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新聞・雑誌記事等

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「死刑制度と平和主義──キリスト教を参照軸として」、『まなぶ』(労働大学出版センター)第661号(2012年6月号、特集「「開かれた司法」は、いま」)、14-16頁

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■はじめに──死刑に値する犯罪とは
 死刑制度に対する賛否の論点は時代と共に変化するが、ここで
は、伝統的な論点を比較考量して、どちらに正当性があるのかを論じるのではなく、むしろ、死刑制度に隣接する問題を視野に入れて考えてみたい。また同時に、日本における議論をより客観的に見るために、外部の参照軸としてキリスト教における死刑理解を取り上げる。キリスト教は、数ある宗教の中でも、その最初期から死刑と向き合ってきた宗教である。その創始者と言われるイエスは、当時のローマ法の極刑である十字架刑に処せられたからである。ただし、後に述べるように、死刑に対する理解はキリスト教の歴史の中で変遷し、今なお賛否両論がある。
 そもそも、死刑制度の前提には、死をもって報いるしかない許し難い凶悪犯罪があるという考え方がある。二〇一一年七月にノルウェーで連続テロ事件を起こし、七七人の死者をもたらしたアンネシュ・ブレイビク被告の公判が今年四月から始まり、世界中の注目を集めている。七七人もの犠牲者の数は、日本の一般的な死刑制度存置論者が、被告人の死刑の適否を即答するのに十分な数だと思われる。実際ノルウェーでも、公判に先立ち審理に加わる予定であった一般の参審員の一人(参審員は陪審員と異なり任期制で選任される)が「被告への処罰は死刑しかない」とのコメントをインターネット上に書き込んだ。わが国であれば、十分に許容されるコメントであろう。しかし、この参審員は即座に解任された。ノルウェーは死刑を認めていないからである。ノルウェーだけではなく、EU全体が死刑を廃止しており、死刑を廃止していない国はEUに加盟することができない。
 同じ四月、米国コネティカット州が死刑を廃止した十七番目の州となった。これにより、死刑廃止の州は全五〇州の三分の一を超えることになった。アメリカは、日本や韓国と並んで、「民主主義国家」の中では例外的な死刑存置国であり、その筆頭にあげられてきた。しかし、州単位では着実に死刑廃止の数が増えてきており、活発な議論が米国内で継続されてきたことを物語っている。ごく最近起こっている以上のような出来事に敏感に耳を傾けていれば、日本においても現状をただ踏襲するだけでよいのかという素朴な疑問がわいてくるはずである。しかし、わが国においては、自らを対象化するための外部的な視点がまだ十分ではない。

■キリスト教と死刑制度
 EU諸国も米国もキリスト教の文化圏でありながら、なぜ一方は死刑廃止を選び、他方は死刑を維持しているのか。これはキリスト教の多様性だけでなく、死刑をめぐる理解の変遷と関係がある。初期のキリスト教を担った人々は、自らの師を極刑によって失うというトラウマから出発せざるを得なかった。刑を執行したローマの側には大義があった。パックス・ロマーナ(ローマの平和)を乱す者は万死に値するのであり、まさにイエスの十字架刑は、平和と秩序維持のためになされたのである。死刑を正当化するこの論理はローマ時代から現代に至るまで基本的に受け継がれていると言ってよいだろう。
 イエスが十字架につけられたことの意味は後にキリスト教信仰の本質部分を形づくっていくことになるが、それとは別に最初の三世紀の間、キリスト教徒は死刑に対し特別な態度を取ることになった。キリスト教徒は処刑にかかわること、公開処刑の場に居合わすことのないよう、さらには、死刑に至るかもしれない犯罪者の訴追を行わないよう指導されていた。端的に言えば、初期キリスト教は明確に死刑反対の立場を取っていた。そして、この立場は同じく初期キリスト教徒が、殉教覚悟で死守した絶対平和主義(一切の暴力の否定)と密接な関係を持っていた。
 ところが、この基本姿勢に大きな変化が訪れた。コンスタンティヌス帝が三一三年にキリスト教をローマ帝国の公認宗教と認め、それまで迫害されてきたキリスト教が、徐々に政治的・社会的影響力を強めていったからである。その中で、キリスト教内部の異端を排除するための必要悪として死刑が容認されるようになっていった。また同じ時期に、ローマ市民としての役割を果たし、同胞の命を守るという名目のもと、必要な場合には戦わなければならないという「正戦論」の基礎が形づくられていった。この時代以降、初期の絶対平和主義は傍流となり、西洋キリスト教世界においては正戦論の伝統が主流をなしていくことになる。
 ここには注目すべきポイントがある。死刑反対と絶対平和主義の結びつき、および、死刑容認と戦争肯定の結びつきである。死刑は刑罰として人の命を奪うことであり、それは国家権力によってなされる。国家権力によって生命が奪われるという点で、死刑は本質的に戦争と同じである。殺される人間の数は両者の間で大きな差があるとはいえ、その論理構造に根本的な違いはない。
 西洋社会では、中世の頃まで、死刑は、対象となる人物をできるだけ苦しめる方法で行われた。残酷さが高いほど、犯罪への抑止力となると考えたのである。近代になって、人道的な理由から、できるだけ苦しみを与えない処刑方法が模索されてきたが、現在行われている絞首刑、致死薬注射、電気処刑などと中世の残虐な処刑方法との間に圧倒的な優劣の差が存在するのだろうか。
 中世に執行されていた残虐な刑罰を当時のカトリック教会は容認していた。現在のカトリックは、そこから大きく態度を変え、死刑廃止論者が圧倒的多数派を占めている。中世カトリック教会を否定する形で誕生したプロテスタント教会は、その後、無数の教派に分かれ世界中に散在しているが、伝統教派の多くは死刑廃止を要求している。もっとも、正戦を積極的に支持し、死刑存置を主張するキリスト教保守派も存在している(特に米国において)。

■日本の歴史的文脈の中で
 以上述べてきた西洋キリスト教社会における死刑理解の変遷と現状を、日本の近現代史に照射させた場合、何が見えてくるだろうか。原爆の悲劇を境に戦後を出発した日本は、戦争の残虐さ・愚かさを繰り返さない道として平和主義を選び取った。近代国家が前提とする暴力の国家的占有が対外的に行使されるのが戦争であるが、わが国はこの戦争を放棄している。しかし、個人に対する究極の暴力行使である死刑を容認することは、国家による暴力行使全般に対しても寛容度を高めることになる。キリスト教の歴史は、死刑容認と戦争肯定が互いに補完的な関係になることを教えていたことを、ここで教訓として想起することができる。死刑容認が、結果的に平和主義を支えるパトス(情念)を奪っていくのである。
 死刑の現実を十分知らないままに法務大臣の恣意に一任している死刑存置論と、世界の困難な現実を見ようとしない観念的な平和主義は共犯関係にある。安易な死刑容認は平和主義への無関心を増長させるだろう。また、呪文のように繰り返されるだけの緊張感を失った平和主義は、国家権力のもとになされる殺人に対する寛容度を高めていくだろう。しかし、我々はつぐなえないものがあることに対する畏れの感覚を麻痺させてはならない。平和主義(憲法九条の精神)が死刑廃止へと結びつく中でこそ、弛緩する感覚に対し、適切な緊張を取り戻すことができるはずであるし、日本はその道へと踏み出す中で、世界に対し先導的モデルを示すべきであると思う。