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「現代世界における一神教の意味」、『アレテイア――聖書から説教へ』No.41

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 キリスト教の神は、どのように理解されているだろうか。この問いに対する答えが、キリスト教の内部にいる者と、その外部にいる者との間で異なってくることは、容易に想像できる。ある人がキリスト教信仰を持っている場合や、キリスト教についての十分な知識を持っている場合、キリスト教の神を三位一体の神として特徴づけるだろう。キリスト教をただ一神教として表現するよりは、三位一体論を持ち出す方が、神理解の独自性を際立たせることができるからである。
 他方、キリスト教を外部から見るものにとっては、三位一体の神は理解困難であるだけでなく、そもそも、関心を引かないことが多い。関心の対象となるのは、むしろ、一神教の代表格としてのキリスト教であろう。もちろん、一神教といった場合、ユダヤ教やイスラームがあわせて考えられている。この場合、ユダヤ教やイスラームにおける一神教のあり方は、キリスト教を媒介にして理解されることが多い。言い換えるなら、これら、いわゆるセム系一神教はキリスト教を基軸として、ひとまとまりにとらえられがちであり、それらの間にある差異はほとんど考慮されることはない。
 この傾向は日本においても顕著に見られる。日本の論壇では、一神教は多神教との対比関係の中で引き合いに出されることが圧倒的に多く、その際の共通する論調は、一神教の狭隘さの指摘と多神教の称揚にある。本論では、そうした現実を踏まえながら、国内外の情勢の中で、キリスト教が一神教としての自己理解を新たにしなければならない背景と、今後の課題について展望する。

1.日本における一神教をめぐる言説の動向

 まず、一神教を諸悪の根元として理解している事例を紹介する。
 「だから、世の中でいちばん迷惑というか害が大きいのは、一神教と一神教との喧嘩ですね。今のキリスト教国のアメリカとイスラム圏との争いというのは、人類の未来にとって非常に危惧すべきことではないかと思います。これはやはり一神教の病理で、はっきり言えば、一神教が人類の諸悪の根元なんで、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、一神教がすべて消滅すればいいんですけれどね(笑い)」[岸田・小滝、二〇〇二、二三六頁]。
 こうした見解は、学問的な裏付けを欠くことが多いが、意外と広く受け入れられているかもしれないという点で無視することはできない。また、政治的・経済的な諸要因を分析すべき事態の中で、問題を宗教的なレベルに還元する発想に対しては、十分な警戒をする必要がある。なぜなら、一神教間の宗教紛争(戦争)というイメージが、本来見るべき複雑な問題や原因を隠蔽したり、偽装するために利用される場合が少なくないからである。ユダヤ教・キリスト教・イスラームは、一神教であるから、それらの間での対立・衝突を避けることはできない、という論理は、最悪の場合、問題解決に対して思考停止をもたらすことになる。
 また、これほど極端な表現でなくとも、日本の多神教的な文化状況を称揚するために、一神教が排他性のシンボルとして用いられる例も、しばしば見受けられる。日本文化のよき理解者として知られる梅原猛、河合隼雄、山折哲夫などの主張の中にも、こうした傾向は散見される。たとえば、梅原は次のように語る。
 「私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです」[梅原、一九九五、一五八頁]。
 欧米の一神教文明を凌駕するような可能性を、多神教の中に力強く指摘する姿勢に、多くの人が共感をおぼえるのも、明確なナショナル・アイデンティティを見いだしにくい日本社会の中では当然のことと言えるかもしれない。しかし、こうした風潮の中では、一神教と多神教とを単純な二分法で考えてしまうことの問題点や、多神教にまつわる負の側面が顧慮されることはほとんどない。それどころか、イラク戦争を先導するために発揮されたジョージ・W・ブッシュ大統領の力の論理を一神教の論理として描写し、反戦平和のためには多神教的な世界観が必要だという主張が、昨今、さらに強まったと言えるだろう。
 以上のように、一神教と多神教の二分法は日本ではきわめて一般的になっているが、この二分法に対する批判的検討も徐々にではあるがなされている。たとえば西谷幸介は、ヘルムート・リチャード・ニーバーが類型化した信仰の三形態、すなわち、単一神教、多神教、唯一神教を手掛かりとして、一神教という概念の中で唯一神教と単一神教の区別をし、単一神教を宗教の基本的状況と考える(日本の「多神教」もこれに近い)。唯一神教に帰せられてきた独裁政治や専制は、むしろ単一神教に起因するのであり、唯一神教はその専制を制御・修正すると結論づけている[西谷、二〇〇一]。西谷の指摘は明快かつ説得力があるが、単一神教と唯一神教の区別を一般の人々に理解してもらうのは困難が予想される。
 裏返せば、複雑な現代社会においては「単純さ」が端的に力となり得る、ということである。一神教と多神教の二分法を生み出しているのは、一部の知識人だけではなく、その素地は現代の社会システムの中で醸成されているという点を見逃すべきではない。

2.欧米における一神教をめぐる言説の動向

 欧米においても、一神教と多神教の対比はテーマになってきた。そのテーマをめぐる主張は多岐にわたるが、以下、その論点を概観してみる。

a.一神教の多神教に対する優位性の主張
 この主張は、アウグスティヌスがキリスト教信仰の中からアニミズム的な要素を排除しようとした頃からの伝統を持っていると言える。
 「動物を殺し、植物を滅ぼすのを差し控えることは迷信の極みだと、キリスト自身が教えている。なぜなら、われわれと獣と木のあいだには何ら共通する権利がないものと判断したので、かれは悪霊どもを豚の群の中に入り込ませたのであり、また実を結ばないでいる木を呪って枯らしたのである」[Augustine, 1966, 102]。
 アニミズムや多神教などは、迷信あるいは異教として退けられてきたのであり、キリスト教世界が拡大する中で、一神教の優位性は特に議論する必要もない大前提とされてきたと言える。
 こうした主張を現代の事情に照らしてユニークな形で展開している人物の一人に、新約聖書学者のゲルト・タイセンがいる。タイセンは神理解の変遷を進化論的な視点から解釈する。多神教的な世界では、強い者(社会)が弱い者(社会)を駆逐する自然淘汰の法則がまかり通るが、聖書的な唯一神教は、申命記24章17節のように、寄留者・孤児・寡婦を配慮する、自然淘汰への抵抗であると考える。また彼によれば、多神教から唯一神教への進化は革新的であり、その非連続性を強調して、唯一神教の形成を霊的な「突然変異」と呼ぶ[Theissen, 1985, 64-81]。タイセンは唯一神教を手放しに礼賛しているわけではないが、唯一神教と多神教の違いを強調している点において、日本における多神教擁護者と類似した傾向を持っていると言える。

b.多神教の一神教に対する優位性の主張
 欧米においても一神教の弊害を指摘し、多神教の復権を主張する動きはある。その代表的な人物として、心理学者のデイヴィド・L・ミラーをあげることができる。ミラーによれば、人間の抽象的、形式的、論理的、思弁的な思考は必然的に一神論的にならざるを得ず、また、人間は一度に一つの神によってしかとらえられないので、「信仰」においても唯一神論者か単一神論者となる。しかし、ニーバーが我々は深層においては一神論者で表層では多神論者であると言うのとはっきり区別した形で、ミラーは我々は一神論者であるのと同時に、その神について考えたり、話したりするときには必然的に多神論的にならざるを得ないと言う。そして、多神論的になってこそ、一神論では見過ごしにされてきた日常的な生活に秘められた多様性やその深い宗教的次元に触れることができるとミラーは主張する[ミラー、一九九一、八四―八八頁]。日本でミラーの考え方に近いのは河合隼雄である。河合は、人間の全体を理解するためには一神論的な論理的整合性よりも、方法として多神論を用いる方が有効であると考えている。

c.宗教進化論(退化論)
 一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて、一神教の成立をめぐって、主として二つの学説が対峙していた。宗教進化論と原始一神教説である。前者の立場の代表的人物である宗教学者F・M・ミュラーは、自然崇拝→単一神教→多神教→唯一神教といった道筋を考えた。その影響を受けた旧約聖書学者のJ・ウェルハウゼンは唯一神教に至る途上に「拝一神教」という言葉を考案した。宗教進化論的な理解は、用語法や考え方は様々であるが、唯一神教がある種の完成段階に位置づけられている点で共通しいる。
 他方、原始一神教説では、A・ラングやW・シュミットらが、人類学的な報告に基づいて、社会が原始的であればあるほど、至高神崇拝が顕著であり、文化の発展と共に、こうした原初状態から多神教へと退行していったという主張を展開した。したがって、この説は見方を変えれば、宗教退化論であるとも言える。
 いずれの学説も、今では、そのままの形で受け入れられることはない。しかし、一神教の起源をめぐる議論は現在も継続しており、初期の学説が様々な概念構造を提供したことは言うまでもない。近年、聖書考古学の発見がめざましく、ウガリットの碑文などを通じて、ヤハウェ信仰と多神教世界との関係がより詳しくわかってきた[Smith, 2001]。そうした成果を通じて、唯一神教は、多神教世界を前提として成立してきたことも明らかになってきており、また唯一神教は、かつて考えられたほどドラマティックに歴史の舞台に現れたのではなく、むしろ緩やかな、しかし着実な変化の中で形成されたと考えられている。また、唯一神信仰は神についての教理的関心から出てきたのではなく、捕囚期の政治的緊急事態に対するイスラエルの民の応答として形成されてきたと言える。

3.イスラームにおける一神教理解

 以上、一神教と多神教をめぐる動向を見てきたが、このように概観するだけでも、様々な論点があり、また、二分法に還元できない相互関係性があることがわかる。こうした歴史的経緯を踏まえながら、今後、わたしたちがこの問題を考えていく焦点はどこにあるのか。その一つが、同じ一神教としてのイスラームとキリスト教の関係の再考にあることは論をまたないだろう。

(1)タウヒード
 イスラームも、ユダヤ教・キリスト教同様、アブラハムに由来する一神教としての自己理解を持っている。ただし、イスラームの場合、一神教への徹底したこだわりは、キリスト教との関係において形成されてきた側面がある。イスラームは、歴史的に先行するキリスト教の三位一体論を多神教的であると批判し、タウヒード(一つであること、一体性、神の唯一性)を保持するイスラームこそが、もっとも正しい一神教である、という立場を取っている。唯一の神は完全な単純実体であり、その内面においてトポロジー的構造(たとえば三位一体論)を考えることはできない。ただし、タウヒード理解にも、解釈の幅がある。ムウタズィラ(ムータジラ)学派では、徹底したタウヒードの立場から、多性を示す神の属性をシルク(神が複数であると信じること)として否定する。他方、アシュアリー学派はこれを認める。
 また興味深いことに、タウヒードは世界の多様性の根拠となっている。一化と多様化は同一の事柄として理解される。あらゆる存在者は、「一」を表出するものとして平等であるが、すべての存在者はその表出の度合いを異にしているため、世界は驚くべき多様性に満ちている。多様な文化的・歴史的背景をもった世界中のムスリムが、国籍や民族の違いを超えた一体性を感じることができるのもタウヒードのおかげであり、その意味では、タウヒードはイスラームの神理解を表現するだけでなく、その共同体論をも言い表している。

(2)キリスト教の三位一体論に対する批判
 キリスト教の三位一体論に言及した箇所の一例として、クルアーンの次の一節をあげることができる。
 「『まことに、神こそは三の第三』などと言う者は無信の徒。神というからにはただ独りの神しかありはせぬはず。あのようなことを言うのを止めないと、無信の徒は、やがて苦しい天罰を蒙ろうぞ」(クルアーン五・七三)。
 ここでは、キリスト教の三位一体論がタウヒードからの逸脱として批判されている。しかし、キリスト教とイスラームの神理解の比較研究をしている鳥巣義文は、イスラームによる三位一体理解は誤解に基づいていると考える。そして、イスラームが絶対的超越者としての神を強調するのに対し、キリスト教では神は人類の近くにいる存在であるとして、両者を特徴付け、次のように述べる。「どちらがユニークかと問われれば、我々は三位一体の神理解であると応えよう。イスラームに限らず、ユダヤ教でも神の唯一性は唱えられてきた、しかし、その同じ神が同時にどれほど我々人間に近い方であるかが、実は、三位一体の奥義に開示されているのである」(鳥巣、二〇〇一、七五)。
 鳥巣は三位一体論を神の人間への近さの表現として理解しているが、先にも指摘したように、神の内的トポロジーを否定するイスラームから見れば、「遠い・近い」という描写自体があまり意味を持たない。鳥巣が三位一体論を擁護するのはキリスト者の信仰告白としては当然の帰結であるが、双方の神理解の「どちらがユニークか」という問いについては、その問いに潜む恣意性にこそ注意を払うべきであろう。

4.一神教の終末論的未来

 一神教相互の確執がテロや紛争の原因として指摘される一方、テロとの戦いを「文明の衝突」にしてはならない、という主張も繰り返されてきた。しかし、こうした主張も、キリスト教的な進歩史観に基づいている。それぞれの一神教が異なる世界認識を前提としているのであり、その構造や根拠の問い直しをしなければ、世界認識の非対称性は決して均衡に至ることはないだろう。
 イスラーム世界において、西欧型の価値多元主義はしばしば「世俗主義」として敵視されるが、その根拠に一神教がある。神の法に照らして、価値の序列が行われるのはムスリムにとっては当然のことである。しかし、西欧の価値観を選択的に受容する態度に対し、それが西欧のやり方と違うという理由で「原理主義」のレッテルを貼られることがある。こうした問題を地道に解決していくためにも、一神教相互の理解が必要であるし、また、一神教と多神教の安直な二分法を克服していくことが求められる。さしあたり、次のような課題があることを最後に指摘しておきたい。

a)多神教に対する批判的考察
 多神教が、様々なヒントを与えてくれることは確かである。しかし、それを「答え」そのものと考えることは間違いである。多神教が平和をもたらす、ということの反証事例はたくさんある。たとえば、ナチスは多神教的・汎神論的なゲルマン神話や森林の思想を、全体主義のアナロジーとして利用した。歴史実証的な研究を欠いた多神教礼賛は危険とさえ言える。

b)一神教相互の差異・緊張関係の洞察
 ユダヤ教・キリスト教・イスラームの間には、一神教として一括りにできないほどに、多様な神理解が存在している。その差異を生み出している世界観・コスモロジーの違いに留意すると共に、相互の緊張関係を平衡状態にもたらすための基盤となる一神教理解の構築が求められる。

c)「上からの」一神教と「下からの」一神教の区別
 日本では、一神教は専制・独裁のイメージでとらえられることが多い。こうした誤解に基づいて、一神教に対する多神教の優位を主張しても、実際には何ら生産的な結果をもたらすことはない。そうした問題を解決していくための補助線として、一神教を「上からの」一神教(帝国主義的イデオロギーとしての一神教)と「下からの」一神教(解放の契機としての一神教)として区別することを提唱したい。この区分は一つの類型化の試みであるが、それぞれに対応する聖書的根拠・歴史的事例を収集することは、それほど困難なことではないだろう。また同時に、一神教は、H・R・ニーバーが「徹底的唯一神主義」において主張しようとしたように、事実であるよりは希望として、現実としてより可能性として存在している、という側面を持っている。すなわち、「上からの」一神教と「下からの」一神教の狭間に立たされながら、われわれは、希望や可能性としての一神教が指し示す終末論的未来に参与していくことになるのである。


〈引用文献一覧〉
Augustine (1966) The Catholic and Manichaean Ways of Life, trans. D. A. Gallagher; I. J. Gallagher, Boston.
Theissen, Gert (1985) Biblical Faith: An Evolutionary Approach, Fortress Press.
Smith, Mark S. (2001) The Origins of Biblical Monotheism: Israel's Polytheistic Background and the Ugaritic Texts, Oxford University Press.
梅原猛(一九九五)『森の思想が人類を救う』小学館。
岸田秀、小滝透(二〇〇二)『アメリカの正義病、イスラムの原理病:一神教の病理を読み解く』春秋社。
鳥巣義文(二〇〇一)『対話と告白:キリスト教とイスラームの神理解をめぐって』新世社。
西谷幸介(二〇〇一)「『単一神教』再考」、『宗教研究』三三〇、一―二五頁。
D・L・ミラー(一九九一)『甦る神々:新しい多神論』春秋社。