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書評「絹川久子著『ジェンダーの視点で読む聖書』」、『本のひろば』2002年10月号

 わたしたちは日頃、どのような思いで聖書を読んでいるだろうか。正典としての聖書を読むことは信仰者の当然の務めであるとも言える。しかし、わたしたちの信仰を生き生きとしたものにし、また、与えられた生を新たな視点で見直すためには、もっと積極的な動機づけが必要だろう。本書の著者である絹川久子氏にとって、聖書を読むことは「喜びの発見」に他ならない。
 同じものが、視点を変えて見るだけで、まったく違ったイメージをもって迫ってくることがある。そこには発見と気づきの喜びがある。著者にとって、それは本書のタイトルにもあるように「ジェンダーの視点」で読む、ということである。これに関連する表現を本書の中から拾い上げれば、「女性の視点」「フェミニスト神学の視点」「もっとも小さくされた人の視点」などをあげることができる。それぞれの強調点は異なるものの、同じ方向を向いていると理解してよいだろう。
 こうした視点は、女性特有の聖書理解という形で矮小化されるべきではない。著者が語るように、ジェンダーという言葉の背後には、人種、階級、性指向、年齢、身体障害、膚の色、言語などによって引き起こされる差別の諸問題が意識されているからである。
 では、ジェンダーとは何か。生物学的に規定される性(セックス)とは異なり、ジェンダーは社会的に規定される性の役割や期待を指している。簡単に言えば、「男らしさ」「女らしさ」などの表現によって区分されている性差のことである。このジェンダーの視点から聖書を見るとき、聖書は圧倒的に男性の視点から書かれ、解釈されてきたことがわかる。それに気づくことがまず大事であるが、さらに、そのことゆえに十分な関心を払われてこなかった女性たちの経験に光を当てていくことが本書ではテーマとされている。
 そのような作業が本書では、比較的なじみのある福音書や旧約聖書の物語を題材として展開されている。たとえば、神は父性と結びつけてイメージされがちであるが、著者は翻訳の仕方にも注意を払いながら、父性に限定されない、神についての豊かなイメージを紡ぎ出そうとする。父的なものも母的なものも神を表現する豊かなメタファー(隠喩)となり得るが、聖書の神は人間が考えるような性の区別(男性神、女性神といった区別)を越えた存在であることが語られる。聖書が内包する神理解の豊饒さに気づくことによって、何となく抱いてきた固定観念から解放されることも、聖書を読む喜びにつながるのである。
 また著者は、男性的な視点から描写されたために、かき消されてきた女性の経験や物語から女性の苦悩の声を聞こうとする。たとえば、士師記一九―二一章を扱った章では、徹底して犠牲を強いられる女性たちに寄り添うようにテキストを読み解き、語れない状況に追い込まれた「彼女」たちの声ならぬ声を聞き遂げようとしている。そして、実は同じ状況が今も続いているのではないかと、著者は問いかけるのである。その意味では、聖書を読む喜びは、単なる楽しさのことではなく、苦悩する人々に対する責任と連帯を自ずと伴うということ、そのことが本書全体を通じて語られているとも言える。
 同様の視線が、アブラハムとサラによって利用され、追放されるハガルの物語(創世記一六、二一章)に対しても注がれている。ここでハガルの苦悩と同時に強調されているのは、神がその叫びを聞く、ということである。ハガルの泣き声、その子イシュマエルの泣き声を神が聞くということの中に、偏狭な民族主義を乗り越えようとする神の計画を見ることもできる(イシュマエルがイスラーム世界ではアラビア人およびムハンマドの祖先とされているのは意味深長ではないか)。
 本書は著者の講演などが下敷きになっているせいもあって、きわめて読みやすい。新鮮な視点で聖書と世界を見つめ直してみたいと考える、多くの人にお勧めしたい一書である。