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研究活動

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書評「西谷幸介著『宗教間対話と原理主義の克服――宗際倫理的討論のために』」、『日本の神学』第44号

一.はじめに
 本書は、著者の個人的回顧を交えながら、宗教間対話をめぐる議論の変遷を考察したものである。宗教間対話に関連する文献はすでに膨大な数にのぼり、この分野にはじめて立ち入ろうとする者にとっては、全体像をつかむことは容易ではない。その点、本書は著者が出会い、影響を受けた数々の書物を、その時々の率直な印象と共に説明してくれているので、入門者にとっては格好の手引き書となっている。読者は、著者の思索の足跡をたどることによって、著者の眼前に広がった議論の風景の中に共に立つことができるのである。学生を意識したという平易な文章は歓迎すべきであろう。ただし、副題にある「宗際倫理」を即座にinterfaith ethicsと置き換えられる人は、どれくらいいるだろうか。

二.概要
 本書は以下の三つの部分から構成されている。これらは別個のテーマを扱っているが、著者の意図をたどっていくなら、それらに通底する課題を読者は見いだすことができるはずである。

(一)本論
 第一章では、「宗教の神学」「宗教多元主義」「宗教間対話」といった言葉によって代表される議論の経緯を追っている。この種の議論がキリスト教世界において、徐々に関心を喚起してきた経緯は、WCCにおける問題の取り組みを見るとわかりやすい。すなわち、エキュメニカル運動がキリスト教という限定を越えて、諸宗教との関係をも射程に入れていくようになる。そのような変化を促進した人物として、ラーナーとヒックが取り上げられている。ここで著者が日本の事例として取り上げているのは「滝沢=八木論争」である(この部分に対する八木氏からの評価については『本のひろば』二〇〇五年二月号の同氏書評を参照)。両者の間で交わされた論争や、各人の著作は、当時の著者にとっては縁遠い印象が強かったようである。ところが、古屋安雄『宗教の神学』(一九八五年)をきっかけとして、著者は、キリスト教の排他的絶対性を越えていく可能性に対し目を開かれていくことになる。
 第二章では、排他主義・包括主義・多元主義という、他宗教との関係を論じる際にしばしば用いられてきた三類型についての考察が展開されている。排他主義は、自宗教の絶対性を主張し、他宗教を否定する立場として、包括主義は、自らの絶対性を確保しながら、他宗教の真理性を部分的に認める立場として、また、多元主義は、すべての宗教を対等に考える、諸宗教間の対話を促す立場として紹介されている。この三類型に限らず、一般的に類型論は、あらゆる立場を限定された類型だけで整理し尽くすことはできないという限界を有しており、そのことを著者は十分に認識している。また、その限界性の認識が、著者を別種の類型論へと、すなわち、後に触れるリンドベックの類型論へと導いていく動機付けの一つにもなっている。著者が、伝統的な三類型で整理しきれない問題の一例としてあげているのが「大木=古屋論争」である。古屋は大木を排他主義者として特徴づけようとするが、それに対する大木の反論が紹介されている。
 第三章では、著者が大きな影響を受けたというリンドベックの『教理の本質――自由主義以降の宗教と神学』(一九八四年)に沿った三種類の類型理解が展開されている。第一の「認知的・命題的」な宗教理解は、宗教の教理を存在論的真理ととらえる立場であり、著者の理解によれば、この類型は先の「排他主義」とほぼ重複する。第二の「経験的・表現的」理解は、教理を非論証的なもの、それゆえ人間の感情や経験に依存するものとしてとらえ、著者によれば、この理解は先の「多元主義」に相当することになる。第三の、そしてリンドベックが自らの立場と見なす「文化的・言語的」理解では、人が宗教的になるとは、宗教の言語や象徴体系に習熟し、その技術を内面化することであるととらえる。リンドベックの類型論では、宗教言語の支柱とも言うべき経典と教理に関心が注がれており、そこから、キリスト教の教理を貫いている「規則原理」や、この世界で起こる事象を経典本文に即して解釈する「本文内部性」といった考えも導き出される。
 第四章では、リンドベックの考えに魅了された著者が、彼の考えに対し批判的な吟味を加えている。リンドベックによる言語型の宗教理解に従えば、経典宗教は自己完結的な真理観や世界観を持つことになる。もちろん、この態度は声高な絶対性の主張にはつながらず、むしろ、自らの教えに忠実な態度を他の宗教の中にも認めることにつながっていく。しかし、経典の中にその宗教の絶対性主張が明示されている場合には、どうなるのだろうか。こうした批判を先鋭的に突きつけた人物として、著者はカッブを取り上げている。カッブはリンドベックの理解を「規範の多元主義」と呼び、そこには諸宗教の諸規範を批判できるような規範は存在しないと考える。またカッブは、このような宗教理解は、それぞれの宗教的伝統を静的かつ自己完結的に描くことしかできず、結果的に、その内部に普遍的要素を主張することになるとして批判する。ただし、著者によれば、それはカッブの誤解であって、リンドベックは経典を「潜在的に全体包括的」なものと見なしているとしてカッブに反論している。
 第五章では、宗教間対話の意義を著者に示唆することになったニッターを中心に、ポストモダニズムとの対論をテーマとしている。ニッターは諸宗教の神学を模索する中で、教会中心主義→キリスト中心主義→神中心主義→救済中心主義という具合に強調点を変化させていく。そして、ニッターが解放の神学の立場に立つ点で、著者は立場を異にすると言うものの、ニッターが訴えている「宗教共同体間の倫理的共同体」の建設には深く共感しており、そのことは本書の副題にも反映されている。
 宗教多元主義と密接な関係を持つ宗教本質論を論じるために、著者はヒック、滝沢、大木、八木らの議論を紹介する。それは著者自らの立場を見定めるためでもあるが、リンドベックの言葉を借りれば、命題型の宗教理解に後退することを自戒しながら、八木氏に代表される経験型の労作に学びつつ、ポストモダニズムを乗り越える宗教間対話を模索するという方向性を示す。
 第六章では、著者の結論を整理しているが、それを特徴づけている一つのポイントは、モダニゼーションとしてのグローバリゼーションの展開に積極的な意味を与えていることである。その主張の中には、宗教間対話を可能にし、促進する枠組みとして政教分離の必要性・重要性も含まれている。当然、そのような立場からは、イランに見られるような神政政治の模索は時代錯誤と見なされる。また、ニッターと同様に、著者は宗教間対話や、それに基づいた倫理的共同体の必要性・緊急性の焦点として、今日の生態学的危機に関心を向けている。最後に記された「教理は分裂させ、奉仕は一致させる」という伝統的な言い回しには、現代世界における宗教の役割を倫理的実践的に模索しようとする著者の意気込みが要約されていると言える。

(二)付論Ⅰ「いわゆる原理主義過激派について」
 この部分は、昨今の原理主義的動向に対する著者の関心に沿って、イスラエル・パレスチナ紛争、イラン・イラク現代史、イスラム原理主義過激派、文明の衝突論などに対する導入的説明が中心となっている。しかし、その中にも、著者の基本姿勢を明瞭に読み取ることができる。その一つは、民主主義や人権、政教分離などを含む近代化はイスラム社会の民主化に寄与していくということであり、そこに原理主義を克服する道を見いだそうとしているとも言える。その際、価値相対主義を前提とする「ポストモダンな世界理解」が、宗教の位置づけを問う上で重要な論点とされている。

(三)付論Ⅱ「日本的習合宗教について」
 著者は、多神教は寛容で一神教は不寛容と見なされがちな日本での議論を学問的に見直す意味でも、「単一神教」概念を再考することの有用性を主張する。H・R・ニーバーらの考察を踏まえながら、著者は唯一神教と結びつけられがちであった専制政治が単一神教に由来し、唯一神教はむしろ専制政治に対する制御と修正の原理になり得ると結論づける。そして、宗教改革以降の唯一神の観念が、近代的民主主義の基盤になったというのである。この論考は、日本における固有の問題を論じる上でも、欧米で蓄積されてきた宗教学や神学の知見が重要な示唆を与えてくれることを教えてくれる。

三.本書によって触発される課題
 最後に、著者によって言及された、いくつかの論点を取り上げて、今後の宗教間対話の方向性を探ってみたい。

(一)本書全体の基調として、ポストリベラルやポストモダンが意識されている。これは昨今の宗教間対話の議論において好んで用いられる言葉である。しかし、西欧的歴史観で説明できない、あるいは、そうした説明を拒絶する社会に対し、これらの言葉は、もう少し丁寧に扱わなければ、対話の前に対立の構図を深めるだけになりかねない。近代化にどのように向き合っていけばよいのか、今なお呻吟している地域は多数存在している。イスラム世界では、近代化と西欧化を意図的に区別する努力や、近代化と宗教的伝統の両立の模索が、少なからず見受けられる。翻って日本社会のことを考えてみてもよい。戦前「近代の超克論」が日本のアカデミズムを席巻した。それから何十年という年月を経て、日本社会は十分に「近代」の意味を体得したのであろうか。足下を見回しても、また世界の非キリスト教文化圏を見ても、「ポストモダニズムを乗り越えての宗教間対話」(一一五頁)という枠組みを理解し、受け入れることのできる人はどれほどいるであろうか、という疑問がわく。
 対話への情熱が限定的な思考枠の中で先鋭化されてしまうと、結局、宗教間対話は、キリスト教リベラル派の知的好奇心を満たすためのものか、という冷めた印象を生み出すことにもなりかねない。著者の意図がそこにあるのではないことはわかる。しかし、その意図を誤解されないためには、「ポストモダン」をめぐる議論が、宗教間対話で有効に働き、またキリスト教以外の宗教者にとっても十分納得のいくことものであることを例示する、若干のケース・スタディがあると、よかったように思う。

(二)著者にとって対話とは、真理探究のために、自らはその一面しか見ていないことを自覚した者同士の会話(一一四頁)である。確かに、これは望ましい対話のモデルを示している。ところが、現実に危急の課題として要請されている対話は、このモデルに合致しない。ある特定の価値に対しきわめて否定的な態度を取る、そもそも対話の必要性に対し自覚のない相手と、どのように対話の場を取り持つことができるか、という問いが国際社会に突きつけられているのである。
 著者は、西欧的近代化に内包される民主主義、人権、政教分離の原則といった「真正な文化的価値の普遍化」は誰も止めることができないという(一六九頁)。著者はアメリカ流のやり方に問題があることを認識しているが、その問題の微調整ができれば、これらの価値は普遍的に受け入れられていくのだろうか。著者は宗教間対話を可能にする条件として政教分離を積極的に評価しているが、政教分離一つをとっても問題は単純ではない。欧米社会においても、政教分離はきわめて多様であり、宗教の多元化が進んでいるヨーロッパにおいても、その運用は困難を極めている。どの国の政教分離モデルを著者は指標として考えているのであろうか。また著者の立場からは、政教分離に反する神政政治的形態は「時代錯誤」として一刀両断される。しかし、この時代錯誤と見なされる政治形態に傾倒する人々が少なからずおり、その人々が問題の焦点となっているなら、まさにその人々こそが対話の相手となるべきなのではないのだろうか。
 本書のタイトルは「宗教間対話と原理主義の克服」である。しかし真の課題は「(欧米型)宗教間対話の克服と原理主義との対話」にあるのではないかと思う。原理主義的動向は、グローバリゼーションや民主化によって消滅することはない。むしろ、二一世紀に生きる人類が自らの身体の内に抱えた病巣として、現実的な共存可能性を探るべきである。

(三)著者は、リンドベックの議論に従って、世界の有力な宗教は経典文書を有する経典宗教であることを前提に論を進めている。ここにキーコンセプトとしての「本文内部性」も依拠しているわけであるが、リンドベックの宗教理解にはルター派的バイアスがかかり過ぎてはいないだろうか。経典を有しない「有力」でない宗教との対話の可能性や必要性は、結果として顧みられないことになりかねない。しかし、日本でのキリスト教宣教にとって、この課題は過小評価すべきではないと思われる。

(四)現代における「宗際倫理的討論」の焦点を、著者は環境問題や人道的問題に見ている。具体的な課題の共有が諸宗教間でなされることは、すばらしいことであると思う。実際に、その取り組みがどの程度なされているのかの国内外の検証も必要であるが(本書にその検証事例はない)、それ以上にわたしが関心を寄せるのは、諸宗教の対話共同体が自己完結しないで、世俗社会と対話し、協力できているのかという点である。環境問題に対し、宗教が単独で貢献できることは皆無に等しい。法的・技術的・教育的な解決方法を有機的に組み合わせていくことが現実には必要であるが、そのプロセスのどこに宗教が関係していくことができるのか、どのような具体的貢献をなし得るのか。その点を明確にしなければ、(諸)宗教の描くビジョンは、一般社会から見れば絵空事に過ぎないことになる。
 もう少し一般化して言うと、対話の質を検証する必要があるということである。何百年続けたところで一般社会に(そして自らの信仰理解に)何の影響も与えないようなサロン的宗教間対話も少なくない。著者の意図の延長線上には、一般社会との間で意味のある相互作用を引き起こすことのできる宗教間対話や倫理的共同体が求められているはずである。本書は、それに対する具体的な方法を示してはいないが、そのような課題の認識へと導いてくれる豊富な材料が本書には詰まっている。