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書評「富岡幸一郎・金子昭著『宗教原理主義を超えて』」、『週刊仏教タイムス』2003年3月13日

 本書は、富岡氏と金子氏による二つの対談(二〇〇〇年と二〇〇二年)がベースになっている。対談のテーマは、富岡氏が専門とする神学者カール・バルトや、金子氏が専門とするアルベルト・シュヴァイツァーをめぐる論議をはじめとし、キリスト教や天理教の教理的特徴や宗教組織のあり方、戦争と平和、文学に至るまで非常に幅広い。しかし、読了すれば、それらすべてが、「宗教原理主義」をどのように理解し、また克服すべきかという課題に対する考察の糸口を与えてくれているということに、賢明な読者は気づくだろう。
 タイトルにある「宗教原理主義」という言葉が、文中に頻繁に現れているわけではないし、また、それが体系的に論じられているわけでもない。むしろ、それと直接的にはかかわりのないような人間の営みを多角的に論じ合うことを通じて、この課題の広がりと根深さをかいま見させてくれている。
 宗教原理主義を考える際、一つの参照軸とされているのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三宗教である。二番目の対談が同時多発テロ事件後に行われているので、それらへの言及は、学問的関心にとどまらない切実さを伴っている。これら三宗教はアブラハムを共通のルーツとしているにもかかわらず、友好的な関係にあったとは言えなかった。それゆえ、平和を実現するために、それぞれの宗教が自らのアイデンティティを保持しながら、対話を進めていくことの重要性が論じられている。
 その際、興味深いのは、信仰が自らの絶対化を本性的に招きやすいことを認めた上で、そうした内的な原理主義を乗り越えることの必要性が主張されていることである。富岡氏は、作家・椎名麟三を引き合いに出しながら、イエスの生涯は、宗教が持っている原理主義との戦いであったと語る。金子氏の「あとがき」の言葉を借りれば、「内なる対話」があって、はじめて「外なる対話」が可能になるのであり、この順序を軽視すべきではないだろう。
 原理主義的誘惑は、間違いなく、すべての宗教に存在している。それが自覚されなくなると、自己絶対化や宗教組織のいびつな肥大化が生じることになりかねない。本書は、多様なテーマを通じて、そうした課題へと意識を向けさせてくれるのである。