研究活動

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小原克博『神のドラマトゥルギー――自然・宗教・歴史・身体を舞台として』教文館、2002年

book200201.JPG(「はじめに」より一部引用)

 「神のドラマトゥルギー」という書名について考えることから、本書の紹介を始めたいと思う。ドラマトゥルギーとは、作劇術と訳される、本来ドラマ(演劇)に関係する用語である。ここで言うドラマとは、第一義的には身体によって表現される舞台芸術を指しているが、そこから「人生はドラマである」といった意味の拡張(メタファー表現)がなされることも、われわれはよく知っている。あるいは逆に、舞台芸術としてのドラマを、人生や歴史的出来事の縮図としてとらえることも可能であろう。
 本書でも同様に、ドラマに内包され、またドラマによって拡張される意味世界を、神と人間との関係を問うための一つの視点として用いている。「神のドラマトゥルギー」という言葉には、神が自らをどのように演じるのか(神の自己啓示)という関心と、人間が経験したことはどのように演じられ、追体験されるのか(人間の神認識)という関心が含まれている。この二重の関心が交差するドラマの舞台として、本書では、自然、宗教、歴史に注目している。それぞれのテーマに対する考察が主として第一部でなされ、その具体的な展開が第二部においてなされる。そのような大きな枠組みのもと、本書の構成は次のようになっている。
 第一部では、ドイツの組織神学者ヴォルフハルト・パネンベルクとの対論を軸としながら、神についての理解(神論)を深めていく上で、重要な論点をそれぞれの章において扱う。
 第1章では、歴史的に様々な評価を受けてきた「自然神学」を再検討することを通じて、神を理解する上で「自然」がどのような位置づけにあるのかを考えていく。その際、神概念の伝承の歴史に注目し、神の普遍性と具体性をどのように認識すべきなのかを考察する。
 第2章では、神の認識を宗教経験一般の中で探求する。それは、宗教としてのキリスト教に内在する特殊と普遍の両義性をどのように関係づけるのか、という問いにもつながっていく。また、宗教が伝達しようとするメッセージがメディアと不可分の関係にあることを示していく。
 第3章では、パネンベルクによって定式化された「歴史としての啓示」をめぐって議論を展開する。啓示が「神の言葉」に収まりきらない多様性を持っていることを考察する。その上で、歴史と啓示が互いに還元され得ない独自性を持った極性として、その間に生じる緊張関係を通じて終末論的な言語表現に仕えていくことを明らかにしていく。
 第4章では、三位一体論の成立過程をたどり、そこに潜在している認識論的な問題を考察の対象とする。それによって、三位一体論がヘレニズム的思想体系の中に還元されるのではなく、むしろ、それを生み出した言述の閉域から逃れ出る力を有していることが示されるのである。
 第一部で得られた成果を適宜用いながら、第二部ではさらに「身体」を舞台として現代世界の諸問題を視野に入れていく。
 第5章では、ブルトマン、モルトマン、パネンベルクらの見解を参考にしつつ、神学的身体論がどのような課題を有しているかを考察する。
 第6章では、イエスの受肉・十字架・復活の視点から、イエスの「からだ」が示す意味世界を展望する。さらに、それが生命倫理・社会倫理・環境倫理に関連する現代社会の問題群に対し、どのような示唆を与えるのかを考える。
 第7章では、自然や身体を考察するとき不可欠なテーマである「生命」の問題に触れる。第一部で提示されていた課題を具体的に受けとめるために、ここでは生命科学やそれに起因する問題に向き合うための神学的視座を示す。


〈目次より〉

第一部

第1章
「自然神学」の再検討
第2章
 宗教における神認識の探求
第3章
 歴史としての啓示
第4章
 三位一体論的神論の展開


第二部

第5章
 神学的身体論の射程
第6章
 イエス・キリストの「からだ」
第7章
 〈ロゴス〉と〈ビオス〉の間――生命科学への視座


<書 評>

『本のひろば』2002年4月号   芦名定道   

 本書は、小原克博氏が、氏の博士学位論文(一九九六年)をもとに、その後の研究成果を加えて書き上げた待望の研究書である。氏は現在の我が国におけるキリスト教思想研究で最も活躍している若手研究者の一人であり、このような形で、氏の神学思想が公にされたことに、同じキリスト教思想研究に携わっている友人の一人として、まず心からの賛辞を送りたい。
 本書の全体構想は、その表題に凝縮的に示されている。神の自己啓示を神の演じるドラマと捉え、このドラマが人間によっていかに経験され認識されるのかを、自然、宗教、歴史、身体という舞台において叙述するのが、本書の目的である。このため、氏は現代ドイツの代表的神学者パネンベルクの思想を緻密に分析し(第一部)、パネンベルクとの対論を軸に、神学を取り巻く広範な問題領域を縦横に論じて行く(第二部)。紹介すべき点は多々あるが、以下、第一部のパネンベルク論と第二部の神学的身体論にしぼって、氏の議論を紹介することにしよう。
 小原氏は、パネンベルクの神学的思索の出発点と言える共編書『歴史としての啓示』に収められた論文と、その神学研究の集大成である『組織神学』(全三巻)に考察を集中し、そこから、人間の経験を可能にする「現実の総体性」と「一切の現実を支配する神」というパネンベルク神学の核心を構成する中心概念を明らかにする。これらの概念は、神学と哲学の対論や自然神学の成立を可能にする基盤であって、小原氏は、本来、自然神学は「それによって神の存在証明を不当に要求している」のではなく、むしろ神学が、世俗化以降の時代状況の中で、自己閉塞的にならないために必要な神学以外のものとの「『議論』が成立する場」であることを説得的に論じている。これはバルトらによる従来のキリスト教神学の問題点を克服する試みであり、パネンベルク神学の中心的主張であると共に、小原氏白身の神学的主張に他ならない。現代の時代状況において、神が認識される場は、現実の総体性という概念が示唆するように、自然神学が扱う「自然」の領域にとどまらない。小原氏は、「自然」に続いて、諸宗教における宗教経験、神話、そして歴史といった神が演じ人間が経験する舞台を一つ一つ叙述してゆき、「キリスト教神学をその全体性において把握」しようとする。
「神のドラマトゥルギー」は、歴史における間接的啓示や終末論を経て、三位一体論まで迫られることにより、その全体が締めくくられるのである。パネンベルクの抽象度の高い神学の全体像は、小原氏の卓越した分析を通して、ここにその現代的意義が明確化されたと言えよう。
 第二部において、パネンベルクを通して獲得された神学的思索は、現代の生命や環境をめぐる神学的議論へと大きく展開され、「神のドラマトゥルギー」は、「身体」へと舞台が移される。読者は、ここにおいて、最新のキリスト教思想の最も重要な議論を確認すると共に、小原氏の神学的思索の豊かな可能性を見ることができるであろう。とくに、氏が最後に論じている「人格概念や偶有的責任」の問題は、自己が制御可能な領域の外部から自己に課せられる責任性(たとえば、宗教的な召命体験において経験される偶然に選ばれたことによって成立する責任)
を論じるものであり、自己決定権が強調される現代の思想状況に対して、大きな問題提起となっている。
 本書で小原氏が繰り返し参照するパネンベルクはモルトマンと共に現代ドイツ神学をリードする思想家であるが、その重要性にもかかわらず、我が国ではいまだそれに見合った評価がなされていないように思われる。本書をもとにして、パネンベルクを中心とした現代神学をめぐる討論が今後活発に行われることを期待したい。しかしまた、本書は単なるパネンベルク紹介にとどまらない。これまで神学に関心のなかった人でも、小原氏の議論をたどることによって、神学するおもしろさとその意義を実感できるのではないだろうか。現代の生きた思想としての神学に興味のある人に、ぜひ一読をお勧めしだい。

(あしな・さだみち=京都大学助教授)
(B6判・二一〇頁・本体二五〇〇円〔税別〕・教文館)