小原克博 On-Line

研究活動

研究活動

「倫理的指標としての『からだ』」、『アレテイア――聖書から説教へ』No.22、日本基督教団出版局

1 はじめに

 キリスト教は、イエスの地上の生涯やイエスの「からだ」のよみがえりを重要な出来事として伝承し、受肉の教義を形成し、イエスの体を食し血を飲む儀式を典礼の中心に据え、教会をキリストの「からだ」と呼び、来るべき終わりの日に「からだ」のよみがえりを待望する。キリスト教信仰にとって「からだ」への洞察は、きわめて重要な位置を占めており、それゆえ、倫理的規範としての役割をも果たしてきた。しかし、他方、キリスト教的生活あるいは霊的生活というと、それは「からだ」や肉的なものに対する戦いと見なされることが少なくない。教会教父たちにしばしば見られるように、「からだ」は特にセクシュアリティとの関係から、積極的に拒絶の対象とされた。また、そのような形での「からだ」の拒絶が、男性による女性の支配や抑圧を宗教的に正当化してきたのではないかと、近年、フェミニズム思想から指摘されている。
 したがって、今日の複合的な諸問題に対し有効な応答をするためには、伝統的な「からだ」理解を踏まえつつも、それが内包するアンビバレントな側面を現代的な倫理によって際立たせ、そこから新しい規範性を形成していくことが求められるのである。


2 イエス・キリストの「からだ」

 われわれが信仰的視点から「からだ」について語るとき、ただ一般的な「からだ」だけでなく、イエス・キリストの「からだ」に注目することは不可欠である。ここではまず、イエスの受肉・十字架・復活という伝統的区分に従って、イエス・キリストの生に根ざした「からだ」の意味世界を展望したい。

(a)イエスの受肉
 イエスがその生涯において神の国の近さを説き、自らの身においてそれを実践した伝承は、後にヘレニズム的なコンテキストの中で、イエスは神が肉体となった方であるという受肉の考えを用いて表現されるようになった。それぞれのコンテキストの中で表現の位相は異なるが、いずれにしても、イエスの身体的活動を抜きにして救いを語ることはできないという了解がそこにはある。つまり、救いの出来事はイエスの「からだ」を基盤として展開されたのであり、また、そのイエスの「からだ」に自らの「からだ」全体をともなって連なっていくことが、イエスに従う者の信仰の具体性を形作っている。
 しかも、しばしば、それらの出来事は、触れてはならないとされた人々にイエスが触れ、また彼・彼女らがイエスに触れることによって成し遂げられた(マコ一・四一、五・二七、五・四一、六・五六など)。重い病気・障がいを負った者、死者、女性たちが、浄・不浄の規定によって、宗教的・社会的に触れてはならない対象とされ、周辺的存在として疎外されたのは、それらの人々が「からだ」の標準的指標から逸脱していると考えられたからである。その際、「からだ」の標準・規範とされるのは、言うまでもなく、支配的立場に立つ男性の「からだ」である。イエスは、社会的に疎外された人々と身体的に出会い、交わりを深めたために、支配的身体によって秩序づけられた聖と俗の境界領域をたびたび侵犯した。そして、イエスの「からだ」の越境的行為が、周辺にあって断片化されていた名もない「からだ」を呼び集め、そこから新しい「からだ」の共同体を形成していくのである。
 また、今日われわれがイエスの「からだ」を考える際に看過することができないのは、イエスのジェンダーをめぐる議論である。受肉したイエスは生物学的には男性であるが、特にフェミニスト神学から、キリストが男性であることが、結果的に男性の女性に対する優位を助長してきたという批判がある。それゆえ、イエスのジェンダーを中性的に扱ったり、あるいは、女性としてのイエスを想定するフェミニスト神学者たちもいる。こういった考え方の対極には、イエスが男性であったこと(また、弟子たちが男性であったこと)を根拠として、聖職者を男性に限定しようする立場がある。もし、われわれがこれら両極にはさまれた多様な議論の煩わしさを回避しようとして、性を超越した一見中性的な人間論を展開するなら、それは結局のところ男性優位の現状に荷担することになるであろう。したがって、われわれが「からだ」を考察する際には、性の問題を十分に考慮しつつ、かつ、特定の性の利益に還元されない視点が必要とされるのである。


(b)十字架につけられたイエスの「からだ」
 十字架につけられたイエスの「からだ」は、存在(あること)と所有(持つこと)の境界領域としての「からだ」の問題性をあらわにする。われわれは「からだ」によって何かを所有し、意のままにすることができるが、それを可能にしてくれる、その当の「からだ」が、現実にはわれわれの意のままにならない、という意味で、「からだ」は存在と所有の境界領域であると考えることができる。ところが、現代のわれわれの「からだ」理解においては、「ある」が「持つ」によって過度に侵食されている。何かを所有することが身体的実感を支えていると言ってもよいであろう。同時に、所有を中心とした身体観は、所有物を生み出す生産的な「からだ」を価値あるものとし、非生産的な「からだ」を周辺に押しやることになる。その際、生産的「からだ」は消費的「からだ」であり、何かを所有し、消費することによってしか自己充足へと至ることができない。
 しかし、皮肉なことに、人は自分でないものを所有しようとして、逆にそれに所有される。だから、所有し支配することを強く願う人々は、所有物によって逆規定されることを拒絶し、イニシアティブの反転が起こらないような所有関係、すなわち絶対的な所有を望む。その典型的な現れが、人を死に追いやることであり、ここでの場合、イエスを十字架につけるということである。ただし、それはイエスの側から言えば、自らの所有権を放棄するという行為であった。ところが、一方で人の所有欲が極まり、他方で所有が徹底して放棄された十字架という到達点において、まさに逆説的な形で、イエスの存在がどんな所有によっても侵食することのできない確かさをもって立ち現れてくることを聖書は証言している。その意味では、十字架以前のイエス共同体と、十字架以降のイエス共同体とは「からだ」の位相において見れば、まったく異質なものである。端的に言うと、所有から存在へと反転する身体的転換点が、イエスの十字架には秘められている。そして、その身体的転換点を通過した信仰者たちにとって、苦難は、個的・共同体的身体を弱体化するどころか、かえって、十字架につけられたイエスの「からだ」を想起させるゆえに、その身体的統合を確かなものとするのである。


(c)復活したイエスの「からだ」
 イエスの復活は、黙示文学的な終末思想の中で理解されるべき点を多く持っているが、とりわけ、「からだ」のよみがえりという表現は重要な意味を持っている。一般的に、「からだ」のよみがえりは、魂の不死性を問題にしていない。むしろ、その考えの中には、「からだ」をともなった人間の具体的全体像への視線があり、また、生と死を越えて人間のアイデンティティが全体として保持されるという期待がある。
 特に、黙示文学的終末論において「からだ」は素材と言うより、関係を表す概念であった。「からだ」こそが、個人と共同体の接点であったからである。それゆえ、最後の審判において「からだ」がよみがえらされるというのは、単に個人的なことではなく、その個人が共同体とのかかわりの中でなしてきた行為が責任として問われるという公共的な意味を持っていた。救いや裁きの公共的・共同的性格を語るためには、神の前に立つのは、魂というより「からだ」でなければならなかったのである。したがって、イエスの「からだ」がよみがえったということは、それを信じる者の救いも「からだ」の次元で、つまり、公共的なかかわりのレベルでなされるということを指し示している。それゆえ、信仰を個人の内面的問題へと矮小化しがちなわれわれに対し、イエスが「からだ」をもってよみがえったという証言は、鋭い批判を発し続けていると言える(注1)。


(d)拡張するイエスの「からだ」
 イエスの「からだ」は新しい共同体の形成の出発点と根拠を与えてきた。例えば、パウロは教会を「キリストの体」と見なし、多くの部分の協力によって成り立っている有機体としてのイメージを与えたが(Ⅰコリ一二・一二以下)、それは世界を「神の体」と見なすグノーシス的神話を採用したからではなく、教会の一体性と信仰者一人ひとりの賜物の多様性とを表現しようとしたからであった。このようなパウロ的理解は、キリストを「教会の頭」とする表現にも継承されている(コロ一・一八、エフェ一・二二)。いずれにせよ、イエスの「からだ」が様々なイメージの中で拡張されながら、新たな身体的トポス(場)を見いだしてきたことは明白である。
 同様のことをモルトマンは、キリスト教は「ますますより大きなキリスト」を見いだすための道であったと述べるが(注2)、その道が、宗教のしばしば陥る拡張主義と区別されるためにも、「からだ」の拡張性と共に、それがどのような形で収斂しているのか、に目を向けていく必要がある。その際、重要になるのは他者への視座である。例えば、イエスの「からだ」は社会的多様性(ガラ三・二六―二八)・宗教的多様性(ロマ一四・一―二三)を包括する可能性を示しているが、ここでは各人が抽象的な一者に還元されることなく、それぞれの特性(他者性)を保持しながら有機的に統合されている。


3 現代の倫理的課題への応答

 これまでの考察を方法論的基礎付けとしながら、キリスト教の「からだ」理解が、現代の倫理的問題に対する指標となる可能性を示唆したい。

(a)生命倫理学的課題に対して
 所有と存在をめぐる議論は、今、生命倫理学の領域においてもっとも激しく議論されていると言える。その問題は先端医療の現場において先鋭化している。脳死判定後の臓器移植や着床前受精卵診断などはその典型である。人間論的に言えば、前者は人間の機能的本質を脳に見ており、後者は人間の可能的生を遺伝子に還元している。いずれの議論の場合も、「からだ」やその部分は、所有と存在の境界領域を揺れ動いている。
 ところで、これらの議論の前提とされる所有概念は、それが取り扱う技術的革新性にもかかわらず、基本的にはカント的な所有概念と大差はない。そこでは、作り出し制御することによって人間の所有が発生する。人間によって作成・制御可能な対象が「からだ」に内属させられることによって、他者性は自己に従属させられる。

 しかし、「からだ」はその人によって作成されたものではなく、また制御され尽くせるものではない。少なくとも、キリスト教信仰の立場からは、人間が制御できないもの、制御しないものを他者として尊重し、他者性を剥奪する行為に抵抗すべきであろう。すでに自らの「からだ」の各部位が人間にとって他者としての意味を内包しているのであり、それゆえ、われわれは、「からだ」に配置された多様な他者性を省略し看過させてしまう脳への還元主義や遺伝子本質主義、また、そこから派生する優生学的人間論や決定論(予定論)に対しては慎重な態度を取らざるを得ないのである。

(b)社会倫理学的課題に対して
 フェミニズム思想からの問題提起を誠実に受けとめることによって、抽象的な人間論に陥ることなく、それぞれが他者としての尊厳を得た具体的な男であり女であることの認識が可能となる。さらに「からだ」の細部に目をやれば、それが男・女という単純な二分法では分類できない性の多様性を生来的に持っていることが明らかになってくる。つまり、性染色体によって決定される遺伝的性だけでなく、内性器・外性器の性分化、ホルモンの働きによる脳の性分化など様々なプロセスの複合として人間の性は決定されていくのである。
 性差に限らず、人種・民族・宗教・性的指向などの差異が標準的指標からはずれていると見なされるとき、その違いは尊重すべき他者としてではなく、排除すべき異質さとして偏見・差別・迫害の対象にされてきたのである。しかも、多重に織り込まれた支配・従属の関係は、しばしば宗教的に正当化されてきた歴史的経緯を持っている。そういったこととまったく無縁であると言い切れる宗教は、この地球上には存在しないであろう。それゆえ、宗教は差別の歴史性とそのメカニズムに〈身をもって〉向き合ってゆかねばならない。そこから、諸宗教が抑圧された者の声に耳を傾け、不当な差別を克服するための実践的対話を重ね、共同作業する道も開けてくるであろう。「からだ」への洞察は、諸宗教が対話と実践を継続していくための共通基盤となる可能性を秘めているからである。
 また、情報化社会が本格的なものになるにつれ、デジタルな海原の中で身体感覚はますます希薄になっていく。インターネットに代表されるサイバースペースで、身体的拘束から解放される自由を享受できるのは、まさに「からだ」の拡張可能性によるのであるが、そこには同時に「からだ」がグノーシス的誘惑を秘めた無限空間の中に溶解し、自己と他者の区別がきわめてあいまいになる危険性がある。それゆえ、現実世界の多義性と複雑性を喚起しつつ、現実世界と仮想世界とを自由に往来し、両世界をつなぎとめることのできる柔軟な身体感覚が求められる。
 それは無痛の「からだ」によってはなされない。むしろ、キリスト教信仰は、分かたれた世界、分かたれた者同士をつなぎとめる力の原型を、十字架におけるイエスの苦しみの中に見る。そして、十字架のイエスにおける神と聖霊の〈共苦〉という三位一体論的交わりが、この世における既存の様々な境界線を縦断し、再構築する「からだ」の共振能力を根拠づけるのである。


(c)環境倫理学的課題に対して
 人間の「からだ」に含意される内なる自然は、おのずと外なる自然を志向する。その際、魂や理性といった精神的特質を「からだ」の本質と見なしてきた伝統的理解が、「からだ」やその関係性を全体として見ることを妨げてきただけでなく、人間による自然支配をアナロジカルに肯定してきた点を見過ごすことはできない。つまり、魂や理性が「からだ」を道具的に支配するように、人間は自然を支配すべきだという了解が暗黙のうちに継承されてきたのであり、この点を無視して、今日のエコロジカルな危機に対応することはできない。
 ところが、プロテスタント神学の中では、自然神学への否定的態度のため、自然への考察が十分なされてきたとは言い難い。それゆえ、ボンヘッファーが語ったように、われわれは「自然的なもの」の正しい回復を目指すべきではなかろうか。身体的なもの・自然的なものが、啓示の光の前で罪の影に没するよう仕向けられるだけでは、日常生活における判断基準を失ってしまいかねないからである(注3)。

 道具的効用に収まり切らない「からだ」の自然性を積極的に考慮することは、自然をも救済のドラマの一部として取り入れるサクラメンタルな自然理解につながる。聖餐は、パンとぶどう酒といった自然物が神と人間の間を仲介して新たな共同性を開示していくドラマであり、それは十字架におけるイエスの苦難を想起させながら、ロゴスだけでなく、ロゴス化されないロゴス以前の「うめき」をもとらえる。それゆえ、イエスの苦難を想起し、それに連なる「からだ」は、自然を抑圧・排除せず、むしろ自然を自らに負わされた責任を果たすべきトポスとして尊重する。そのために、聖霊は自然を聖化するのではなく、聖礼典化する。このような態度は、『リマ文書』(一九八二年)以降の聖餐に関する議論の中で展開されてきた聖餐の生態学的理解にも対応関係を見いだすことができる。そこでは、神の宣教(Missio Dei)から見た世界は、自然のいのちを包含する被造世界であることが重要視されているからである(注4)。

4 おわりに

 上述のように「からだ」への洞察は、多層な倫理学的課題や実践神学的課題と接点を有しながら、ミクロな領域からマクロな領域にまで対象領域を走査する。それゆえ、「からだ」という視点からキリスト教信仰・神学を見つめ直すことは、グローバリゼーションの荒波の中で、あらためて、キリスト教の足場を問い、進むべき道筋を確認する作業につながっていくはずである。
 そして同時に、それはキリスト教にとっての自己完結的な作業にとどまるのではなく、他者と共に生きる基盤作りとならなければならない。なぜなら、二一世紀に向けた新しいキリスト教倫理は、キリスト教信仰に根ざしつつも、ただキリスト教の枠内でのみ通用可能なものであるべきではないからである。臓器移植・生殖技術の問題にしても、差別やエコロジーの問題にしても、現代的な課題は、ある特定の文化圏に閉じ込めることのできないグローバルな広がりをすでに持っている。そのような時代状況の中で、ある特殊な宗教的了解事項を前提にしてのみ語り得る深遠な真理は、もはや公共性を獲得することはできないであろう。

 すべての人間が何らかの「からだ」を有し、また、すべての生命が何らかの「からだ」を有している。この端的な事実に立ち返ることによって、グローバルな問題領域の中でローカルな「からだ」が独特かつ有効な焦点となってあらわれてくる。この逆説的な関係を担い得る終末論的感性を、今、われわれは求められているのである。

(注1)大貫隆「古代黙示文学の終末論――自然科学と終末予言」(蓮實重彦・山内昌之編『地中海――終末論の誘惑』東京大学出版会、一九九六年、所収)二二頁参照。
(注2)ユルゲン・モルトマン『イエス・キリストの道――メシア的次元におけるキリスト論』(蓮見和男訳)新教出版社、一九九二年、四二六頁参照。
(注3)デートリヒ・ボンヘッファー『現代キリスト教倫理』(森野善右衛門訳)新教出版社、一九九六年、一三五頁以下参照。
(注4)神田健次『現代の聖餐論――エキュメニカル運動の軌跡から』日本基督教団出版局、一九九七年、二六七―二七〇頁参照。


※本稿は内容的に拙稿「身体論に関する神学的考察」(『基督教研究』第五九巻第二号、一九九八年、四一―六二頁)に依拠しているので、より詳細な議論についてはそれを参照のこと。