧妙なシステムに対抗するために、巧妙なシステムを整備する(たとえば、狭義の精緻化・体系化)というのも一案かもしれない。ここでは、その方向ではなく、新約聖書学者ジョン・ドミニク・クロッサンを手がかりに、「たとえ」の特性に再度目を向けたい。クロッサンは、神話とイエスのたとえを区別しなければならないと語る(The Dark Interval: Towards a Theology of Story, Polebridge Press, 1988)。神話の中では、悪人は受けるべき罰を受け、善人は報われる。また、この世にある表面上の不条理に対する説明がなされ、そこから模範や規範が作り出される。クロッサンによれば、この神話の対極にあるのが、イエスのたとえである。イエスのたとえは安定を与える説明ではなく、「地上に火を投ずる」(ルカ一二・四九)もの、「剣をもたらす」(マタイ一〇・三四)ものだからである。
神話や科学、そして政治システムはこの世界を説明し、安定させる役割を果たし、他方、イエスのたとえは世界を不安定にする。これまでの議論を踏まえれば、神話に対応するのが「犠牲のシステム」であることは明らかであろう。たとえは日常的なものの見方を転倒させ、安定した日常の中に裂け目を作り出す。イエスのたとえは、誰もがわかる日常的な素材を用いながら、日常をひっくり返し、その奥にある何かに気づかせようとする力であると言える。
イエスがその生涯を通じて、また「たとえ」による語りによって伝えようとしたものの中に、巧緻な「犠牲のシステム」の虚を暴き、そのシステムが前提とする秩序を転倒させる力があることを、我々は見出さなければならない。システムに対抗するのに必要なのはシステムではなく、イエスのたとえ、イエスの倫理を生きることではなかろうか。
小原克博(同志社大学 神学部 教授)
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