研究活動

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書評「大貫隆・金泰昌・黒住真・宮本久雄編『一神教とは何か――公共哲学からの問い』」、『福音と世界』2006年9月号

 本書は、二〇〇四年一月に開催された「京都フォーラム」主催による第五二回公共哲学京都フォーラム「唯一神教と自・他論」で発表された内容に基づき、編集されたものである。そのことは「凡例」に記されているが、そもそも「京都フォーラム」や、それが目指している「公共哲学」についてなじみのない一般読者にとっては、本書を読み進めながら、その意図を察することを求められることになる。しかし、公共哲学が直接のテーマになっているわけではないので(本書の副題は「公共哲学からの問い」となっているが)、それについて理解せずとも、各章を味わうことはできる。
 本書は、九つの発題と二つの総合討論、一つの発展協議から構成されている。また、各発題の続きには討論が付されているので、全体として討論の占める割合はかなり大きい。討論はあまり編集上の整理はされずに掲載されているので、実際の雰囲気を伝えているだけでなく、本書に登場する第一線の研究者たちの目下の関心事やこだわりを随所に感じ取ることができ、興味深い。ただし、すべての討論が必ずしもかみ合っているわけではない。中には、誤解されたり、不愉快な質問をされたりして、怒りの様子がにじみ出ているような箇所もある。討論には確かに粗密の差があるが、全体としては、発題の論点を再確認できるという意味で有益であろう。
 本書の主タイトルは「一神教とは何か」である。そのテーマに対し、各発題が「自・他論」という焦点を緩やかに共有しながら、それぞれの専門的見地からアプローチしている。論文調の堅牢な発題もあれば、発題のテープ起こしが、ほぼそのまま原稿化されているようなものもあり、スタイルは様々である。分量も多いものからコンパクトなものまで差があるが、ここで各発題の論旨を詳細に追っていく紙面の余裕はないので、それぞれにおいて興味深いと思われる論点を中心に概要を紹介しておく(敬称略)。
 発題Ⅰ「新約聖書における神と自他――人格主義的神学と場所論的神学」(八木誠一)。ここで八木は、人格とコミュニケーションの関係において、人格を成立させているのが人格主義的神学だけでなく、場所論的関係もまた重要な役割を果たすことを強調する。前者の論理にのみ依存することを八木は問題視するが、場所論を適切に視野に入れることによって神義論的な問題を回避できるだけでなく、それがまたイエスの立場であり、仏教との親近性へと開かれていく道であることを指摘する。
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 発題Ⅱ「旧約聖書の宗教はいかなる意味で「一神教」的であったのか」(山我哲雄)。本書の中で、もっとも正面から一神教の概念整理に取り組んでいる発題である。ヤハウェ唯一神観が後代に成立してから、それ以前にあった旧約の伝承が「検閲」されたり、「校閲」されたりしてきたということを、様々な「検閲漏れ」、すなわち多神教的なイメージを取り上げながら紹介している。また、唯一神観の成立史をわかりやすく描写している。
 発題Ⅲ「人間の淵――ハーヤー存在とアウシュヴィッツ的解釈学」(宮本久雄)。アウシュヴィッツを根源悪のメタファーとして、あるいは解釈学的枠組みとして用いながら、旧新約聖書の様々なテキストを素材に用いて、物語のプネウマ的解釈を提示していく。そこで主題となる存在者は、空間的自己同一性を強調する西欧的存在論と区別される形で、ヘブライ的存在ハーヤーとして位置づけられる。
 発題Ⅳ「救済史の物語と神義論――一神教の落とし穴」(大貫 隆)。ここで「一神教の落とし穴」とは、一神教という枠組みの中で民族や共同体の「大きな物語」が救済史として語られるとき、不可避的に神義論が胚胎し、その中で、個人の苦難が忘れ去られてしまう事態のことを指している。またヨブ記と同様、モーセ契約が失効しているようなユダヤ教黙示思想においても、歴史は直線的に進むプロセスと理解されているのに対し、洗礼者ヨハネ、イエス、パウロがそれとは反対の方向、すなわち、救済史の神学から「新しい創造」の神学への転換の道(「宇宙の晴れ上がり」)を示していると大貫は語る。
 発題Ⅴ「アウグスティヌスの神研究――日本を公共性へと開く「神論」への途を求めて」(加藤信朗)。加藤は「神の国」が、その市民でありたい願う人々によって作られる共同体であり、神聖政治ではないことに注意を払いながら、我々が「地の国」に生きることの意義を説く。またそれが、日本の自己閉鎖性を克服していく道であることを示唆する。
 発題Ⅵ「唯一神と人格神」(鶴岡賀雄)。唯一神教における神の特質を、その唯一性より、むしろ、ペルソナ性に注目して描写している。旧約聖書や十字架のヨハネを援用し、我汝関係、「一」性、「二」性などの人称言語の作法を通じて、ペルソナ性と「私たち」としての共同体の関係を明らかにしようと試みている。
 発題Ⅶ「日本思想における「一神教的なもの」」(黒住 真)。一神教と多神教を対立的にとらえるのではなく、経験的な次元では、相互に関係性があると語る。日本神話や日本宗教の中にも一神教的なものの考え方があることを指摘すると同時に、近現代における一神教と多神教のあり方に対しては、歴史的な批判が必要であると主張する。
 発題Ⅷ「イスラーム政治思想における自と他」(池内 恵)。キリスト教には「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」という発想があるのに対し、イスラーム教において政治と宗教を分けることができないと言われる。その言説にまつわる誤解を解きながら、その根拠や歴史的経緯について、イスラーム政治思想の立場から語っていく。また、イスラーム教における自・他論の代表例としてジハード理解を取り上げ、さらに、イスラーム社会内部においても、善や共同体の秩序をめぐって、絶えざる緊張関係があることを指摘する。
 発題Ⅸ「シーア派少数派における神観と他者認識」(菊池達也)。シーア派の中のイスマーイール派や、その分派であるドゥルーズ派に焦点を当てることによって、少数派と多数派との間に生じる他者認識を考察している。イスラーム教内部における正統と異端をめぐる緊張は今なお存在しており、その状況に対して、西欧的な公共空間の概念(公と私の区別)を安易に持ち込むことはできないと菊池は主張する。
 以上の概要からも察せられるように、必ずしも、それぞれの発題の間に有機的な関連があるわけではない。しかし討論を通じて、全体に通底するような課題を模索する努力は十分にうかがうことができるし、また時には発言の中から先鋭的な見解を聞き取ることもできる。研究者同士が交わす熱い議論に関心がある方は、本書を存分に堪能することができるであろう。
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 最後に、本書が設定している課題、すなわち「一神教とは何か」という問いに対して、本書の内容が、全体としてどの程度応えているのかを最後に考え、あわせて、今後の課題についても言及したい。冒頭で、本書は一神教を外側からではなく「内側からその生きた現実を証し語ろうとする」と明確に述べられている(ⅰ頁)。本書の大半は聖書学や思想史で占められており、多様な一神教世界の葛藤や生々しい現実は、そもそも射程の範囲外であるのは、本書が(公共)哲学的関心を基盤にしていることから、ある程度やむを得ないと言える。しかし、本書全体を通じて感じ取られる一神教は、あくまでもキリスト教の視点や関心から整理された一神教であり、複雑に絡み合ったユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の内側からその生きた現実を語る、ということにはなっていない。討論の中で大貫が「一神教という言い方は、私は自分自身のものとして、あまりリアリティがないのです」(三二七頁)ともらす言葉は、他の参加者にも共有される感覚であろうし、だからこそそこに、キリスト教と一神教の間を橋渡ししようとする本書の意図があるのは理解できる。しかし、キリスト教から(抽象化された)一神教概念への熱い思い入れは感じられても、現実の生きた他者としての一神教世界、具体的にはユダヤ教やイスラーム教からキリスト教がどのように見られているのかについての考察は、ほとんどない(ちなみにユダヤ教に関する発題は一つもない)。討論の中で池内が「ほとんどの先生方のまことに高度な議論が、往々にして他者性を失いがちだということに気づくたびに、そう感じます」(四二五頁)と語るのを、皮肉として受けとめるべきではないだろう。
 もちろん、日本社会の中で一神教世界の現実に開かれていくことは容易ではない。しかし、討論の中でも、しばしば指摘されていた日本社会の自閉性を、まずは日本の神学の自閉性として自覚し、それを克服していく道を見いだすべきであろう。たとえば、聖書学者の発題の中には、組織神学を専門とする私にとっても啓発的な内容が多々あった。専門性の中に自閉するのではなく、キリスト教がマイノリティであるからこそ可能となる、越境的な「宇宙の晴れ上がり」(大貫)を、日本の神学的地平にも見出したいと感じさせる一書であった。