メディア・報道

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「気候と人」(「現代のことば」)、『京都新聞』2009年10月7日、夕刊

 8月から米国カリフォルニア州に滞在している。こちらに来て最初に気づく、日本との違いは、真夏日の快適さである。確かに、日中の日差しは厳しいが、湿度が高くないため、汗をかくことがない。また夏期にはほとんど雨が降らず、連日、晴天である。その反面、乾燥した状況が山火事を起こしやすいという慢性的な問題があり、最近も、ロサンゼルス近郊で大規模な山火事が起こったことは日本でも報道されていた通りである。

 からっとした晴天続きの気候のせいかどうかは知らないが、カリフォルニアの人々は陽気だと言われる。人の気質は実に様々であるから、簡単な一般化はできないが、開放的でリベラルな土地柄であることは折に触れて感じることができる。

 京都にはたくさんの留学生が来ているが、彼ら・彼女らと交わす最初の会話の中で、しばしば、故郷の気候と京都の気候の違いが話題になる。興味深いのは、極寒の国から来ている人が京都の底冷えは耐え難いと言い、砂漠気候の国の出身者が京都の夏の厳しさに、くたびれ果てていることである。

 数々の気候談義を経て、多くの留学生たちと共有できる一つの命題らしきものを得ることができた。京都に住むことができれば(留学生たちはしばしば「生き延びる」ことができればと言う)、世界中、どこにでも住むことができる、ということである。これは皮肉にも聞こえるが、よく言えば、京都に住むことは、気候に対する幅広い忍耐力を身につけることができるということになるだろう。

 カリフォルニアとは対照的な湿っぽく厳しい気候は、じめじめした難しい人間関係を形成するのだろうか。それとも、日頃の忍耐に基づいた幅広い寛容を育むのだろうか。もちろん、後者のような効果があれば、すばらしいことであるが、実際には、気候が人を自動的に良きもの・悪しきものに変えることはないと考えた方がよいだろう。

 しかし日本では、気候・風土と人間の気質を関係づける風土論が、比較的よく受け入れられてきた。たとえば、湿潤な農耕地域では多神教的な文化が形成され、他方、自然環境の厳しい砂漠地帯ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような一神教が誕生してきたといった説明の仕方がある。しかし、この風土論が、自らの多神教文化を寛大さと自然愛の基盤として讃える一方で、一神教を排他的で自然破壊的なものとして侮蔑する、ある種の自国文化優越主義のために利用される場合には注意が必要である。

 気候が人を都合よく変えてくれるのではない。むしろ現代において考えなければならないのは、人が気候を変えてきたこと、すなわち、気候変動(地球温暖化)の事実ではないか。自然と人間に寛容であるはずの日本は、気候変動を筆頭とする環境問題に対し、残念ながら十分な貢献を果たしてきたとは言えない。古典的な風土論が思いもよらなかった人為的な気候変動の時代に生きている我々は、育まれてきた忍耐力や寛容を、自画自賛の言葉とするのではなく、国際社会にも理解可能な、よき美徳や共通善として示し、実行すべきなのだ。