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「イスタンブールと京都」(「現代のことば」)、『京都新聞』2010年12月17日、夕刊

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 私は今、この文章をトルコのイスタンブールで書いている。ボスポラス海峡を眼下に見ながら、視線を左右に向け、その彼方にあるものを想像すると、イスタンブールが「ヨーロッパとアジアの懸け橋」という呼び名にふさわしい町であることが実感される。
 現在、トルコの首都はアンカラであるが、イスタンブールは千数百年に及ぶ文化の中心地であり、文化的な首都と呼ぶことができるだろう。その点で、京都と共通するところがある。京都市は、今年度内にイスタンブール市とパートナーシティ協定を締結することを目指しているが、それは両市の歴史的背景から見て適切であるだけなく、時宜にかなったことである。今年は「トルコにおける日本年」という特別な年に当たっており、両国の友好関係120周年を記念する諸行事が行われてきた。
 イスタンブールと京都は、地理的には遠く隔てられている。しかし、両者とも、シルクロードの終端近くに位置し、その間で東西文明間の交流が長い歴史をかけて行われてきた。地中海文明は、アジアへの入り口である現在のイスタンブールを経由し、シルクロードを通って東アジアに伝えられた。
 京都の重要な観光資源にもなっている仏像は、シルクロードにおける文明の融合なしには生まれ得なかった。日本では仏像は、仏教の必須の要素として信仰や芸術の対象とされてきたが、初期仏教には元来、仏像を造る習慣はなかった。シルクロード経由で伝えられたギリシャの彫刻芸術やペルシャ文化がガンダーラ等で仏教と接触することにより、はじめて仏像文化が花開き、それが日本にまで伝えられたのである。
 今、トルコは「ヨーロッパとイスラーム世界の架け橋」としての役割を期待されている一方で、EUへの加盟という宿願はいまだ果たされずにいる。ヨーロッパにおけるイスラームに対する偏見や恐怖心が、その理由の一つにあると言われてきた。
 私はドイツ留学中にトルコ人の友人たちと出会い、それがイスラームに関心を持つきっかけとなった。ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの統一を目の当たりにした当時、すでに多数のトルコ移民がドイツに住んでいた。ドイツ統一後しばらくは祝賀ムードがただよっていたが、一年もたたないうちに失業率の高さが問題となり、その矛先がトルコ系移民に向けられたのである。トルコ人の居住地域にネオナチの人々が放火するという事件も起こり、移民問題やムスリムに対する偏見の深刻さを、ドイツで見ることになった。
 「文明間の対話」の必要性がしばしば語られるが、それが決して容易ではないことを歴史は教えている。しかし同時に、仏像の例で触れたように、文明交流によってもたらされた恩恵を我々が受けてきたことも忘れてはならないだろう。
 東西文明を橋渡ししてきたイスタンブールに立っていると、おのずと様々な思いが去来する。シルクロードの西端にあるイスタンブールと、東端にある京都の間で何が起こるのだろうか。文明史的な視野をもったダイナミックな文化・学問・産業の交流がなされていくことを願わざるを得ない。