小原克博 On-Line

研究活動

研究活動

「インターネット時代とキリスト教」、『キリスト教年鑑1997』、キリスト新聞社

◆インターネットの利用状況
 インターネットが身近なものになるにつれて、日常生活のあらゆる関心がインターネット上で表現されるようになってきた。キリスト教もその例外ではない。Yahoo!
などの代表的な検索サービスで、churchやchristianityなどのキーワードを入れて検索してみれば、そのことは一目瞭然である。とても一度では見ることのできない何百、何千というホームページのリストを目の当たりにすることになる。そこには、砂漠の真ん中にある修道院の生活を紹介したものもあれば、大都会にそびえたつメガチャーチのメディア戦略の一端を担っているものもある。今まで気にとめることのなかった神学部・神学校などが、目を見張るような情報を発信していることに驚かされることも少なくない。あふれるばかりの情報は確かに玉石混淆であるが、キリスト教が世界の各地で躍動している息遣いをこれほど身近に感じさせてくれるものが、これまで存在したであろうか。

◆インターネットがもたらす世界
 インターネットによって生み出される仮想空間は人々を日常的現実の束縛から解放し、ある種の「安息」を与える可能性を秘めている。わたしたちは日常生活の中で、どれほど自分だけの自由な空間を持っているだろうか。例えば、通勤・通学ラッシュ時の電車の中では、皮膚の限界内に閉じ込められた身体性を否応無しに感じさせられるが、それは都市生活における過密な人間関係を象徴している。それゆえ、広大無比な仮想空間への没入が、ある意味において「いやし」として機能するのだ。そこでは、ヴァーチャル(仮想的)に傷をいやされた者が、新しい活力を得て現実生活に戻っていくということも起こり得るだろう。
 他方、現実と仮想の間を行き来する道を見失い、ヴァーチャル世界から帰還不能になることも考えられる。これは未来予測ではなく、すでに起こっている。もっともインターネットが浸透している米国では、インターネット中毒患者(コンピューターから離れることができない、電子メールが届いていないと落ち込むなどの症状を持つ)が続出し、大学などではそのための専用カウンセリング・ルームまで設置されているという。程度の差こそあれ、同じような事態が、これから世界の各地で進行することは想像に難くない。「電脳地獄」とでも呼べるような世界がそこには待ち受けている。しかし、そこにも「救い」が必要だとしたら、キリスト教にとってヴァーチャル世界は、無視することのできない宣教エリアの一つとなるに違いない。


◆ヴァーチャルなものへの指向
 ところで、ヴァーチャルな世界との関係は何も近年になってようやく始まったものではない。原始的共同体において、人々は仮面をかぶり、歌い、踊って、聖なる世界を共有していた。高くそびえ立つ教会堂の中で、荘厳な音楽を背景にミサを行う風景の中にも、同じような構造が存在している。確かに、ヴァーチャルなものへの指向は宗教現象において先鋭化して見られるが、わたしたちが優れた文学や芸術などに出会うときにも、やはり日常とは異なる世界へ連れ去られていくことを楽しんでいるのである。最近、話題になっているヴァーチャル・リアリティも、太古の昔から人間が共感しあうために用いてきた技法を、現代人に身近な手段を用いて応用しているのだ。ヴァーチャルなものへの渇望は、人類の歴史の中にすでに深い根を張って存在している。それだけに、インターネットなどによって形成される仮想空間は、単なる一過性の遊戯場にとどまらず、人間の精神の深部に至るまで影響を及ぼし得るのである。

 
◆イエスの教えのヴァーチャルな側面
 もっとも、インターネットによってもたらされる新しい世界に対し、キリスト教も先例を持っていないわけではない。それどころか、キリスト教信仰の根底には実に豊かなヴァーチャル思考が潜んでいるのだ。イエスは神の国の到来を告知し、神の国を多くのたとえで語った(マルコ4:34「たとえを用いずに語ることはなかった」)。たとえは<誰にでも理解できる日常的な素材>で構成されている。イエスはたとえで語ることによって、日常世界のただ中に神の国のリアリティをもたらし、聞く人々の間にそれを<共有>させようとした。
 その際、イエスの創出する神の国のリアリティは、熱心党やクムラン教団など、当時の諸集団の主義主張と異なり、何が現実で、何がヴァーチャルなのか、という二者択一的な問いを拒絶する。イエスの教えは聞き手の日常を異化することによって、聞き手を日常と非日常の間にできた空所へと引き込む。そして、まさにそこにおいて、ヴァーチャルなものをリアルに感じさせようとするのである。

 イエスが示した、このダイナミズムを、わたしたちは現代において活用するよう求められているのではなかろうか。

◆インターネットへの挑戦
 インターネットの世界では、もともと人間の中に重層的に畳み込まれていた様々な欲求が、平面的に展開されている。高度に学問的な内容も、卑俗な欲求の発露も、ネットワーク上では対等の位置を占めている。ネットサーファーを気取っても、宝を発見するどころか、巨大な欲望の渦の中に引き込まれ、情報の大波に呑み込まれることになりかねない。
 キリスト教はグーテンベルクの活版印刷という技術革命を契機として聖書の普及を図ってきた。今また新しいメディアを手にして、それを宣教のために活用しようとしている。そして、すでに多くのキリスト教関係のホームページが大量の情報を流している。しかし、大量の情報は人々を困惑させることにもなる。情報は適切に組織化されることによって、つまり、意味の結節点によって有機的につなぎとめられることによって、わたしたちに意義のある<知識><知恵>としての様相を表してくるのである。わたしが「教会と神学」ホームページ
を開設し、また、同志社大学神学部ホームページの作成にかかわっている経緯も、このような事情と関係がある。

◆メディア変換の意義
 もう一つ重要な問題は、ホームページのような電子メディアが、紙メディアでなされてきたことの単なる<写し換え>を越えることができるか、ということである。もちろん、過渡期においてホームページが電子紙芝居的なこっけいさを帯びることはやむを得ない。問題は、紙メディアから電子メディアへというメディア的転換が、メッセージそのものにどのような影響をもたらすかということである。インターネットでは、これまで関心によって住み分けられていた様々な領域が平準化され、横一列に置かれるからだ。いかに宗教的なメッセージであっても、それがセキュラー(世俗的)な土台の上にあることを意識しなければならない。
 それは、とりもなおさず、自分たちが伝統的に使ってきた当たり前の言葉を再検討することにつながっていく。仲間内でしか理解されない<暗号>で記されたメッセージは、インターネット時代にふさわしくないのだ。「受肉」、「あがないの死」、「復活」などの言葉が、いかにキリスト教信仰に重要であるとしても、それらをそのままホームページ上に書き移すだけなら、一般の人々に意味のあるメッセージとはならない。また、イエス自らが日常的なたとえを用いるということで先例を与えた<福音のメディア的先進性>をないがしろにしてしまう恐れすらある。

 だからと言って、キリスト教信仰を説明するための<電子メディアに乗りやすい言葉>を案出するよう求められているのではない。まったくセキュラーな舞台の上で、信仰内容について自然な言葉で対話することが求められているのである。さらに言うなら、その場合の対話は、もはや文書的な手段に限定されはしないだろう。イメージや音声を含め、人間の身体感覚に連動する情報を伝えるために、ヴァーチャル・リアリティ技術を始めとする、様々なマルチ・メディアを利用することが可能だからである。それによって、文書情報によっては形成され得なかった、はるかに広範なヴァーチャル・コミュニティーを生み出すことも考えられる。
 わたしたちはキリスト教信仰の証言を、伝統的表現の暗号から解放し、人間の自然な認識の上に着地点を見いださなければならない。そのような解放をインターネットというメディアが促していることに気付くことによって、わたしたちはメッセージそのものへの洞察を深めていくことができるのではなかろうか。