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研究活動

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「医療の現場に対し、キリスト教倫理は貢献できるのか?」、『福音と世界』2007年2月号

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はじめに
 昨今、医療に関係する事件が新聞等で大きく報じられている。終末期医療(人工呼吸器の停止時期の問題)、移植医療(生体肝移植、臓器売買の問題)、生殖医療(代理母の問題)など、問題は多岐にわたるが、いずれの場合も、ルール(ガイドライン)が不明確であったり、ルールがあってもそれが無視されるという点で、まさに医療倫理のあり方が問われていると言える。それぞれの課題に対しては、関連学会や政府が主導して新たなガイドライン作りがなされつつある。
 このような状況の中で、キリスト教は何か特別な貢献ができるのだろうか。それを検証する主たる領域はキリスト教倫理となることを踏まえて、本稿では、今日の医療とキリスト教倫理の関係について論じていきたい。
 まず、その前提として確認しておきたいのは、現在の日本社会においてキリスト教は圧倒的マイノリティであり、通常、社会的合意形成にほとんど影響を及ぼしていないということである。社会の側から見るなら、キリスト教倫理に対する特別な期待はほぼ皆無に近いと言える。そのような状況であるから、「キリスト教」と一口に言っても、その内部における多様性に関心が向けられることもない。
 これらはごく当たり前のことのようであるが、この日本的コンテキストが十分に意識されないまま、普遍化されたキリスト教が前提にされ、その視点から問題が論じられることが、日本のキリスト教界では少なくない。
 たとえば「キリスト教の視点から」と題して、先に挙げたような個別の医療問題を取り扱ったり、総論的に生命倫理を論じる例を、これまでも多数、目にし、耳にしてきた。そこでは、しばしば聖書の特定箇所の解釈を通じて、あるいは、伝統教義の適用の視点から事柄が論じられる。それがキリスト教内部に向けられた自己理解として語られるのであれば問題はない。しかし、それがキリスト教界の外に向けられるとき、抽象化・普遍化された「キリスト教」という視点は、何か誠実さを欠くような気がしてならない。

ボンヘッファーを補助線として
 カトリック、正教会、プロテスタントの間の違いは言うまでもなく、どの一つにおいても、一括りにできない倫理的多様性が存在している。プロテスタントの場合、その傾向がより強いと言える。一つの倫理的な問題に対して、まったく正反対の「キリスト教」的回答が出されることも、まれではない。アメリカにおける中絶・同性婚・ES細胞研究をめぐる論争を引き合いに出すまでもないだろう。
 私がここで言いたいのは、問題を論じるときに、内部の多様性を配慮して網羅的に対処すべきだ、ということではない。そうではなく、そもそもどの国においても総論的に「キリスト教」と言い切ることはできず、また、それを前提にすることはできない、という現実を踏まえるべきだということである。日本では、キリスト教がマイノリティであるために、かえって、その事実が軽んじられ、「世界では多数派のキリスト教」という視点から、いきおい問題にアプローチする誘惑に駆られやすい。
 一言で言えば、足下にある状況をよく見ることが必要だということになる。私が、このような問題を考えるときに、いつも関心を持って再読するのが、ディートリヒ・ボンヘッファーである。彼は、自らが生きる時代が、もはや宗教としてのキリスト教を前提とはしない世界(「成人した世界」)であることを正面から受けとめようとした。その現実を見過ごして、なおもキリスト教的な意味を声高に主張する人々の弁証を、ボンヘッファーは、「無意味」であり、「下劣」であり、「非キリスト教的」であると批判した(E・ベートゲ編『ボンヘッファー獄中書簡集』新教出版社、一九八八年、三七九頁、以下引用も同書より)。
 彼が直面した倫理的課題が、今日のそれとまったく次元が異なることは言うまでもない。しかし、倫理的に生きることに鋭敏な感覚を持ち続けたボンヘッファーの問題提起は、未完の課題として今なお示唆に富んでいる。少なくとも私にとって、今日の社会において倫理的課題に取り組むことは、「成人した世界」の中で「無宗教的なキリスト教」がどのように可能となるのか(三二二頁)という彼の問いに肉迫することに他ならない。それゆえ、安易に「キリスト教の視点から」と始めてしまうと、その問いの深刻さから逃れようとしているように思えてならないのだ。

私の経験から
 さて、ここで最初の問い、つまり、医療とキリスト教倫理の関係に立ち返りたい。そもそも、キリスト教倫理が(日本の!)医療の現場に役立つのか、という問いに明確に答えた論考を私はまだ見たことがない。役に立たない、あるいは、役に立っていない、という認識を強いられることは、キリスト教の立場に立つ者には、おそらく心地よいものではないだろう。しかし、理屈よりも実際的な効用が重視される医療現場との関係を考えるとき、それは避けて通れない問いである。先にも述べたとおり、漠然と「キリスト教の立場」から事柄を論じることができると考えるのは、現実から乖離したある種の幻想を生み出すことになりかねないからである。
 役に立つのか、立たないのか。この問いはきわめて即物的に響くが、幻想からの目覚めのためには必要な一歩となる。私も、まどろみの中にある一人に過ぎないが、キリスト教倫理の方向性を考える一助として、医療に関わる、近年の私の経験を述べてみたい。
 私は、ある総合病院の倫理委員会の委員長として、過去四年にわたって、病院が抱えるせっぱ詰まった問題の審議に関わってきた。倫理委員会のメンバーは、半分が院長をはじめとする病院内部の人間であり、半分は病院外の弁護士、医療訴訟の活動家、患者会の代表者、医療を専門とする新聞記者、大学教員らで構成されている。
 日本では、倫理委員会を有している病院は、まだ大きな病院に限られているが、その中でも外部委員を擁している倫理委員会はさらに少ない。このことは、医療の現場が、社会に対して十分に開かれていないという現実を表している。したがって、内向きな医療の現場と、内向きなキリスト教倫理が、ただそれぞれに存在しているだけでは、その両者が接点を持つことがいかに難しいか、想像に難くないであろう。
 私が関わっている倫理委員会では、これまで病院内での個別の症例の他、出生前診断や終末期医療における苦痛緩和・心肺蘇生停止、尊厳死など、まだ社会的に十分な合意形成がなされていない問題にも取り組んできた。その中でも、胎児超音波検査による出生前診断については、先駆的なガイドラインを作成し、関係各界から反響を得たので、ここでは医療現場のケーススタディとしてそれを紹介し、後にキリスト教倫理との関係について論じたい。

出生前診断
 妊婦だけでなく産婦人科医にとって、今もっとも悩ましい問題の一つは、超音波検査によるNT(nuchal translucency)の取り扱いである。NTとは、胎児の後頸部の浮腫のことであるが、この厚みが大きいほど、胎児に染色体異常がある可能性が高くなると言われている。超音波検査はおよそ二十年前に導入され、今や産科診療にとっては無くてはならないものとなった。妊婦にとっても、超音波によって映し出された我が子をリアルタイムに確認でき、その印刷画像や録画映像を持ち帰ることができるというのは、長らく純粋な「お楽しみ」であった。
 ところが測定機器の高度化により、今まで見えなかったもの(NT)が見えるようになり、妊婦に大きな不安をもたらすことになった。現場の医師に対しては、NTに異常を発見した場合、それを積極的に告げるのか、告げないままにしておいた方がよいのか、が問われている。
 このような事情の中、倫理委員会は、NTの取り扱いに関するガイドラインの作成を目指した。最終案がまとまるまでには長い議論を要したが、そこで繰り返し問題になったのは、医療情報(NTの詳細)を開示すべきという価値規範と、安易に知らせることによって選択的中絶を助長すべきではないという価値規範の衝突であった。簡単に言えば、患者の「知る権利」と胎児の「生命の尊厳」のせめぎ合いが、そこにあったと言える。
 ガイドライン第一案では、患者の知る権利や選択権を保証しつつ、選択的中絶へと至らせない道が模索されていた。しかし、突き詰めて考えていくと、この二つの理想を両立させることはきわめて難しいことがわかってきた。そして紆余曲折の末、選択的人工妊娠中絶、及びそれにつながる出生前診断に反対する、という立場を明確にした上で、NTの確認は行わないこと、求められた場合には、他の病院を紹介することを定めた。この結論への異論も当然あり得ると思う。しかし、「生命の尊厳」を保持することが、いかに困難な道であるかを実感した上で、倫理委員会ではその道を選択したのであった。

「生命」についての語りの技法
 出生前診断は、今後、ますます多様化し、それと共に大衆化していくであろう。その過程の中で、生命とは何か、という問いが発せられ続けることが必要である。そうでなければ「生命の尊厳」など、簡単に有名無実な観念に堕してしまう。「生命」はきわめて具体的な生の現実でありながら、同時に、その具体性や個別性を捨象され、十把一絡げに扱われる抽象物にもなり得る。さらに言えば、ただ抽象化されるだけにとどまらないことを歴史は教えてくれている。スタンダードな、望ましい生命が想定されるや否や、そこに適合しない周辺的で異質な生のあり方は、暗黙の内に排除されていく(優生学の問題)。途方もなく繰り返されてきたこの種の悲劇から、我々は決して自由になってはいない、という自覚を持ち続けることが大事なのである。
 人類の生に刻印された「うめき」に向き合っていくためには、生命についての多様な語りが必要となる。医療の現場で治療対象となる人間の生は、もっぱら医学的な見地から語られる。医療従事者が医学的な「語り」の内に自己限定するのは重要なことである。しかし同時に、生命のうめきは医学的語りの射程を超えていくこともまた事実である。だからこそ、そこには法学・社会学・心理学等の立場から発せられる多様な「語り」が求められるのであり、生と死の意味が問われるときには、宗教的なレベルでのコミュニケーション(スピリチュアル・ケア)が必要とされるのである。

キリスト教倫理の射程
 私は倫理委員会の議事進行を務めたり、また、病院内で「医療安全講座」などの職員研修を担当する際に、キリスト教倫理に言及することはほとんどない。「キリスト教」なしに万事説明することができる。ボンヘッファーの言葉を借りるなら、我々は「神という作業仮説」なしに、この世で生きることができる(三七八頁)。医療の現場でも同様である。
 では、キリスト教倫理は、キリスト教の影響力がきわめて小さい日本社会の医療現場において、役に立たないのであろうか。
 日本社会や医療の現実を見据えないまま、安直にキリスト教倫理を掲げる人に対しては、それは医療現場の役に立たない、と自分の経験に即して言いたい。病や死をネタにして跋扈する神がいるとすれば、それは、人間の限界において登場させられる「機械仕掛けの神」に他ならない(三二三頁)。
 しかし、苦渋する医療現場の声に耳を傾ける中で、まったく無宗教な人々に対して、奇妙なほど素直に、私自身の信仰的確信を語ることがある。キリスト教倫理のダイナミズムが、今この場で作動していると感じさせられることもある。非キリスト者の中に働くキリスト教倫理を発見し、それに寄り添うことが、今の私の課題である。「成人した世界はより無神的だが、おそらくそれゆえに成人していない世界よりも神に近いだろう」(四二〇頁)というボンヘッファーの言葉が私の心の中でこだまし、キリスト教倫理の無限大の射程を感じるからである。