小原克博 On-Line

研究活動

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「神学教育における組織神学の役割――『神学的なものの見方』を分かち合う」、『福音と世界』1999年11月号

■はじめに
 本稿では、組織神学を比較的広い意味で理解し、キリスト教教理の体系的論述にかかわる包括的な学として論を進めていきたい。しかし、その前にわたしが置かれている具体的な教育の場について触れておくべきであろう。なぜなら、以下に述べる事柄は、組織神学をめぐる一般論と言うよりは、はるかに、わたし自身の事情に即して語られるからである。
 わたしは現在、同志社大学神学部で組織神学の分野を担当している。組織神学担当者は他にも三名おり、それぞれが持ち味を生かしつつ、神学教育の責任を負っている。したがって、組織神学と一口に言っても、その扱い方は各人各様であり、何か同志社特有の組織神学についての共通姿勢が存在しているわけではない。もちろん、各人が勝手気ままにカリキュラムを組んでいるのでもない。比較的頻繁に教師間の打ち合わせが行われ、全体の調整がなされるが、その意味でも、わたし自身が負っている部分は明らかに限定的である。それゆえ、以下の論述を通じて、わたしは同志社での「神学教育における組織神学の役割」を総論的に述べようとは考えていない。あくまでも、わたし個人が担っている教育上の責任を顧みながら、実状や課題を述べていきたいと思う。

■神学教育の対象者
 神学教育の中身に言及する前に、現在、わたしの担当科目の履修者たちの顔ぶれを紹介すべきであろう。なぜなら、それによって、他の神学校とは異なった同志社の神学教育のコンテキストが多少なりとも明らかになるからである。
 伝統的な意味での神学教育をイメージすると、学生はクリスチャンであり、その大半が将来、牧会に出ることを希望する若者(その多くは男性)ということになるであろう。確かに同志社も、かつてはそうであった。しかし、歴史の変遷と共に、学生の層は非常に多様化してきている。
 進路別に学生を二分すれば、牧会希望者と一般就職希望者とに区分することができる。学部レベルでは前者は明らかな少数者であり、大学院レベルで両者は半々くらいになる。つまり、現在の神学教育は、牧会希望者以外の存在を無視しては成り立たない。人によっては、神学教育とは、もっぱら牧会希望者に向けられた教育のことである、と考えるかもしれない。しかし、現実に学部の授業を受ける者の大半は、牧会希望者であるどころか、クリスチャンですらない。さらに言うなら、多くの授業では、神学部以外の学生が多数出席している。同志社の文学部・法学部・経済学部・商学部・工学部等の学生たちや、他の大学生たち(大学コンソーシアム京都という組織を通じ、京都の諸大学間では単位互換制度がある)に対し、神学を語らなければならない。

■二つの要請の狭間で
 一方で、将来牧会を志す学生たちに対し、現場で生かせるような濃密な神学を伝達しなければならないという教育的要請があり、他方で、キリスト教的な知識や理解を前提にしないで、より一般的な地平で神学を伝えなければならないという教育的要請がある。この二種類の要請は一見すると、まったく異なった方向を向いており、両立不可能である。現実に、わたしもこの二つの要請の間で悩み、自問自答することが少なくない。たとえば、教会に一度も行ったことがない学生に対し、どのようにしてカール・バルトの『教会教義学』の意図を理解してもらえるであろうか。そもそも、教会や信仰といったリアリティを暗黙の前提とすることなく、神学を学ぶことができるのであろうか。
 今後も、そうした悩みから容易に解放されることはないであろう。しかし、それにもかかわらず、わたしは先の二つの教育的要請は満たされ得るし、また満たしていかなければならないと思っている。神学の言葉が、閉じられた小さなサークルの中でのみ理解可能な秘密の暗号とならないためにも、そのことは必要である。確かに、多くの事柄を共有し、前提にできれば、教える側は楽である。全員が牧会希望のクリスチャンであれば、緻密な神学的議論をする際も、「そんな基本的なことも、わからないのか」と学ぶ側の無理解を批判することもできるであろう。しかし、キリスト教に関する体験的・知識的共有を多く期待できないところで、それを共に作り上げていかなければならないというのが、同志社における神学教育上のコンテキストなのである。

■神学的タフネス
 上記の事柄は、見方を変えれば、非常に挑戦的な課題を含んでいると思う。へたをすれば、本来教えなければならない神学的深みを、汎用的なメッセージに希釈するという亜流の神学教育になりかねない。しかし、むしろ、そこで問われているのは、道具立てがほとんどないプリミティブな舞台から、いかに神学という物語を立ち上げ、演出していくか、ということなのである。神、救済、キリストといった言葉を自明のものとして用いるのではなく、その一つ一つに基礎的な定義を与えながら、日常的なシーンの中で意味を獲得していくような作業が不可欠である。それはまた、日本における宣教論的な課題にもつながっていくであろう。
 近年の社会人入試や科目等履修生(かつての聴講生)の制度を通じて、学生の層は確実に多様化してきている。牧会を目指す少数の者は、多くのノンクリスチャンと机を並べ、また様々な世代の学生(一〇代~八〇代まで各世代の学生がいる)と交わる。雑多な人間関係・教育環境の中で、自らの考えを相対化する機会を得、徐々に神学的タフネスを身につけることは、牧会を目指す者にとって、教義学的諸説に安易な形で寄り添ってしまうより、はるかに実践的な力となるのではなかろうか。

■科目の紹介(一)
 次に、実際の担当科目に触れながら、わたしの神学教育上の目的や課題について述べていきたい。わたしはまだ大学院の専門科目は担当していないので、これから述べる科目は学部科目に限定されるが、それらは大学院生によっても履修されている。
 一つに「現代におけるキリスト教倫理の諸問題」という主題の講義クラスがある。講義概要には次のように記している。「現代社会における倫理的な諸問題を考察の対象としながら、キリスト教的な考え方に慣れていくことが、このクラスの目標です。(中略)このクラスでは、生命倫理・社会倫理・環境倫理などを縦断・統合する形で、新しい倫理の方向を模索しながら、その際用いられているキリスト教の基本的な考え方を丁寧に解説していきます。身近な素材からキリスト教神学の基礎を構築することを目指します」。この講義では、学生の関心を喚起しそうな具体的な事柄を多く取り上げながら、それらに対する倫理的判断を迫られたときに必要となる指針を考え、その背景に組織神学的なテーマを浮かび上がらせるという、帰納的な方法を採っている。マルチメディア教室の大型スクリーンに各種の最新ホームページや関連ビデオを表示させ、視覚に訴えるというのも、この授業の特徴の一つである。

■端的なイメージの伝達
 この授業を通じて、わたしが取り組んでいる課題は、いかに端的に、場合によっては直感的に、キリスト教的な真理性を伝達するか、ということである。歴史の中で積み上げられてきた緻密な神学的考察を初級・中級・上級という具合に丹念に登りつめてくれる学生ばかりならば、何も問題はない。しかし、多くの若者は、最初の印象で自分にとっての要不要を決してしまう。「一年経てば深い意味がわかるから、黙ってついてこい」というやり方は、残念ながら、多くの学生にとって有効ではない(それは教会でも同じであろう)。つまり、彼らに真理とは何かという問題提起をし、眠っている関心を呼び覚ますためには、ある種の即興芸を演じなければならないのである。これは若者感覚に媚びていることになるであろうか。わたしはそうは思っていない。むしろ、イエスがたとえを用いて神の国を語るときに、どれほど端的に具体的イメージを喚起し、それが真理探究の糸口を与えたかを、わたしは思い起こす。若者の根気がなくなったと嘆く前に、なすべきことは多くあるのではないかと、このクラスでは絶えず自己吟味させられている。

■科目の紹介(二)
 また別の講義科目に「現代神学」がある。このクラスは、年度によって取り扱う人物等は若干異なるが、D・ボンヘッファー、K・バルト、A・シュバイツァー、H・リチャード・ニーバー、J・モルトマン、W・パネンベルク、E・ユンゲルら今世紀の代表的神学者から、解放の神学、フェミニスト神学、エコロジーの神学、宗教の神学、アジアの神学など近年の神学的潮流までをコンパクトに扱う。ただ、いくら高名な神学者の概要を知識として記憶していても意味がない。それぞれの神学者の著作を通じて、その肉声に触れ、何かを感じて欲しいと思うが、リザーブ・シェルフに参考文献を並べておくだけでは、多忙な学生は見向きもしてくれないであろう。そこで、この授業では、それぞれの神学者の比較的読みやすい著作の一部を一冊の教材にして、それを学生に事前に読んできてもらい、授業の中ではテキストを読解しながら、それぞれの神学者の生涯や思想について解説を加えている。

■同時代性・歴史的責任
 この科目での課題の一つは、二〇世紀あるいは現代という時代との同時代性をいかに感じ取ることができるか、ということである。時代背景としての世界大戦や戦後の新しい世界秩序などを説明するにしても、聴く者の内面で、そのような歴史とかかわりがあるという感覚は容易に生まれはしない。「わたし」がまだ生まれず、それゆえ経験していない時代に対し、同時代的感覚を持つためには、十分に訓練された想像力が必要だからである。それだけに、神学者たちの考えや行動を当時の時代状況に即して理解しつつ、同時に、彼らが追求した神学的課題は、決して一時代の中で完結しておらず、それゆえ、現在のわれわれがその責任を何らかの形で負っていることを認識できれば、その認識は神学的知識を実践的に展開するための肥沃な土壌となるであろ
う。

■組織神学演習
 演習(ゼミ)では、創造論、終末論、神論など伝統的な教義学的テーマを扱ったり、生命倫理やエコロジー、フェミニスト神学など応用的なテーマを扱うが、これらはいずれも神学部の学生にのみ開講されており、その点では、少人数で密な議論を交わすことができる。できあいの結論を出すことを急がず、学生それぞれの関心を高めていくことが目的である。

■さいごに
 牧会の現場で役に立つ組織神学がどういったものなのか、わたしは明確な答えを持ってはいない。ただ、これまでの叙述からもわかるように、組織神学は牧会の現場でのみ役立てばよいというものではない、とわたしは考えている。牧会を目指す者だけでなく、一般就職する者にとっても、すでに社会生活を営んでいる者にとっても、神学的なものの見方を身につけることがいかに重要か、その認識を分かち合いたいと思っている。そして、学びの共同体の中で分かち合われた「知恵」が、進むべき進路にかかわらず、一生涯、物事を的確に洞察する力として用いられることを願っている。そうした神学教育上のわたしの理念を支えてくれているバルトの言葉を最後に引用して、本稿を締めくくりたい。
 「啓示というもの、教会というものは、その本質と意図において、人間に関わるものであるから、われわれは今や神学についても、安んじて一般的に、それは人間に関わるものだと言う。そして、たとえこのことについて知っている人がどのように少数であるにしても、神学こそ人間に関わるものそのものだ、と言ってよいほどに、神学が切実に必要とされる時代があるのである」(『啓示・教会・神学』)。