メディア・報道

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「宗教大国アメリカの現在」(「現代のことば」)、『京都新聞』2010年8月20日、夕刊

 アメリカでの一年間の滞在(在外研究)を終えて帰国した。住んでいた場所が、カリフォルニア州の中でも特に気候に恵まれた場所であったため、猛暑の日本に降り立ったときには、急速に汗ばむ現実に引き戻され、一年の生活がまるで夢でも見ていたかのように思えた。
 気候に限らず、アメリカと日本との間には様々な違いがある。アメリカは世界総人口の4パーセントを占めるに過ぎないが、世界の総エネルギーの40パーセントを消費している。どん欲なほどの消費を支える高い生産性と創造性の源泉は、アメリカ社会の多様性にあると、しばしば指摘されてきた。様々な背景や価値観を持つ人々がアメリカにやって来ることにより、高いレベルの競争力と創造性が維持されているというのだ。
 しかし、異なる価値観は競争的エネルギーにもなるが、時に、それは大きな葛藤と対決を生み出す。アメリカの場合、価値観の源泉の一つに宗教的伝統がある。アメリカの中で、日本からもっとも見えにくい一面は、その宗教的側面だろう。先進資本主義国家の中で、アメリカは異常なほど宗教性が高い。具体的に言うと、世俗化が進んでいるヨーロッパ諸国では、教会の礼拝出席率が平均すると5パーセント程度なのに対し、アメリカでは4割近くを長年維持してきている。
 また、今日のアメリカの宗教性を理解する上で欠かせないのが、その多様性である。アメリカは建国以来、プロテスタントの国としての自己理解を持ってきた。それゆえ、カトリックやユダヤ教を背景とする移民が増加していく中で、当初、それらの人々をプロテスタントでないために二級市民扱いしていたが、20世紀になってからは、徐々にカトリックやユダヤ教も「アメリカの宗教」として受け入れていった。戦後は、仏教をはじめとするアジアの宗教もアメリカ社会に根付いていった。葛藤をはらみながらも、宗教的寛容を社会の基本原理に据えようとしてきた歴史が、そこにはある。
 しかし、9・11同時多発テロ事件は、アメリカの寛容度を一気に引き下げることになった。イスラームに対する警戒心や誤解は、かつてなかったほどに高まったと言えるだろう。目下、9・11テロの現場、かつて世界貿易センターが存在していたグラウンド・ゼロと呼ばれる場所のすぐ近くにモスク建設が予定されている。この計画をめぐって、大物政治家を巻き込んだ大きな論争が起こり、今もそれは続いている。モスク建設をめぐって、アメリカの寛容を示すことこそがテロリストに対する抗議になり得るという容認派と、イスラームへの反感を隠さない反対派がぶつかり合っている。
 宗教は確かに一筋縄にはいかない。しかし、それをできる限り客観的に見ることができれば、人間心理の不思議な深層を垣間見られるだけでなく、この世界が特定の価値観によって統合されたり、引き裂かれたりする現実を、より幅広く視野に収めることができるはずだ。こうした話題に関心ある方には、近刊拙著『宗教のポリティクス─日本社会と一神教世界の邂逅』(晃洋書房)をご覧いただきたい。