研究活動

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「生態学的終末論の基礎づけ」、『基督教研究』第60巻第2号

その日には、人々はもはや言わない。「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。
エレミヤ書31章29-30節

Ⅰ 問題の所在
Ⅱ 外発的な根拠:エコロジーからの批判的問いかけ
Ⅲ 内発的な根拠:終末論の歴史的変遷
Ⅳ 黙示文学的終末論から生態学的終末論へ



Ⅰ 問題の所在

 1960年代、水俣病に代表されるような公害問題においては、企業や地方自治体が環境汚染の責任を問われた。光化学スモッグのような大気汚染にしても、産業化の進んだ都市機能にその原因が求められた。かつての公害問題は、比較的ローカルな領域の中に位置づけることができたのである。
 しかし、今日、同根の問題がはるかに広い領域において、文字通りグローバルに進行している。自然環境の急速な悪化を、もはや特定の地域において限定的に処理することは不可能である。さらに、エネルギー問題、人口問題、食糧問題、南北の経済格差など、人類の生存にかかわる重要な問題は、すべて地球環境問題という核を中心にして相互に関係しあっているのである。
 問題領域が地球規模にまで拡大したことは、地球環境の有限性がようやく深刻に受けとめられ始めてきた事情と呼応している。土壌も海洋も大気も、人間が生み出す様々な廃棄物を無限に吸収できるほどに広くはないことが認識されてきている。そして、地球環境に対するナイーブな無限神話が終わろうとする今世紀末、同時に、空間的有限性の認識に連動するかのように時間的有限性の認識、すなわち人類歴史の終焉の可能性が現実味を帯びて論じられている。

 ノストラダムスの大予言といった類のことを除外するにしても1、終末論的な緊迫感を与える素材はわれわれの身近に多数存在している。例えば、核の冬、地球温暖化、内分泌かく乱化学物質(環境ホルモン)、隕石衝突などをめぐる議論は、否応なしにわれわれの危機感を高める。これらはまったく異なった様相を示しているが、いずれも地球環境の変化を引き起こす要因であり、その変化の速度は異なるものの、最終的に人類存続の危機をもたらす可能性を秘めている。
 もっとも、滅亡への恐怖は現代に限定されたものではない。それどころか、人類は太古の昔から滅亡のトラウマを神話的に保持してきている。ノアの洪水物語はその一例であるが、他にも、シュメール文明からアジア、アフリカ、オセアニア、南北アメリカ大陸の先住民に至るまで、大洪水による人類滅亡と再生の神話は多数存在している。いずれにせよ、多くの神話の中では、古代人の自然への恐怖とそこから学んだ教訓とがパターン化され語られている。

 一方で、われわれはそういった神話的教訓から今なお多くを学ぶことができるが、他方、今日の終末論的緊迫感は、過去の天変地異による恐怖とはかなり異なる要素を含んでいる。つまり、過去の自然災害と比べ、今日の終末論的予兆は人災的な要素を多分に含んでいるのである。隕石衝突といった不慮の災害を除けば、ほとんどが高度な科学技術によって促進された人間の飽くなき欲求の結果であるとさえ言える。昔なら、雨期が過ぎ去るのを待てば、最悪の事態も自然に終息していくことを期待することができた。それに対し、今日のエコロジカルな危機は自然の成り行きに任せ放置しておけば、生態系を破壊する人為的な諸要素の蓄積の結果、人類全体の滅亡をもたらす可能性が極めて高いのである。このような形で、今日の生態学的危機と終末論とは密接な関係を有している。
 密接な関係は、この両者に共通する〈全体への視座〉の中に見ることもできる。エコロジーは地球環境を全体的な一つのものとして扱う。地質・大気・海洋が地球上の生命活動と不可分の関係にあることを地球環境科学は教える。他方、終末論は、歴史を全体的な一つのものとして扱う。伝統的な神学理解によれば、終末論は創造論と対をなしながら歴史の全体を見据え、それに対する審判の時を告げる。地球環境の全体にしても、歴史の全体にしても、実際には人間の認識を超越している。しかし、認識の及ばない全体性への視界を開こうとする点において、エコロジーと終末論は共通した役割を担っていると言える。
 ところが、このような類似性にもかかわらず、終末論、とりわけ黙示文学的終末論が前提とする世界観・歴史観はエコロジカルであるとは言い難い。それどころか、黙示文学的終末論が示す世界破局のイメージに安易にとらわれることは、生態系の緩慢な死に対する無関心・諦念を生み出すことになりかねない。地球環境の有限性を考慮した終末論的危機意識は重要であるが、それが黙示文学に彩られた従来の終末論であれば、種々のアポリアに陥ることが予想されるのである。その問題点については後に触れるが、本論文では黙示文学的終末論の限界あるいは問題を補完するものとして〈生態学的終末論〉を提起したい。同時に、それはキリスト教とエコロジーをめぐる議論の神学的着地点としての意味をも持つであろう。

 これまで、エコロジーは神学の中で創造論と結びつけて論じられることが多かった。そして、それらの作業は、伝統的創造論とエコロジーを和解させる試みであったとも言える2。それに対し、本論文は、そのような研究成果を踏まえた上で、相互に拮抗する要素を備えた終末論とエコロジーとの間に、新たな和解のフィールドを見いだす試みの一つとなるであろう。ただし、本論文は、先行研究に比する体系的論述を目指すのではなく、むしろ、議論の前提となる事柄の整理・考察や、また今後の議論のための神学的基礎づけを主たる目的にする。

Ⅱ 外発的な根拠:エコロジーからの批判的問いかけ

 生態学的終末論の可能性を提起する前に、それが導き出される歴史的・神学的な状況を振り返っておくことは有益であると思われる。ここではそれを外発的な根拠(エコロジーからの批判的問いかけ)と内発的な根拠(終末論の歴史的変遷)とに分けて考え、それらが結びつく先に、生態学的終末論の意義を示していきたい。

1)エコロジーとは
 エコロジーという言葉は、今日、きわめて多義的に用いられる。それゆえ、エコロジーが扱う問題領域を最初に整理しておく。
 日本語で生態学と翻訳されるエコロジーは、本来、生物とそれを取り巻く環境との関係を研究する生物学の一分野である。ドイツの動物学者E・ヘッケルが1866年に著作の中で用いたのが最初であると言われている。ヘッケルによればエコロジーとは「有機体とその環境の間の関係を示す科学」であるが、生態学は動物学を越えて、次第に植物学や他の諸分野でも用いられるようになっていった。そして、生態学が研究の対象とするのが生態系である。生態系とは、ある地域に住むすべての生物とこれに相互に作用し合う非生物的環境をひとまとめにし,エネルギーの流れや物質循環に着目して一つの機能系とみなしたものである。

 他方、1970年代以降、環境保護運動の高まりと共に、エコロジーは狭義の学問的意味を超えて、環境保護という意味でも用いられるようになった。社会思想・運動としてのエコロジーは、生態系における人間の位置づけに注目し、生態系の一員としての人間が自然環境に及ぼす影響を批判的・実践的に把握しようとする。ただし、エコロジー思想・エコロジー運動は、自然環境を保護するという大きな枠組みを持つものの、その内部には非常に多様な思想的潮流が存在している。
 このように、生物学や地球環境科学などを包括する学問としてのエコロジーと、思想・運動としてのエコロジーとは、緊密な相互関係を持つ一方、文脈によっては、両者ははっきりと区別されるべきである。また、現実的な問題解決を考える上で、オイコス(家、oi=koj)を共通の語源として持つエコロジーとエコノミーが特別な関係にあることも見逃すことはできない。端的に言えば、環境問題の解決と経済の問題は密接に結び付いているということである
3。例えば、日本国内で処理できない産業廃棄物をアジアの他の国に移送し、そこで野焼きにしている実態や、厳しい環境規制から自国では販売できない農薬を外国で売りさばくといった事例は枚挙にいとまがない。日本を含めた先進資本主義国が第三世界に環境負荷を押しつけながら、経済的な搾取を継続することを構造的に許容してきた南北間の経済格差の現実は、エコロジーの問題を決して非政治的・非経済的に扱うことができないことを如実に物語っている。

2)生態学的危機に対するキリスト教の責任
 1960年代後半から、生態系に深刻な影響を与える様々な問題が指摘され始めた。特に1972年、ローマ・クラブが『成長の限界』の中で示した、現在のような幾何級数的な世界人口と経済の成長がこのまま続けば、来世紀には破滅的な事態に至る可能性が強い、という警告は、大きな説得力を持って受けとめられた。このような危機感がキリスト教に対して先鋭的に向けられた論文が、科学史家リン・ホワイト・ジュニア(Lynn White, Jr.)による「今日の生態学的危機の歴史的源泉」(The Historical Root of Our Ecological Crisis)である。これは、1967年、アメリカの科学雑誌『サイエンス』に掲載された論文であるが、後にキリスト教世界で広範な議論を引き起こすきっかけを作った
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 ホワイトは創世記の創造物語の記述に言及しながら、「物理的創造のうちのどの一項目をとっても、それは人間のために仕えるという以外の目的をもってはいない」[1968=1972 : 87]と解釈する。また彼は、キリスト教は他のどの宗教にもまして、明確に人間と自然の二元論を打ち立てただけでなく、自然を搾取することが神の意志であると考えた、と批判する。ただし、彼は生態学的危機を招いた根本原因であるキリスト教を破棄し、科学的な方法で問題解決をはかるべきだと考えてはいない。むしろ、彼は科学と技術の成長に影響を与えてきたキリスト教の自然観を過小評価せず、原因が宗教的である以上、問題解決の方法も宗教的にならざるを得ないと考えている[1968=1972 : 96]。それだけに、「自然は、人間に仕える以外になんらの存在理由もないというキリスト教の公理が斥けられるまで、生態学上の危機はいっそう深められつづけるであろう」[1968=1972 : 95]というホワイトの批判が、キリスト教に非常に大きなインパクトを与えたのである。

 ホワイトの主張に対しては、近代の世俗主義に基づく産業社会の文化構造とキリスト教の人間論とを混同している、などの逆批判もなされてきた。確かに、今日の科学史的見地あるいは聖書学的視点から、彼の主張点のいくつかを論駁することはさほど難しいことではない。しかし、問題はそのような枝葉末節にあるのではない。むしろ、ホワイトの問題提起の中に見逃してならないのは、キリスト教の世俗化の結果としての〈人間の自律性〉〈人間中心主義〉を問うているという点であろう。その課題は、ホワイトのキリスト教批判に対するキリスト教側の応答の中に反映されている。
 例えば、ジョン・パスモア(John Passmore)は、人間は神の代理人として世界を世話することを委託されている、という意味で「スチュワード精神」(stewardship)という概念を、専制君主的な自然支配の代案として示した[1974=1979 : 48-71]。この言葉は一般的にも好んで用いられ、またそれに類似した概念が積極的に考案されてきたが 、それらの対応は、基本的には、人間中心主義を少しでも相対化しようとする試みとして総括できるであろう。ユルゲン・モルトマン(Jurgen Moltmann)が『創造における神』(1985年)の中で、宇宙論的・聖書的な神中心主義への移行が必要であると論じた背景にも、同様の事情がある。つまり、リン・ホワイト論争以降、神学は人間中心主義に対する責任からキリスト教を救い出すことに多大な関心を傾けてきたのである。

 ここで、われわれはキリスト教信仰の正当な帰結としての世俗化と、世俗化の堕落としての世俗主義を区別しなければならない。前者は、ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer)に代表されるように、人間が世俗化の中で獲得した自由や自律は、神の前でこの世に対する責任を負う。その限りにおいて、人間と世界の自律をもたらす世俗化は、キリスト教にとって積極的に受容すべき正当な歴史的帰結である。それに対し、後者の世俗主義にとって、人間の自由や自律性は即座に自己肯定・現状肯定につながる。すなわち、ここから人間の恣意的な自然支配が始まったのであり、そのような意味での人間中心主義に対しては、ホワイトがしたように、十分な批判を加えなければならないのである。
 正当な世俗化に対応する人間の自律性と、世俗主義に対応する人間の自律性を混同し、単純に人間中心主義として批判してしまうなら、われわれはディープ・エコロジストが主張するように、人間中心主義の代案としての生命中心主義に寄り添うより道はなくなってしまう。しかし、問題は、人間中心主義か、生命中心主義かを二者択一的に選択するほど単純ではない。70年代以降の、キリスト教の生態学的危機に対する応答は、単に時代の要請に応えるという弁証的な意味を持つだけではなく、人間と世界の関係、人間の自由・自律の問題、世俗化論といった神学的テーマが、潜在的ではあるが重層的に織り込まれているのである。


Ⅲ 内発的な根拠:終末論の歴史的変遷

 キリスト教が生態学的危機に対応し、人間理解や自然理解を問い直し始めたことは、リン・ホワイト論争のような外発的な要因を持っていたが、それを通じて、それ以前の神学的課題も異なった装いで問い直されていることを、先に述べた。ここでは、より内発的な課題としてエコロジーに関連する問題領域が準備されてきたことを見ていきたい。そのプロセスは、特に終末論の歴史的変遷において見ることができる。

1)終末論の発見
 終末論という言葉は、ルター派神学者アブラハム・カロヴィウス(Abraham Calovius, 1612-1686)が用いたのが最初であると言われている(Fahlbusch[1986:1108])。彼は12巻の教義学の最終部分で、Eschatologia sacraという表題のもとに死・復活・最後の審判・世界の完成などのテーマを扱ったのであるが、その後も、終末論は同様のテーマを継承してきたと言える。終末論が対象とするテーマを便宜的に、個人主義的テーマと共同体的・宇宙論的テーマとに分けることも可能である。前者は、個人の生の終わり、魂の運命、最後の審判、永遠の生命などに対する関心を含み、後者は、人間の既存の社会秩序に限らず、文字通り「万物」が将来的に宇宙規模で更新されることに対する期待(「新しい天と地」「神の国」など)を含む。終末論における個人主義的テーマと共同体的・宇宙論的テーマとは、時代に応じて、強調点の違いとなって終末論を特徴づけることがある
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 言うまでもなく、カロヴィウスによって終末論という言葉が考案される以前から、終末論的関心は存在し続けてきた。多くの神学者によって、イエスが語った「神の国」はしばしば終末論の始原的根拠とされてきた。しかし、使徒教父の時代まで、キリスト教的希望の対象とされていた神の国も、エイレナイオスなど護教家の時代になると強調点が移行し、もっぱら死者の復活が希望の中心とされるようになった。東方的伝統を総括的に叙述したダマスコスのヨハネにおいても、将来の希望は、最後の審判と結びついた死者の復活の視点から扱われている6。いずれにせよ、使徒時代に見られたような切迫した神の国待望・終末論的情熱は徐々に後退していったと言える。終末論における、こういった強調点の移行には次のような歴史的背景を考えることができるであろう。第一に、グノーシス主義やプラトニズムの影響を強く受けるようになって、キリスト教の終末論的問題意識は、死後の魂の運命など形而上学的なテーマに集中するようになったということが考えられる。また第二に、とりわけコンスタンティヌス体制以降、教会の公認・国教化にともなう勝利感が、終末論的希望の成就と同一視されるようになっていったということニが考えられる。
 後の時代においても、非常にラディカルな終末論的世界変革を唱えたフィオーレのヨアキム(1130-1202)や他の終末論的熱狂主義者は繰り返し現れ、そのたびに既存の社会秩序を流動化させる働きを示すものの、全体としては、既存秩序の継続を妨げない個人主義的終末論が支配的であり、社会変革を含むような宇宙論的終末論は、まれであったと言えよう。宗教改革期の終末論的希望も、もっぱら罪や死からの救済と結びついており、コスモロジカルな視点はほとんど見られない。
 そのような神学的状況に大きな転換点をもたらしたのが、ヨハネス・ヴァイス(Johannes Weiss)とアルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweizer)であった。この両者は、古代教会における終末論のリアリティを再発見したのであり、とりわけ共同体的・宇宙論的終末論を含む黙示文学的終末論がイエス理解に占める重要性を主張したのであった。結果的に、彼らの主張は、神の国を歴史内の文化的・道徳的進歩と同一視してきた近代合理主義や文化プロテスタンティズムに対する、はっきりとしたアンチテーゼを突きつけることになり、ここから現代神学における終末論の独自な展開が始まることになる。

 それ以降、今世紀の神学の中で、終末論は教義学の一部を構成すると言うより、むしろ教義学の全体を規定する働きを担ってきた。シュヴァイツァーや彼の後継者たちは、徹底して、イエスの中に神の国の切迫した到来を告げる黙示的預言者としての姿を見た。その意味で、彼らの理解はしばしば「徹底的終末論」と呼ばれる。しかし、シュヴァイツァーの発見した黙示文学的終末論は、近代的な世界観とあまりにも隔離していたため、それを意味あるものとして受容することは不可能であると考えられたのである。それに対し、カール・バルト(Karl Barth)に代表される弁証法神学者たちは、終末論を過去の危機的歴史理解の中に見るのではなく、むしろ歴史の各瞬間に対して超越的に介入してくる永遠こそが、危機的状況をもたらすと考えた。ルドルフ・ブルトマン(Rudolf Bultmann)は、このような永遠と時間との否定的な関係の間に生じる緊張を、実存的な決断の中に求めた。彼にとっては〈今・ここで〉神の語りかけにどのように聞き従うかが、信仰者の最大の課題となる。その意味では、弁証法神学者たちは終末論を〈今・ここで〉という相のもとに永遠化することによって、現代人にとっての意義を回復したと言える。しかし、その反面、終末論が持つコスモロジカルな側面は永遠の背後へと追いやられてしまった。
 シュヴァイツァーは黙示文学的終末論を破棄することによって、結局、19世紀的な倫理的終末論へと帰っていった。また、弁証法神学者たちは終末論の黙示文学的特質を永遠という形而上学の中に吸収させ、いわゆる「現在的終末論」の様相を呈した。「実現された終末論」(realized eschatology)を唱えたチャールズ・H・ドッド(Charles H. Dodd)も、徹底的終末論と現在的終末論を「救済史」において調停しようとしたオスカー・クルマン(Oscar Cullmann)も、終末論を現在化・時間化しようとした点においては、弁証法神学者たちと同一線上にあると言える。つまり、シュヴァイツァーやヴァイスによる終末論の再発見以降、時間軸上の強調点の置き方や、神の国到来の切迫度において多様な主張が見られたが、今世紀初頭から1960年代までの終末論は、いずれも非黙示文学的終末論として総括することができるであろう。

 ヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg)とモルトマンは、そのような動向に新しい流れをもたらした。パネンベルクは『歴史としての啓示』(1961年)の中で、モルトマンは『希望の神学』(1964年)の中で、それぞれ方法論は異なるものの、黙示文学にきわめて積極的な位置づけを与えた。パネンベルクが示した「啓示に関する教説についての教義学的諸命題」[1982=1994 : 195-242]の命題一「聖書の証言に従えば、神の自己啓示は神顕現のように直接的にではなく、神の歴史行為によって間接的に生じた」および命題二「啓示は啓示的歴史の始めにおいてではなく、終わりにおいて見いだされる」の中に、すでに黙示文学思想の反映が見られる。彼はこの立場から「普遍史」(Universalgeschichte)への関心を強めていく。また、彼の歴史理解にとって欠くことのできないイエスの復活も、黙示文学の地平でのみ可能であるとし[1982=1994 : 225]、黙示文学は徹底して彼の神学理解・終末論の前提条件となっている。他方、モルトマンは、約束という希望の中に現実に対する批判的力を汲み取ろうとする。そして、彼は黙示文学的終末論を預言者的終末論と区別しながら、その宇宙論的特質を際立たせようとする[1965=1978 : 148-153]。黙示文学的終末論の中では、個人より、人類共同体と宇宙(世界)の方が問題とされるのである。
 もちろん、パネンベルクやモルトマンらの黙示文学的終末論の再評価が、現代神学における終末論的合意となっているわけではない。彼らの主張は大きな影響を及ぼしたが、必ずしもドイツ語圏の組織神学を代弁するものではなく、また、英語圏では、好奇心を喚起する以上の積極的影響を及ぼすには至っていないとさえ言える。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、次に示すように萌芽的な神学的営みの中に、黙示文学的終末論が持つ現状批判的な洞察・実践が取り込まれていったのである。


2)差異化する終末論
 前述のように、西欧において終末論は、神学の中心的主題の一つとなっていったが、特に60年代以降、終末論は西欧の伝統的なコンテキストを離れて、多様な展開を見せてきた。固有のコンテキストに応答する形で、終末論が新しい神学形成の原動力として積極的に再解釈されるようになってきたのである。
 ここでは、その代表例として、ラテン・アメリカ解放の神学、黒人解放の神学、フェミニスト神学を取り上げる。それぞれ神学形成の場は異なるが、いずれも伝統的終末論への批判的問いかけを含んでいる。それを概観すると同時に、そこに通底する神学的課題が、本論文の主題である生態学的終末論にどのように関連しているのかを示唆したい。


a)ラテン・アメリカ解放の神学
 ラテン・アメリカにおける解放の神学は、抑圧された民衆のコンテキストの中で形成されてきた。つまり、解放の神学は、新しい神学思想として登場したのではなく、あくまでも民衆による信仰運動を前提とし、それに表現を与える神学である。政治的に抑圧され、経済的に搾取された、貧しい民衆の視点から聖書を読み直す解放の神学は、同時にヨーロッパ神学からの解放を目指す神学でもあった。それゆえ、この神学はラテン・アメリカだけでなく、広く第三世界に影響と共感を与えた。例えば、フィリピンの反マルコス闘争や韓国の民衆神学による民主化運動、南アフリカ共和国における反アパルトヘイト闘争の中に、解放の神学の思想的影響を見ることができる。
 解放の神学に体系を与え、「解放の神学の父」と呼ばれた人物にグスタボ・グティエレス(Gustavo Gutierrez)がいる。彼が著した『解放の神学』(1972年)では、終末論が非常に大きな役割を果たしている。ただし、その終末論は西欧における1960年代以前の終末論、つまり、非黙示文学的終末論の類型に属するのではなく、むしろ、それ以降の黙示文学的終末論との関係が深いと言える。そのことはグティエレスが、モルトマンやパネンベルクに言及し、特にモルトマンの希望の神学を高く評価している点からもうかがえる[1972=1985 : 221-223]。

 彼にとって、キリストはこの世における解放者であり、それゆえ、そのキリストは終末論的約束を「霊的なもの」とはしない。キリストにおける約束は、地上の現実を見下し、排除するのではなく、それを変革するのである[1972=1985 : 175]。グティエレスは、一貫して、現世的・地上的・歴史的なものの中に終末論的地平を見ようとしている。そして、その地平に立つ限り、終末論は単なる神学的思弁にとどまらず、希望を実現する歴史的実践となる。そのことをグティエレスの次の言葉は明瞭に物語っている。「もし、この希望が、歴史的実践を前進させるべく、現在においてかたちづくられないなら、希望は、単なる逃避、未来の幻想にすぎない」[1972=1985 : 223]。
 グティエレスの思索の中に、モルトマンの希望の神学との対応関係を概念的なレベルで見ることは可能である。しかし、解放の神学にとって重要なのは、一つひとつの概念が、民衆の日常生活の場において具体的な姿をとる、すなわち、受肉するということである。そのような点を踏まえた上で、解放の神学によって示唆される終末論的なキーワードを整理しておくことは有益であろう。それは〈共同体〉〈解放〉〈この世〉として抽出することができるように思われる。解放の神学は「キリスト教基礎共同体」と呼ばれる信仰者の〈共同体〉を実践の場とし、〈この世〉の政治的抑圧・経済的貧困を共通の課題としながら、その現実からの〈解放〉を具体的に模索するからである。

 ところで、解放の神学における新しい主題として、エコロジー問題への取り組みをあげることができる。フェミニスト神学がその始めの時期からエコロジーの問題を取り上げていたのに対し、解放の神学ではこれまでその問題はほとんど触れられることがなかった。しかし、レオナルド・ボフ(Leonardo Boff)は、貧しい人々の叫びに応えようとする解放の神学と、抑圧されてうめく大地の叫びに応えようとするエコロジー思想(運動)との間に緊密な関係と共通の課題を見いだしている。ただし、解放の神学は社会を対象としたエコロジー、すなわち、人間の相互関係のあり方や、自然に対する人間の搾取的態度から出発する[1995=1996 : 77]。その上で、彼は自然および全宇宙との新しい関係を規定しようとするのである。そして、彼が「全宇宙の共同体との兄弟姉妹関係という倫理と神秘主義の確立」を求め、「解放の神学はエコロジー的論究がもたらす新しい宇宙観、つまり地球を全宇宙と結ばれた、生命の超組織体と見る見方を適用しなければならない」[1995=1996 : 77-78]と主張するとき、そこには明らかに黙示文学的終末論が前提とするコスモロジカルかつ共同体的な次元を認めることができる。しかし、他方、そこにはディープ・エコロジーに対する過剰な接近を見逃すこともできない。神秘主義的エコロジーが解放の神学に対し、どのような貢献をするかについては、今後の考察を待たなければならないが、いずれにせよ、黙示文学的終末論の潮流は、解放の神学において、エコロジーとの合流点を今見いだしつつある。しかし、それが解放の神学とエコロジーとの相互補完的関係を意味するのか、あるいは、両者の対立を意味するのかを見極めるためには、終末論そのもへの多角的な考察が必要とされるであろう。

b)黒人解放の神学
 ラテン・アメリカにおける解放の神学と同時期に、しかしそれとの関係より、むしろ、アメリカの公民権運動とのかかわりから誕生した神学が、黒人解放の神学である。この神学のコンテキストは、アメリカ社会において差別・抑圧される黒人の生の中にある。ラテン・アメリカ解放の神学と黒人解放の神学のコンテキストは確かに異なるが、先に見た〈共同体〉〈解放〉〈この世〉というキーワードは、黒人解放の神学においても、ラテン・アメリカの場合と同様の重みを持って、神学的洞察の礎石となっている。そのことはまた、黒人解放の神学においても、終末論が積極的な役割を果たしていることを予期させる。
 黒人解放神学の代表的人物の一人ジェームズ・コーン(James H. Cone)の著作『黒人解放の神学』(1970年)の中にも、その推測を裏付けるに足る記述が見られる。コーンにとって、終末論的コンテキストは、白人と黒人との間に横たわる日々の緊張関係の中に置かれている。それは次のような心情の発露において先鋭化されている。「黒人にとっては、死は実際未来の現実ではない。それは彼らの日常的実存の一部である。彼らは白人を見るたびに死を見ているのである」[1970=1979 : 275]。この言葉は、この世への耽溺や、あの世への思弁によって、死の現実から逃れようとする白人の営みに対するアンチテーゼとなっている。いずれにせよ、黒人は生のただ中に死を抱えることによって、この世において、生と死の現実に立ち向かっていく。したがって、本来の終末論的展望は、歴史的現在に根拠を持たなければならないのであり、「現在の秩序に挑戦しないような終末論的展望では不十分である」[1970=1979 : 276]。もちろん、黒人も天国について語るが、それは現実の悲惨さに対する形而上学的な代償では決してない。なぜなら、コーンは、黒人の関心を天国に向けることは白人奴隷主に起因すると考えるからである。しかし、天国はもはや、現実の不正義を受容するためには用いられない。むしろ、天国を信じるということは、地上の地獄を受け入れることを拒絶することを意味するのである[1970=1979 : 283]。
 コーンのこの著作の中で、終末論は最終章という伝統的な序列を与えられているが、その内容は伝統的終末論を越え出る要素を含んでいる。〈共同体〉〈解放〉〈この世〉という、ラテン・アメリカ解放の神学に通底する要素の他に、そこには生と死の形而上学的な区別を拒絶する意志を明瞭に見ることができる。それを、さしあたり〈生と死の二元論の拒絶〉としてまとめておく。またさらに、黒人解放の神学に特徴的な点を指摘するとすれば、それは世代を越えた連帯の意識である。例えば、コーンが、黒人の子供たちの苦痛や苦悩を見捨てたままにしなければならないとしたら、永遠の生命でさえ何の益があるのか、と問い[1970=1979 : 277]、「神の未来を把握しようとすることは、自由のために死んだ人々は無益に死んだのではなく、彼らは神の国を見るであろうということを知ることである」[1970=1979 : 284]と語るとき、そこでは親と子、死者と生者を連帯させる信仰共同体を想定しているのである。ラテンアメリカ解放の神学においては必ずしも強調されなかった〈世代間の連帯〉が、ここにはある。

 コーンは、モルトマンの功績を高く評価し[1970=1979 : 280-281]、彼の終末論的方法論を一部取り入れているが、黙示文学的終末論に対する姿勢は明らかではない。すなわち、コーンの終末論を特徴づける〈共同体〉〈解放〉〈この世〉そして〈生と死の二元論の拒絶〉〈世代間の連帯〉が、伝統的な黙示文学的終末論との間で引き起こすことになる相克については、あまり自覚されていない。

c)フェミニスト神学
 上述のラテン・アメリカ解放の神学および黒人解放の神学において、(黙示文学的)終末論が積極的に神学的方法論として用いられているのに対し、フェミニスト神学では、終末論に対する態度は否定的なものが多い。フェミニスト神学者によって、その理由としてあげられるのは、例えば、終末論の主流が、反帝国主義的な思想を抑圧し、ヘレニズム的な永遠の概念をともなった超自然主義を強化してきたという点であり、また、終末論の二元論的・決定論的・彼岸的な特徴がフェミニズム思想に対立するという点である。また、黙示文学的なイメージには両性についてのステレオタイプな理解が繰り返されている点も、フェミニスト神学からは批判の対象とされる。悪が「みだらな女」として象徴化され、善が白い馬にまたがり、処女なる花嫁エルサレムを迎える戦士として描写されることは、フェミニスト神学にとって決して自明の事柄ではないのである(Keller[1996 : 87])。

 フェミニスト神学の終末論に対する本格的な取り組みはこれからの課題であるが、終末論に対する体系的な思索を試みているフェミニスト神学者の一人としてローズメアリ・ラドフォード・リューサー(Rosemary Radford Ruether)をあげることができる。彼女は、死後に至るまで自己の永続にこだわるのは、きわめて男性的な特徴であると考える。それゆえ、キリスト教が魂の個人的終末論を強調するようになったことを彼女は批判し、死後の生を模索する個人的終末論に対しては不可知論の立場を取る。それに対し、死を受容することは、個々の存在の有限性を受け入れることであると共に、より大きな母体への帰属意識を持つことであるとして、それを積極的に評価する[1983=1996 : 334-336]。その意味で、先の黒人解放の神学の場合と関心の所在は若干異なるものの、〈生と死の二元論の拒絶〉はフェミニスト神学においても重要なテーマとなっている。さらに、リューサーは、生と死の二元論に関連して直線的・進歩的な歴史理解をも批判する。それは、現実の人間・自然における不正を無視してしまう危険性があるからであり、むしろ「一回きり」的な思考から自由にならなければならないと言う[1983=1996 : 331]。

 リューサーに限らず、フェミニスト神学者の多くは、フェミニスト的考察の帰結として、エコロジーの問題に強い関心を寄せている。女性と自然との間には、共に男性による支配・搾取の対象となってきた親近性がある。また、女性と自然を安易に同一視することへの批判的視点を持ちながら、自然への洞察を深めることが女性的なものの回復をもたらすという期待と責任をフェミニスト神学の中に見ることができる。とりわけ、リューサーの『ガイアと神――地の癒しについてのエコフェミニスト神学』(1992年)はエコロジカルな課題への本格的な神学的応答の一つとして評価することができるが、特にその中で黙示文学的終末論への一貫した批判が展開されている点は注目に値する。
 リューサーによれば、黙示文学的終末論は、プラトン的終末論と同様、死ぬべき運命から逃れようとする幻想に基づいている。そして、死そのものが滅ぼされるべき「最後の敵」(一コリ15:26)とされている。そこでは、個体の死や、その分解・再生に基づいた生態系の生命の特質そのものが否定されている。その代わりに、生と死が対立物として絶対化されるのである。したがって、世界の黙示的破局によって、死が取り除かれ、永遠の生命が得られるという考え方は、生態学的理解からは大いに問題である[1994 : 83]。また、ユダヤ・キリスト教的黙示文学は、現在の環境が破壊され、その後に更新された世界がやってくることを語るが、そのような物語に対する安易な信頼は、エコロジカルな視点からは許容することができない[1994 : 85]。リューサーはそのような批判を展開する一方で、死ぬべき運命は自然のことであり、限られた生の中でその充実を願うヘブライ的な生命観を評価し[1994 : 139]、また、人間を一回限りの思考から解放するものとして、ヨベルの年に積極的な価値を見いだしている[1994 : 85]。

 フェミニスト神学が解放の神学の一類型として〈共同体〉〈解放〉〈この世〉といったテーマを継承していることは論を待たない。それに加え、〈生と死の二元論の拒絶〉そして〈直線的歴史理解の拒絶〉を、黙示文学的終末論と意識的に対峙したフェミニスト的終末論の特徴としてあげることができるであろう。

d)まとめ
 ラテン・アメリカ解放の神学、黒人解放の神学、フェミニスト神学が、数名の代表的人物によって代弁させることのできない主張の幅をすでに持っていることは言うに及ばない。しかし、これまでの考察を通じて得られた〈共同体〉〈解放〉〈この世〉〈生と死の二元論の拒絶〉〈世代間の連帯〉〈直線的歴史理解の拒絶〉といった終末論にかかわる類型的キーワードは、それぞれの神学的潮流の基底部分にあると考えて、大きな間違いはないであろう。ここで類型的な考察をした意図は、それぞれの神学的特質を整理・分類することにあるのではない。むしろ、それぞれの類型の相関関係の中で創出される新しい意味を発見することこそが、ここでの考察の目的である。
 これまで見てきた神学的潮流は、明示するとしないとにかかわらず、黙示文学的終末論からの思想史的・方法論的影響を多分に受けている。しかしそれに依存しつつ、それに抗わざるを得ないジレンマも同時に存在している。つまり、黙示文学的終末論は確かに有効な神学的形成力となるが、それを伝統的な形そのままで受容し続けることはできないのである。

 そこで、われわれは次に、黙示文学的終末論の問題点を別の角度から考察し、その上で〈共同体〉〈解放〉〈この世〉〈生と死の二元論の拒絶〉〈世代間の連帯〉〈直線的歴史理解の拒絶〉といった現代神学の潮流の中から生み出されてきた終末論的諸テーマが収斂する先に、生態学的終末論の可能性と課題を示したい。

Ⅳ 黙示文学的終末論から生態学的終末論へ

 前述の外発的な根拠と内発的な根拠とは相互に影響し合っている。このような重層的な時代的・神学的要請から、終末論という土台の上で、キリスト教とエコロジーが新しい関係を築き出すよう促されてきたのである。ただし、その終末論が、今世紀の神学に多大な影響を与えてきた黙示文学的終末論を無批判に継承するだけなら、エコロジーとの関係で種々のアポリアを生み出すことになるであろう。

1)黙示文学的終末論の問題点と生態学的終末論の目的
 まず、黙示文学的終末論が、現代の聖書学においてどのような評価を受けているか一瞥したい。
 例えば、新約聖書学者である大貫は黙示文学のプラス面として、人格的な個の発見、信仰が内包する公共性への問いかけ、偏狭な選民意識の突破、エコロジーへの示唆
7などをあげるが、同時に次のようなマイナス面を指摘する[1996 : 21-28]。ⅰ)新しい選民意識を生み出す。ⅱ)暴力や戦争を神の審判のための必要悪として肯定してしまう。ⅲ)歴史を客体化し、自然界に対するのと同質の観察対象にしてしまう。
 大貫はとりわけⅲ)の部分を詳細に論じ、それによって、なぜ黙示文学的な終末予言が自然科学的な合理主義と結びつくのかを説明し、オウム事件のメカニズム解明の一助としている。つまり、歴史を対象化し観察しようとする黙示文学的な思考方法は、ものを対象化し観察しようとする自然科学的な思考方法と共振しやすいのである。歴史を決定論的・運命論的に見る見方、そしてそれを支える直線的な時間理解が、時として、ラディカルな黙示文学的終末論者を反社会的行動へと駆り立てるという点を、われわれは見過ごしにはできない。

 また、旧約聖書学者である関根は旧約における終末論の「胡散臭さ」として次のような点をあげている[1998 : 66-67]。ⅰ)他人の罪業に対する審判を神の手に委ねることにより、裁きの叙述が必要以上に残酷になる嫌いがある。ⅱ)天変地異や戦争をいたずらに神の審判と結びつける非科学性。ⅲ)信者を従わせるための脅迫の道具として用いられる。ⅳ)終末預言は、文字通りには、ほとんどすべてはずれた。
 関根が指摘するⅰ)ⅲ)と大貫のⅰ)ⅱ)とは重なり合う部分を持っている。いずれも、終末時における救いを選ばれた者のみが占有し、それ以外の者は裁きの対象となるという二元論的な峻別が見られる。その背景には、生命を約束される者と死を宣告される者という、生と死の二元論的対立がある。生命と栄光に至るか、あるいは死と滅びに至るか、という分水嶺の前に立たされることによって、信仰者は切羽詰まった選択を強いられるのである。

 信仰におけるこのような決断が一定の意義を持っていることは言うまでもない。しかし、この決断が本当に個人の自由な自発的意志によるものなのか、あるいは組織や教団によって潜在的に誘導・強制された結果なのか、を批判的に問う必要がある。もし、その決断が誘導・強制――それは〈伝統〉という名目のもとになされることもある――の結果であるとすれば、その集団的決断の背景にあるコスモロジーが、自らの集団に属さない者たちをきわめて排他的に、すなわち死すべき者と見なすことは、何ら不思議ではない。
 ここで、われわれはあらためて問わなければならない。生と死を排他的にとらえ、そのいずれかに至る選別のための道のりとして黙示文学的終末論を受容することは、果たして現代の世界にどのような意味をもたらすのか、と。われわれに必要なのは、黙示文学的終末論が有する積極面を継承しつつ、負の側面を乗り越えていくことである。そして、その課題を担う作業の一つとして〈生態学的終末論〉を提起したい。

 エコロジカルな危機を無視した世界観をもはや持ち得ないわれわれにとって、黙示文学的終末論の負の側面は受容し得ない。なぜなら、死と生の二元論的対立や決定論は、明らかにエコロジカルな現実認識に対立するからである。すでにリューサーの主張において見たように、世界の破局によって「最後の敵」である死が取り除かれ、永遠の生命が得られるという考え方は、エコロジカルな危機への応答としては、あまりにも無責任である。それゆえ、反エコロジー的要素を多分に含んだ黙示文学的終末論を全面的に破棄するのではなく、むしろ、伝統的終末論への批判的問いかけを内包したエコロジー思想をあえて導入することによって、安易な自己正当化を許さない内的緊張関係と対外的(公共的)責任意識をともなった終末論を形成していくことができるのではなかろうか。それによって、大貫が終末論のプラス面としてあげた「信仰の公共性」への視点を継承し、より具体的に展開していくこともできるであろう。
 今日の地球環境科学や生物学の研究成果によれば、生と死は従来考えられてきたように二元論的に区分できないどころか、両者はきわめて密接なつながりをもって生態系の全体を構成しているのである。生態学的終末論の出発点は、この現実を受けとめることにある。マクロな視点から見れば、自然環境は生と死の有機的つながりによって構成・維持されている。食物連鎖のメカニズムを考えてもわかるように、死と生は決して排他的な関係にはなく、新しい生は古い生の死なしに考えることはできない。さらに生態系では生命体どうしだけでなく、大気・海洋・土壌などの無機質が多様な生命活動を支えている。また、近年は、ミクロな視点から見た生命活動においても、死が重要な役割を果たしていることがわかってきた。その一例として、細胞のアポトーシス(自殺死)の発見をあげることができる8。アポトーシスは、個体発生の過程で、特定の細胞が特定の時期に死んで(プログラム細胞死)ある形態を形成するときなどに見られ、細胞の壊死(ネクローシス)とは異なる細胞死のあり方として注目されている。例えば、手は初め平たいへらのようなものであるが、将来の指と指との間の細胞が死ぬことによって指の原基が形成される。積極的な死が新しい生を形成するのである。
 このような自然科学諸分野の研究成果を踏まえるなら――もちろん、それを鵜呑みにするという意味ではなく――生態学的終末論は、永遠の生命によって克服・破棄される死という、生と死の非循環的な二項対立に対し批判的な立場を取らざるを得ない。また、人類が引き起こした生態学的危機を、この世の終わりの「しるし」として受けとめるのではなく、かえって、このような世界の現実に責任を持つためにも、終末論はエコロジカルでなければならないのである。そうすることによって、結果的に、生と死の最終宣告を求めるファナティックな終末論者の発生を未然に防ぐことになるであろう。
 生態学的終末論は、一部の黙示文学的終末論のように、恐怖心をあおることによって倫理的統制を図り、個の存在を全体の中に埋没させることを意図しない。むしろ、自発的決断を尊重した上で、今後有効な環境倫理の形成に寄与する可能性を模索する。われわれの生命を育み、維持している生態系は、地球がおよそ45億年の歴史をかけて作り上げてきたのもであり、人知を越えた生命のネットワークの中で人間はその存在を許されている。つまり、生態学的終末論は、当たり前に受け取ってきたものを恵みへの参与として再認識することによって、世界や自然との深い交感や、異なる世代どうしの連帯を獲得していく手助けをする。この世界は、新しい天と地によって克服され、破棄されるために存在している前座ではないからである。


2)生態学的終末論の課題と展望
 生態学的終末論において想定される課題は、一般的な環境倫理やエコロジー思想の課題と重なる部分が少なくない。ここでは、その点を考慮しつつ、キリスト教神学に固有の問題を指摘し、今後の展望を考察する。そして同時に、この考察を通じて、生態学的終末論の特徴や意義を示したい。


a)終末論の相対化:終末論的イエスから知恵の教師イエスへ
 すでに述べたように、今世紀の初頭、シュヴァイツァーがイエスにおける黙示文学的終末論を再発見して以来、神学は強調点の差異はあるものの、一様に、イエスを終末論的なイメージの中で理解し続けてきた。しかし、そのような状況が、特に米国の新約聖書学の分野で1980年代以降、根本的に見直されてきている。今や、終末論的なイエス像の信憑性が疑われ、かえって知恵の教師としてのイエス像が大きく注目されるようになっている
9。米国の事情に限定すれば、今世紀を支配していた終末論的イエス像に対する合意はほぼ完全に解体したと言ってよい。「神の国」をはじめ、様々な終末論的表象がイエスの言葉として根拠づけられないとすれば、また「人の子」が黙示的な称号でないとすれば、終末論そのものの神学的根拠が薄弱にならざるを得ない。このように終末論の相対化が進行する中で、生態学的終末論にはどのような存在意義があるのであろうか。
 史的イエス研究がどのように推移するかにかかわらず、生態学的終末論は「知恵」の働きを再評価する。なぜなら、それは多くのフェミニスト神学者たちが、男性中心的な神理解に対抗して、聖書的伝承の中から選び取ってきた表象であるが、同時にそれは、人間中心的な自然理解の再考を促す概念でもあるからである。生態学的終末論は、「知恵」が持つ関係創出的な働きを積極的に評価することにより、人間と自然を家父長的な支配・服従の関係から解放する10
 したがって、生態学的終末論は、終末論的イエス像と非終末論的イエス像の間にある主張の広がりを神学的に考察するに足る射程を備えていると言うことができるのであり、その意味でも、今後の史的イエス研究の成果を見据えていくことが求められる。


b)自然の生存権
 黙示文学的終末論が古い天と地の崩壊という形で自然世界の全体を関心の対象にしてきたように、生態学的終末論も自然世界の全体を考察の対象とする。ただし、生態学的終末論は、自然を人間に対する有用性の程度にかかわらず、生存すべき価値を有すると見なすエコロジー思想に対応することを求められる。
 自然の生存権を正当に扱うために、エコロジー思想の中では正義や権利といった概念を拡張してきた。例えば、従来、正義(justice)は、神と人間の間、人間どうしの間の関係を規定してきたが、その射程に収まらなかった自然を対象とするために、新たに「生態学的正義」(ecological justice, eco-justice)、「環境正義」(environmental justice)という言葉が用いられ始めている。このような概念の拡張の背景には、自然にも正当な〈権利〉を付与しようとする意図がある。同様の意図は、キリスト教神学の中では隣人愛の拡張といった試みの中に見受けられる。つまり、隣人愛の対象を人間に限定しないで、自然にまで拡大しようというのである
11
 環境倫理学の分野においても、自然への権利の拡張は、権利とはそもそも何かという議論を伴いながら、まだ模索の途上にあるが、キリスト教神学においてはそれらとは異なる問題をも引き起こす可能性がある。アウグスティヌスが「動物を殺し、植物を滅ぼすのを差し控えることは迷信の極みだと、キリスト自身が教えている。なぜなら、われわれと獣と木のあいだには何ら共通する権利がないものと判断したので、かれは悪霊どもを豚の群の中に入り込ませたのであり、また実を結ばないでいる木を呪って枯らしたのである」(Augustine[1966 : 102]、訳はPassmore[1974=1998 : 191])と語ることに象徴されているように、キリスト教は正統信仰からアニミズム的要素を取り除くことに力を注いできた。しかし、自然の生存権を積極的に評価することは、そのアニミズムを回復することを実質的には意味するのである。サリー・マクフェイグ(Sallie McFague)が世界を「神の体」と見なし[1993]、リューサーがガイアなる神を評価する中には[1994]、すでにそのような要素が含まれていると言える。確かに、彼女たちは自分たちの神理解が、汎神論的(pantheistic)ではなく万有在神論的(panentheistic)であるとし、また、世界における神の内在的超越(immanent transcendence)を強調しているが、果たして、それがどの程度、汎神論、つまり自然と神の同一視を回避しているかは、まだ明確であるとは言い難いのである。
 一足飛びに世界を神の体と見なしてしまうのではなく、むしろその前に、地球環境と多次元的につながっている人間の身体性が有する聖書的・神学的深みを回復することが重要ではなかろうか。生態学的終末論は、自然に対する正義を根拠づけるためにも、自然と人間の有機的な関係を考慮した神学的身体論を、方法論の一つとして備えなければならないであろう
12

c)循環型社会における創造論
 「創造性」「創造力」という言葉やそれに類する考え方は、近代社会の中で、常に肯定的な意味合いで受けとめられてきた。新しい何かを生み出すことは、端的に有用性の創出を意味してきたのである。しかし、生態学的終末論は、創造という行為の価値を限定的にのみ認める。なぜなら、消費と廃棄を顧慮しない創造は、今後目指すべき循環型社会においては、犯罪行為に等しいからである。例えば、放射性物質を使い捨てるという条件でエネルギー収支が黒字になる原子力発電は、そのエネルギー効率がいかに優れていたとしても、生態学的終末論の視点から見るなら、決して創造的であるとは言えない。創造されたものがどのように消費され、どのような形で〈終わり〉を迎えるのか、という一連の過程を問うことなしに、創造の価値を論じることはもはや許されないのである。

 神学的に表現すれば、生態学的終末論は、創造と〈安息〉とを同時に考えていくことを要請する。神が万物の創造の後、第七日目に「すべての創造の仕事を離れ、安息なさった」(創2:3)ように、すべてのものは、たとえその形体やエネルギー特性を変えようとも、生態系に不要な負荷をかけないように、安息しなければならない。資源の最終処理・再分配・循環を考慮しない創造は、今後、高く評価されるどころか、忌むべきものとされる時代へとわれわれは突入しつつある。それゆえ、創造の終着としての安息の意義を展開することも、生態学的終末論の課題となる13

d)世代間倫理(未来世代への倫理)
 今日、環境倫理が扱う問題の中で最大の難問の一つは、世代間倫理をどのように根拠づけるか、ということにある。この点に関して、弁証法神学のような「今、ここで」という実存主義的・個人主義的決断を促す終末論では、未来世代への視点はほぼ全面的に欠落してしまう。また、パスモアは「愛の連鎖」論を唱え、合理的と認められる以上に未来のために大きな犠牲を払う「愛」を、未来世代の倫理の根拠として想定するが[1974=1998 : 147-154]、それだけでは、あまりにナイーブ過ぎる。果たして、現在の世代は、まだ存在していない未来世代を権利主体と見なし、未来世代に対する責任を果たすべきなのであろうか。もし、現在世代が〈世代間の連帯〉をまったく考慮せず、ただ自分たちの世代の利益を優先させ、有限な資源を浪費し、リスクを先送りするなら、未来世代は一方的な不利益を被ることになる。

 そのような事態を避けるために、功利主義や世代間の契約理論、未来世代の権利論など様々な角度から、未来世代に対する倫理の根拠づけが試みられているが、まだ決定的な解決は見いだされていない14。西洋では近代社会の倫理が形成される過程において、共時的な、同一世代の間で成立する社会契約が主流になっていったのであり、その点で、通時的な世代間倫理に対しては、これまでほとんど注意が払われてこなかったのである。それに対し、特にアジアにおいては、「家」の観念に代表されるように、過去・現在・未来にわたる世代間のつながりが今なお重要な役割を果たしている。それは、宗教的に言えば、祖先崇拝という形で、文化の深部にまで根を下ろしているのであるが、それを西洋倫理の視点から判断し、前近代的・封建的であるとして破棄するのは早急すぎる。「家」の観念や祖先崇拝が持つ世代間構造が果たす抑圧的な働きにも十分に批判的な目を向ける必要があるが、その上で、アジアの伝統的価値観に内包されている世代間倫理をエコロジカルな視点から再解釈することは決して無意味ではなかろう。
 また、モルトマンは、死の世界へのキリストの下降(一ペト3:19以下)や死者に対するキリストの支配(ロマ14:9)などを根拠にしながら、「生ける者と死ねる者との交わり」の神学的意義に注意を喚起し、次のように語る。「すべての民に宣べ伝えられるべき福音が死者にも届くということは、その人間学的根拠を次の点にもっている。すなわち、人類は、世代交代の順序の中につくられ、このような時間的観点からすれば、生ける者と死ねる者との交わりから成り立っているのである。ほとんどすべての民族が、いわゆる祖先崇拝の中で、この交わりを祝ってきた」[1989=1992 : 301-302]。モルトマンのように、世代の交わりを宣教論と関連づけることが有効かどうかは議論の余地があるが、少なくともここで言えるのは、キリスト教の伝統の中にも祖先崇拝を洞察する視座が存在するということである。そのような伝統と、アジアに根強く存在する祖先崇拝とを合わせ見ながら、生命のネットワークや生命の系譜性が持つ神学的な意義を構築することは、生態学的終末論にとって不可欠の作業となるであろう。
 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」(マタ6:34)というイエスの言葉は、現在世代が未来世代に対して果たすべき責任を免除するものではない。酸いぶどう(放射能、紫外線、環境ホルモン等)を食べれば自分の歯が浮く(エレ31:30)だけでなく、子孫の歯が浮くことを知っているわれわれは、負うべき責任に対して可能な限り自覚的でなければならない。その責任を「明日」へと先送りすることはもはや許されないのである。




※本文および注における文献表示は、著者名[出版年(=訳書の出版年):頁]のように記され、当該の文献は末尾の「参考文献」において知ることができる。

1 『言語』1999年2月号は「予言の構造――未来を語るレトリック」という特集を組んで、心理学・哲学・文学・社会学などの諸分野から、ノストラダムス関係の予言を批判的に考察している。
2 Liedke[1979=1989]、Moltmann[1985=1991]、富坂キリスト教センター[1989]などはエコロジーの問題を神学の課題として本格的に扱っている。ただし、いずれも創造論に関心の焦点が置かれている。
3 この点から「環境経済学」という学問分野が生じてきた。植田[1998]は、大量消費・大量廃棄社会から循環型社会へ移行するに際して、環境経済学が果たさなければならない課題や問題点を指摘している。
4 この論文は後にmachina ex deo(邦題『機械と神』)の中に収録されている。machina ex deoはdeus ex machina(機械仕掛けの神)をもじったものであるが、このタイトル自体にホワイトの主張がはっきりと現れている。つまり、今日の機械論的世界が神理解に由来していることを示しているのである。

5 終末論は今日きわめて多義的に用いられており、すべての文脈において通用する一般的定義を考えることは不可能に近い。それぞれの文脈の中で、必要に応じて意味を限定するというのが現実的である。例えば、Ruether[1983=1996 : 313]は、終末論を「死を超越する可能性を信ずる見解」として定義し、その見解に対し批判的な議論を展開している。また、Borg[1994=1997 : 145-146]は、時間的な未来性、劇的な神の介入が客観的に起こること、世界の徹底的な更新を狭義の終末論の要素としてあげる。とりわけ、史的イエスをめぐる議論の場合には、このように意味を限定しなければ「終末論(的)」という言葉は、ほとんど意味をなさないであろう。黙示文学の定義も難解であるが、Koch[1970=1998 : 23-43]において丁寧に説明されている。また、同書邦訳の「解説」において、定義をめぐる、その後の経緯が記されている。
6 Pannenberg[1993 : 569-571]を参照。パネンベルクは、神の国をキリスト教的希望の本質であると考え、死者の復活など他の終末論的諸概念を派生的なものに過ぎないとする。確かに、パネンベルクに限らず、多くの神学者がキリスト教的終末論の特質を、イエスが語った「神の国」の到来に結びつける。しかし、「神の国」の(切迫した)到来を直接的にイエスに結びつけることは、近年の新約聖書学の研究成果を踏まえるなら、かなり疑問視される(Borg[1994=1997 : 171-175]、上村[1995]参照)。
7 ただし、大貫がエコロジーへの示唆として例示している箇所はロマ8:20と『パウロ黙示録』3-6章のみである。それだけでは、黙示文学が一般的な傾向としてエコロジーへの問題意識を持っているとは言えないであろう。
8 山田・大山[1994]はアポトーシスの働きをわかりやすく解説している。

9 このあたりの経緯についてはBorg[1994=1997]が詳しい。
10 Deane-Drummond[1997 : 133-159]は、科学技術が急速に進展する時代においてこそ聖書的な「知恵」を積極的に評価しなければならないと主張する。また、Ruether[1994]は、神を「知恵」という言葉より、ラブロック(James Lovelock)にならって「ガイア」と言い換えることにより、伝統的な神概念や終末論との対比を際立たせようとしている。
11 Linzey; Cohn-Sherbok[1997]は動物の神学的位置づけを考察している。また、Nash[1991]、Hessel[1992]は「環境正義」を神学の重要な課題として論じている。
12 神学的身体論については小原[1998]を参照。
13 このような課題に対し、安息日の重要性についてのモルトマンの指摘は、有益な補完的役割を果たしてくれる。彼の理解によれば、創造の完成は人間ではなく安息日にある。人間を創造の頂点とするのは近代の人間中心主義であり、それは聖書的な創造理解とは異なる。すべてのものは安息日のために創造されたのである[1985=1991 : 400-409]。

14 de-Shalit[1995]は、未来世代への倫理を根拠づけるための様々な試みを網羅的に取り上げ、その問題点を指摘している。


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Pannenberg, Wolfhart 1993 Systematische Theologie Bd. 3, Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht
Pannenberg, Wolfhart ed. 1982 Offenbarug als Geschichte (5. Aufl.), Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht=1994 大木英夫他訳『歴史としての啓示』聖学院大学出版会。
Ruether, Rosemary Radford 1983 Sexism and God-Talk: Towards a Feminist Theology, Boston: Beacon Press=1996 小檜山ルイ訳『性差別と神の語りかけ――フェミニスト神学の試み』新教出版社。
―――― 1994 Gaia and God: An Ecofeminist Theology of Earth Healing, San Francisco: Harper San Francisco.
関根清三 1998 「旧約思想断章――終末(1)」、『福音と世界』1998年2月号:64-69。

富坂キリスト教センター編 1993 『エコロジーとキリスト教』新教出版社。
植田和弘 1998 『環境経済学への招待』丸善。
White, Lynn, Jr. 1968 Machina Ex Deo: Essays in the Dynamism of Western Culture, Massachusetts: The MIT Press=1972 青木靖三訳『機械と神――生態学的危機の歴史的源泉』みすず書房。
山田武・大山ハルミ 1994 『アポトーシスの科学――プログラムされた細胞死』講談社。


『言語』 1999 28-2 特集:予言の構造、大修館書店。