研究活動

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「現代における唯一神論と多神論の相克――身体論的視点の可能性を求めて」、『基督教研究』第55巻第1号

Ⅰ 問題の所在
  キリスト教の神理解を説明するときに、一般的に「唯一神」という言葉が用いられてきた。様々な信仰告白文において神の属性は「全能」、「創造者」などとして言い表されているが、そこで神が唯一なる神であることはあえて記す必要のないほど自明なこととされている。我々が今日、問わなければならない点はまさにここにある。一種のドグマとして無前提に受容されてきたキリスト教の「唯一神信仰」は今日、多くの問いにさらされている。例えば、ニーチェ、フォイエルバッハら近代以降の無神論者たちの批判は神の存在そのものに向けられてきたというよりは、むしろ、神が唯一なるものとして独善的に君臨するとする宗教の在り方に対して向けられてきたと言える。また、「唯一なる神」よりも「多くの神々」が説得力を持って現代人の心の問題に関わりを持っている。例えば、唯一神論に起因する論理的整合性は人間の多様な側面を理解するためにはあまりにも狭すぎると考えられている1)
 キリスト教の唯一神信仰を問題として取り上げるには次の二つの方向が考えられる。第一は、唯一神に根拠付けられたキリスト教の絶対性要求を他宗教、異文化との比較の中で相対化していく方向である2)。宗教学や宗教史学派により先鞭をつけられたこの方向性は、現在では特に宗教の神学、宗教間対話の神学として展開されている。第二の方向はキリスト教自身の自己理解として唯一神信仰の内的意味を問い直すことである。唯一神信仰は一元的な支配を要求するという理由で、多元的な理解を推進しようとする立場からは偏狭なドグマとして批判されている。それは近代以降の宗教批判(キリスト教批判)の問題に限定されずに、聖書の神理解にまで立ち返って考察しなければならない問題である。
 本論文ではこの第二の方向を展開していく。それは唯一神信仰に収斂しているキリスト教のアイデンティティをいったん脱中心化する作業でもある。ここでは、唯一神信仰と多神論との代表的な論争を取り上げながら、その現代的課題を浮き彫りにし、それらに対する解決を神学的身体論の立場から試みてみたい。


Ⅱ 多神論から唯一神論への挑戦
 H・リチャード・ニーバーの徹底的唯一神主義(Radical Monotheism)に対するデイヴィド・L・ミラーの批判は、唯一神論と多神論とに含まれる課題と問題性を伝えている。ニーバーは『近代文化の崩壊と唯一神信仰』3)の中で唯一神主義、単一神主義(社会的信仰)、多神主義という三つの宗教社会学的パラダイムを軸にして西洋文化に潜在してきた問題性を指摘し、結論的に唯一神主義を厳密化した形で徹底的唯一神主義を提案する。ただし、ニーバーは「神々」という言葉を「価値の中心または目的」4)を意味するものとしてとらえることによって、彼の用いているパラダイムを宗教共同体の説明にのみ限定せずに、広く社会学的な価値を説明するものとして利用している。例えば、単一神主義は社会的信仰として、自らが属している集団やその精神を絶対化することによって「多数の中の一つ」に過ぎないものが他を排除する閉鎖社会を形成していく原理である。この単一主義への誘惑に対して唯一神主義を主張する宗教共同体も決して無縁ではない5)。また、単一神主義における中心的な価値が分裂することによって、自己と社会の多元主義の中に対応物を持つ多神主義が生じる。このような多神主義は特に近代的な問題ではなく、社会的信仰が崩壊したあらゆる時期に現れるとニーバーは言う6)。いずれにしても、この単一神主義と多神主義とを宗教共同体のみならず、政治共同体、西洋の科学理解にも及ぶ問題としてニーバーは展開している。その中で彼は両者の関係を隣人愛という点で次のように要約している。「多神主義的信仰では、隣人は、わたしの利益グループのなかの近い者と規定され、つかのまの結びつきでわたしに近づくものである。単一神主義という社会信仰では、私の隣人は、閉鎖社会のわたしの同僚ということになる」7)
 ニーバーは唯一神信仰を自称するキリスト教も以上のような単一神主義、多神主義と必ずしも無関係ではなかったことを認めながら、第三の信仰形態として徹底的唯一神主義を唱える。それは存在しているだけで価値づけられ、存在しているだけで愛される価値があるという確信である。それは唯一なる神が存在の全領域に向き合うことにより、すべてが善とされるという徹底した信仰である
8)
 このような考え方に対して、ミラーは『甦る神々―新しい多神論』9)においてニーバーの徹底的唯一神主義が抽象的な事柄を言っているのではないことを確認しながらも10)、ニーバーが「分裂」、「悲劇」、「無意味という空虚」11)として退けた多神論を逆に思考の中心に据えて、唯一神主義一般に潜む問題点を厳しく批判する。ミラーによれば、人間の抽象的、形式的、論理的、思弁的な思考は必然的に一神論的にならざるを得ず、また、人間は一度に一つの神によってしかとらえられないので、「信仰」においても唯一神論者か単一神論者となる。しかし、ニーバーが我々は深層においては一神論者で表層では多神論者であると言うのとはっきり区別した形で、ミラーは我々は一神論者であるのと同時に、その神について考えたり、話したりするときには必然的に多神論的にならざるを得ないと言う。そして、多神論的になってこそ、一神論では見過ごしにされてきた日常的な生活に秘められた多様性やその深い宗教的次元に触れることができるとミラーは主張する12)。ここでミラーの言う多神論とは、個人や国家の歴史のような、ただ単に複数的な物語のことではない。人間の歴史の複数的混乱を秩序づけるための深い宗教的パラダイムとして彼が考える物語は、元型的なもの、つまり、集合的で超個人的で超歴史的な物語である13)。彼はその物語として、古代ギリシアの神々の物語をあげるのだが、西洋人である限りは他の国々の神話ではなく、ギリシア神話を根拠にしなければならないと言う14)。彼にとってギリシアの神々への回帰は決して固定的な始源に戻るという意味ではなく、「再び-回る」ということを意味している15)
 以上、ニーバーとミラーの論を対比させつつ概観してきた。ここではニーバーとミラーに関する各論を検討することが目的ではないが、両者の相互批判に含まれないもので、彼らの論理に潜んでいるいくつかの問題点がある。ニーバーは徹底的唯一神主義を西洋文化という文脈の中で語りながら、同時にそれが他の文化(例えば、東洋のモニズム)の中でも起きる可能性を示唆している
16)。彼が徹底的唯一神主義の中に求める要件を満たす宗教や思想がキリスト教以外に存在すれば、それらが持っている「神」に対応する概念は結果的にキリスト教信仰の神と交換可能なものとして位置付けられるのだろうか。あるいは、徹底的唯一神主義のもとに神は多くの名前を持つことになるのだろうか。そのどちらでもないとすれば、非キリスト教宗教・思想はやはりキリスト教の下位に従属させられ、結果的に徹底的唯一神主義はキリスト教がその優越性を示すための道具となる。したがって、その主張に含蓄される存在論的な平等性は論理的な矛盾を引き起こす可能性を持っている。その危険を回避するならば、徹底的唯一神主義は西欧キリスト教の神論として限定しなければならないだろう。
 他方、ミラーはキリスト教神学をギリシア哲学に起源を発するものとして前提し、そのギリシア哲学が従来考えられてきたように一神論的ではなく、実は多神論的であったと言うことによってキリスト教神学も多神論的であると結論づけるが17)、その前提の立て方はあまりにも断定的である。少なくとも、キリスト教神学とイスラエル宗教、さらに、それに決定的な影響を与えた古代オリエント神話との関わりを考慮に入れるべきであるが、それに関する記述は見当たらない。また、彼は西洋人であるならばギリシア神話に帰らなければならないとして、彼の言う多神論を西洋人に限定して考えているが、非西洋人のキリスト者はその類比としてそれぞれの持つ起源的な自然宗教に帰るべきなのだろうか。彼は西洋人以外の可能性については一切言及していない。
 ニーバーとミラーの主張はそれぞれ神論に関わる事柄を完全に説明するものでないにしても、その両者を対比させることによって我々は唯一神論と多神論との間で揺れ動く現代社会の諸相、特に現代人がかかえるアイデンティティの危機とその獲得への欲求を見ることができる。ニーバーは多元主義によって人々が快楽主義と実存主義に代表されるような分裂的状態に陥っていると分析し18)、新たな価値と意味との中心を与えるものとして徹底的唯一神主義を提唱している。それに対してミラーはニーバーの分析の妥当性を認めながらも、人間の全体性を回復するために唯一神論的な中心点を求めるのではなく、かえって多神論的な方向に新たな解決を見いだそうとする。ミラーの唯一神論への批判は総じて、その一元論的支配構造に向けられたものであった。そして、それは神論の問題としてとどまらないで人間論に相関していく。むしろ、ミラーの不満は唯一神論に起因する人間論、とりわけ神学的主権論によって裏付けられてきた人間論に集中している19)。ミラーが日常生活への洞察の大切さを説き、人間の思考は多神論的であるという理解からイメージの神学の構築を求め20)、彼の言う多神論が我々の最も深い感情の中に生きていると言うときに、彼が現代社会にふさわしいと考える人間像が明らかになってくる。少なくとも、それは従来の神学的主権論によって論理的に構成された人間論からの解放を叫ぶ声である。この点に関して、彼の考えは60年代の「神の死の神学」に符合するものがあるし、これらはニーチェ、フォイエルバッハ、マルクス、あるいは実存主義哲学などの思想的系譜の中に見られる「身体の復権」に連なっていることは明らかであろう。したがって我々が真に問題にすべきことは、唯一神論か多神論かという二者択一ではなく21)、その狭間にあって現象として現れてきている課題を明らかにすることである。
 身体の疎外という問題は決して形而上学的事柄ではなく、今日では日常的な関心事に近い。我々の経験は、じかに触れる直接経験から多くの近代的メディアによって媒介される間接経験へと急速に変質しており、またその両者の境界線も一層不明瞭なものになりつつある。さらに、日常世界の多元化にともない人間関係は流動的で表面的になりがちであり、我々のアイデンティティは拡散しやすいものとなっている。このような現代的状況の途上において、我々はミラーに象徴される視点を単に「無意味という空虚」
22)として無視することは決してできないのである。

Ⅲ 身体論から見た神理解の力動性
 ミラーのように、日常生活の深部にある人間の多様な側面に光をあてようとすることは、急速に変質しつつある現代社会の中で自分が自分であることを確認できる身体の直接経験を求めていることとして理解することもできるだろう。この背景には、特に近代以降、科学技術の進歩と共に人間が自分自身の身体をも含めて自然を物象化してきたというプロセスがある。人間が身体の延長として道具を用い、それによって外界としての自然の働きをコントロールしようとするのは何も近代に始まったことではないが、急速な機械化と産業化の中で道具を身体化して利用するに止まらず、かえって身体が道具として社会機構の中に組み込まれていくという逆転現象が生じてきた。
 このような時代背景を反映して、キリスト教神学の中でも、ギリシア哲学に由来し、中・近世哲学の主流となってきた従来の心身二元論的な身体理解の見直しが行われつつある23)。第一には、キリスト教がイスラエル宗教から引き継いできた身体理解を積極的に理解しようとする視点がある24)。そのいくつかの特徴は次のように要約することができるだろう。旧約聖書において人間は部分部分の区別がなされているが、プラトンが考えたように魂と体とに二元論的には区別されておらず、有機的な全体性の中でそれぞれの局面が問題とされている。人間は肉を持つのではなく肉であり、魂を持つのではなく生ける魂である。つまり、一人の人間全体がその人格表現において主眼の違いから体、肉、魂、霊と呼ばれようとも、人間は一つの有機的統一体として考えられている。また、人間はそれ自身として閉じられた一つの作品としては考えられていない。この点において、コスモス全体を神によって秩序づけられた身体として理解し、人間もそのコスモスの秩序に対応するミクロ・コスモスであるとするデモクリトスに代表される身体の「入れ子構造」的解釈も旧約的思考と直接的に結び付くものではない25)。旧約聖書の人間観は総じて、魂と体、魂による体の支配といった内部的構造、あるいは、世界との一般的相関関係を問う外部的構造にはほとんど関心がない。人間はそれ自体が実体としての価値を与えられているのではなく、歴史の中で生起する出来事としての意味を強く持っている。
 第二には、新約聖書自体が本来持っている身体理解を、特にパウロ神学の中から取り出して、それによって形而上学的な心身二元論を止揚しようとする視点がある。もっとも新約聖書全体を通じて見れば、必ずしも一元的な身体理解が存在しているわけではないが、少なくともパウロは体(σωμα)という言葉に対して神学的に重要な意味を持たせている。ここでその詳細を述べることはできないが、彼は体に対する魂の優位という考えとは無縁であり、むしろ、体こそが聖霊の宿る神殿であり(Ⅰコリ6:19)、また、キリストの体に連なることの重要性を一貫して主張する。我々の体はキリストの体と対応関係において独特な意味を持つものとされる。それゆえに、体は皮膚の内側に限定された内容物ではなく、それを越えて他者と関係を持つ可能性を持った「コミュニケーションの手段」として積極的な位置付けをされている26)。

 キリスト教神学として身体論を考えるときには以上の二点を最低限、考慮に入れる必要があるが、それらは今日の身体論的課題を考えるときに、ミラーがギリシア神話へと回帰していったように、キリスト教神学にとっての回帰すべき「軸の時代」として我々の最終目標になり得るのだろうか。ここで我々は旧・新約聖書が背景としている時代と現代とが根本的に共有し得ない問題性を明らかにしておく必要がある。確かに、魂と身体、さらに人間と自然という関係は昔も今も等しく問うことのできる問題であると言える。しかし、今日の我々が直面している問題は我々が自然から作り出してきた様々な人工的なものに由来している。元来、人間の身体の延長として作り出された道具や記号は、もはや人間と自然とに還元することのできないほどの独立した存在感を持って今日の社会の中で機能しているのである。したがって、我々が時代に適合した身体理解を深めていくためには、人・自然・人工を関連付けるキーコンセプトを新たに見いだしていく必要がある27)。また、キリスト教神学の枠内で身体論を考えるときに、我々は特に三一論との関わりを避けて通ることはできない。三一論は神の三つのペルソナを表すという古典的教義
`としてより、「一」と「多」を媒介し、関係づける方法論的可能性として今日の身体論理解に不可欠である。この点において、モルトマンの社会的三一論は示唆的であり、興味深い視点を与えてくれる。
 モルトマンによれば、キリスト教神学は人間を神の似姿として理解するときに二つの異なった類比を取り入れた。一つは身体を支配する魂という心理学的類比であり、これは神概念における唯一神論への傾向と人間学における個人主義的傾向に対応している。もう一つは、女と男、親と子の交わりという社会的類比である。モルトマンは前者の代表者としてアウグスティヌスを取り上げながら、そこで神の像は支配の類比であり、魂の主体性に比べて身体によって媒介される社会的諸関係は二次的なものと見なすこの神学的理解を西洋人間学の悲劇として批判している。そして、家族(アダム-エバ-セト)の交わりの中に三一論の原初形態を見たニッサのグレゴリオスを取り上げて、後者の社会的三一論にモルトマンは積極的な転換点を見いだそうとする28)。そこでは父と子と聖霊の間に優越と従属の秩序を認めず、互いの相互内在(Perichorese)が前提とされ29)、また、その視点から神と世界との関係も相互内在的なものと考えられる。したがって、そこから出てくるモルトマンの身体論は魂や肉体、理性、意志といった点を中心にして論じられるのではなく、ゲシュタルト心理学の用語を用いながら、人間の「かたち」を人間-

|環境のフィールドの中で成立するものとして理解する。そして、人間のかたちを生き生きとしたものとしてとらえるために、そこにある中心化と脱中心化(中心の移動)という動きの中にアイデンティティ獲得へのプロセスを見る。それはまた、約束に対する誠実によって歴史の中で自己の連続性を獲得するプロセスでもある30)。
 モルトマンは人間の生の間で起こるコミュニケーション構造においても徹底して相互浸透的な交わりを追求しているのだが、今日問題になっているのはまさにこの交わりが疎外されていることである。しばしば、神学的思考の解放性を訴えるために「交わり」という表現は一種の常套句になっているが、実際、交わりはそれを志向する意識に応じて容易に獲得されることのない不確実性と複雑性を内在している。。モルトマンが「霊」によって言い表そうとするコミュニケーション構造は、交わりへの意志によって制御可能な均質空間を想定しているのではないだろうか。また、例えば彼が「すべての開かれた物質システムと生命システムには志向性の原理が内在している」と言うときに、彼の主張する相互浸透の原理は諸システムの入れ子構造的秩序を前提にしてはいないだろうか。我々は自然的存在でありながら、多様な人工的メディアに媒介された世界に生きており、そこでは自然と人間、人間と人間との相互交流を支えていた意味空間は均一化され、身体と宇宙との幸福な入れ子構造は解体させられている。仮にモルトマンのように相互内在的な理解に立って生態論的問題を神学のフィールドに取り入れるにしても、身体と宇宙

との間には彼が考えるよりはるかに複雑な緊張関係が介在していることを無視することはできないのである。いずれにしても、所与の文化・制度そして人工的なものは我々にとって決して二次的な認識の対象ではなく、身体的感覚による直接経験と記号・情報によって媒介される間接的認識との間の隔離がますます大きくなろうとしている中でそれらをどのように統合できるのかが問われている。宗教社会学的に言えば、宗教は社会的合理性によっては説明することのできない、社会から溢れ出た複雑性を解消する機能を負ってきたという側面があるわけだが、果たして、宗教のシンボル化能力は人間の認識を統合することができるのだろうかという問題でもある。もし、宗教が個別に新たな入れ子構造を作り出すことによって問題の回避を計るとするならば、それはニーバーが社会的信仰として退けた単一神信仰への批判を免れることはできない。
 キリスト教神学の中で身体を規定する上で、中心になるのはもちろん「キリストの体」である。「交わり」ということが神学において方法論の一つとして終わるのではなく、交わりを困難にする諸状況に直面して、なおその問題性を克服していくために我々はキリストの体を取り上げなければならない。そして、キリストの体に対応する我々の身体も皮膚の限界内に閉じこめられた局部的存在ではなく、我々自身の身体に対して次のような超越可能性を考えることができる31)。
 第一は、上へ超越する身体である。キリストの高挙とともに、我々の死ぬべき体は死なないものを着る希望を与えられている(Ⅰコリ15:35以下)。それによって歴史内存在である人間は終末論的未来から自己の働きを対象化していく。それが現在へと折り返されるときに、我々は終末論的希望の内に現在を変革する神の力を知る。「キリスト・イエスの日」(フィリ1:6)と「新しい天と新しい地」(黙21:1)は、人間が時間と空間の制約を上へと超越し、新しい意識形態を生み出す身体的可能性を持つことの終末論的表象である。そこでは、神と人間との質的差異が強調され、両者の距離関係は楕円形の二つの中心点の距離関係に類比させることができるだろう。

 第二は、横へ超越する身体である。我々の身体は社会的な記号や制度を組み込みながら、同時に社会に組み込まれていく社会的身体である。さらに、生命としての身体は生態圏の中で固有の役割を持ちながら、やはり地球的な規模の生命活動に影響を与え、かつ組み込まれている。ここでは、キリストの体を働きの多様性(Ⅰコリ12:12以下)、社会的多様性(ガラ3:26以下)、宗教的多様性(ロマ14:1以下)を包括する超越的身体として理解することができる。さらに、キリストは万物に先立ち、万物を支える方として宇宙論的な広がりの中に立っている(コロ1:15-17)。キリスト教が「ますますより大きなキリスト」を見いだすための道であったように32)、キリストの体に対応する我々の身体も横への超越を一つの可能性としてだけではなく、地球規模の責任として与えられている。
 第三は、下へ超越する身体である。我々の身体の外側へ向かった上への超越と横への超越は、個を超えて働く超越的実在に触れることによって、個そのものの意味や根源を問うために身体の内面へと折り返される。そして、下への超越においても、身体と身体、身体と自然とを結ぶコミュニケーション構造があることを我々は知る。C・G・ユングの言う「集合的無意識」はその構造を暗示している33)。パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と言うとき、偏在するキリストの働きはパウロのアイデンティティの本質として結実している34)。ここでは神と人間との質的同質性が強調され、両者は同心円における中心点の一致に類比させることができるだろう。
 これら上、横、下というメタファーは固定的な分類ではなく、例えば上を前と表現することも可能である。これらのメタファーを通じて意図するところは、身体に内蔵されている超身体的諸特性を単独に取り出すことではなく、それらが相互に関係しあって身体の多方向にわたる複合的な拡張可能性を生み出していることを示唆する点にある。また、超越ということのために、身体から独立し身体を制御・支配する超自然的な霊の存在を仮定する必要はない35)。むしろ、ここで身体の超越性は、中心に魂や霊的本質の働きを前提とした意識主体間のコミュニケーション的道具へと身体を還元することに対する反対命題として提示されている。たとえパウロの身体理解がコミュニケーション論の視点から解釈されるにしても、もしそれが従来の社会学的コミュニケーション論によって規定されているとするならば、身体は意識主体と意識主体との間で交わされる情報伝達のための一時的通過地点としての意味しか持たないだろう。そこで意識は個人の内面にある思考や感覚として理解されている。しかし、超越可能な身体は超自然的実在を引き合いに出すことなく、身体がコミュニケーションの道具であると同時にその内容となること、意識は身体の拡張にともない個人の生物学的身体の限界を越えて、交わりの場を形成する流動性を持ったものであることを示している36)。
 以上のような理解のもとに、例えば先のモルトマンが人間のかたちを説明するうえで用いた中心の移動(中心化・脱中心化・再中心化)は、下への超越の同心円的一致と上への超越の楕円的区別の間の弁証法的反復運動として言い換えることができるだろう37)。さらに、横への超越と下への超越をかけ合わせたベクトルのように、固定的な中心点を持たない一種の共生状態を考えることもできる。中心の移動という揺れの間にある無限の中間地点は決してアイデンティティの喪失状態を意味するのではなく、共生レベルの拡大、例えば出生時の生理的共生状態から、自意識の芽生える心理的共生状態、そして文化的・社会的共生状態へと移り変わる中で無意識下の自己変革がなされていく。このような中心の移動と共生化という動的側面、それを支える身体の超越可能性を考慮に入れることによって、我々は身体が「受肉しつつある」身体であることを認識することができる。そこでは「三位一体の痕跡(vestigium trinitatis)」を探すことが問題ではなく38)、受肉しつつある身体は本来的に、神の自己表現としての三位一体の可能的展開である。

 ここで我々はあらためて、ニーバーとミラーに代表させた唯一神論と多神論との相克を身体論の視点から理解することができる。つまり、ニーバーは徹底的唯一神論という強い吸引力によって、人間のアイデンティティが断片化されずに中心化・脱中心化・再中心化の過程を健全に進んでいくことを望んだと言えるし、ミラーは人間が神々の神話を用いることにより、絶えず中心を定めずに共生化して、人間がそれぞれの共生レベルにおいて多様性を取り込んでいくことの価値を主張したと言える。いずれにしても教義学的伝統の中で自明のものとされてきた唯一神論へのアンチテーゼとして理解できる。現代において、アウグスティヌスがキリスト教的神理解から宗教の本質規定を導いたように神理解を問題の前提とすることは不可能である。アウグスティヌスが考えていたような「すべての人々に共通な神の知識」というものは、もはや宗教の前提とはならず、それは宗教の一機能としての位置付けを与えられているに過ぎない39)。その意味では、神理解をあらかじめ固定化するために唯一神論か多神論かという選択を排他的に行うことは問題の本質を見過ごしている。
 もちろん、ここでは新しい唯一神論と多神論の折衷案を作り出すことが目的ではなく、神理解の変化の中に人間の解釈能力の可能性を見いだすことを目指している40)。それを心身二元論によって規定される主体的意識の働きとしてではなく、意識の交流場を生み出す身体の超越的働きとして理解することによって、人間が身体において神との関わりを持っている存在であることを明らかにしようとした。人間が身体的超越性において神と関係しているとすれば、その関係の間に形成される意識の場は決して個人主義的な信念によって一義的に定義されてしまうものではなく、身体的超越性が共同的な働きを持っている以上、神理解は必然的に不確定性を含んだゆらぎを伴うだろう41)。しかし、この世において人間の認識が極めて不確定なものであったとしても、そのゆらぎが聖書が示すような形で終末論的な時間と空間の焦点を持っている限り、それは決して無秩序な崩壊へと至るのではない。むしろ、現在が終末へと向かい、終末が現在へと接近するという緊張関係の中で我々の身体は共振するリズムの中に置かれるのである42)。そしてそのことは現在において、内なる人が日々新たにされ(Ⅱコリ4:16)、古い人を脱ぎ捨て新しい
「人を身に着ける(エフェ4:22-23)という身体の更新に対応関係を持っている。身体の更新は一回的なものではなく、終末論的未来に向けた継続的更新だからである。この共振という理解は、さらに神のキリストにおける共苦というキリスト論的課題との接点において、より具体的なイメージを獲得することができるだろう。いずれにしても、超越的身体はその共振的リズムを通じて神理解の力動性を指し示している。
 以上のような議論を踏まえた上で、我々はキリスト教神学の中で多神論的意義をどのように評価することができるだろうか。ミラーが試みようとした形でギリシア神話へと回帰することは困難である。また、唯一神信仰を持ちながら、考えにおいては多神論的になるという「方法としての多神論」43)は、信仰と理性の問題に通じる二元論的アポリアに陥る危険性を予感させる。しかし、キリスト教の閉塞した唯一神イデオロギーを多元主義の原潮流に投げ出そうとするミラーの荒療治は、さらに積極的にその問題意識を拡大することによって、キリスト教と他宗教あるいはキリスト教と科学との間にある多層的な相互関係の問いへと場を移し変えることができるのではないだろうか。それは、ミラーがギリシア神話の適用を西洋人に限定して考えているのと異なり、固有の宗教的・文化的背景を持ったあらゆる人間が現代世界において等しく直面している状況である。

 今日、人間と人間、人間と自然との間のコミュニケーションの断絶が一種の文明病のように言われる一方で、他者の固有性を認識するためには他者の他者性、つまり、他者との断絶が理解されなければならないという一見矛盾するような議論がなされている。この矛盾はおそらく、交わりにしても断絶にしても、それぞれが惰性化・硬直化していることから生じている。我々はキリスト教がすでに置かれている、他宗教そして自然科学からの挑戦を含む多元的宗教事情を無視することもできるし、それを従来のように従属的に位置付けることもできるだろう。しかし、我々が現代という時代が持つそのような歴史的状況との共振可能性を探ることの意味は、それを通じて我々自身の共振的リズム、つまり神との生きた関係を回復する可能性を見いだすことにある。それは、外側から揺らされることによって44)、キリスト教の神理解が終末論的カイロスとトポスに収斂していく身体の共振するリズムを見いだすことであると言い換えることもできるだろう。

Ⅳ 結び

 近年、人間の現実認識の境界線があいまい化されてきている。バーチャル・リアリティ(仮想現実・人工現実)の出現はその顕著な例である。コンピュータの技術的進歩により、人間が認識していると感じている現実を可能な限り、電子的に「複製」できるその技術は人間の認識に対して新たな問いを投げかけている。そこでは、自分の環境を自由にコントロールしたいという欲求が満たされ、一人一人が「神」の立場に立って電子架空世界にあるすべての被造物を支配することができる45)。その意味で人工現実は、人類が自然や感情を制御したいと願って作り出してきた様々な道具的人工物の最終形態の一つであるとも言える。それだけに我々に求められるのは、人工現実を非現実として退けてしまうのではなく、人工現実をも現実の一部として受け入れていくことである46)。人工現実世界がもたらすコミュニケーションと他者性の認識の変質は、現実世界に根差しながら、それを超えようとする身体の限界性と超越性とによって意味を与えられていくだろう。このような差し迫った近未来的課題を目の前にしながら、我々は今、神認識を新たにしなければならないのである。
 「作業仮説としての神」を必要としなくなった世界において、我々はボンヘッファーと共に、この作業仮説なしに生きることの意義を問わなければならない47)。唯一神論という一つの論理が我々の作業仮説であるとするならば、それを世界の自律の中に挿入することはもはや不可能である。また、作業仮説としての神論はいずれ複製され、継ぎはぎされるだろう。今日の百花繚乱の新宗教にその傾向があることを指摘するのはそれほど困難ではない。いずれにしても、我々は身体の中に多様な可能性と課題とが与えられていることを、我々の神理解との関係において創造的に問いなおしていく必要があるのではないだろうか。




1)河合隼雄、「一神教と多神論」(『岩波講座・宗教と科学10――人間の生き方』、岩波書店、1993年)、233頁。
2)このことに関しては以下の論文で取り上げた。小原克博、「キリスト教の絶対性解釈の諸問題」(『基督教研究』第54巻第1号、1992年)。
3)H・リチャード・ニーバー、『近代文化の崩壊と唯一神信仰』(東方敬信訳)、ヨルダン社、1984年。
4)同上、31頁。
5)同上、35-36頁。
6)同上、38-40頁。
7)同上、44頁。
8)同上、41-49頁。古屋安雄は大学の形態をニーバーの3つのパラダイムを用いて説明している。彼によれば、キリスト教大学であっても単一神主義や多神主義の大学であることが少なくないし、逆に、国立大学であっても徹底的唯一神主義の大学となり得る。古屋安雄、『大学の神学――明日の大学をめざして』、ヨルダン社、1993年、198-215頁。

9)デイヴィッド・L・ミラー、『甦る神々――新しい多神論』(桑原知子、高石恭子訳)、春秋社、1991年。ニーバーに関しては、特に68-88頁において言及されている。
10)同上、74頁。
11)ニーバー、前掲書、168頁。
12)ミラー、前掲書、84-88頁。河合隼雄もミラーの考えを引き合いに出しながら、人間の全体を理解するためには一神論的な論理的整合性よりも、方法として多神論を用いる方が有効であると考えている。ただし、多神論的構造が事象の共時的理解につながり、またそれ自体がアナーキーに陥らないためには、多神論構造が全体の調和をイメージするような一種の審美性を持つ必要があると言う。河合隼雄、前掲書、228-234頁。
13)ミラー、前掲書、132頁。ここでミラーが「元型的」という言葉を用いているのは、彼がユング心理学の影響を受け、また各地のユング研究所で講義をしてきたという経歴を反映している。

14)同書、162頁。
15)同書、154-155頁。ミラーがギリシア神話への回帰を退行ではないと強調するのは、ギリシア神話をエリアーデが『永遠回帰の神話』の中で指摘するような始源的な出来事へと回帰する神話の一つに解消させずに、その特殊性を保持させるためであろう。ミルチャ・エリアーデ、『永遠回帰の神話――祖型と反復』(堀一郎訳)、未来社、1988年(第15刷)。
16)ニーバー、前掲書、66頁。
17)ミラー、前掲書、104頁。
18)ニーバー、前掲書、37-38頁。
19)元型心理学の視点からはこの神学的主権論に対応するものとして「セネックス(長老)」があることをジェームス・ヒルマンは指摘している。ジェームス・ヒルマン、「心理学――一神論的か多神論的か」(ミラー、前掲書所収)、173-174頁。
20)ミラー、前掲書、85-87頁。
21)ゼーダブロムはすでに20世紀初頭において、唯一神か多神論かという二者択一は宗教現象を説明する上で適切ではなく、神理解の根源への問いにとってもそれは排除されなければならないと言っている。Soederblom,N., Das Werden des Gottesglaubens, 19262, S.159f.

22)ニーバー、前掲書、168頁。
23)以下の論述に関しては次の書を参考にした。Schweizer,E., Art."σωμα" in: H.R.Balz, G.Schneider (hrsg.), Exegetisches Woerterbuch zum Neuen Testament Bd.2, Stuttgart 1981, S.770-779. Wibbing,S., Hahn,H.Chr., Art."σωμα" in: L.Coenen u.a. (hrsg.), Theologisches Begriffslexikon zum Neuen Testament Bd.2, Wuppertal 19905, S.869-875. 日本組織神学会編、『身体性の神学』、新教出版社、1990年。『旧約新約聖書大事典』、教文館、1989年。
24)たとえば、モルトマンは肉体に関する旧約的思考を前提にしながら、身体と魂が相互内在的な交わりの関係にあることを説き、それを彼の三一論理解の中に位置付けていく。ユルゲン・モルトマン、『創造における神――生態論的創造論』(沖野政弘訳)、新教出版社、1991年、371-380頁。
25)ユダヤ教神秘主義はこの限りではない。モルトマンもカバラ的伝承の中にある「神の収縮」、「神の内住」という考えに着目して、彼の神学的方法論として取り入れている。モルトマン、前掲書、3-4頁。

26)Schweizer,E., a.a.O., S.774. Ders., Theologische Einleitung in das Neue Testament, Goettingen 1989, S.64.
27)中村桂子は生命科学者の立場から、人・自然・人工を統合するキーコンセプトとして「生命」を考える。中村桂子、『自己創出する生命――普遍と個の物語』、哲学書房、1993年、34-42頁。
28)モルトマン、前掲書、343-354頁。
29)この点に関して、パネンベルクは三一論の中心が神にあることの必要性を説き、モルトマンの考えに対しては批判的である。Pannenberg,W., Systematische Theologie Bd.1, Goettingen 1988, S.352ff.
30)モルトマン、前掲書、374-380頁。
31)この枠組みに関しては次の書を参考にした。市川浩、『<身>の構造――身体論を超えて』、講談社、1993年、特に、212-213頁。
32)ユルゲン・モルトマン、『イエス・キリストの道――メシア的次元におけるキリスト論』(蓮見和男訳)、新教出版社、1992年、426頁。

33)C・G・ユングは個人的無意識の奥底には、その個人を超えて人類全体が共有するような集合的無意識が存在すると考えた。C・G・ユング、『自我と無意識の関係』(野田倬訳)、人文書院、1982年、『無意識の心理』(高橋義孝訳)、人文書院、1977年。
34)八木誠一はパウロにおける「私」の二重構造を指摘し、パウロの究極的主体としてのキリストとキリストを信仰の対象とする自我とが逆説的に同一であることを主張している。この考え方も、下への超越可能性を持った身体理解の一例としてあげることができるだろう。八木誠一、「イエスの言葉における『私』」(ジョン・ヒック、ポール・F・ニッター編、『キリスト教の絶対性を超えて』(八木誠一、樋口恵訳)、235-269頁)。
35)D・M・マッケイは脳科学の立場から、「霊的生命」という超越的メタファーでさえも脳の組織を超越したり、侵害したりすることなく、すなわち、超越的実在を仮定することなく評価できる可能性を指摘する。彼はそれを脳組織内の協調モードの変化として説明している。D・M・マッケイ、『ビハインド・アイ――脳の情報処理から何を学ぶか』(金子隆芳)、新曜社、1993年、338-343頁。

36)交わりの場を形成するという点については、モルトマンが霊の個人主義的誤解に反対して、霊が人間の生の間で起こるということを強調していることに符合している。モルトマンは霊という言葉をコミュニケーション理解のために積極的に用いるが、霊をそのために必要な超越的実在として前提にしているわけではない。モルトマン、『創造における神』、385-387頁。
37)これはカルケドン会議において宣言された、キリストの神性と人性は区別されるが分離されないという表現にも対応している。古代教会の二種類のキリスト論、つまり、イエスの人格には神的中心と人的中心があり後者が前者に従うと主張したアンテオキア学派と、二つの中心は同一であると主張したアレクサンドリア学派はその宣言において、同等にその正当性を認められているからである。ただし、その表現は両者の主張を無時間的に固定したものであり、両者の主張の間にある動的な緊張関係は十分には表現されていないように思われる。

38)三位一体の痕跡を発見する努力が神の啓示に敵対することについては次の書を参考。エバハルト・ユンゲル、『神の存在――バルト神学研究』(大木英夫、佐藤司郎訳)、ヨルダン社、1984年、43-62頁。
39)Pannenberg,W., a.a.O., S.137.
40)パネンベルクは、エルサレムの崩壊を神の無力としてではなく神の審判として理解した預言者たちの解釈的潜在能力(Interpretationspotential)をヤハウェ信仰の本質的働きとして評価する。Pannenberg,W., a.a.O., S.180.
41)量子物理学の世界では、運動する物体の時間と空間的位置を同時に確定することが不可能であることをハイゼンベルクの不確定性原理が明らかにした。この原理は哲学における認識論にも影響を与えている。
42)モルトマンは、メシア的時の先取りとしての安息日が、時をメシア的振動の中に移すと言う。モルトマン、前掲書、60-61頁。また、中村雄二郎は生命リズムの共振構造を「汎リズム論」として展開する。中村雄二郎、「生命リズムと共振」(『岩波講座・宗教と科学10――人間の生き方』、岩波書店、1993年)、147-179頁。

43)この点で河合隼雄もミラーに同意している。彼の考えは、後から一神論構造を取り入れたもの(たとえば日本)に特有の不寛容さをどのように打開するかという課題に関わっている。河合隼雄、前掲書、228-237頁。
44)パネンベルクは、初期キリスト教神学に対するギリシアの自然神学、哲学的神学の働きによって、キリスト教はユダヤ教から明確に独立したアイデンティティを形成し、ユダヤ教から引き継いだ神理解を発展的に解釈していく機会を得たと考える。Pannenberg,W., a.a.O., S.82,89f.,120.
45)バーチャル・リアリティが宗教に及ぼす影響については次の書において詳しい。バリー・シャーマン、フィル・ジャドキンズ、『これがバーチャル・リアリティの世界だ――仮想現実で生活、企業、社会はこう変わる』(鎌田三平訳)、徳間書店、1993年、特に250-262頁。

46)森岡正博、『意識通信――ドリーム・ナヴィゲイターの誕生』、筑摩書房、1993年、42-46頁。
47)Bonhoeffer,D., Widerstand und Ergebung. Briefe und Auszeichnungen aus der Heft. hrsg.v. E.Bethge, Berlin 1977, S.393f.