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研究活動

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書評「小田垣雅也著『ネオ・ロマンティシズムとキリスト教』」、『日本の神学』第38号

 著者の小田垣氏は、これまですでに現代思想や現代神学の諸問題に対し、精力的に論を展開してきているが、本書では、そういった成果の上に立って、生命倫理や環境倫理にかかわるような具体的課題に対し、より幅広い見通しを与えようとしている。その作業の前提となり、また方法論ともなっているのが、著者の言う「ネオ・ロマンティシズム」である。
 では、ネオ・ロマンティシズムとは何か。著者の他の著作に触れたことのある諸氏に対しては、あらためて繰り返す必要のないほどに、それら著作の骨格となっている概念である。しかし、はじめて見聞きする方に対しては、本書の「はじめに」の言葉を借りて、次のように説明することができるであろう。著者によれば、ロマンティシズムには表層と深層の二層がある。近代的ロマンティシズムは、啓蒙主義的合理主義に反対した情緒主義であり、著者はこのロマンティシズムの歴史的価値を認めながらも、それを表層のロマンティシズムと呼ぶ。それに対し、深層のロマンティシズムに当たるものがネオ・ロマンティシズムであり、それは合理主義かロマンティシズムか、といった対立的な構図そのものを超えようとするポストモダン的動機づけに起因している。
 ネオ・ロマンティシズムも、「ポスト・モダーン」という言葉も、本書のキーワードとして重要な役割を果たしているが、それらの言葉に込められた意味内容は、本書の叙述の展開と共に、具体的に紡ぎあげられていくので、読者は早急な定義づけを求める必要はなかろう。いずれにせよ、これらの言葉には新たな概念構築が意図されているというより、むしろ、近代合理主義を超えようとする著者の美的感覚が映し出されている。著者にとっての課題は、「真実に対する憧憬」「ノスタルジア」の問題である。また、本書の「おわりに」を先取りして、著者の意図を要約するなら、そういった憧憬とノスタルジアの中に立っている著者の「心象風景」をもっとも的確に描写してくれるのが「ネオ・ロマンティシズムとキリスト教」という言い方なのである。実際、著者の心象風景には実に多様な対象物が布置されている。本書は「第Ⅰ部 人間」「第Ⅱ部 他なるもの」「第Ⅲ部 ネオ・ロマンティシズムの存在論」の三部から構成されている。

 「第Ⅰ部 人間」においては、議論の前提となる人間理解が示された後に、脳死や臓器移植、人間の死が考察の対象とされている。著者の人間理解の主眼点は、人間を自己完結的な個としてではなく、関係的な存在としてとらえることにある。また、関係存在としての人間は、神学的場においては、神に応答する存在として理解される。しかし、著者が注意を喚起するのは、人間が神への応答性において把握されるにしても、神自体は人間によっては決して存在規定され得ない、ということである。言い換えるなら、人間によって対象化され、概念化された神は、人間のモノローグの中でとらえられた神であり、人間に応答を求める真の神ではない。そこから著者は、特定の宗教思想の中で成立する神概念に依拠する、いかなる神からの呼びかけも、真の神に由来しない、という緊張関係を引き出していく。
 著者はマルチン・ブーバーの「我―汝」関係を援用しながら、人間が関係存在であることを思想史においても説得的に裏付けようとする。さらに、「永遠の汝」としての神が、在と不在の二重性としてのみあり得ると語り、互いに矛盾するものの二重性を東洋的な無の思想に近接させていく。東方教会において神が「一にして一切」であると考えられるように、東洋思想の「一即多」を関係論的思考として評価しつつ、神論と人間論を二重相即の関係論の中で同時に把握しようとするのである。
 また、人間が関係存在であることの一つの帰結として、著者はプラトン的な霊肉二元論を批判し、それを超えた身体理解を提示する。つまり、人間の身体は主観 ―客観構図における認識の対象ではなく、むしろ、パウロにならって関係概念としてとらえられる必要があると言う。著者は後で、科学技術が生み出した様々な矛盾点に触れていくことになるが、それらの原因の一端が、意識や実存を身体と切り離して考える現代的な霊肉二元論にあることをあらかじめ示唆している。
 このような人間理解の前提を前提にして、著者は脳死と臓器移植の問題へと視線を移していく。その際も、議論の前提としての科学的真理のあり方がまず論じられている点などに、脳死と臓器移植の問題のみに対し早急な結論を出そうとしているのではなく、われわれが抱え込んでいる科学技術的成果の矛盾点を広く踏まえようとする、著者の基本姿勢をうかがうことができる。科学的な言説はしばしば、その客観性をもって、現代人の認識能力に説得的に訴えかけるが、著者は、それに対し、科学的真理は決して客観的でも自明でもないことを、ニールス・ボーアの「相補性の原理」などを引き合いに出して論述する。端的に言うなら、科学的真理は自己完結的ではなく、相関的・関係的であり、著者独特の言い回しを使うなら、科学の客観性は主観―客観構図を超えているが故に「絶対無」の場に位置するということになる。
 このような立場を取る著者にとって、人間の医学的・生理学的死(つまり、科学的な意味での死)は、決して「人間の死」と同一視することはできない。むしろ、この両者が曖昧に混同されていることに、脳死・臓器移植をめぐる議論の混乱の原因を見ている。人間の死は、個体としての生命体の終焉ではなく、関係性の中での死としてとらえなければならない。脳死を直ちに「人間の死」と見なさないのがポストモダン的脳死理解であり、それを看過する場合に医の荒廃が訪れるというのである。著者の目には、現状の臓器移植は冷酷で非人道的かつエゴイスティックなものと映っており、肯定的な評価はほとんど見られない。そのような主張を支える論拠の一つが、人間の代替不可能性であると言えよう。著者は、人間の関係存在性と各自性の両面の重要さを繰り返し強調している。また、「人間の死」を考える場合に、先験的言語によるか存在論的言語によるか、という興味深い考察も展開されているが、そこでは輪廻転生も死後の世界も、共に死の問題を避けて通るものとして批判されている。

 「第Ⅱ部 他なるもの」では、第Ⅰ部での方法論を継承しつつ、自然と人間の関係や、自然的なものを超えようとする神秘主義思想に関心の焦点を移していく。ここで「他なるもの」というのは、後に触れるように、自然の定義不可能性を示唆している。まず著者は、聖書が自然に対し肯定的であることを語り、他方、バルト神学に代表されるように、自然や自然法を積極的に否定するのはプロテスタント教会の行き過ぎ・とらわれであると批判し、自然をキリスト教思想の中で適切に考察することを促す。もちろん、その際、自然法が可変的であることは留意されている。著者の批判は、可変的であることを理由に自然法を存在しないものとして否定してしまうことの愚に対し向けられている。
 自然を再考する一つの視座として、自然と自然主義の区別があげられている。それによれば、自然や宇宙は定義不可能であり(それゆえ、宗教の言語は神話的・象徴的にならざるを得ない)、その定義不可能性を考慮しないで、自然をそれ自体で存在する機械的・自己完結的なものと見なす立場が自然主義(唯物論、実証主義、進化論等)である。自然主義においては、自然の一部に過ぎない人間が自己を中心にして自然を見るという事態が生じるが、これは近代的な主観―客観構図に由来する仮構に過ぎないという。そして、人間が自然の中心に位置づけられるという点において、キリスト教の創造論と近代科学は奇妙な一致を見るのであり、そのいずれもが、著者によれば、自然主義的であって、自然そのものを見ておらず、それゆえ、自然への尊敬が失われている。
 自然への尊敬という表現は情緒的なイメージを与えるが、自然を肯定原理と見なす著者は、著者は肯定原理の中に「情緒性」「女性なるもの」を見ており、その意味で首尾一貫している。また、「みずから自身より生まれでる」という西洋的な「しぜん」と、「おのずから然る」という東洋的な「じねん」を対比させ、その両者を統合するダイナミズムとして肯定原理としての自然を考えている。自然理解の中で、宗教間対話の可能性について言及されているのも興味深い。著書によれば、本来の対話は自然の次元でこそ起こり得る。つまり、歴史的に形成されたそれぞれの価値観を解体し、そのような価値観が現れる以前の自然の水準に立ち返ってのみ、内実ある宗教間対話は可能となるという。
 このように著者は肯定原理としての自然の重要性を説くが、同時に、自然との繋がりのもとに超自然的なものを想定してしまうことの危険性を指摘するために、神秘主義へと考察を進め、その働きを「断絶」においてとらえようとする。さらに、神と人間、永遠と時間、絶対と相対という質的断絶を、神秘的合一によって埋めるタイプの神秘主義と、それらの断絶を断絶のまま保持し、その両者を二重性としてとらえるタイプの神秘主義とに区分することの必要性を主張し、著者自身は、後者の立場に立つのである。前者の神秘主義における合一は、人間本意的になりがちであると批判し、その事例として、高橋たか子の神秘主義を取り上げている。著者によれば、高橋のように、エロティシズムを超自然的なものとの合一の契機とする情感的神秘主義(女流神秘主義)は、人間自身の思考という「自然的なもの」を決して超え出ることはない。著者が本来的な意味で合一を求めるとき、そこでは自己の中核が合一の中に消え去ること、つまり、人間の思考そのものが放棄されることが主眼とされており、その点を看過する神秘主義を強く批判するのである。したがって、女流神秘主義に見られるキリストに対する「熱愛」などは自我中心の情感の最たるものとして拒否され、他方、エックハルトのような神秘主義は、先に述べた第二のタイプの神秘主義として高く評価されている。
 同様に、環境問題も、近代的な人間中心主義を離れたポストモダンの問題として考察されている。そこで著者は、すでに広く使われている「共生」という言葉をキーワードにしながら、環境問題に対応可能な人間理解を模索する。共生とは、これまでの論旨に即して言うなら、人間は自然なしには生きられず、自然の一部であるという関係存在性のことである。それと対比されるのは、自然との「共存」という言葉であるが、そこに著者は自然を支配・管理しようとする人間中心主義的発想を見るので、共存を人間の独善であるとして批判するのである。このような観点から、著者はアルベルト・シュヴァイツァーの「生への畏敬」を積極的に取り上げ、環境問題を解決するために、倫理はその根拠を神秘主義に持たなければならないという見解を表す。そして、その限りにおいて、環境問題に対処し得る共生の思想は結局、宗教の問題となるのである。

 「第Ⅲ部 ネオ・ロマンティシズムの存在論」では、著者の思想の存在論的根拠が、信仰のあり方、矛盾相即の二重性、芸術などをめぐって展開される。最初に関根正雄の「無信仰の信仰」という言葉を取り上げ、西田哲学に起因するその独自性を評価しながらも、その信仰理解は聖書の枠内にとどまっていることを指摘する。著者が注意を喚起するのは、関根の「絶対矛盾の自己同一」という表現である。つまり、そこにはまず矛盾した二者があり、それが同一化されるのであるから、それは弁証法的であって、西田哲学が本来語る「絶対矛盾的自己同一」とはまったく異なるという。それに対し、著者が依拠する絶対矛盾的自己同一とは、矛盾がそのまま二重的に自己同一であり、結局、それは無の場ということになる。そのような立場からは、ルターの「罪人にして同時に義人」という言葉の中にも、「不信仰にして同時に信仰」(不信仰即信仰)という絶対矛盾的自己同一を見ることができるのであるが、絶対矛盾的自己同一は、聖書の証言といった特定宗教の伝統の中に留まり得ない事態であることを繰り返し強調する。
 また、このような考え方は学問論にも適用される。従来用いられてきた「学際的」(interdisciplinary)という言葉は、人間の知識の相対性の自覚から生まれてきた経緯を持つが、それはまだ、個々の学問の固有の価値意識を温存しており、それぞれの枠を超えることができないでいるという。その代案として、著者が関心を寄せるのは、ミュルダールという学者によって提示された「超学的」(transdisciplinary)という表現である。超学的なアプローチは、個別的学問が発生する以前の人間という水準にまで下降し、主観―客観という二元論に分裂する以前の現実に接近すると語られているが、このアプローチこそがポストモダンの知識論につながっていくという。
 さらに、ハイデッガーの存在理解やティリッヒの神理解が、真の存在否定・神否定に至っていないことを指摘しながら、著者がいう「二重性」の意味を対比的に開示していく。つまり、彼らは存在や神を否定することにより、二重性を作り出しているように見えるが、実際には、その二重性自体が一つの客体として考えられており、いわばそれは無への一八〇度の転回に過ぎないのである。それに対し、著者が主張する二重性とは、存在を否定する無をさらに透過して三六〇度転回して自己に戻るという「自即他」の存在論である。それは絶対無の場であるとも語られている。それゆえ、このような二重性は、否定的契機が認識の主体と対象を生み出してしまう二元性とは厳密に区別される。
 二重性と二元性との区別は、そのまま「一」と一の区別に位相を転じていく。他あるいは多との区別においてのみ成り立つ数列の起点としての一は、単なる一と呼ばれる。それに対し、有とその否定である無を含んだ二重性、あるいは一と多の二重性としての絶対無は「一」と呼ばれ、一とはまったく異なった可能性を付与されている。たとえば、著者は一の立場にはコミュニケーションの可能性はないと断じる。一の場に定位した宗教同士は意見交換をすることはできても、根本的な対話をすることはできないという。つまり、真に宗教間の対話が可能となるためには、それぞれが「一」の立場に立ち、不信仰即信仰という二重性の次元にまで降りていかなければならないのである。そして、二重性としての「一」は、一と多、その一と多をあらしめている「無いことにおいてある場」という三つの契機で成り立っているという解釈を通じて、「一」は三位一体であると述べる。
 最後に著者は、ネオ・ロマンティシズムと芸術の関係に論を進めていく。ロマンティシズムは「一なるもの」「全体なるもの」を求めてきたが、それらが人間の器官によってとらえられている以上、ロマンティシズムは決して「一なるもの」にも「全体なるもの」にも到達し得ないという。しかし、そのロマンティシズムの本意を生かす場として、著者が提示するのが無の思想である。近代の対象的思考を超えて、「無の透明化」「無の無化」という三六〇度の転回を通じて得られる全体性や「一なるもの」へのかかわりは、ネオ・ロマンティシズムの美意識によってのみ開かれてくる。こういった作業は、知性や理性の作業ではなく、むしろ、情緒的・神秘的作業になるという。そういった観点から、著者はネオ・ロマンティシズムの中に、芸術と哲学、神学が結び合わされる可能性を積極的に見出そうとするのである。

 以上、本書の要点をたどってきたが、本書評の締めくくりとして、評者の率直な感想も書き添えておきたい。まず、著者がポストモダン的思考を志しているにもかかわらず、叙述の過程および結論において、時折、ポストモダンに反するのではないかと思うことがあった。一般的によく引用されるフランスの哲学者リオタールの定義によれば、ポストモダニズムとは「普遍的で、すべてを包含する、巨大な説明の体系がその力を喪失している状態」のことであり、そういった理解は「知識の客観的完結性という仮構の喪失」といった著者の表現にも、十分に反映されている。にもかかわらず、著者が絶対矛盾的自己同一や無の思想の有用性を主張するとき、それがある種のメタ・パラダイムとして機能している。本書全体が、ある意味でモダンとポストモダンの緊張関係をめぐるパラダイム論としての構成を持っており、また、著者自らが「パラダイム論の本意は、絶対と相対を超えたメタ・パラダイムを求めている」(二九頁)と述べていることを考えれば、それは自覚的なことなのかもしれない。しかし、その自覚が強く前面に出されるとき、それを支えている体系を受け入れなければ知的に不誠実であるかのような、何かしらポストモダンらしからぬ印象を受けてしまうのである。
 そのことをもう少し具体的に述べてみよう。たとえば、著者は、宗教的次元なしに環境問題は解決しないと語り、また、その解決の糸口を無の場に求める。著者の言うとおり、確かに、自然との「共存」の思想は人間の独善であり、「共生」こそが望ましいであろう。しかし、切迫した環境問題に現実的に対応していくためには、人間が今後も独善的であり続けることを考慮に入れて、多様な立場を包摂し、とりまとめていくべきではないか。「共生」というパラダイムがいかに優れていたとしても、それを強制することは不可能であり、ポストモダン的でもない。同様のことが、宗教間対話に関しても言える。真の宗教間対話は、相互の価値観が成立する以前の自然の次元において、また、二重性を含意した無の場においてなされるべきかもしれない。しかし、このような境地をかいま見るのは、宗教的達人にのみ許され、それ以外の凡人は結局、にせの宗教対話しか行うことしかできない、という閉塞状況を結果的に生み出しかねない。ポストモダンの思想的潮流は、多様性の受容を可能にしてきたが、それに比して、本書では若干画一的な方向付けが試みられているような気がする。ドイツの社会学者J・ハーバーマスらが、ポストモダンの主張の中に、近代が可能にした価値文化と批判の水準をまるごと無化してしまう新保守主義的な衝動があることを指摘・批判したことを連想するのは、評者の杞憂であろうか。
 また、自然の肯定原理の中に「女性なるもの」を見ることは、著者の美的感覚と言ってしまえばそれまでだが、ポストモダンという文脈の中では注意が必要である。これでは、女性は、いつまでたっても男性のわがままを母親のように受け入れるイメージの中でとらえ続けられることになるが、そのような家父長的男女観をポストモダンの諸潮流は克服しようとしたのではなかったのか。「女性なるもの」の一面的評価というコインの裏側にあたるのが、「女流神秘主義」やエロスへの過小評価であるが、そこにもポストモダン的というよりは、モダン以前の伝統主義を感じさせられる。
 このようにいくつか気がかりな点はあるにせよ、わが国ではポストモダン的課題に対し本格的に取り組んだ著作がまだ少ないだけに、本書の問題提起には大いに関心を喚起された。本書で触れられているいずれのテーマも、二一世紀の重要な課題として持ち越されていく。それらを考察する契機を与えてくれた著者の意欲的な取り組みに対し賛辞を呈したい。