研究活動

研究活動

「創造信仰と自然科学――ヴォルフハルト・パネンベルクの創造論における対話の試みから」、『基督教研究』第58巻第1号

Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 創造論の類型
Ⅲ 三位一体論的創造論
Ⅳ 自然科学との対話
Ⅴ まとめと展望


Ⅰ 問題の所在
 現代物理学によって、宇宙の始まり、生成の過程、その終焉について、我々はどれほど具体的なイメージを与えられたことだろうか。もちろん、そこにも諸説があり、必ずしも確定的な宇宙像があるわけでない。しかし、それ以前なら、きわめて形而上学的な響きに満たされていた宇宙が、今や、日常的な言葉で説明可能な対象として話題にされる。しかも、宇宙のメカニズムを知ることは、現代人の知的好奇心をすこぶる刺激する。いや、現代に限らず、日常生活の不確かさをはるかに越えた悠久の秩序をほのめかす宇宙(コスモス)は、いにしえの時代より人の心を魅了してきたと言うべきだろう。
 ところで、宇宙や生活空間としての世界(地球)に対し、様々な科学的説明を与えられている我々にとって、聖書が語る「創造」はどのような意味を持つのだろうか。この問いが、本論文が追究する関心の発端となる。宇宙・世界についての科学的理解と、神の創造を前提とする聖書的理解とは、二律背反的な不和を引き起こさざるを得ないのであろうか。

 他方、創造という言葉は聖書的コンテキストを離れて、他の宗教的伝統や神話の中にも豊かな類例を見いだす。自然科学上の発見が聖書的世界理解を相対化していったように、世界における様々な諸宗教との出会いは、キリスト教信仰に同様のコペルニクス的転換点をもたらしたと言える。そのような時代状況の中で、キリスト教が創造概念を独占的に語り得る中心的定点であるかのような主張をすれば、それは独善的な響きを持つことになりかねない。
 このように、自然科学によって発見された新しい世界理解と、宗教学などによって開拓された多様な世界理解にキリスト教的創造論が取り囲まれていることを、まず直視しなければならない。その上で、創造論は、自然科学や宗教学に迎合するのではなく、それらを超越するのでもなく、むしろ、互いに通底しているリアリティを明らかにしていく必要がある。なぜ人は創造論を必要とするのか、また、なぜ宇宙や世界の秩序を知ることを欲するのか。それらに共通する理由の一つとして、日常生活の中でしばしば唐突に、そして不可避的に直面させられる<秩序の危機>をあげることができる。我々が生きている世界の様相が永遠不変のものであるなら、創造論や世界の根底にある秩序への憧憬は、その必然性を失うであろう。しかし、現に人間は太古の昔から、秩序がいつも危ういものであり、また、時として崩壊を望まれるものであることを知っていた。例えば、多くの神話の中でコスモスは定常的な存在として静的に描写されるより、かえって、それは再創造されることなしには崩壊する危ういものとして動的に把握されている。カオスから生成されたコスモスが、その歴史過程の中で、再度、カオス的な状況へと変容し、再生

の機会を与えられる。神話などに見られるカオス――コスモス――カオスという交代図式は、現代の標準的宇宙論を先取りしているとさえ言える。
 キリスト教は創造者なる神の概念をユダヤ教的伝統から継承し、さらにイエス・キリストとの関係の中で再解釈していった。その際、イエス・キリストというロゴスによって、世界の中のカオス的要因が取り除かれたのではない。むしろ、今ある秩序が、終末論的未来に向かってどのように動的に変容し、そして完成させられていくのかに関心が寄せられた。その際、創造・救済・和解という伝統的な時間区分がそれぞれ父なる神、子なる神、聖霊なる神に対応させられ、歴史の推移は三位一体論的な視点からとらえられた。神論との交錯点を持つことによって、創造論の射程は世界の始まりに限定されず、歴史全体に広がっていく。

 これまで述べてきたような課題を意識しながら創造論について考察するために、本論文では特にヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg)の創造論を手がかりとしたい。彼は『組織神学』第二巻(Systematische Theologie, Bd. 2, 1991)で、これまで彼が取り組んできた創造論的課題を集約的に論述している。そこでは、自然科学との対話もきわめて積極的に取り上げられ、彼の関心の広さに驚かされる。また、彼がすでに第一巻において表明していた教義学全体に対する三位一体論的解釈の遂行が、創造論に関しても適用されていることは言うまでもない。彼の包括的な創造論に示唆されながら、現代世界において、我々がどのような創造論的課題を負っているのかを明らかにしていきたい。

Ⅱ 創造論の類型
 創造論と一口に言っても、それは歴史の中に多様な理解の痕跡を残している。ここでは、個別例を取り上げる代わりに、パネンベルクによって示されている創造論的類型に注目しながら、創造論の広がりに目を向けてみたい。それによって、創造論における伝統的な課題も明らかにされるであろう。


1)起源的創造(創造神話)と歴史において継続される創造
 パネンベルクは、イスラエルの創造信仰がエルやバールといったカナンの土着の神々に付随する創造神話の影響を受けて形成されてきたことを意識しながら、聖書的な創造信仰に内在する緊張関係を次のように指摘している。「神学は創造概念を世界の始めに限定してよいのか、あるいは、むしろ創造概念を世界の出来事における神の創造的行為の総括として解釈しなければならないのか、という問いが神学に対し投げかけられている。創造者としての神に関する聖書的証言は、この二つの見方の間にある緊張関係によって特徴づけられている」1。
 つまり、一方には世界の生成をその起源における神(神々)の働きに還元する視点があり、そこでは現在の世界のあり方を起源的過去にさかのぼって把握するのである。パネンベルクによれば、この視点はカナンの土着信仰の中だけでなく、創世記1章の祭司資料の中にも見られる。なぜなら、祭司資料は神の創造行為を、第二イザヤのように、歴史の上に新しさがもたらされることの類例や保証として語っているのではなく、現在に至るまで揺らぐことのない秩序を重要な対象として語っているからである。この点において、祭司資料は神話の宇宙生成論に呼応している。ただし、創世記の叙述におけるヤハウェの創造行為の無制限性(Unumschr舅ktheit)――それは創造や歴史における唯一なる神の行為についての詩編や第二イザヤの表現に対応している――のゆえに、祭司資料は他の神話と根本的に区別されるとパネンベルクは考えている2。

 他方、創造を世界の起源に限定せず、歴史全体の中で理解しようとする立場がある。パネンベルク自身はこの立場を取り、神話のように起源的太古に回帰するだけでは創造概念を知ることはできないと考える。なぜなら、彼の創造理解によれば「創造には今ある被造物の保持(Erhaltung)も含まれる。また、保持というのは、最初に基礎づけられた被造物の存在形態を変わらず守り続けることとして理解されるだけでなく、生きた出来事として、つまり、継続的な創造でありながら、それゆえ同時に絶えず最初の存在状態を越えていく新しい創造的形成としても理解される」3からである。ここでパネンベルクによって独自の意味を付与された「保持」という言葉は、さらに「世界統治」(Weltregierung)という概念と結び付けられて、パネンベルクの歴史理解の全体を覆っていくことになる。神の世界統治は、被造物の現実が変化しても、そこに変わらずある神の誠実を表現している4。世界の創造者としての神の責任は世界の起源において終了しているのではなく、歴史を通じて神は創造の意義を明らかにし、その意味で、神の創造行為は歴史の終わりに至るまで継続されるからである。神による被造物の保持も世界統治も、共に神
が被造物の生に参与する形態であるが、前者が起源に関連づけられ、後者が将来の成就を先取りし、それを目標とすることによって、歴史の全体が創造・保持・世界統治という創造論的枠組みの中で理解される。
 このようにパネンベルクは起源的創造と鋭く対比させる形で、自らの創造概念の歴史的広がりを叙述していく。しかし、彼はそれによって起源的創造の意義を完全に淘汰できるとは考えていない。むしろ、先の祭司資料の例に見られるように、聖書的創造信仰がこの両者の緊張関係を内包していることに留意しているのである。そして彼は、キリスト教の中にも起源神話への回顧があることを指摘している。例えば、キリスト教の祭儀、洗礼式、聖餐式において、キリストの出来事という起源的過去が繰り返し再現されている。しかし、同時にそれは過去の反復を越えて、来るべき終末論的未来を救済史的に指示するものでなければならないとパネンベルクは考えている5。創造論に負わされている起源的回帰点としての役割を意識しながらも、創造論を徹底して終末論との関係で論じる点にパネンベルクの特徴の一つがあると言えるであろう。


2)二元論的創造論と一元論的創造論
 先の創造論の類型が主として時間的な区分に基づいていたのに対し、第二の類型は空間的な出自に注目する。つまり、世界の由来を神のみとする一元論と、神と神以外の存在物の協同または闘争の結果とする二元論という創造論的類型を考えることができる。神話の創造物語の多くが二元論的、あるいは複数の神々が登場するという意味で多元論的であるのに対し、キリスト教の伝統では確かに一元論的な創造理解が支配的である。しかし、そこにも二元論的創造論がまったく見られないわけではない。時として二元論的創造論が要請される背景には神義論的な課題がある。すなわち、まったく善である神が創造された世界の中に悪や罪が存在するという現実を矛盾なく説明しようとするとき、悪の起源を神以外の存在に還元しようとするのである。

 パネンベルクはキリスト教における二元論的創造論の例としてホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)のプロセス哲学をあげている6。プロセス哲学における創造理解は一見すると、デミウルゴスが無形の質料を用いて世界を造ったというプラトン的な創造理解に相似している。しかし、有限な存在や出来事がそれぞれ創造的に自己形成すると考える点において、プロセス哲学はプラトン的な理解と大きく異なっている。プロセス哲学においても神は生成の起源であるが、神は被造物の自己形成に最初の目的(initial aim)を与えるという立場にとどまる。別の表現をすれば、神は「無からの創造」といった全能の力をもって創造するのではなく、「説得」(persuation)によって創造の中に働くのである。このように理解することによってプロセス哲学は、被造物の自立性を確保し、また同時に、被造物に愛をもって寄り添う神の姿を映し出そうとしたと言える。伝統的な創造論に対し、ある種の批判的な視点を提示したこの理解は、比較的広範囲に影響を及ぼしたが、それは逆に、伝統的な考え方が創造のダイナミズムを的確に表現できないでいたことを如実に物語っている。
 一方、パネンベルクは二元論的な創造論を基本的に拒否する。もちろん、その際、彼は単に一元論的であることに固執するのではなく、どのようにして神の創造に内包されたダイナミズムをキリスト教の神論や救済論との関係の中で描き出していくかに関心を寄せている。彼にとって聖書的な創造思想の特徴は、創造行為の無制限な自由である。それは具体的には神の言葉による創造によって叙述されている。確かに、言葉による創造は様々な神話の中にも類例が見られ、それだけでは聖書の際立った特徴と言うことはできないであろう。しかし、神の言葉だけですべてが生み出され、形成されていくという創造行為の比類のない自由さにこそ、他のオリエント神話には見られない聖書の特質があるとパネンベルクは考えている7。この自由が後に「無からの創造」(creatio ex nihilo)として概念化されるにせよ、それがすでに神の歴史行為と類比関係にあることを聖書は示している。例えば、詩編や第二イザヤなどは、歴史に介入する神の行為が人知を越えた新しい展開をもたらすことを、神の創造行為と類比させることよって強調している(詩74:12ff.、89:6ff.、77:12ff.、イザ43:19、45:7、48:7)。つまり、歴史の中に働く神
の驚くべき行為を体験することによって、イスラエルの民は天地創造の物語を追体験するだけでなく、創造のときに発揮されたすべてを凌駕する神の自由が、天地創造後の歴史をも覆い尽くしていることを告白していくのである。
 さらに、歴史上の様々な事象が唯一なる神の創造的自由のもとにあるという「一」性が、聖書の中ではかえって神の行為の複数性として表現されている点にパネンベルクは着目する。彼は詩編78:11、106:2、111:6などを引き合いに出し、そこで神の行為を表す一連の単語が複数形であることを指摘すると共に、それらを集合的複数(Kollektivplural)として総括する。そして、神の行為のこの集合的複数こそ「歴史」に他ならないと結論づけるのである8。
 そもそも「歴史」概念の聖書的位置付けは、『歴史としての啓示』(Offenbarug als Geschichte, 1961)以来のパネンベルクに向けられた争点の一つとなってきた。パネンベルクは、「神の言葉」によって聖書のメッセージを一元的に理解しようとしていた当時の潮流に対し、「神の言葉」という一般概念は聖書本文の中に見いだすことはできないと批判を投げかけた。つまり彼は、神の言葉が「聖書本文においては非常に様々に異なった仕方で理解されており、すでにそれらの内容を通し、また同じくそれらが意図として含んでいる様々な前提や帰結を通して、単なる言葉を越えた現実、しかもその言葉そのものを包括した現実を指し示している」9ことに着目し、その現実こそ「歴史」であると結論づけたのである。しかし、パネンベルクに対する批判者たちは、「歴史」概念こそ聖書に見当たらないのではないかと反論を繰り返し、パネンベルク自身は神の言葉か、歴史か、という二者択一的な論争の無益さを嘆いたのである。このような経緯を振り返ってみても、「歴史」という言葉によって指示される対象は、基本的に変わっていないと言えるであろう。

 しかし、神の行為の集合的複数性を指摘するパネンベルクは、歴史概念の再定義にとどまらず、さらに進んで、歴史に多様な差異・新しさがもたらされる根拠を三位一体論の中に追求しようとする。彼によれば、多様な神の行為に現れるそれぞれの新しさ、そして、神の行為が様々に区別されながらも統一的であることは、神の生の三位一体論的多様性に根拠づけられるのである。したがって、創造論における一元論か二元論かという緊張の中で、単に二元論を廃棄するのではなく、それが要請する課題を取り込みながら、一元論的創造論に内蔵された多元的・動的側面に光を当てようとする。総括的に言えば、彼の創造論は最初に取り上げた類型の中では終末論との結び付きを示したが、ここでは三位一体論的な解釈の可能性を示唆している。しかも、終末論と三位一体論それぞれと創造論との関係は別々のものではなく、相補的な関係にあることが推測される。そのことを意識しながら、次に創造論の三位一体論的理解について考えることにする。

Ⅲ 三位一体論的創造論
 創造ということが伝統的には父なる神の行為に帰せられてきたのに対し、パネンベルクは創造を三位一体の神の業として理解する。つまり彼は、世界の始まりから歴史の全過程を通じ、さらに終末にまで及ぶ神の創造のダイナミズムと多様性を、神の三位一体論的交わりのダイナミズムと多様性の反映として把握しようとする。ここでは彼の理解に依拠しながら、父なる神だけでなく、子なる神、聖霊なる神も、固有の仕方で創造に参与していることを明らかにしたい。それぞれの位格の創造論的働きを洞察してはじめて、神の創造行為を単に回顧されるべき過去としてではなく、現在の我々の生活を規定し、また同時に過去の規定から解放する出来事として認めることが可能となるであろう。


1)父なる神による世界の創造
 パネンベルクは、世界が神の自由な行為から生じたということを強調する10。つまり、神は何か内的な必然性があって世界を創造したのではない。換言すれば、たとえ世界が創造されなかったとしても神には何も欠けるところがないということである。創造の根拠に関する神の徹底した自由は、世界の存在の偶然性を示すというより、むしろ、被造物に与えられている自立性の根拠を暗示している。なぜなら、神は創造において自らを表し、被造物に対し自らの存在を「惜しみなく与えている」(gnen)からである11。
 創造に際して惜しみなく与える主体者としての神は、キリスト教の創造信仰の中では三位一体の第一格としての父なる神のイメージと結び付いてきた。その背景には、創造・救済・和解といった区分に対応するように三位一体の神それぞれの働きが分類されてきた影響を見ることができる。その意味では、創造者なる神を父なる神に特定する考え方の中には、すでに三位一体論的神理解が適用されていると言える。しかし、世界の創造を父なる神だけに限定することによって、創造者なる神の本来的な自由を表現する手段も同様に限定的なものになり、さらには創造理解そのものが観念的になりはしないであろうか。

 そもそも、キリスト教が継承したイスラエルの創造信仰は、神の歴史行為を体験する中に具体的な起源を持っていた。そのような経験を想起し共有することなく、神を世界の創造者として告白することはできなかったのである。また、イスラエルにとって創造者なる神は必ずしも「父」であったわけではない。むしろ、神概念が特定のイメージの中で固定的に考えられるのを防ぐために、つまり、偶像化されることを避けるために、神概念は「父」だけでなく様々な隠喩的表現を収集し、それらの相関関係の中で新たな表現・思想を拡張するという緊張の中に置かれている12。
 このようなイスラエルの創造信仰を、三位一体の他の位格とは孤立させられた父なる神にのみ担わせることには、かなり無理がある。パネンベルクは三位一体のそれぞれの位格が、発出や従属といった起源論的な分類に収まることのない、より複雑な関係の網目(Beziehungsgeflecht)を持っていると考える13。そのように理解すると、世界の創造に関しても、創造者なる神の自由や被造物に対する愛を表現するために、父の子に対する愛や、子の仲介による父と被造物の結び付きなどが積極的に参照されるべきなのである。そうすることによって同時に、創造の出来事は神話的過去の引力から逃れ出て、歴史の現実の中に着地点を見いだすことができるであろう。


2)子なるイエスの自己差異化
 パネンベルクによれば、子は父なる神の愛を受ける最初の対象である。父なる神は、子だけでなく、すべての被造物を愛するが、その愛は子によって仲介される。言い換えれば、子が被造物の中に現れることによって、被造物は父なる神の愛の対象となるのである14。ここでパネンベルクは、父なる神と被造物の間に越え難い隔絶があることを前提にしており、それゆえ両者を取り結ぶ子の働きが求められるのである。そして、彼が子あるいは永遠の子と呼ぶとき、それは地上のイエスとは意図的に区別されている。つまり、子は内在的三位一体論の枠組みの中で語られている。
 父なる神の永遠の子が果たす仲介者としての役割を指摘する一方で、パネンベルクが強調する子の働きは、子の神からの自己差異化(Selbstunterscheidung)である。すなわち、子が自らを単なる被造物として父から差異化し(受肉の出来事)、神のみを神とすることによって(イエスの生涯)、父なる神と自らの関係を明らかにし、また、そのアナロジーとして、父なる神と被造物の本来的な関係を指示するのである。子の神からの自己差異化は内在的三位一体論の中に存在論的な出発点を持っているが、認識論的には経綸的三位一体論からの視点を欠くことができない15。だからこそ、パネンベルクは、父の永遠の子についての表現はすべて、天の父とのかかわりの中で表された人間イエスについての表現に由来することに注意を向けるのであり、そのような前提のもとで、「イエスの父からの自己差異化に、何より、イエスが永遠の子であることの<認識の根拠(Erkenntisgrund)>がある」16と語ることができるのである。

 パネンベルクは、内在的三位一体論が歴史の地平から切り離され、被造物の認識能力を越えたところで前提とされることに異議を唱える17。しかし、地上のイエスの働きを認識の根拠とし、三位一体論を歴史に根ざした形で理解する限りにおいて、逆説的ではあるが、歴史性を越えたところに存在している父と子の本質的関係が洞察されるのである。そのような視点から見ると、世界の創造のとき、父は子なしに存在しているのではない。そして、父が子なしに存在しているのでないとすれば、「永遠の子は、神としての父から自らを区別するイエスが存在するための存在の根拠(Seinsgrund)となるだけでなく、すべての被造物の現実が多様であり、自立した存在であることの根拠にもなっている」18と言うことができる。端的に言えば、子の自己差異化が「被造物の存在の他者性と自立性の開始点」19を形成するのである。
 以上のことから、必ずしも明示的に語られていないにせよ、パネンベルクが創造論の中に、経綸的三位一体論が認識の根拠を与え、内在的三位一体論が存在の根拠を与えるという相補的な構造を見ていることがわかる。そして、その構造の中に子の自己差異化という概念を導入することによって、最初に述べた、父なる神と被造物とを仲介する子の役割はさらに厳密な意味を与えられる。すなわち、子による仲介は、一方では、神との相違を受け入れることによって被造物が神との交わりに向けて規定されるという構造的原形(strukturelles Urbild)として理解され(経綸的三位一体論)、他方では、被造物の存在そのものの根拠として理解されるのである(内在的三位一体論)20。このように双方向的な子による仲介を考慮に入れてはじめて、「創造は父の自由な行為としてだけではなく、三位一体論的な神の自由な行為として理解される」21と結論づけることができるであろう。
 また、それに加えて、子なるイエスによって開示される創造の三位一体論的構造が、終末論的地平に融合していることも指摘しておかなければならない。なぜなら、第一に、内在的三位一体論は経綸的三位一体論の終末論的形態として認識されるべきだからであり22、第二に、イエスの宣教において終末論が重要な位置を占めており、「創造もイエスにおいては終末論的未来の光の中に置かれ、神の支配のたとえとなっている」23からである。

3)現臨の原理ならびに関与の仲介としての霊
 子の自己差異化は父と被造物の交わりの条件を形成する。しかし、子が自らを父から区別するという自由な行為において父の意思に合致しているかどうかは、第三者によって表現されるのであり、それが父と子を一つににする霊の働きである。その意味で、子は霊の働きがなければ子としての位格に安定してとどまることはできない。このように、子の自己差異化によって立てられた条件に基づいて、父と子および被造物との交わりを実現するのが霊の働きである。それゆえ、パネンベルクは霊の働きを次のように要約する。「霊は一方では、超越的な神が被造物のかたわらに創造的に現臨する原理であり、他方、それは反対に被造物が神的な生――それゆえ生そのもの――に関与するための仲介である」24。この表現の中にも、子の自己差異化の場合と同様、内在的三位一体論と経綸的三位一体論の間を往来し、両者をつなぎとめる双方向的な霊の働きを見ることができる。もっとも、経綸的三位一体論の視点から、霊と被造物の交わりを歴史的に検証することは容易ではない。その課題を克服するために、パネンベルクは次の章で取り上げるように、霊に関する聖書的理解を近年の自然科学の概念を取り入れながら拡張し、現代人の

自然な認識の中に対応点を見いだそうとする。
 被造物が自らの存在の有限性、そして認識の有限性を前提にしながら、どのようにして超越的な神との交わりに到達するのかということは、キリスト教に限らず、地上にあるすべての宗教に課せられた普遍的な課題である。ここでキリスト教信仰の立場から、霊によって超越者との真の交わりを保証されていると言うことは可能であろう。しかし、そのとき、仲介としての霊が三位一体論的な相互関係から切り離され、ただ人間の恣意的な思いと超越者との間にある距離を短絡する手段として理解されているとすれば、いかに「霊」という言葉が用いられていても、それは聖書が偶像崇拝として拒否してきた内容を具現しているに過ぎない。パネンベルクは、膨張宇宙論(宇宙はビック・バンによって始まり、膨張し続けているという説)に言及して、被造物が多様であるためには互いに距離を取るための空間が必要であり、時間の経緯の中で生じた空間の拡大は、持続的な形態が成立するための基本条件であると述べている25。実際、彼は距離の問題を自然科学的な意味に限定するのではなく、三位一体論の展開の中でそれぞれの位格の間にある距離を前提にしながら、関係の網目の多様性を論じていくのであり、それゆえ、時として

相互の距離感を見過ごさせてしまう発出や従属といった概念を三位一体論の出発点にすることを警戒するのである。同様に、三位一体論的な創造者なる神と被造物との間にも距離を見ているが、それは無限なるものと有限なるものとの間の越え難い断絶として強調されるより、むしろ、その距離こそが、それぞれの多様性・自立性を支え、交わりの豊かさを生み出す条件と見なされている。
 このようなパネンベルクの理解をさらに展開していくなら、我々は霊の働きを距離の解消としてとらえるのではなく、むしろ、限りある身体に内蔵された超越可能性を引き出す力として把握することができるであろう。何より、我々の距離感覚さらに認識能力そのものは生来の身体的経験に由来しているのであり、その身体性を顧慮しない霊は三位一体論的であるとは言い得ない。ところで、我々の身体は皮膚の限界内で閉塞しているのではない。パネンベルクの言葉を借りれば、創造が生み出す生に内蔵されたダイナミズムは、被造物の自己超越がますます内面的に深められるプロセスとして描写されるのであり26、その意味で、我々の身体は、適切な距離、すなわち、相互の違いを保持し、自分自身と他者のアイデンティティを確保してこそ、多様な交わりを生み出す仲介としての霊によって、身体の超越可能性を映し出すことができるのである27。このように霊は、個々の自立した存在および身体性を顧慮する仲介であって、決して、身体性を希薄にすることによって神との接点を作り出す溶媒ではない。そのことは同時に、身体と身体とがその固有の輪郭を意識させられる共同体の中で、霊はいっそうその交わりの豊かさを立証

することができるということを示唆している。

Ⅳ 自然科学との対話
 現代の自然科学は、いくつかの科学革命を経た結果、今あるような細分化された姿を見せているが、自然科学を表すscientia naturalisが中世ヨーロッパでは「自然に関する知識」という意味で、自然哲学とほとんど同義に使われていたことからもわかるように、それはギリシア時代の自然哲学や自然神学に源流を持っている。ただし、ギリシア時代の遺産を直接継承したのはヨーロッパ世界ではなく、アラビア語を共通語とするイスラム世界であった。つまり、ギリシア時代の古典科学は主としてアラビア語を介して、12世紀以降、ヨーロッパのキリスト教世界にラテン語に翻訳されながら体系的に導入されていったのである。それが最初の科学革命をもたらす契機となったわけだが、自然科学の研究成果が社会に影響を及ぼし、次第に人々の自然観を変容させていったことは言うまでもない。

 同様に、キリスト教神学、とりわけ自然理解に深く関与する創造論も、時代に応じた自然認識から影響を受けているが、そのような制約を理解した上で、神の創造を新たな知見に導かれて表現し続けていくことは、早急に信仰と科学とを峻別するより、はるかに多くの実りをもたらすと思われる。パネンベルクも、神学と自然科学との間に生じた疎外関係を継続的に克服していかなければならないと考えており、自然科学の諸分野の中でも、とりわけ創造論と親和性のある物理学を接点にして、神学と自然科学との対話可能性を追求している。
 確かに、ある段階から自然科学的思考は神学と対峙する関係に入っていった。その際、自然現象の中に神をどのように位置づけるかが争点となったのであり、特にデカルトにおいて、その転換点を見ることができる。デカルトによれば、世界の創造の後、神は世界の出来事に介入することはせず、世界で生じるあらゆる現象は、創造以降の事物の相互作用の結果として説明される。つまり、デカルトは、自然や宇宙を統御しているのは自然法則であると考える機械論的宇宙像の提唱者となった。デカルトは、自然を機械と見なすことによって、近代自然科学の方法論的合意を基礎づけたのである。彼の基礎づけは、一方で、人間中心的な自然観を排したという点で今なお大きな意義を持っているが、他方では、無神論的な自然観を生み出す傾向性を持っていた。後者の点を恐れた人物の一人アイザック・ニュートンは、重力のように物体の直接的な相互作用によらない力を、神の創造の力が継続していることのしるしと考えたが、皮肉なことに、彼はデカルト以上の機械論的宇宙像の大成者として歴史に大きな影響を及ぼすことになる。特に、ニュートンの慣性の法則によって、18世紀の自然科学は、宇宙が神によって創造され維持され

ているという神学的教理から決定的に解放されていくことになった。
 このような経緯をたどって、自然科学は脱神学化を果たし、また、神学は自らを自然科学とは違うものとして差異化することにより、独自の価値を表現する他なかったのである。自然の中で生じる出来事はその複雑さに応じて人間を不安にさせる。それに対し、自然科学は自然現象を分析し、その複雑さをより単純な原理へと還元し、それらを総合することによって、より明晰な世界像を構築する役割を果たしてきた。しかし、そのような自然科学が持つ分析と総合という方法によっても解消しきれない不可解さや複雑さを宗教が引き受けてきたと考えることもできる。例えば、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマン(Niklas Luhman)のシステム理論によれば、システムは、それがその都度の環境の複雑さを減少させ、そのことによって意味を有する場合に安定したものとなる。そして、宗教は「規定し得ない複雑さを規定し得るものに変形する」28機能を有すると考えられる。このように理解するなら、宗教と自然科学は互いに異なった道をたどりながら、実際には補完的な関係にあったと言うことができるであろう。

 しかし、そのような社会学的分析がたとえ妥当性を持っているにしても、パネンベルクは宗教の領域と自然科学の領域を単純に住み分けることに満足しない。なぜなら、彼にとって神は現実全体を規定する力であり、その限りにおいて世界を総体として理解することができるからである。その意味で、彼が神学と自然科学との接点を模索する動機は、彼の神理解に根拠づけられていると言うことができる。また、同様の関心がモルトマン(J■gen Moltmann)においては次のように表現されている。「神学は創造信仰を人間の実存の領域だけで提示し、自然の領域および人間と自然の関係に対しては提示することができなくなった。神がもはや『すべてを規定する力』でないならば、真理はもはや<一つ>の真理ではなく、救済は<全体>の救済ではない」29。
 したがって、神学と自然科学の関係を通約不可能(incommensurable)なものとして放置するのではなく、それを神論あるいは創造論の直接的な課題として認識していく必要がある。そのことを可能にしていくための素材が、自然科学の中にも、神学の中にもあることをまず感知しなければならない。例えば、先に述べたニュートンの慣性の法則をはじめとする古典力学は、現代物理学の場の理論や量子力学の登場によって、その位置づけを大きく変えられた。また、自然現象のふるまいを確定することが原理的に不可能であることが不確定性原理30などによって明らかにされた。最近では、カオス理論31や複雑系32への関心に代表されるように、世界を可能な限り小さく単純な断片に刻んでいくという従来の還元主義的手法を離れて、生命や生態系などの複雑さをその特性を生かしたまま理解していこうという態度も積極的に評価されるようになってきている。

 パネンベルクは、創造論との関係で、ビック・バン宇宙論33や宇宙の終焉34について言及し、また、地球外生命の存在の可能性――ただし、彼自身はその可能性に対して否定的である――とその救済論的意義35に及ぶまで関心を広げている。しかし、ここでは特に神学的認識に深くかかわってくる場の理論とエントロピー増大の法則(熱力学の第二法則)を具体的な考察の対象としたい。

1)場の理論と聖霊論
 古典力学において力の概念は、物体同士の直接的な相互作用として理解されていた。ニュートンは確かに物体同士の直接的な相互作用によらない力として重力の存在を発見したが、それを空間を通じて働く神の力と考えることによって、結果的に物体と区別された力の概念を導入することになった。しかも、後の物理学は、ニュートンの有神論的動機づけを裏切る形で、力をもっぱら物体に還元する方向で進展していった。すべての力が物体に由来するなら、自然現象は神とは完全に無縁である。神は物体であるとは考えられないからである。そして、このような自然観が一般的になるにつれて、神が世界の出来事に介入し影響を及ぼすという神学的見解が、まったく理解不能なものとして映るのは当然の帰結でもあった。
 ところが、ファラデー(Michael Faraday)以降、現代物理学の中に場の理論が登場するようになってから、物体と力の関係は大きく書き換えられることになる。ファラデーは、物体そのものを力の表現形態と見なす。つまり、力はもはや物体の属性ではなく、物体となる可能性を内在した自立的なリアリティとして位置づけられる。そして、その力によって満たされている空間を力の「場」と呼ぶようになったのである。さらに、アインシュタイン(Albert Einstein)の一般相対性理論(1915年)などによって、場の理論における力と時間・空間の密接な関係が記述されていった。

 パネンベルクは、こうした物理学上の新しい概念形成が物理学の内的要因によるだけでなく、形而上学的な由来を持つことを指摘する36。彼によれば、力の場というイメージは、万物はアルケーとしての空気が濃縮されることにより生成すると考えたアナクシメネスの教えにまでさかのぼり、また、万物に浸透し、様々な運動や特質を生み出す働きを持った霊についてのストア派の教えからも影響を受けている。他方、ストア派的な霊の教理は、初期のキリスト教神学にも影響を及ぼした。確かに、霊の物質的特性に関するストア的理解は、後期の古代教父たち(特にオリゲネス)によって批判されたが、場の理論では光や力を伝播させる媒質としてのエーテルの存在が特殊相対性理論(1905年)によって否定されているので、同様の霊のモデルを取り入れた現代物理学の場の理論とキリスト教の聖霊論の結び付きを妨げる根拠は存在しないとパネンベルクは考えるのである。それどころか、両者の間の関係は、中世に導入されたアリストテレスの運動論との関係よりはるかに密接なものだと言う。なぜなら、アリストテレスの運動論では、すべての運動、自然現象を引き起こしている根源的かつ超越的な不動の第一動者として神を考え
ており、物体の運動法則が根源者を仮定せずに説明されると、もはや神の働きについて語る余地は残されないからである。それに対し、場の理論では、単純に原因と結果に還元され得ない力の相互作用が問題とされるのであり、聖霊論との親和性を見いだしやすい。
 もちろん、物理学的な方法論と神学的な方法論との間に根本的な相違があることをパネンベルクは忘れていない。自然科学の基本概念を新しいメタファーとして取り入れながら、同時に神学独自の用語法を吟味することによって、十分に自立した神学的概念形成を進めていかなければならない。実際、三位一体の神の一位格としての霊は父あるいは子との関係において、人格的な本質を明らかにするのであり、それは場の力動的働きといった性格を越えている。パネンベルクによれば、「聖霊の<位格(Person)>は、場自体と言うより、むしろ神的実在の場の一回限りの顕現(単数)として理解されるべきである」37。ここでパネンベルクはPersonというラテン語のpersonaに由来する言葉を使っているが、パネンベルクの位格理解は、興味深いことに、むしろpersonaの翻訳元となったギリシア語ヒュポスタシス(u`po,stasij)を想起させる。なぜなら、ヒュポスタシスは、その用語法のもっとも早期において、つまり、ギリシア初期の自然哲学や医学の中で、液体の中の沈澱物、濃いスープ、膿などを意味することができたからである38。それは、流動的なものが固体化するというイメージであり、この基本的イメージはこの言葉が

ェ哲学的に用いられるようになっても残り続け、ニカイア公会議以降の神学の中で、三位一体論が一実体で三位格(ヒュポスタシス)と表現される中にも概念的な影響を及ぼしている。それに対し、ペルソナは元来、舞台劇で用いられる仮面の意味を持っており、確かにペルソナも、ヒュポスタシスと同様、交流の中の一結節点としての存在、流動する場の中で形成される個を示している。しかし、ヒュポスタシスに内包される東方的要素を引き受けたはずのペルソナは、西欧の中世から近代の歴史の中では、意味の重層性を失い、単に人間論的な術語として、あるいは端的に個(individuum)を指示する言葉として一般化していく。したがって、我々が現代において位格(ペルソナ)という概念を理解しようとするとき、それがたどってきた思想史的な変遷をさかのぼり、それが本来持っていた豊穣な意味世界を再構成しなければならない。しかし、同時に、場の理論を用いたパネンベルクの位格理解に示唆されるように、本来的な意味の弾性を失いつつある伝統的概念を、自然科学に由来する(しかし、実際には神学も同根の起源を共有している)まったく別様のメタファーあるいはモデルの中に付置することによって、その意味世界を
ト活性化することのできる可能性にも十分に目を向けていかなければならないのである。
 さらにパネンベルクは、力動的な霊の働きの場から、自立した被造物が多様に生み出されていく過程を「情報」概念によって説明しようとする39。それは被造物の生成・変化を決定論的に規定する作用因ではない。もし、そうならば、それはアリストテレス的な運動論の範疇にあることになる。むしろ、パネンベルクはアリストテレス的な規定を越え出ることを意図しているのであり、それゆえ、情報概念を不確定性原理のもとで理解している。つまり、被造物の生成・変化は、<閉じたシステム>の中で第一原因によってすでに決定された道筋をたどっていくことではなく、<開かれたシステム>の中で、三位一体論的な交流および被造物同士の交流から生み出される様々な選択的未来を情報としながら、単なる因果法則に還元しきれない多様性と自立性を獲得していくことなのである。


2)エントロピー増大の法則と悪の起源
 エントロピー増大の法則によれば、系の無秩序の度合いを表す物理量であるエントロピーは時間と共に不可逆的に増大する。つまり、閉じた系は最終的に、あらゆるものの温度が等しくなる熱平衡状態に至り、あらゆる差異が解消された無秩序状態となるのである。しかし、この物理法則がボルツマン(Ludwig Boltzmann)によって発見される前から、形あるものがその形状を失い、無に帰していく宿命にあることを人間は経験的に知っていた。聖書の中でも、神がアダムに向かって言われた言葉「塵に過ぎないお前は塵に返る」(創3:19)や、「被造物は虚無に服している」(ロマ8:20)というパウロの言葉において、そのような事態が端的に表現されている。確かに、個体レベルにおいては、あるいは閉じた系の中ではエントロピーの増大に逆らうことはできない。しかし、全体としては、原子から惑星が誕生し、また単純な生命体から多様な進化を経て人類に至るように、より複雑な秩序へと移行する過程が存在している。そのような、より複雑なものを志向する構造化は開かれたシステムの交流によって可能になるのである。ただし、構造化の働きは、古いものを部分的に破棄するというエントロピー増大に依拠しつつ、新し

いものを生み出しているのであり、その意味では、構造化とエントロピー増大は決して二律背反的な原理ではなく、創造に関して相補的な役割を果たしていると言える。
 パネンベルクは、エントロピー増大の法則から悪の起源を考察する。そもそも、キリスト教神学の中では、悪を存在論的に神の被造物の一つとして考えることを避け、被造物の有限性を悪の根拠と見なす傾向があった。ネオプラトニズムの影響のもとでは、悪は存在の欠如としても表現された。しかし、パネンベルクによれば、悪の根拠は、被造物の有限性にあるのではなく、むしろ、有限性を受け入れることを拒み、神のごとくあろうとする幻想にとらわれている点にある。被造物は一方では、自立した存在となるように創造されているが、他方、その自立性の中に神から離反する可能性も含んでいる。すなわち、創造者との交流に生きる創造の本性に根差した自立(Selbst舅digkeit)から自己絶対化・自己神格化につながる自立(Verselbstst舅digkeit)へと移行する中に、悪や苦しみの起源が存在するのである。しかし、被造物が後者の意味での自立を遂げることこそ、自らエントロピー増大の運命に服することに他ならないとパネンベルクは指摘する40。

 本来、継続的創造の一部を担うエントロピーの増大が、自己中心的な自立化作用と融合することにより、他者との交流を拒む悪の力として作用する。そのような形で自立性を肥大化させた被造物である人間は、今や自然の生態系が持つ自己生成・自己回復能力を上回るほどの勢いでエントロピーの増大を加速させ、自然を荒廃させようとしている。しかし、自らが生態系の一員であることを忘れ、孤立した人間中心主義の中で消費される利己的欲求は、いずれ人間社会そのものをエントロピー増大の破局へと導くであろう。それだけに、今、我々が担わなければならない創造論的課題は、決してキリスト教世界の中だけで自己充足するものではない。むしろ地球規模で広がっている具体的な終末論的危機を直視する中で、創造信仰の確かさを実証していかなければならないのである。

Ⅴ まとめと展望
 最後に、これまでの考察をまとめると共に、今後の課題を展望してみたい。
 我々は最初に、起源的創造と継続的創造の類型および二元論的創造と一元論的創造の類型を取り上げることによって、伝統的な創造論に内包されてきた課題を指摘すると同時に、それらの課題を引き受けたパネンベルクの創造論が、終末論的特徴と三位一体論的特徴を持っていることを明らかにした。さらに、創造の業を父なる神にのみ帰するのではなく、三位一体論的な神の相互行為として理解することを通じて、創造が目的とする神と被造物の交わり、そして被造物相互の交わりが、我々の身体に直接かかわる歴史的具体性をもって展開されていることを確認した。それゆえ、創造されたこの世界を、自然科学が対象とする物質世界と宗教が対象とする精神世界として二元論的に分節化することは、創造論的課題を矮小化し、かえって人間の自己欺瞞的な(神からの)自立を促進することになりかねないのである。

 現代の科学技術は、人間が自然のもたらす不確定要素に脅かされないように、できる限り自然環境に依存しない自立的な基盤を求めて進展してきた。しかし、その科学技術が現在、未曾有のディレンマに直面していることがしばしば指摘される。そのディレンマを一言で表現する視点として「不可逆性」を考えることができるであろう41。それは、ある技術を社会の中に取り入れ、制度化したために、社会の存在そのものが危機にさらされる事態が引き起こされ、しかも、引き返すことが不可能な状況を示している。その典型的な例として、核兵器による軍備拡大とその縮小の間にあるディレンマをあげることができる。また、生態系の危機が同様のディレンマに該当することは言うまでもない。いずれにせよ、人間は自らを守る脱自然的な秩序を打ち立てようとした結果、皮肉にも、制御しきれないほどの無秩序、偶発的危機を自らの内に招いてしまったのである。
 偶然性、無秩序など、西欧の近代科学が、人間の秩序を脅かすものとして排除してきた諸要素を、ここでカオスとして総称しておく。確かに、キリスト教の伝統的創造理解の中で、カオスは創造の光によって克服されるべき暗さとしてとらえられがちであった。しかし、「混沌」(創1:2)は決して神に敵対する対象としては描かれていない。むしろ、先に被造物の自己生成化作用の中にもエントロピー増大の法則が関与していることを指摘していおいたように、秩序とカオスとを二律背反的に区分し、秩序を善、カオスを悪と規定することに疑問を投げかける余地は十分に残されていると言えるであろう。
 何と言っても、東洋でカオスが語られるとき、それは必ずしも悪ではない。一例として、『荘子』の最後にある、混沌七竅(穴)に死す、という有名な話をあげることができる。南海の帝倏と北海の帝忽とが中央の混沌の地で会したところ、混沌のもてなしが良かった。そこで、その厚意に報いようと、視聴食息のための七つの穴を、日に一つずつ、混沌に穿ったところ、七日目に混沌が死んだという話である。ここでは、カオスが善であり、秩序づけの方が悪である。

 秩序とカオスのどちらを善とし、どちらを悪とするかにかかわらず、秩序は危ういもの、はかないものであり、カオスはより基底的、自然的なものである。西欧の自然神学は、はかない自然の中にも変わることのない秩序があることを見いだし、それを自然の本質として体系化してきた反面、カオス的なものを非本質的な負の要素として排除してきた。だからこそ、そのような態度が先鋭化された近代科学技術の生み出した様々なひずみを意識しながら、アジアに生きる我々は、カオスの動的側面を積極的に組み込んだ創造論を形成することを今後の課題として与えられているのである。カオスが秩序の動的性格の源泉であることを認識することによって、我々は自らが秩序の発見者であり、具現者であるという誤った自立意識から解放されるであろう。キリスト教の創造論に即して言うなら、このカオスこそが三位一体の神の関係の網目の複雑さのことなのである。



1 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, Gtingen 1991, 26.
2 Ibid., 26f.
3 Ibid., 49.
4 Ibid., 69.
5 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.1, Gtingen 1988, 204.
6 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 29ff. なお、パネンベルクはホワイトヘッドの文献として次の書を提示している。A. N. Whitehead, Process and Reality, New York 1960.
7 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 27f.
8 Ibid., 22.
9 W・パネンベルク編著、『歴史としての啓示』(大木英夫他訳)、聖学院大学出版会、1994年、274―275頁。
10 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 23, 33, 34.
11 Ibid., 34, 36.
12 拙論「神理解への隠喩的アプローチ」(『基督教研究』第56巻第1号、67―92頁所収)、特に72頁を参照。
13 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.1, 348.
14 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 36.
15 パネンベルクにおける内在的三位一体論と経綸的三位一体論との関係については拙論を参照。「ヴォルフハルト・パネンベルクの神論について」(『基督教研究』第57巻第2号、90―118頁所収)、特に107頁以下。

16 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 36.
17 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.1, 360.
18 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 38.
19 Ibid., 37.
20 Ibid., 44.
21 Ibid., 45.
22 拙論「ヴォルフハルト・パネンベルクの神論について」、111―112頁。
23 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 171.
24 Ibid., 47.
25 Ibid., 79.
26 Ibid., 48.
27 拙論「現代における唯一神論と多神論の相克――身体論的視点の可能性を求めて」(『基督教研究』第55巻第1号、64―81頁所収)の72―74頁において、身体の超越可能性の三類型について述べている。
28 N. Luhmann, Funktion der Religion, Frankfurt/M 1977, 20.
29 J. Moltmann, Gott in der Schfung. ヨkologische Schfungslehre, M■chen 1985, 49.
30 粒子の位置と速度のように、二つ以上の物理量を同時に確定することができないとする、ハイゼンベルクが1926年に唱えた量子力学の基本原理。この不確定性原理から認識一般の不確定性の問題が論じられるようになり、哲学などの諸分野に認識論的課題を投げかけた。

31 数学上のカオスとは、初期条件に対し著しい感応性を示す時間発展のことである。カオス的に振る舞う現象の場合、ほんのわずかの初期条件の相違が、極めて大きな差異をもたらし得る。元来、力学系を支配する方程式は、初期条件を与えれば、系の時間的発展は完全に決まってしまうというデカルトやニュートン以来の決定論的な世界観の基礎となっていたが、カオスは、それに挑戦する新たなパラダイムを与えるものとも見られている。このようなカオス理論は、生物や社会現象にも応用されている。
32 単純さを求めてきた物理学者の間に、新たな視点から複雑さを追究しようとする動きがある。1980年代以来、ノーベル賞受賞者を含むアメリカの物理学者数人の発案でサンタフェ研究所が作られ、複雑適応系(complex adaptive system)の研究推進を目標にしてきた。これは、複雑な系の中には生物や社会のように内部に判断機能をもち、外界に適応する能力をもつ存在があり、それらを研究対象にしようというものである。これまでの要素還元型とは違った新しい科学への発展が期待されている。

33 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 180f.
34 Ibid., 184ff.
35 Ibid., 95f.
36 Ibid., 101f.
37 Ibid., 104.
38 A Greek-English lexicon / compiled by H. G. Liddell and R. Scott, New (9th) ed., Oxford 1940, 1895.
39 W. Pannenberg, Systematische Theologie, Bd.2, 133ff.
40 Ibid., 199., cf. 118f., 135.
41 佐々木力、『科学論入門』、岩波書店、1996年、180―182頁。