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研究活動

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書評「Silvia Schroer; Thomas Staubli, Die Koerpersymbolik der Bibel, Darmstadt: Primus Verlag, 1998, 276 S.」、『基督教研究』第61巻第1号

 「聖書の身体象徴学」とでも訳される書名を持った本書は、聖書、特にヘブライ語聖書における身体理解をテーマとして扱っている。「身体象徴学」(Korpersymbolik)という言葉は、おそらく著者の造語であろう。しかし、その意味するところは明らかである。つまり、身体の肢体や器官は、単に生物学的機能を果たしているだけでなく、むしろ聖書の中では、象徴的な世界(宇宙)を表現しており、それによって自らを越えたものを指し示している、というのである。
 本書の紹介に入る前に、「ヘブライ語聖書」という表記について触れておきたい。キリスト教において伝統的に「旧約聖書」と呼ばれてきた書物の呼称が、近年、見直されつつある。本書でも、この点は十分に意識されており、形容詞としてのalttestamentlich(旧約聖書的)という言葉がまれに見られる他は、「ヘブライ語聖書」(die hebraische Bibel)や「第一契約書」(das Erste Testament)が当該書物の呼称として用いられている。「新約聖書」に対置させられた「旧約聖書」という呼び名が、単に年代的な新旧の区分だけでなく、価値の序列を含意してきたことは言うまでもない。キリスト教における反ユダヤ主義的伝統への反省として、新たな呼称が模索されるのは理にかなっていると言えよう。このような民族主義的差別に対する配慮と並んで、性差別的用語法を極力廃し、両性を対等に指示する言葉遣いが本書では意識的に用いられている。たとえば、HebraerInnen(男女のヘブライ人)やIsraelitInnen(男女のイスラエル人)といった表記が、ごく当たり前に使われている。そこには、後述するようにフェミニスト神学からの問題提起が色濃く反映されている。
 本書全体を通じて、まず印象的なのは、聖書の的確な引用が縦横無尽になされ、また、それらが指し示す身体の象徴世界が110にも及ぶ多彩な図版によって肉付けされていることである。身体に関する言葉やイメージは、長い歴史と文化の中から生み出されてきている。つまり、聖書の身体理解の重層性を知るためには、古代エジプトやメソポタミアにおける身体理解からの影響を無視することはできないのである。広範囲に及ぶ、そうした古代の彫刻や絵画の写真およびイラストを豊富に掲載し、また、あわせて現代の風刺的な図像を適宜挿入することによって、身体が言葉では尽くすことのできない象徴世界を形成していることを雄弁に物語っている。
 本書の目的を一言で要約するなら、身体に由来する聖書の豊かな人間理解(そして神理解)を再発見し、キリスト教の伝統の中に潜伏し続けてきた肉体への嫌悪感情の再考を促すことであると言えよう。その目的を果たすために、本書は内容的に二つの部分から構成されている。最初の部分では「導入」という章のもとに、聖書の人間理解の概観と方法論的な考察が述べられており、それ以降の本論に当たる部分において、身体各部に対する繊細な洞察が展開されている。
 導入の部分は、さらに「神学的人間論の視点:人間から男と女の体へ」と「聖書の身体的霊性の視点:罪の肉体から神の神殿へ」という二つの中項目が置かれている。この項目から推測されるように、著者は伝統的なキリスト教身体論に付随するネガティブな側面を露わにし、それを通じて同時に、聖書に潜んでいたポジティブな身体理解を顕在化させようとしている。たとえば、「人間」という言葉は一見、両性を対等に含む価値中立的な概念のようであるが、実際には「男」によって「人間」全体を代弁させることが圧倒的に多かったのである。そういった歴史的反省を踏まえずに、無意識にせよ「人間」という言葉を安易に使い続けることは、結果的に、女性の存在と価値に対し不当な評価を押しつけることになりかねない。それゆえ、フェミニスト神学に裏付けられた身体理解の視点からは、単なる「人間」ではなく、むしろその細部、すなわち「男」や「女」であるという具体的な身体的差異に関心を向けざるを得ないのである。
 また、罪の所在を肉体に求め、肉体を否定するのではなく、むしろ、身体が「神の神殿」と呼ばれていることの意義が再確認されている。そのプロセスの中で、とりわけ女性も男性と同様に「神の似姿」であり「神の神殿」であることが強調されている。したがって、そのようなものとしての女性の身体的統合性を傷つけるいかなるものも、神への冒涜と考えられる。キリスト教は、ギリシア思想の影響を受ける中で、そこに内包されている、いわゆる性的二元論を潜在的に継承することになった。すなわち、本書でも確認されているように、魂と肉体(物質)、理性と感情、文化と自然、超越と内在、公的なものと私的なもの、積極性と消極性といった二項関係の中には、前者を男性的特質と見なし、後者を女性的特質と見なす価値的序列が反映されてきたのである。このような思想的残滓を明らかにし、その問題点を克服していくための手がかりとして、著者は聖書の人間像の中に、男性中心主義を乗り越える起点を見いだそうとするのである。
 ただし、著者が正しく指摘しているように、それは、古代イスラエルの社会が家父長制的でなかったからという理由によるのではない。歴史的に見るなら、イスラエルの社会が家父長的であったことは否定できないであろう。しかし、著者が「立体幾何学的」(stereometrisch)と形容しているヘブライ的な身体観の中に、著者は、西欧の男性中心的概念システムを相対化する可能性を見いだしている。「立体幾何学的」という言葉は、従来の二元論的分節化を平面幾何学と見なし、その偏狭さを批判するための対概念と思われるが、その具体的イメージは、本論で展開される身体各部の言語的・図像的描写を通じて、徐々に紡ぎ出されていく。それは、さしあたり、身体の各部を通じて、現実の様々な側面を収集し、それらの相互作用の中に全体的な人間像あるいは神理解を得ようとする思考法であると言うことができるであろう。
 本書は、方法論的にはフェミニスト神学や解放の神学に大きく依拠しているが、注目すべきなのは、その方法論的作業を通じて、聖書そのものに内在している身体的メッセージを力強く汲み上げていこうとしている点である。キリスト教神学の中では、歴史的に経験されたことが一般化され、具体的なものが寓話化され、物質的なものが精神化され、地上的なものが天的なものとされた、と著者は批判する。そのような思想的傾向の中で脱落してきた、聖書的な人間理解の豊かさを、聖書テキストおよび文化史的コンテキストの解釈を通じて回復しようとするのである。ここでは、本書で叙述されているすべての身体項目について触れることはできないが、以下に、その一部を紹介する。
 最初に、ドイツ語のHerzに対応する「心臓」あるい「心」が取り上げられ、同時に翻訳上の問題が指摘されている。解剖学的な意味での身体器官に関して言えば、ヒトはほぼ同じ身体構造を有していることから、ヘブライ語からドイツ語および他の言語への翻訳は、比較的容易である。問題は、身体器官に関連づけられた象徴世界の違いであり、この違いが翻訳の際にしばしば捨象されてしまうのである。心臓・心はその典型的な例を示している。日本語を含め欧米語では、心臓・心は人間の感情的側面を司る部位とされることが多い。しかし、ヘブライ語では、心臓は感情とは関係なく、むしろ、事柄の真実を判別し悟る理性の座として理解されている(申29:3、王上3:9)。
 また、ヘブライ語の「喉」(ネフェシュ)が有する身体的象徴世界は、ギリシア化の中で大きく改編されていった歴史を持っている。「わたしの魂よ、主をたたえよ」(詩103、104)においても、喉を意味するネフェシュが用いられているが、これがなぜ西欧語でも日本語でも「魂」という定訳を当てはめられてきたのであろうか。翻訳の結果だけに目を奪われ、喉と魂の間に元来横たわっていた豊穣な身体感覚を忘れてしまうなら、「魂」をめぐる解釈能力は貧困なものにならざるを得ないであろう。そもそも、人間の身体を通じて出入りするもの、たとえば、空気・水・食物・声などは喉に集中している。それらすべてを人間は欲求として欠くことができないのであり、その意味で、喉は欲求を持った人間の象徴となる。そしてそのことは、人間が他のもの・他者によってしか満たされない欲求を持った、関係依存的な存在であることを意味している。実際、ネフェシュはこういった身体感覚に媒介され、非常に広い意味を持っているのだが、驚くことに、ギリシア語への翻訳の際、755カ所のネフェシュの内、600カ所がプシュケーと訳されてしまった。これが後世においてネフェシュを誤解する一因となった。ギリシア哲学において、プシュケーは個人の(神的)本質であり、それは生まれる前から、そして死後も肉体と関係なく存在し続ける。しかし、本来、ヘブライ的思考は魂の永遠性・不死性とは無縁である。ギリシア的な魂が永続し、転生するのに対し、ネフェシュは死によって消滅する。それは、ヘブライ的信仰が、徹底して地上での生に関心を向けることに呼応している。それゆえ、聖書的なネフェシュの意味世界を回復することは、長い間、キリスト教信仰の暗黙の前提とされてきたギリシア的な霊魂観をラディカルに相対化する一助となり得るのである。
 先の心臓・心と並んで、ヘブライ語聖書でもっとも頻繁に言及される器官の一つに「子宮」(レッヘム)がある。レッヘムは「憐れみ」「同情」といった聖書における重要な感情表現の語源ともなっている。しかし、子宮という女性の器官が、これらの概念を生み出すためのメタファーであることには、ほとんど注意が払われてこなかった。神の憐れみ・同情といった感情表現は、もちろん、母性だけでなく父性とも結びついているが(創45:2)、そのイメージが具体的に何に由来するかは、イスラエルの人々にとってはいつも意識されていた。また、豊穣な母胎と乳房は、神からの祝福の反映であり、それは人間の手によるのではなく、神からの賜物として受けとめられた。しかし、子宮をめぐるヘブライ語聖書における理解と、現代社会における理解とはますます乖離していっているように思われる。特に、生殖医療が子宮に及ぼす影響はますます大きくなっており、生命を育み送り出す子宮が神以外の誰ものにも属していないという聖書的確信は、かなり危うくされている。確かに、子宮に対し技術的に介入することは、女性の尊厳に対する攻撃であるだけでなく、神に対する侮辱でもあると考える著者の姿勢に共鳴する人も少なくはないはずである。しかし、同時に、生殖技術の利用を望んでいる女性に対し、どのような指示的メッセージを聖書から引き出すことができるのか、綿密な議論の積み重ねを怠ってはならないであろう。子宮に基礎づけられた身体感覚と、医療技術によって開示される人間の新たな欲求とを、むやみに拮抗させるだけでは、子宮の持つ象徴世界が一面的な宗教的拘束力となって、多様な女性の立場を制限してしまうことになりかねないからである。
 子宮が憐れみや同情と結びついているのとは対照的に、「鼻」はヘブライ語聖書の中では、怒りと関係づけられている例がもっとも多い。このメタファーの基礎には、怒りに満ちている鼻息のイメージがある。しかし、実際には、ヨブ記32:2以下の「エリフは怒った。......ヨブは怒った」という表現に見られるように、日本語訳でもドイツ語訳でも「鼻」が脱落させられることによって、この身体器官を取り巻く隠喩的・人間論的特性は狭められている。しかし、祭儀において、神の感じやすい鼻をかぐわしい匂いによって、なだめようとしてきたように、古代イスラエルでは神の鼻に対し大きな関心が向けられてきたのである。正教会やカトリックの礼拝では、この祭儀的習慣は今に至るまで保持されているが、プロテスタントの場合、神の怒りをなだめるのはもっぱら祈りの力であり、神が鼻を持っているという感覚はほとんど失われている。
 テレビやビデオなどの映像メディアを通じて、われわれの日常は過剰なほどのビジュアルな刺激を受けている。しかし、間断なく流れ来る大量の映像は、しばしば、じっくり見ることを忘れさせてしまう。それだけに、ヘブライ語聖書が、じっくり見ることのできる力を重んじ、非常に頻繁に神の「目」を話題にしていることは、われわれに有益な示唆を与えてくれる。そもそも、イスラエル人にとっては、エジプト人同様、神が目を持ち、見る、ということは自明の事柄であった(創1:31、詩94:9)。神が人間のすべての営みを奥深くまで見定め、行為する方であるように、人間もまた見ることをおろそかにしてはならないのである。その関係で著者は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」という戒めが、祭儀用の偶像の崇拝にのみ関係しており、人間が作る神のイメージに反対して向けられているのは一度もないことを確認している。むしろ、イスラエル人は、ヤハウェを擬人的にイメージし、視覚的にとらえることを好んだのである(詩17:15)。それに対し、像を嫌悪するプロテスタント教会は言葉に集中し(ロマ 10:17)、その伝統においては、聞くことが見ることに対し圧倒的な優位性を与えられた。それゆえ、イスラエルの賢者たちが表現している、目と耳への等しく重要な洞察はプロテスタント的信仰の中で失われてきたのではないか、と著者は批判する。言葉を聞くことに専念してきたプロテスタント主流教派が、今日のマルチメディア社会の中で右往左往し、画一的な応答に終始しがちなのも、そうした事情と無関係ではなかろう。
 このような目と耳の等価性を踏まえた上で、イエス運動と初期の教会が、ヘブライ語聖書の耳の神学(Ohrentheologie)を保持し、伝承したことを著者は強調する。神と人間の愛の関係は、神が愛する者の声を聞く耳を持っていることを前提にしている。また、神の言葉を聞くことは犠牲を捧げることよりも望ましいのであり(詩 40:7)、神は虐げられた者や、やもめの叫び声を聞かれる方であること(シラ35:15-21)が繰り返し語られている。そして、聞くことは行うことと一体であり、これが新約聖書における耳の神学の重要な機軸となったのである。見ることとと聞くことが恣意的に分離されてはならないように、聞くことと行うことは分けられてはならない。著者の見解によれば、解放の神学は、この有機的関係を真剣に受けとめた。つまり、解放の神学は、安易な答えを準備する前に、民衆の声を聞き、行為することを決意してきたのである。
 以上、本書で数多く言及されている身体部位の叙述の内から一部を紹介し、批評してきた。最後に、本書のテーマとなっている身体が現代思想および現代神学の中で、どのような意義と可能性とを与えられるかについて簡単に触れたい。
 言うまでもなく、ポストモダンの思想的潮流の中で身体への関心は急速に高まっている。もちろん、このことは近代的自我の変節を語っているが、われわれは、必ずしもポストモダニズムの結果として、身体へ関心を向けようとしているのではない。むしろ、そのような時代的関心に促されながらも、その流れを的確に見定めるために、聖書的な、とりわけヘブライ的な身体理解は有効な視座となる。古代イスラエルの時代より伝承されながら、不当にも忘れ去られていた人間理解に対し、新たな視線を向けることは、単なる懐古趣味ではなく、本書が明確に示しているように、近代的自我に対する挑発的な見直しの要求を伴うことになるからである。また、そういった通時的な人間理解の複合性を視野に入れながら、たとえばアジア的な人間理解を重ね合わせていくような共時的な人間理解が今後求められるであろう。「腑に落ちる」「肌で感じる」といった身体的知恵の表現は、日本の文化の中でも息づいている。身体は生物学的には(とりわけ遺伝学的には)文化を越えた高い共通性を示すが、それが取り持つ象徴世界の豊かさは、その差異と同一性の総和の中に示されるのである。
 そのような課題とも関連するが、現代神学においては、キリスト教と諸宗教との関係が熱心に論じられてきた。一般的に言えば、他の宗教と対話をしていくためにキリスト教の神概念は抽象化される傾向にある。たとえば、ゴードン・カウフマンは神を非人格的・非実体的な「空」の概念と近接させようとする。しかし、この種の試みは身体の細部・生々しさにこだわろうとする聖書的な理解からは、かなり隔たりがあると言わざるを得ない。ヘブライ語聖書の中には身体を離れた抽象的な神理解は存在しないのである。これまで、宗教間対話の方法論の一つとして考えられてきた汎用的な神概念の適用と、それに基づく宗教多元主義には、暗黙の拡張主義があるのではないかという指摘もされ始めている。中立的な普遍性にではなく、むしろ、それぞれの宗教に固有の言説を支えている身体感覚に立ち返ることによって、逆説的に、潜在していた身体の通約可能な基底が見えてくるのではなかろうか。