研究活動

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「生命倫理に対し宗教は何ができるのか――倫理委員会の実際を踏まえて」、『大法輪』2007年12月号

1 生命倫理とは何か
 医療技術の進展は著しい。それは、病を克服し、死を少しでも先送りにしたいという人間の欲求に支えられているだけに切実である。しかし、とどまるところを知らない人間の欲望が新たな医療技術を欲し、生まれ出た技術が人間の欲望をさらにかき立てるという、技術と欲望の無限の上昇スパイラルの前で、宗教に何かできることはあるのだろうか。
 伝統的に、医療の現場には職業倫理としての「医の倫理」が存在していた。それは簡単に言ってしまえば、医療従事者は患者の立場に立って行動すべき、という心構えに集約できるだろう。ところが医療技術の急速な進展によって、一九七〇年代頃を境に、医の倫理だけでは解決できそうにない事態が生じた。代表的なものとして、一九七八年、最初の体外受精児ルイーズ・ブラウンがイギリスで誕生したことがあげられる。
 医の倫理では、医療従事者と患者という当事者同士が納得すれば、たいていの倫理的問題を解決できたが、体外受精のように、生命の根幹部分に人為的な操作が加えられる場合には、ただ当事者同士の納得だけで事は済まない。生命の尊厳にかかわるような医療技術の開発や利用については、社会的な合意形成が必要とされ、そこから医療の現場と一般社会をつなぐ「生命倫理」が新たな学問分野として誕生することになった。
 この生命倫理は、欧米において成立した経緯もあって、当初、キリスト教倫理との結びつきが強かった。次第に脱宗教化していくが、いまだに生命倫理は、キリスト教を背景とする西洋的な価値と少なからず結びついている。このような文化的背景を反映して、欧米で医療関係の倫理委員会が結成される際には、そのメンバーに、医学、法学、倫理学、社会学等の専門家だけでなく、神学者や宗教の専門家が加えられることが多い。特にアメリカは、「道徳的価値」が大統領選挙の争点になるほどの国であるから、いかに国益に寄与するような最先端の技術であったとしても、それが道徳的価値・宗教的価値の視点から許容されるかどうかの国民的チェックがなされる。ヒトES細胞研究をめぐる議論は、その典型例だと言えるだろう。

2 生命倫理的課題に対する宗教界の対応
 翻って日本のことを考えてみよう。幸か不幸か、生命倫理に関わる重要問題に対し、宗教が深く介入したり、影響を与えたりすることは日本ではほとんどない。宗教学者の島薗進氏がヒトクローン胚の研究利用を議論した、政府の生命倫理専門調査会(二〇〇一~四年)に加わり、推進派の強引な論理に異を唱えたこともあるが、同時にこの件に関し、島薗氏は「宗教界や人文学、社会科学の方面からの発言の弱体ぶりは心もとない」(『いのちの始まりの生命倫理』一一六頁)と宗教界に対しても苦言を呈している。一九九〇年代、脳死・臓器移植の是非が議論されたときには、仏教界を筆頭に宗教界では比較的活発な論議がなされた。まとまった結論が出なかったとしても、議論を通じて得られたものは多かったはずである。しかし、そこでの議論は、宗教と生命倫理をつなぐ大きな枠組みを生み出さないままに終息していった感が強い。結果的に、アメリカでは世論を二分するほどに議論を引き起こしたES細胞研究についても、大本などの例外をのぞけば、日本の宗教界から積極的な関心が示されることはほとんどなかった。
 医療の現場では、臓器移植やES細胞研究などの先端医療だけが倫理的混乱を引き起こしているのでなく、病気の治療方法、末期の迎え方など日常的な対応においても、様々な倫理的葛藤がある。言うまでもなく、医療を含む日常生活の中で、我々は「個人主義」のような西洋的な価値だけで物事を判断しているわけではない。むしろ、個人主義に拮抗して家族秩序がより強く機能する場合もある。末期の患者に対する医学的な措置をめぐって、患者本人の意志よりも、家族の意向が優先されることは決してまれではない。それは良いことなのか、悪いことなのか。このような問いを深め、結論に至る道筋をつける手伝いをするのが生命倫理であるが、宗教はそのようなプロセスに、いかに関わることができるのだろうか。それ考えていくための素材として、実際の倫理委員会がどのようなことをしているのか、紹介してみたい。

3 倫理委員会の実際
 私は、ある総合病院の倫理委員会の委員長として、過去五年にわたって、慎重な倫理的判断を要する問題の審議に関わってきた。倫理委員会のメンバーは、半分が院長をはじめとする病院内部の人間であり、半分は病院外の弁護士、医療訴訟の活動家、患者会の代表者、医療を専門とする新聞記者、大学教員らで構成されている。日本では、倫理委員会を有している病院は、まだ大きな病院に限られているが、その中でも外部委員を擁している倫理委員会は、さらに限られている。全国的に倫理委員会が整備されつつあるとはいえ、各種ガイドラインを定めることを主たる仕事とする倫理委員会そのものが、その構成上、どのような要件を満たすべきなのかを定めたガイドラインはなく、その内実にはかなりの格差があると思われる。準備された議題が批判的討論を経ることなく了承されていくような形式的な倫理委員会も少なからず存在するだろう。
私が関わっている倫理委員会では、これまで病院内での個別の症例の他、出生前診断や終末期医療における苦痛緩和、尊厳死、「エホバの証人」の患者による輸血拒否など、まだ社会的に十分な合意形成がなされていない問題にも取り組んできた。国内でまだ認められていない新薬の治験実施に関する議論もした。倫理委員会は、原則的に二ヶ月に一回程度開催し、一回あたりの議論におよそ二時間半を費やしている。
現在、継続して取り組んでいる課題の一つは、心肺蘇生停止を含む終末期医療のガイドライン作りである。今年、日本医師会および厚生労働省が終末期医療に関するガイドラインを発表しているが、なぜ、それらをそのまま流用できないのか。それら既存のガイドラインは、確かに、参考となる大枠を示してくれているが、やはり細部の運用に関しては、それぞれの病院の治療ポリシーと照らし合わせてカスタマイズしたガイドラインが必要なのである。
 ここでは議論の実例の一つとして、関係各界から反響を得た「胎児超音波検査におけるNTの取り扱いに関するガイドライン」がどのような葛藤を経て生み出されたのかを紹介したい。

4 出生前診断がもたらす光と影
 妊婦だけでなく産婦人科医にとって、今もっとも悩ましい問題の一つは、超音波検査によるNT(nuchal translucency)の取り扱いである。NTとは、胎児の後頸部の浮腫のことであるが、この厚みが大きいほど、胎児に染色体異常がある可能性が高くなると言われている。超音波検査はおよそ二十年前に導入され、今や産科診療にとっては無くてはならないものとなった。妊婦にとっても、超音波によって映し出された我が子をリアルタイムに確認でき、その印刷画像や録画映像を持ち帰ることができるというのは、長らく純粋な「お楽しみ」であった。
 ところが測定機器の高度化により、今まで見えなかったもの(NT)が見えるようになり、妊婦に大きな不安をもたらすことになった。現場の医師に対しては、NTに異常を発見した場合、それを積極的に告げるのか、告げないままにしておいた方がよいのか、という問いが突きつけられることになった。
 このような事情の中、倫理委員会は、NTの取り扱いに関するガイドラインの作成を目指した。最終案がまとまるまでには長い議論を要したが、そこで繰り返し問題になったのは、医療情報(NTの詳細)を開示すべきという価値規範と、安易に知らせることによって選択的中絶を助長すべきではないという価値規範の衝突であった。簡単に言えば、患者の「知る権利」と胎児の「生命の尊厳」のせめぎ合いが、そこにあったと言える。
 ガイドライン第一案では、患者の知る権利や選択権を保証しつつ、選択的中絶へと至らせない道が模索されていた。しかし、突き詰めて考えていくと、この二つの理想を両立させることはきわめて難しいことがわかってきた。そして紆余曲折の末、選択的人工妊娠中絶、及びそれにつながる出生前診断に反対する、という立場を明確にした上で、NTの確認は行わないこと、求められた場合には、他の病院を紹介することを定めた。この結論への異論は当然あり得ると思う。しかし、「生命の尊厳」を保持することが、いかに困難な道であるかを実感した上で、倫理委員会ではその道を選択し、ガイドラインを定めたのであった。

5 仏教に期待すること
 さて以上述べてきたような生命倫理や倫理委員会の実情を踏まえた上で、仏教に期待することを最後に述べたい。
(一)生命倫理の多様な模索のために
 冒頭で指摘したように、西洋で誕生した医学・生命倫理には西洋的(キリスト教的)価値観が色濃く反映されている。普遍的な妥当性をもったように見える指針であったとしても、それを地域や人々の文化的・社会的背景に合わせてカスタマイズしなければ、有効には機能しない。日本では、それを可能にする潜在的力を持っている宗教は仏教である。それゆえ、仏教各派のそれぞれの教え(教学)の中に、生命倫理的な課題を現代の「苦悩」として積極的に受けとめることのできる基盤が構築されるべきであろう。現状では、私の知る限り、仏教者が倫理委員会に関わっていることは少ないが(倫理委員である真宗大谷派・田代俊孝氏の論考については『全仏』五三〇号を参照)、仏教者が持つ視角は議論を多様化するのに役立つはずである。
(二)人間の欲望の洞察のために
 人間の欲望はとどまるところを知らない。しかも、その事実を外部から見つめる覚めた視点を持つことができず、生と死のはざまで翻弄されているのが現代人の実相であろう。欧米と異なり日本では、自己決定と家族道徳の間で倫理的判断はしばしば揺れる。そうした「個」と「家族」の二分法を超える「生命の尊厳」の可能性を、縁起思想は教えてくれる。医療の現実を理解し、その困難に寄り添う形で(そうでなければ「説教くさい」と言われかねない)、仏教の視点から生と死を大局的に語ることができれば、患者および家族にとって大きな慰めとなるに違いない。