研究活動

研究活動

「教会とインターネット」、『福音と世界』、新教出版社、1996年11月号

<インターネットとは何か>
 インターネットという言葉は、すでに説明抜きで語られる日常語の一つになりつつある。それが社会の趨勢であるにしても、インターネットがテレビやビデオのような家電的存在となり、生活風景の中に溶け込むまでには、まだしばらくの時が必要であろう。それだけに、インターネットが意識の背後へと潜伏してしまう前に、そのエッジをとらえ、適切な距離感を保つことが今わたしたちに必要とされているのではなかろうか。
 ところで、インターネットとは何か、最初にその歴史的経緯を概観しておこう。インターネットは今日のように大衆化するする以前、別の顔を持っていた。もともと、それは六十年代末から米国において軍事目的に開発された広域コンピュータ・ネットワークであった。当時は核による先制攻撃に対し、指揮系統のダメージを最小限におさえる方法が模索されていた。もしコミュニケーション網が一極集中型であれば、小さな中枢部の破壊が全体の機能麻痺をもたらす。その危機を未然に防ぐために分散型のネットワークが必要とされたのである。このような経緯を経て確立されてきた技術が、アカデミックな世界を中心にその版図を拡大し、次第にインターネットと呼ばれる世界規模のネットワークを形成することになった。特に近年、「ホームページ」(インターネット上で視覚的に情報を提供するための情報画面)が普及したおかげで、一般の人々も気楽にインターネットを利用することができるようになったのである。

 また、インターネットの黎明期には、大型コンピュータに対抗する形でパーソナル・コンピュータが誕生しようとしていた。それは大型コンピュータに象徴される中央集権政治に対する一種のカウンター・カルチャーでもあった。コンピュータが最初からサブカルチャーとして根付いている日本の状況とはある意味で対照的だと言える。この違いはインターネットの利用形態に関しても、自ずと反映されることだろう。日本では流行に遅れまいとする全体的雰囲気にのみ込まれるかのようにインターネット利用者が増加していった。インターネットが同質的な文化形成に寄与するだけでなく、むしろ、同質的なものの中で見落とされがちなヘテロな(異質な)部分をすくい上げる力を潜在的に持っている点を、わたしたちはもっと積極的に受けとめていかなければならないだろう。それは、体制に準ずるサブカルチャーに甘んじていては達成することのできない課題である。
 インターネットはおもしろい。そして、いくつもの可能性を秘めている。しかし、同時にインターネットは決してユートピアでないことにも注意を喚起しておきたい。そこでは、わたしたちの社会にあふれている様々な幻想や欲望が同様に渦巻き、いや、むしろ巧みに増幅されてわたしたちの感性を魅了する。悪魔的な力の出現はこれまで以上に巧妙なものとなるだろう(この問題に関しては西垣通、『聖なるヴァーチャル・リアリティ』、岩波書店、一六二頁以下の叙述がすぐれている)。ここでも教会の信仰的洞察力が試されているのだ。

<教会のインターネット活用例>
 今やインターネットの世界は、そこに見いだすことのできないトピックスは存在しないと言われるまでに多様化した。世界を見渡してみると、教会やキリスト教関係の組織も実に積極的にインターネットにかかわっていることがわかる。インターネットでは「世界を見渡す」と言っても、現地に足を運んだりする必要はない。Yahoo!
など、サーチエンジンと言われる検索用のホームページで、churchやchristianityなどのキーワードを入力し検索してみよう。世界中にあるキリスト教関係の情報が数百件はヒットするはずだ。また、すでに宗教やキリスト教で分類されたディレクトリー情報もある。あとは目当ての情報をクリック(マウスのボタンを押すこと)すれば、その場所へとジャンプして、詳細な情報を手にすることができる。
 しかし、サーチエンジンによって検索された情報や既成のディレクトリー情報は玉石混淆であり、初心者にしてみれば一体どれから手をつけていったらよいのか途方にくれるのが実情であろう。そのようなときには、経験者の見識によって分類・整理された情報が非常に役に立つ。少々、我田引水になるかもしれないが、世界のキリスト教関係の情報なら、同志社大学神学部ホームページのリンク集が使いやすいだろう。これは神学部の野本真也教授によって、かなり頻繁に更新されているものであるが、リンク先の内容に関する踏み込んだ解説がある点で重宝する。また、国内のキリスト教関係の情報であれば、後に紹介する「教会と神学」ホームページの国内リンク集が役立つだろう。
 教会のインターネット活用例の実際は、それらのリンク集や各種サーチエンジンを利用すれば一目瞭然であるが、ここで一応の傾向性を評価しておこう。まず、カトリックとプロテスタントとの対比で見てみると、カトリックの方により積極的な取り組みが見られる。バチカンも最新の回勅を始め、膨大な歴史的文書をホームページで公開している。ローマ教皇に直接電子メールを送れるというのも魅力的で(教皇が直接に目を通すのはごく一部のはずだが)、開設以来、かなりのアクセス件数があると聞いている。もっとも、インターネットの世界では、バチカンの統制から比較的自由にされたカトリックの多彩な現場を垣間見ることができことに新鮮さを感じる。カトリック教会が最新のメディアに敏感なのは偶然ではないだろう。もともと絵画や音楽を宣教の重要な要素としてきた伝統は、マルチメディア的な思考を先取りしていたとさえ言える。

 プロテスタントの場合、福音派の教会が果敢にインターネットでの宣教を展開している。それに比べると、伝統的なメインラインの教会は後手気味だ。「言葉」に集中するというプロテスタント的な堅実さが災いして、マルチメディア的な表現の前で気後れしてしまうのだろうか。しかし、同じく言葉に深くかかわってきたユダヤ教の中に、きわめて積極的な姿勢を見ることができるのは興味深い。いずれにせよ、インターネットは伝統的な信仰表現や宣教形態を問い直す刺激に満ちていることを感ぜずにはおれない。

<「教会と神学」ホームページ>
 ここで具体的なホームページの紹介として、わたしが開設している「教会と神学」ホームページ
を取り上げてみたい。内容に関しては実物に触れていただくのが一番であるが、とりあえずメニューに沿って概要を述べてみよう。
1)キリスト教関連情報
 わたしが日本基督教団に属しているため、教団の教会関係の情報が目立ちがちだが、エキュメニカルな姿勢が基本にはある。実際、「国内のキリスト教関係サイトへのリンク情報」では多様な背景を持った個人や組織を知ることができる。毎週、新着ニュースが追加される「世界キリスト教情報」では、同じ時代に生きる信仰者たちの生きざまや葛藤に触れることができるだろう。牧師にとっては、聖書研究や説教のネタになるかもしれない。

2)キリスト教芸術
 「キリスト教音楽」では、『讃美歌』のローマ字化ファイルをダウンロード(自分のコンピュータに取り入れること)できる。それを印刷すれば、日本語を読めない礼拝出席者に重宝されるだろう。また、特定の語句を含んだ讃美歌を検索することもできる。「キリスト教芸術」には、クリスチャン画家、岡田利彦氏の作品を展示している。ロゴスに加え芸術的パトスによってキリスト教信仰を表現することは、マルチ・メディアの時代に適っていると思われる。
3)キリスト教書籍情報
 「新刊情報」でキリスト教関係書籍の最新情報を知ることができる(北海道キリスト教書店からリンク)。「神学関係の文献情報」では、牧師および研究者向けの専門的な文献をリストアップしている。
4)キリスト教神学
 「神学研究ライブラリー」では神学論文やエッセイなどを掲載している。「説教ライブラリー」は樋口進氏(室町教会牧師)とわたしの説教、総数一七七編を掲載している。さらに充実させて、説教者の実用に耐え、同時に信徒や関心ある人々の信仰の養いとなるものにしたいと考えている。

 「教会と神学」ホームページは、決して工夫を凝らしたページではないが、昨年九月の開設以来の訪問者数は一万人を越えた。その訪問者の方々から、これまで多数のメールをいただいてきた。それを通じて、わたしはエキュメニカルな交わりの可能性をかいま見た気がする。現実生活ではおそらく出会うことのない他教派の人々と気さくなやり取りを重ねていく中で、従来なら諦めがちに承認しなければならなかった教派間の壁が、それほど頑強なものではないことに気づかされたのである。もちろん、固有の信仰理解を安易に相対化することはできない。ただ、時代が要請する課題は、教派的枠組みの中に分類され、吸収されないほどに巨大であり、流動的であることをインターネットは端的に感じさせてくれる。教派的区別を縦断する新しいカテゴリーが生まれつつあるのだ。

<ホームページの作り方>
 ところで、ホームページを見るだけでなく、それを作るために、どれほどの労力が必要なのだろうか。結論を先に言えば、ワープロで文章を書ける人なら誰でもホームページを作ることができる。ホームページはHTML(HyperText Markup Language)という言語で記述されなければならないが、今ではそのような言語を意識することなくホームページを作成できる便利なソフトが続々と出ている。最新のワープロソフトのほとんどが、作成した文章や画像をHTMLに変換する機能を備えている。また、インターネット・ブラウザー(ホームページなどを見るためのソフト)の代表格であるネットスケープ・ナビゲーターにはホームページを作成する機能を内蔵したものもある。経験者による若干の指導のもと、これらのソフトを用いれば、まったくの初心者であっても一時間ほどで自分自身のホームページを作ることができるはずだ。


<ヴァーチャル教会の可能性>
 では、インターネットを教会はどのように活用することができるだろうか。まず考えられるのは、ホームページによる教会の案内である。教会の所在地や活動を、きわめて廉価に不特定多数の人に伝達することができる。紙メディアにはない手軽さで教会の現状を知らせることができる。
 教会にまったく行ったことのない人が、教会の門を初めてくぐろうとするときに感じる不安の大きさをしばしば耳にしてきた。何かを期待しつつも、教会の実態がよくわからないというのがその理由である。ホームページ上で教会に対する具体的イメージを少しでも持つことができれば、不必要なストレスは軽減されるだろう。現に、ホームページを見て初めて教会を訪ねたという人や、洗礼を受けながらも教会から遠ざかっていた人が、ホームページを見て、再び関心を取り戻した例をわたしは知っている。それを一部の例外と見なすか、あるいは時代のしるしと見なすかは、教会の宣教姿勢にゆだねられている。

 また、ホームページを通じて、これまで知り合うことのなかった教会同士が、互いの関心に共通点を見いだし、新しい交わりを形成する可能性も考えられる。ヴァーチャル(仮想的)な交流は、現実世界での出会いを潜在的に準備している。
 このように、インターネット上のヴァーチャル教会は現実の教会を補完する。J・モルトマンが言うように、キリスト教がより大きなキリストを見いだすための道であるとすれば(『イエス・キリストの道』、新教出版社、四二六頁)、キリストの体なる教会がヴァーチャルな世界へとその身体を拡張していくことは自然な帰結である。ただし、教会は時代の潮流に迎合してヴァーチャルな教会を志向するのではなく、本来、教会はリアルとヴァーチャルを自由に行き来する感性をイエスから譲り受けていることに十分な根拠を求めるべきだろう。

 ところで、インターネットは既存の教会の情報発信を支援するだけでなく、教会という形を取る以前の、あるいは伝統的な教会という枠に収まりきらない「うめき」(ロマ八・二六参照)をつなぎとめる力にもなり得る。キリスト教信仰に根差した様々な奉仕活動が今も各地で営まれている。組織化されず、また礼拝がなければ、教会という名は与えられない。しかし、教会という名を持たない信仰共同体は確かに存在している。そのヴァーチャルな存在の仕方はインターネットと親和性を持っている。ヴァーチャルとリアルの間の往復運動が活性化するとき、教会は聖なる体を新しい形で提示することができるのではなかろうか。

<インターネットの神学的意味>
 最後に、インターネットに象徴されるメディア転換のはざまで、キリスト教宣教がどのような影響を受けるか考えてみたい。インターネットでは、これまで関心によって住み分けられていた様々な領域が平準化され、横一列に置かれる。いかに宗教的なメッセージであっても、それがセキュラー(世俗的)な土台の上にあることを意識しなければならない。それは、とりもなおさず、自分たちが伝統的に使ってきた当たり前の言葉を再検討することにつながっていく。仲間内でしか理解されない「暗号」で記されたメッセージは、インターネット時代にふさわしくないのだ。「受肉」、「あがないの死」、「復活」などの言葉が、いかにキリスト教信仰に重要であるとしても、それらをそのままホームページ上に書き移すだけなら、一般の人々に意味のあるメッセージとはならない。まったくセキュラーな舞台の上で、信仰内容について自然な言葉で対話することが求められているのである。

 しかし、それは信仰形態を時代に適応させることではない。そのような早急さは信仰を貧困にしかねない。むしろ、わたしたちの課題は、歴史的に継承している豊穣な神学的遺産を現代の光のもとで活性化することである。ヴァーチャルという概念は、すでに中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入されていた。また、「見える教会」と「見えない教会」という区別は、リアルとヴァーチャルの間で展開されるダイナミズムを前提にしている。聖餐論争においても、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血がどの程度リアルに存在しているかを論じて思索が重ねられていったのである。時代を先取りするような思考過程がキリスト教信仰の中には無数に存在しているのだ。インターネットは、そういった遺産を歴史の夾雑物の間から解放し、新たに活性化するための「触媒」となり得る。そのように、自らの信仰に内蔵されている多様な素材を活用してこそ、わたしたちは借り物ではない自分自身の言葉で、神の国のリアリティを語り始めることができるのである。
 イエスが宣べ伝えた神の国のリアリティに通じる者は、どのような時代の先進性より、なお先を洞察することができるという、ごく当たり前の信仰的事実を、インターネットは新鮮な形で思い起こさせてくれるのだ。