小原克博 On-Line

研究活動

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『キリスト教がわかる。』(AERA Mook)、朝日新聞社

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●人間イエスの魅力と教えの現代性 井上洋治
●哲学を利用したキリスト教の歴史 木田 元
●他宗教との対話から文明の対話へ 稲垣久和

◆現代キリスト教のテーマ
女性/同性愛/先端医療と生命倫理/死ぬ権利/中絶/正義の戦争/死刑制度/科学技術/市場経済

◆各教派の特色と歴史
東方正教会/カトリック/聖公会/ルーテル/改革派/会衆派/パブテスト/メソジスト/ペンテコステ/クエーカー/救世軍......

◆日本社会とキリスト教
禅で読む聖書/男女交際文化としての魅力/イエスを伝える児童本

◆クリスチャンという生き方
難民支援/脱サラ牧師/ゴスペル音楽家/神父バー/24時間教会

◆国際政治とキリスト教パワー



同性愛――性と生と聖

小原克博

 キリスト教の立場から性をどう考えるか、という問いは、現代のキリスト教の多様性に向き合うことを余儀なくさせる。なぜなら、その問いから派生する具体的な問題――性行為の意義、婚前交渉、中絶、同性愛など――をめぐって、保守派と自由派(リベラル)の間では、極端なまでの見解の相違があり、またそれぞれの立場も決して一枚岩ではないからである。その意味では、性にかかわる問題は、キリスト教的思考の幅の広がりを知る格好の試金石であると言えるだろう。
 性は個々人のもっとも深奥な部分に属しているので、自らの性をどう考えるか、あるいは他者の性をどう受容するか、という問題は微細な無限のバリエーションを持っているはずである。しかし、20世紀半ば頃まで、多様な性の表現があるどころか、性について公然と語ることはタブーとされてきた。その背景にあるのは、アウグスティヌスらを起点とする、性についての否定的態度である。
 アウグスティヌス(354―430)は自らの性的葛藤と深く向き合った人物であるに違いないが、その経験を通じて、性欲を悪と見なすようになった。それゆえ、彼の理解によれば、独身生活はもっとも高貴な生き方に数えられる。ただし、すべての人間が独身生活を送れるわけではないので、男と女は子どもを生むためには結婚し、性行為をすることが許されていると彼は考えた。より端的に言えば、セックスは出産を目的とする限りにおいて許されたのである。この考え方は、程度の差こそあれ、現代に至るまでカトリック世界を中心に影響を及ぼし続けてきた。カトリックやプロテスタント保守派の中で、人工妊娠中絶が強く批判されるのも、このような伝統からの影響によるところが大きいと言える。なぜなら、中絶はセックスの唯一の目的(出産)を阻むが故に罪深い行為とされてきたからである。
 もっとも、現代においてはカトリックといえども、実に多様化しており、バチカンから発せられる伝統的な性理解を、すべての信者が従順に受け入れているわけではない。また、一見カトリックとは一線を画するようなプロテスタントにおいても、性に対する開放的な態度を取る自由派が必ずしも多数を占めているわけではなく、むしろその中にはカトリック以上に伝統的な性理解に固執しようとする保守層も存在している。その意味では、性理解に関しては、カトリックか、プロテスタントか、といった分類はあまり意味を持たず、むしろ教派横断的なまとまりが思想的にも組織的にも存在していることに注意すべきであろう。そうしたまとまりは、今日しばしば「宗教右派」(religious right)と呼ばれている。内部に微妙な差異を抱えながらも、宗教右派に属する人々はおおむね、セックスの主目的を出産と考え、婚前交渉を厳しく批判し、中絶や同性愛行為を罪と見なす。
 20世紀中頃から性の自由化が急速に進展し、その限りでは、宗教右派の性理解は時代錯誤的に見えるかもしれない。しかし、北米のようにもっとも性の自由化が進んでいるような社会において、かえって宗教右派の人々が一定の勢力を維持しているのは偶然ではない。振り子の揺り戻しのように、性の自由化と伝統への回帰との間で北米社会は揺れ動いているのであり、その振幅の幅を見落とすと、社会の多様な実相を単純化してしまうことになりかねない。
 しかし、全世界的なキリスト教の状況から見るならば、性の問題が教会政治の中で大きく取り上げられるのは、米国をはじめ西欧のキリスト教に特有の傾向と言える。たとえば、東方正教会などでは性にかかわる問題を扱うことに対し批判的であり、世界教会協議会(WCC)のような教派を越えた議論の場において、東方正教会の代表者と西欧の自由主義者との間に明確な対立構造が生じることもまれではない。また、一夫多妻制を部分的に容認しているアフリカの教会を、西欧の視点(とりわけフェミニズムの視点)から批判することは容易であるが、それは文化コロニアリズム(植民地主義)の発想だと反論がなされた場合、妥協点を見いだすことは簡単ではない。つまり、性をめぐる問題は北米の教会において先鋭的に見られるが、潜在的には全世界的な広がりを持っていると言える。
 価値判断が分かれた場合、聖書が何を語っているのかが伝統的に問われてきた。しかし、現代社会が抱えている多様な性の問題に対し、直接的な答えを返してくれる聖書の箇所は存在しないだけでなく、聖書が書かれた時代において前提とされていたような性理解を、われわれはもはや共有することはできない。古代世界において、男女の性行為は「望まない妊娠」というリスクを抱え込まざるを得なかったが、現代においては様々な避妊方法の普及により、かつてあったようなリスクは明らかに縮小している。そのような変化が性の自由化の背景にあることは間違いない。しかし、聖書の権威を相対化し、現実的な経験に基づいた聖書解釈をしようとする自由派が一方的に勢いを増しているわけではなく、聖書の権威のもと伝統的な価値観を復権させようとする宗教右派の運動も無視することのできな広がりを有している。両者の間に存在する緊張関係をもっとも際立たせて見せてくれるのが、同性愛をめぐる論争である。
 この数年、米国の主流派プロテスタント教会の中で同性愛者の位置づけをめぐる議論ほど、熾烈を極めた論争はなかったと言える。1970年頃までは、この問題がキリスト教の世界で取り上げられることはほとんどなかった。問題として取り上げられたとしても、それは同性愛を罪として糾弾するものがもっぱらであった。しかし、近年、同性愛者からの発言が公に知られるようになったり、また、性のメカニズムについての科学的な研究が進展する中で、長らく存在していた同性愛に対する偏見を克服しようとする試みが現れてきている。カトリック教会は公式には同性愛に対し批判的であるが、多くの司祭や信者がそうした態度を変えていこうと努力している。また、聖公会、合同メソジスト教会、長老派教会などは、同性愛の問題を最重要課題の一つとして扱っている。ところで、このように同性愛に関する理解が深まりつつある米国においても、教会は次のような事項に関しての態度決定を一つひとつ確認しながら、より包括的な理解へと議論を進めている。
 (1)教会は同性愛者の市民権を擁護すべきか。(2)同性愛者は教会のメンバーになることができるか。(3)同性愛キリスト者が同性愛的ライフスタイルを維持することは適切か。(4)教会は同性愛者の結合(ユニオン――男女の「結婚」と区別してこのように呼ぶことが多い)を祝福すべきか。(5)同性愛キリスト者は自らの性的指向を変えるよう努力すべきか。(6)同性愛者は按手(聖職者としての任用)の対象となるのか。
 特に最後の「同性愛者の按手」に関しては道のりが険しく、教派としてそれを認めているのは、自由派の代表格、合同キリスト教会だけである。同派では70年代から同性愛者の聖職者が存在していた。また一九六八年には、同性愛者であるという理由で、ある教派から除籍されていたトロイ・ペリーが、メトロポリタン・コミュニティ教会を設立している。同教会は同性愛者のクリスチャンが自由に礼拝をできる場を提供するだけでなく、エイズ問題にも積極的に取り組み、現在では世界17カ国にブランチを持ち、3万2千人もの信者を擁している。
 他方、公然と同性愛批判を行う宗教右派の人々にとっては、同性愛者は伝統的な家族構造を破壊するだけでなく、神の怒りを招く結果、国家の滅亡さえもたらす存在として映っている。同性愛を批判する際の根拠として繰り返し引き合いに出されてきた新約聖書の箇所として、「コリントの信徒への手紙 一」6章9―10節、「テモテへの手紙 一」1章9―10節、「ローマの信徒への手紙」1章26―27節がある。前二者は多くの悪徳の内の一つとして「男娼」や「男色をする者」といった言葉があげられているのに対し、三番目の箇所は、次のように、同性による性行為に直接言及している新約聖書中唯一の箇所であると言える。「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」。
 いずれにせよ、これらの箇所が同性愛批判のために取り上げられる場合の方法論ははっきりしている。つまり、第一に、同性愛に関連する表現を文脈から切り離して、特別の倫理的禁止事項として強調すること、第二に、それらの表現を文化的コンテキストから切り離して、今日の同性愛という言葉と並列させ、意味的に直結させることである。したがって、こうした方法論が受け入れられる場においては、聖書への直接的な言及は一定を効果を有するが、近代的な聖書批評を前提とする場合には、このような形での同性愛批判は説得力を持ち得ないと言える。
 また、一口に同性愛と言っても、その理解は保守派と自由派とでは大きく異なる。保守派の多くの人々にとって、同性愛は悔い改めや治療によって克服しなければならない一種の病的な状態であり、それは本人によって選び取られた結果である。それに対し、自由派の人々、同性愛者、性医学の専門家の多くにとって、同性愛は、本人が選び取ったわけではない、遺伝的・環境的要因による指向性(orientation)として理解される。もちろん、その指向性そのものは罪とはまったく関係がない。この両者の見解の間に様々な中間的立場があると考えられるが、いずれにせよ、同性愛をめぐる議論がきっかけとなって、公に語ることがタブー視されていた性の問題に正面から向き合っていく機運が徐々に熟してきたと言える。
 その一方で、同性愛者であるという理由によって暴力的な犯罪に巻き込まれる事件が、米国では相次いで報告されている。偏見を動機とする犯罪を一般的に「憎悪犯罪」(hate crime)と呼ぶが、そこでは人種差別と並んで同性愛者への差別が深刻な問題と見なされ、法的な保護策を求める声も少なくない。時として犯罪にまで及ぶ同性愛者への偏見をどのようにして取り除いていくかは、国の違いを問わず社会的な課題であると言える。
 ちなみにヨーロッパでは、デンマーク、アイスランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデン、フランスなどで、同性愛者間の婚姻関係が法的に認められている。ドイツではそうした状況を見ながら、ドイツ福音主義教会(プロテスタント教会の連合体)が同性愛の問題に対し真摯な取り組み始めている。
 日本の場合、米国におけるキリスト教のように、性の問題を顕在化させ、社会で共有できるような働きを果たしている宗教は見あたらない。また、宗教性そのものが潜在化している。しかし、このような文化的様相の上に米国文化が覆いかぶさることによって、現象的には性の多様性を享受しているかのように見える。しかし、われわれは性のエネルギーを適度に解放したり、抑制したりする技法を自らの言語として修得しているのであろうか。キリスト教世界においては、保守派であれ、自由派であれ、性と生の固有の関係を絶えず自分たちの言葉で言語化する努力がなされてきた。その作業がまた、私的な内面世界と外的世界との間の往復運動を活性化し、性と生と聖が出会う地平を多層に開いていっている。個が孤立せず、また社会が画一性へと陥らないためにも、性が持つ豊饒なエネルギーを大胆かつ繊細に用いる知恵が今、求められているのではなかろうか。