小原克博 On-Line

研究活動

研究活動

「キリスト教は環境問題に対して何ができるのか?」、『福音と世界』2008年1月号

■ PDFファイル(206KB)


1 はじめに
 環境問題への取り組みほど、実際に役に立つかどうかが厳しく問われる分野はないであろう。どんなに理想的なことを語ったとしても、それが問題解決に寄与しなければ、多弁を労することはほとんど意味を持たない。反対に、環境問題への関心をまったく持たない人であっても、損得勘定から、電力やガソリンの消費を積極的に抑制すれば、その人は問題解決に参加したと言える。では、キリスト教は、環境問題に対し、これまでどのような神学的および実践的取り組みをしてきたのであろうか。また今後、どのような役割を果たすことができるのであろうか。
こうした問いが、近年、多少なりとも切実さをともなって発せられるとすれば、その直接的な原因は、地球温暖化への関心と不安が高まってきたことにあると言える。環境問題は、ゴミ問題、水問題、エネルギー問題、希少生物の絶滅の問題など多岐にわたり、地球温暖化の他にも、緊急度の高い問題は幅広く存在していることは言うまでもない。しかし、地球温暖化は、長期的に見れば、これらいずれの問題にも深く関係し、なおかつ、その問題解決に失敗した場合には、人類の未来世代に対し未曾有の被害をもたらすという点で、特別に重い意味を持っている。
 未来世代に対して負うべき責務が、現代ほど大きい時代は、かつて存在しなかった。その意味で、未来世代への責任の遂行は、人類にとって未経験の領域に属するとさえ言える。そのような未知の領域に対し、宗教は既知の伝統と知恵をどのように生かすことができるのであろうか。そこで次に、過去の経緯を振り返る前に、むしろ、もっとも最近の変化に注目することによって、問題点を整理してみたい。

2 米国・福音派における変化
 環境問題とキリスト教の関係を考えるとき、この数年の米国・福音派内部における変化は、驚きであるだけでなく、見過ごしにできない可能性を示唆しているように思われる。かつて福音派にとって、環境問題ほど無意味なものはなかった。伝統的に、前千年王国説の立場に立つことが多かった福音派の人々にとって、もっとも重要な終末時の救いの前では、社会の改善は二次的な問題に過ぎなかったし、ましてや、環境問題のように長期的な取り組みを要求するような事柄は、関心のらち外であった。しかし、数年前から、かつての福音派からは想像もできないような動きが現れてきている。
 その変化を起こした人物の一人に、全米福音派連盟(NAE)の副会長リチャード・ザイジックがいる。NAEは五四の福音派諸教団をたばねる包括団体で、米国の有権者の四分の一をカバーすると言われている。ザイジックは気候変動に関する会議に参加し、問題の重大性を認識したことから、環境問題、被造世界の保全を福音派の重要課題の一つに位置づけようとした。しかし、それをめぐって、宗教右派組織「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」の創設者ジェームズ・ドブソンら、福音派の代表的指導者たちから、環境問題を、中絶や同性愛のような道徳的問題と同列に並べるべきではないという厳しい批判が浴びせられた。この種の内部的な葛藤は、今も続いているが、ザイジックやジョエル・ハンターたち推進者たちの努力の甲斐もあって、福音派内部で着実に支持者を増やしている。
 二〇〇七年一月には、福音派と科学者の指導的人物たちが環境保護に関する共同声明にサインをした。反科学的という福音派のイメージを覆すような出来事である。また、アル・ゴア前副大統領が地球温暖化への取り組みを評価され、二〇〇七年一〇月にノーベル平和賞を受賞したことも追い風となって、今、福音派の特に若い世代を中心に環境問題への関心が急速に高まりつつある。地球温暖化への取り組みが、二〇〇八年の大統領選挙のアジェンダの一つになることは間違いない。
 貧困や環境問題への取り組みは、ザイジックの理解によれば、福音派を結束させてきた伝統的アジェンダである「生命の尊厳」と矛盾することはない。貧困を一〇パーセント減らせば、中絶件数を三〇パーセント減らすことができる。また、米国の妊婦の六人に一人は、環境汚染により遺伝性疾患を持つ可能性のある胎児を身ごもっているという。胎児の生命を守るためには、単に中絶を阻止するだけでなく、より根本的な環境汚染から胎児を守る必要があるというのだ。

3 神学的・社会学的な意味
 福音派と環境問題という組み合わせは奇妙な印象を与えるかもしれないが、こうした新しい流れは突然変異的に出現したものでないことに注意を喚起し、同時に、その神学的・社会学的な意味を考えておきたい。
何より見過ごしにできないのは福音派の多様性である。福音派の左派・穏健派の中では、たとえば、ロン・サイダーがすでに一九七七年の著作『飢餓の時代の裕福なクリスチャン』の中で、ごくわずかの米国人が地球の総エネルギーの三分の一を消費していることを厳しく批判し、貧しい者に対し、よりいっそうの正義が振り向けられるべきことを主張している。また、ベトナム戦争反対運動の中で産声を上げた『サージャナーズ』(放浪者)誌の創刊者・編集者であるジム・ウォリスは近著『神の政治』(二〇〇五年)において、偏狭なナショナリズムを批判し、地球環境問題への取り組みや、より開かれた外交政策への転換を促している。こうした左派・穏健派の長年の取り組みが、今日の福音派において柔軟さと多様性を生じさせる素地を作ってきたのである。
 また福音派は、進化論論争や近年のインテリジェント・デザイン論争に代表されるように、創造論に対し並々ならぬ関心を示してきた。非科学的という批判を受けながらも保持してきた創造論に対する独特のこだわりが、千年王国説的な終末論を凌駕する形で、神から委託された被造世界の保全という新たなミッションへと向かわせたのである。
 社会学的に見て重要なのは、福音派のクリスチャンが大きく変われば、米国そのものが変わるかもしれないということである。福音派は人口比的な優位性を持っているだけでなく、その団結した実践力において、リベラルな主流派教会を圧倒している。世界の総人口の四%を占める米国が、世界の総エネルギーの四〇%を消費している。地球温暖化への取り組みに関しても、米国が動かないことにはどうにもならない。米国が変化すれば、人類全体にとっても大きな益となるのである。

4 リベラル派・主流派の取り組み
 ここまで福音派の状況について比較的詳細に語ってきたのはなぜか。それは最新の動向を認識するためだけでなく、リベラル派・主流派のこれまでの取り組みの特徴を際だたせるためでもある。環境問題をめぐる神学的な議論は、一九七〇年代以降始まるが、そのきっかけの一つとなったのが、科学史家リン・ホワイト・ジュニアによる論文「今日の生態学的危機の歴史的源泉」(『サイエンス』一九六七年)であった。ホワイトは、キリスト教が持つ人間と自然の二元論を批判し、それが環境破壊の一因になったと主張した。「自然は、人間に仕える以外になんらの存在理由もないというキリスト教の公理が斥けられるまで、生態学上の危機はいっそう深められつづけるであろう」(『機械と神』九五頁)というホワイトの批判は、その主張の細部の適否はともかくとして、キリスト教神学において環境問題を主題とする動きを促したと言える。
 また教会関係では、世界教会協議会がその第六回総会(バンクーバー、一九八三年)において、「正義・平和・被造物の保全」プログラムを提案し、それ以降、被造物の保全がエキュメニカル運動の重要な課題の一つとして認知されるようになっていった。
一九七〇年代以降、他宗教やキリスト教保守派に先駆けて環境問題に関心を向けてきたのはリベラル派の神学者たちであり、主流派の教会であったことは間違いない。今日に至るまでの議論や問題提起の蓄積を考えれば、その貢献は十分評価すべきであろう。しかし同時に、冒頭で指摘したように、それらが問題解決に実際に役だったのかどうかを厳しく問わなければならない。そして私の知る限り、これまでのところ、あまり役だってはいないと答えざるを得ない。確かに、近年、環境問題を扱った神学文献は、英語圏を中心にして、数え切れないほど出版されている。しかし皮肉な見方をすれば、それは問題解決に貢献していないという罪責感を打ち消すために必死に弁明しているようにも見える。今後のことを考えれば、楽観論を吹聴するより、厳しい事実認識をしておいた方がよいと思われる。
 米国・福音派が持つような草の根の組織縦断的な結束力をリベラル派は持たない。また、リベラル派の理念や神学がすばらしいとしても、それは大衆レベルでの実践に至っていない。こうしたリベラル派・主流派の弱点は、環境問題への取り組みに関しては、致命的とすら言える。しかし、問題の深刻さに照らして見れば、そもそも保守派かリベラル派かという違いに拘泥するのは愚かなことである。それぞれの長所を生かし、短所を補い合って、真にエキュメニカルな「キリストのからだ」を形作ることができなければ、世界総人口のおよそ三分の一を占めているクリスチャンは、責任放棄のそしりを免れないであろう。

5 日本における課題
 海外に出かけ、「京都から来た」と言うと、「京都議定書の京都か」と返答されることが何度となくあった。その度に、京都議定書の重みを感じると共に、その目標を果たしていない日本の状況を後ろめたく思った。実際、我々は問題解決の痛みをほとんど負っていない。それは教会においても同様であろう。米国においては教会が変われば、一般社会の環境意識も変わる可能性がある。だからこそ、福音派の動向は注視する価値がある。しかし、日本では、教会がたとえ変わったとしても、その社会的影響力はきわめて限定的である。つまり、本気でやろうと思えば、キリスト教単独の運動は実効性が低いことを踏まえた上で、より広範なネットワーク作りに参与する必要があるということになる。
 二〇〇六年、京都で開催された世界宗教者平和会議においても、二〇〇七年に開催された比叡山宗教サミットにおいても、世界の宗教指導者たちが集まり、今日の重要課題として地球温暖化の問題をあげ、それへの取り組みが宣言された。私はその場にいて、その宣言が口先だけのものでなく、日本における新たな運動の口火になることを期待することはできなかった。むしろ、世界平和や地球環境などグローバルな課題を好んで口にしながらも、ローカルな場では、いっこうに重い腰をあげようとしない宗教者の欺瞞を感じざるを得なかった。そのときの私の猜疑心を払拭してくれるような動きは、今現在、日本の宗教界では生じていない。
 このような状況の中で、日本のキリスト教、および、一人ひとりのクリスチャンが果たすことのできる、そして果たさなければならない役割は、たくさんあるように私は思うのだが、いかがなものであろうか。