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「安息日──自由の起源」(「現代のことば」)、『京都新聞』2009年8月10日、夕刊

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 あなたは休日を心待ちにしているだろうか。あるいは、平日であろうが休日であろうが、区別なく忙しい日々を送っているだろうか。そもそも、「休む」とは私たちにとって、どのような意味を持っているのか。
 多くの人にとって日曜日は休みである。それに加えて、土曜日や国民の休日が休みとなる場合もあるが、少し考えてみれば、このような習慣が日本古来のものでないことは明らかであろう。少なくとも江戸時代まで、一般庶民が休むことができたのは盆と正月くらいであった。それは、休むことを知らない社会、あるいは、休むことを許されない社会であったと言うこともできる。
 開国以降、日本は近代国家としての体裁を整えることに邁進する。その時代、近代国家とは何かということを示唆してくれる人々の中に、在留の外国人がいた。宣教師フルベッキはその一人であった。来日当初、彼は英語教師として働きながら人脈を広げ、後に明治政府の顧問のような役割を果たしていくことになるが、彼が日曜日を休日とすることを提案したようである。
 フルベッキは、西洋キリスト教社会で一般化していた休日としての日曜日の導入が、日本の近代化にとっても重要であると考えたのだろう。いずれにせよ、日本人にとって新奇なこの休日は、近代化政策の一環として、市町村役場や学校などから徐々に普及していった。
 多くのヨーロッパ諸国では平均4週間の長期休暇が保証されている。また、ドイツやオーストリアでは閉店法によって、土曜日と日曜日の商売は原則的に制限・禁止されている。休むことへの並々ならぬこだわりが伝統として息づいているのだ。
 この伝統の起源となったのは、聖書に記されている「安息日」である。神が命じたのだから、休まなければならない、という理屈は実にわかりやすい。日常の雑事からの解放としての安息日は、人の尊厳を支える根源的な自由を考えさせる機会ともなった。もちろん、こうした宗教的な理由だけでなく、今日の西洋社会における休日が、労働者の保護という側面を有していることは言うまでもない。
 わが国でも休日が導入されて久しいが、勤勉の美徳が邪魔をするのか、休むことへの罪悪感は根強く存在している。たとえば、中高校生の部活動への献身ぶりを見るとき、そのことを感じさせられることがある。平日は言うに及ばず、ほぼ毎週末のように学校が生徒を拘束する様子は、休日意識の高い西洋社会から見れば、地獄絵図のように映るかもしれない。日本では、地獄の苦しみを越えてこそ達成することのできる何かがあると考えるわけであるから、もちろん、どちらがよい悪いとは一概には言えないだろう。
 ただ私が危惧するのは、若い頃から「休む」ということの積極的意味を味わうことなく大人になっていった場合、繰り返す日常を批判的に見つめる目を養うことがどのように可能となるのか、という点にある。不自由への忍耐を要求する世界に隷従することなく、複数の世界を渡り歩く自由は、充足した安息の内に宿るように思うからである。
(同志社大学・キリスト教思想)