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「平和主義は生き延びることができるのか――グローバル・テロリズム時代の戦争論」、『まなぶ』(労働大学出版センター)第610号(2008年8月号)

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●戦争の記憶
 直接の戦争体験を持たない私が、戦争を意識し始めたのはいつの頃だったろうか。祖父の戦争体験を聞く機会のあった私が、その話を比較的まともに理解できるようになったのは、おそらく中学生になってからであろうと思う。広島で被爆した祖父は、原爆の「語り部」として晩年を過ごした。
 戦時中、祖父は衛生隊の病院船に乗って南太平洋各地を航海した後、広島湾に浮かぶ似島(にのしま)の陸軍似島検疫所附属病院に勤務していた。そこで8月6日の原爆投下を目の当たりにすることになる。そのときの祖父の記憶と体験を、私は後に祖父の手記を通じて詳しく知ることになった(竹内良男編『凍りついた夏の記憶』 雲母書房)。本土の病院は壊滅し、大量の被爆者が似島に運ばれるが、医薬品はすぐに底をつき、麻酔なしの切断手術まで行われたという。
 数千人もの被爆者の死を見届けながら終戦を迎えた祖父は、他の原爆体験者同様、戦後しばらくはその経験を口にすることはなかった。他人に簡単に話すことができないという心の痛みと、多くの人を助けることができなかったという後ろめたさが、そこにはあったという。ようやく1970年代になってから、祖父は似島で慰霊碑建立・遺骨発掘を進めるかたわら、そこでの体験をはじめて人前で話し始めることになる。以降、亡くなる直前まで「語り部」としての役割を自らに課してきた。毎年8月になると広島で「語り部」をしていた祖父は、夏前、最後の病床にあっても「広島に行かにゃ」と声を絞り出していた。

戦争と向き合う
 断片的とはいえ、祖父の経験を聞いてきた私が、その意味を自分の課題として受けとめるようになるには、ずいぶん時間がかかったと思う。祖父に限らず、直接の戦争体験者が世を去っていく中で、残された者は、どのようにしてその経験や教訓を継承していくことができるのだろうか。この素朴な問いが、私が戦争や平和の問題と向き合う際の原点にある。それゆえ、自分の立場として非戦・平和主義を表明するとき、私にとってそれは思索の結果というより、祖父から託されたある種の運命であると思っている。しかし、それを自覚的に受けとめていくためには、現代における平和主義の意義をきびしく問うていかなければならない。そしてそのことは、戦後、平和主義をかかげてきた日本社会にとっても同様であると思う。
 そこで以下においては、現代における戦争のあり方をたどりながら、9・11以降、テロに対する戦いが喧伝される時代の中で、我々が押さえなければならない勘所がどこにあるのかを示唆したい。たしかに、戦争は個人の力をはるかに超える次元を有している。しかし、自分の課題として取り結ぶ接点がないわけではない。それどころか、なんらかの接点をそれぞれが見いだしていくことは、戦争体験者がますます少なくなっている現在においては焦燥の課題とすら言える。そうした課題を模索するためにも、あえて私自身の経験も交え、問題を論じていきたい。

●冷戦の崩壊
 日本が経験した最後の戦争を間接的にしか知り得ない私が、自分の身に降りかかるかもしれない戦争を多少なりとも感じたのが米ソの冷戦であった。「核の冬」のリアリティや世界最終戦争というイメージは、当時、さまざまな風説とともに、小中学生の日常会話にまで及んでいた。冷戦の時代は大国と大国の利害のぶつかりあい、国家群と国家群のイデオロギーの違いが、両陣営間の緊張の源となっていた。そして冷戦終結は、大規模戦争の恐怖から解放された安堵感を世界に与えることになった。
 冷戦構造の崩壊を予兆した出来事として、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁の崩壊(89年)があるが、当時、ドイツに留学していた私は、幸いにもその場に立ち会うことができた。ハンマーで叩くと、簡単に砕け散る粗悪品とも言えるような壁が何人もの命を奪ってきたのかと思うと、壁をたたき壊す歓喜のただ中にあっても、こみ上げる悲しさを押さえることができなかった。しかし、この経験は「歴史は変わるのだ」という希望を私に刻み込み、この出来事からソ連崩壊に至る時代の転換期には、人類が戦争根絶という理想に大きく近づいたかのような感慨すら抱いた。
 ところが、じっさいにはその後、冷戦に変わる別種の紛争・戦争が立て続けに起こる。冷戦終結後、たしかに国家と国家が正面からぶつかり合う戦争は少なくなった。しかし、それに代わって、民族、宗教の違いが関与して起こるような地域紛争が頻発するようになる。どのような紛争にも複雑な原因があるので、じっさいにはケース・バイ・ケースで検証する必要のあることは言うまでもないが、冷戦以降の紛争・戦争の特徴を説明する試みがさまざまになされてきた。その中でも、もっともよく知られた説明概念の一つが「文明の衝突」である。

●文明の衝突と宗教戦争
 米・ハーバード大学の政治学者サミュエル・ハンチントンが、冷戦後の戦争は異なった文明同士の衝突を特徴とすること、その中でも西洋文明とイスラーム文明が衝突する可能性の高いことを示唆した。彼にとっては、湾岸戦争(91年)は冷戦後最初の西洋対イスラームの文明間戦争であった。ハンチントンの文明の衝突論をめぐって、賛否両論、多様な議論が交わされているさなか、01年9月11日、同時多発テロ事件が起こった。結果的に、彼の推論の正しさを裏付ける出来事として、この惨事が解釈されることになり、ハンチントンの理解を離れて、「文明の衝突」論が一人歩きするほどになった。ブッシュ大統領によって世界中に呼びかけられた「テロに対する戦い」やイラク戦争、ヨーロッパで頻発したテロ事件なども、しばしば文明の衝突という文脈で理解され、とりわけイスラーム過激勢力との戦いが21世紀初頭の紛争・戦争を特徴付けることになった。
 ところで、文明の衝突や宗教紛争を、グローバル・テロリズムに代表される現代の紛争の原因として見ることは、どの程度妥当なのだろうか。冷戦終了後、各地の紛争や戦争の質が変わってきたことへの認識を促す点で、たしかに、この見方は一定の有用性を持っている。しかし同時に、通俗化した「文明の衝突」論に重要な問題点があることを、ここでは一つ指摘しておきたい。当たり前のことではあるが、イスラーム文明にしても西洋文明にしても、じっさいには決して一枚岩ではない。文明や宗教という大きな枠組みで、事柄をわかりやすく理解しようとすると、この当たり前の事実を見過ごしかねないのである。
 アメリカとヨーロッパの価値観や宗教理解の間には、一口に西洋文明としてまとめることがためらわれるほどに大きな違いがある。同様に、イスラーム文明と一口に言っても、シーア派とスンナ派といった宗派間の違いだけでなく、近代化や政教分離の理解の仕方、イスラーム法の適用方法なども、地域や国によって、まさに千差万別である。つまり、文明論的な対立軸だけを強調してしまうと、ほんらい見なければならないイスラーム内部の多様な力学関係に目が届かなくなり、結果的に、イスラームに対する固定的なイメージを再生産してしまうことになる。日本の場合、さまざまな情報や文化に、否応なくアメリカ的な価値のバイアスがかかっていることに無自覚になりがちなので、そのことにより我々にとってなにが見えにくくなっているのか、という点を意識しておくことは特に重要だろう。

●「イスラーム原理主義」の本拠地を訪ねて
 今年3月、イランを訪ね、宗教指導者や研究者に会う機会を得た。シーア派の様子やイランの宗教政策の一端に触れることができたのも収穫であったが、イランの人々の生活ぶりを見ることができたのはなにより貴重な経験となった。
イランはアメリカから「テロ支援国家」として批判され、また、ブッシュ大統領から「悪の枢軸」と名指しされた国である。両国は、79年、世界を震撼させたアメリカ大使館人質事件以来の因縁の関係とも言えるが、その時代からアメリカのマスコミを中心にして「イスラーム原理主義」という言葉が頻繁に用いられるようになる。過剰なまでの宗教的情熱により暴力すら辞さない連中、といった侮蔑的な意味合いが、その言葉には初めからすり込まれていた。9・11以降、イスラームに対する、こうしたイメージがいっそう強められてきたことは言うまでもない。それだけに、現実を単純化し歪曲するこの種の概念には注意が必要である(詳細は、小原ほか『原理主義から世界の動きが見える』PHP新書、参照)。
 イランという国家は、大統領を筆頭に強烈なアメリカ批判を繰り返してきた。しかし、現実には若い人々を中心に、多くのイラン人がアメリカにあこがれ、衛星テレビなどを通じてアメリカ的な文化の影響を受けている。私の友人であるイラン人の大学教授は、学生に対し、どこに留学してもよいと言えば、おそらく9割以上の学生がアメリカを選ぶだろうと語ってくれた。このように、外部世界に強い関心を示しながら、同時に自分たちの固有の立脚点を確認する作業は今後も続くだろう。変化の兆しは存在しており、偏見や誤解によって、それを見逃すべきではないだろう。

●ゲーム世代の戦争論
 世界の情勢もさることながら、私が日常的に心配していることが一つある。小学生にはじまり、多くの若者が「モンスターハンター」など戦闘型のゲームに熱中している。近くに敵(モンスター)の脅威を感じたとき、より強い武装によって自らを守ろうとすることは、ゲーム的にはまったく正しい判断である。また、相手に決定的なダメージを与える強力な武器を手にしたいという欲求を持つことも、ゲームの世界ではごく当たり前ことである。このような現代のゲーム愛好者たちは、日本の平和主義への理解や共感を持ち得ないのではないか、と心配になることがある。
 善し悪しはともかくとして、小中学生の頃から、子どもたちの多くは、このような現実を過ごしていることを見据え、新世代の平和教育をしていくことが必要ではなかろうか。そうでなければ、今の小中学生が大人になったとき、やはりゲーム的な感覚で反射的に、現実の軍事的な脅威に対応するのではないかと思う。つまり、軍事的な脅威を与える国に対しては、十分かつ強力な武装によって対抗すべきと考えてもおかしくはない。武装によってこそ平和が守られるという立場に立てば、平和主義や憲法9条は、非現実的で弱腰の理想論にしか見えないだろう。
 このような時代の変化に応じて、大人は子どもたちに対し、多様なモンスターに立ち向かう方法を語る準備ができているだろうか。「モンスター・ペアレント」が横行する時代、これはなかなかの難問だと思う。

●平和主義の未来
 これまで述べてきた広島、ドイツ、イラン、そしてゲームにまつわるエピソードは、私の中では、戦争や平和を考える一続きの経験であった。それらを通じて、私が言いたかったことを老婆心ながら最後にまとめておきたい。それは、日本が平和主義を今後どのように考えていくにしても、自国史の文脈で自己完結的な結論を目指すのではなく、移りゆく世界情勢・社会情勢を踏まえながら、国際社会に通用する、あるいは国際社会から信頼される平和の「語り部」になっていかなければならないということである。今なお勢力均衡政策(武力による平和実現)が国際社会の主流であり続ける中で、これは文明史的に見ても、きわめてチャレンジングな課題である。そして、平和主義の命運は、この課題への対応如何にかかっている。