研究活動

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「宗教多元主義モデルに対する批判的考察――「排他主義」と「包括主義」の再考」、『基督教研究』第69巻第2号

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    宗教多元主義モデルに対する批判的考察
    ――「排他主義」と「包括主義」の再考
    A Critique of the Pluralist Model: "Exclusivism" and "Inclusivism" Revisited
    小原 克博
    Katsuhiro Kohara

キーワード
宗教の神学、宗教間対話、多元主義、排他主義、包括主義、優越的置換主義

KEY WORDS
Theology of Religions, Interfaith Dialogue, Pluralism, Exclusivism, Inclusivism, Supersessionism

要旨
宗教の神学あるいは宗教間対話において広く用いられてきた類型に、排他主義、包括主義、多元主義がある。宗教多元主義の立場からは、しばしば、排他主義や包括主義は克服されるべき前時代的なモデルとして批判されてきた 。本稿では、このような宗教多元主義モデルが前提としている進歩史的な価値観を「優越的置換主義」として批判すると共に、その問題は現実の宗教界や政治の世界などにおいても反映されていることを、西洋および日本における事例を通じて考察する。その上で、排他主義や包括主義に分類される宗教や運動の中にも、評価すべき要素があることを指摘する。また、これまでもっぱら西洋の神学サークルの中で議論されてきた多元主義モデルが、非西洋世界において、どのような有効性を持つのかを、イスラームや日本宗教の視点を適宜織り交ぜながら、批判的に検討する。最後に、西洋的価値を中心とする宗教多元主義を積極的に相対化していくためには、宗教の神学と文脈化神学を総合する必要があることを示唆する。

SUMMARY
For the purpose of the theology of religions or interfaith dialogue, three typologies are generally used: they are exclusivism, inclusivism and pluralism. From the viewpoint of religious pluralism, exclusivism and inclusivism have often been made the target of criticism, as old-fashioned concepts that must be superseded. In this paper, I will critically discuss the evolutionary view of history on which religious pluralism is based, that is, "supersessionism." At the same time, I will indicate that the problems with supersessionism have been reflected also in the realities of religious as well as political arenas. On top of this, I will point out that even the religions and movements categorized as being exclusive or inclusive have some factors that deserve to be commended. So far, religious pluralism has been discussed mainly in the western theological circle. I will examine the validity of such pluralism in the non-western world from the viewpoint of Islam and Japanese religions. In conclusion, I suggest that it is crucial to integrate theology of religions with contextual theology in order to relativize the western-oriented idea of pluralism.


1.はじめに
 多元主義(pluralism)をめぐる議論は、20世紀後半以降、キリスト教神学にとって、もっとも大きな問題の一つであり続けてきた。数ある宗教の中でも、特にキリスト教がこの種の問題に熱心に取り組んできたのには理由がある。第一に、キリスト教が圧倒的な多数派を占めていた欧米社会において、世俗化が進むと同時に、他の宗教が流入してくることによって、宗教的多元性(religious diversity)を無視することができなくなった、ということである。第二に、西欧列強による植民地化や文明化の営みが、キリスト教の絶対性の主張と結びつき、それによって引き起こされた不正義に対する反省がなされてきた。このような理由から、キリスト教と他の宗教との関係を神学的に問い直す試みが、1960年代頃から、本格的に始まってきた。この試みは現在では「宗教の神学」(theology of religions)と呼ばれている。
 本稿では、宗教の神学においてなされてきた議論を紹介すると同時に、その問題点を指摘したい。宗教の神学あるいは宗教間対話において広く用いられてきた類型に、排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)がある。宗教多元主義の立場からは、しばしば、排他主義や包括主義は克服されるべき前時代的なモデルとして批判されてきた(1)。本稿では、このような宗教多元主義モデルが前提としている進歩史的な価値観を批判的に考察すると共に、排他主義や包括主義に分類される宗教や運動の中にも、評価すべき要素があることを指摘したい。
 後に三つの類型の特徴について論じるが、まずそれぞれの概要をいくつかの事例と共に述べ、問うべき課題を明らかにしておく。三つの類型は「救済」をどのように考えるかによって区分され、形成されてきた。排他主義では、救済は自分の宗教によってのみ達成される。包括主義では、救済は他の宗教においても可能であるが、最終的な救済は自分の宗教によってのみ達成(完成)される。多元主義では、すべての宗教が等しく救済の可能性を有しており、その点に関して、宗教の間に優劣はないと考えられる。そして、多元主義者の立場からは、他の二つの類型は、他の宗教への寛容を欠いた望ましくない態度と見なされる。言うまでもないが、排他主義や包括主義という呼び名は、多元主義者の立場から与えられた「他称」であって、その呼び名を自らの他宗教理解の表示として、すなわち「自称」として積極的に使う人や集団はきわめて少ない。この落差は、「他称」としての排他主義や包括主義が、事実上、多元主義者から投げかけられた「蔑称」として機能していることを示している。
 この類型論に従えば、イスラーム的な価値を前面に押し出すイスラーム主義運動の多くは排他主義に分類されることになる。たとえば、イスラエル・パレスチナ問題で妥協的な解決を拒むハマスのような存在は、排他主義の典型例とされるだろう。しかし、ここで問いたいのは、ハマスのような存在を最初から対話不可能な相手、あるいは対話しても意味のない相手として退け、孤立させてしまうとすれば、宗教間対話や宗教の神学は何のために存在しているのか、ということである。ハマスが持つ暴力的側面に賛同することはできないが、紛争解決を目指すならば、その歴史やイデオロギーを含む、実態について知る必要がある(Tamimi 2007)。ハマスの源流となっているムスリム同胞団(エジプト)に関しても同様のことが言えるであろう。ムスリム同胞団の思想的基盤を構築したサイード・クトゥブ(Sayyid Qutb, 1906-66)は、多元主義モデルに従えば、明らかに排他主義者に分類される。しかし、反西洋主義者としてのクトゥブは、西洋世界の何に「ジャヒリーヤ」、つまり「無知の時代」を見たのであろうか。彼のビジョンが今なお多くのイスラーム主義者に影響を与えているとすれば、その意味をとらえることのできる宗教の神学こそが必要なのではないか。もちろん、ある対象の意味をとらえることは、それを正当化することとは異なるのであり、両者は区別されなければならない。
実際、多元主義者のほとんどは、リベラルな研究者や信仰者であり、その人々が主催する対話の集会には、やはりリベラルな人々が集まってくる傾向がある。寛容や価値相対主義などの啓蒙主義的な精神を共有できる人々の間で対話が成立するのは当然と言える。問題は、対話の対象とされてこなかった人々との間に、どのようにしてコミュニケーションの糸口を見出していくことができるのか、という点にある。排他主義者に分類される人々は、リベラルな西欧的価値からすれば後進的で前近代的に見られがちである。しかし、我々が見るべきなのは、排他主義者たちが西欧的価値や近代的価値のどのような部分に異議申し立てをしているか、という点である。その点を見過ごしてしまうならば、信頼あるコミュニケーションを取り結ぶことは不可能であろう。
また、これまで宗教多元主義が宗教間対話にとって有効であると考えられてきたのは、もっぱら西洋世界においてであり、たとえば中東における最適な対話モデルを多元主義に求めることはできそうにない。中東においては、多元主義者は、自分自身の宗教についての知識や確信を欠き、それゆえに他の宗教にある固有の排他的主張に向き合うことを避ける人々であると見なされることが多い(Abu-Nimer et al. 2007, 14-15)。また仏教の立場からも、宗教多元主義が提起するパラダイム転換(コペルニクス的転回)を指して、「かくも思い上がった発言の前では僕もしばし言葉を失ってしまいかねない。「究極的な神的実在(the ultimate divine Reality)」という「トポス」の上に「宗教的多元論(religious pluralism)」を打ち立てる世界最高の寛容な宗教に禍あれ、とでも言うほかはあるまい」(袴谷 1990126)という辛辣な批判が発せられている。
このような現状を考えれば、これまでもっぱら西洋の神学サークルの中で議論されてきた多元主義モデルが、非西洋世界において、どのような有効性を持つのかを批判的に検討することには十分に現代的な意義があると思われる。そのような作業を進めていくための一助として、本稿では、イスラームや日本宗教の視点を適宜織り交ぜながら、宗教多元主義モデルと、それが前提としてきた世界観への批判的考察を行う。


2.宗教の神学における三つの類型
 多元主義モデルにおける問題点を分析していくため、三つの類型の特徴を見ていくことにする。これらの類型には、キリスト教の自己理解と他者(=他宗教)理解が明瞭に反映されている。まずはキリスト教の視点から、他の宗教との関係がどのようになっているか、特に救済の問題を中心に見ていくが、これらの類型はキリスト教以外の宗教に対しても適用可能であるし、実際に適用されてきた。ただし、厳密な意味での多元主義者は、キリスト教以外の宗教ではほとんど見られない。

1)排他主義
 排他主義者は、キリスト教と他の宗教との間に質的な相違・断絶を前提とする。その際、正義と悪、光と闇、生と死といった二元論的区分を強調する表現が好んで用いられる。伝統的な宣教論においては、しばしばキリスト教の絶対性が排他的に主張され、非キリスト教世界に対し、その絶対性への服従を要求することになった。
 この排他主義的類型に属するのは、「教会の外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という考えを長い間保持してきたカトリック教会だけではない(ただし第二バチカン公会議以降、カトリック神学者の多くは排他主義的立場を離れていく)。プロテスタントの保守派の中には、かつてのカトリック以上に、他宗教に対する排他的立場を取るものが少なくない。冷戦時代において、プロテスタント保守派の関心は共産主義思想との対決に向けられることが多かったが、冷戦構造の解体後、彼らの伝道熱は今やイスラーム世界へと向けられつつある。また、米国最大教派の南部バプテスト連盟をはじめ、ユダヤ人の改宗を宣教方針の中に入れることによって、ユダヤ人団体からの批判を浴びてきた例もある。改宗を隠れた目的とする人道的支援の問題も近年批判されているが、改宗のあり方をめぐるエキュメニカルな議論は、まだ始まったばかりである。
 主流派の教会やリベラルな神学者たちは、排他主義的立場を拒絶しているが、排他主義の態度を取る教会は今なお多様な形で存在している。その神学的特徴を次のようにまとめることができるであろう。
 (a)排他主義者は、キリスト教と他の宗教との間に越えがたい断絶があると考える。すなわち、キリストにおける神の啓示は、他宗教の啓示(真理性)に優越するだけでなく、そもそも両者は異なるカテゴリーに属するという認識論的な相違が前提にされている。また、その啓示の保持者として教会の権威が強調される(教会中心主義)。
 (b)その主張は聖書の権威に基礎づけられている。排他主義者が好んで引き合いに出す聖書箇所として、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)などをあげることができる。イエスの独自性や、イエスの生涯・十字架での死・復活が持つ普遍的な意義は、どのようなリベラルな聖書解釈学によっても相対化されることはないと彼らは考える。その意味では、近代以降蓄積されてきた膨大な聖書学的知見に対し、排他主義者は絶えず一定の距離を置いており、聖書の直解主義を取ることが圧倒的に多い。このような聖書解釈の伝統は、20世紀初頭のキリスト教ファンダメンタリストから、現在の福音派に至るまで受け継がれてきている。
 (c)救済に関して、排他主義者はキリスト論に大きな価値を置く。救いは他の宗教における神的存在によって成し遂げられることはなく、ただキリストによってのみ可能となると考える(キリスト中心主義)。排他主義者の神学的理解の中では、先の素朴な聖書解釈とは対照的に、キリスト中心的救済論は比較的緻密に組み立てられている。その際、神学的基礎づけのためにカール・バルト(Karl Barth)のキリスト中心的救済論が用いられることが多い。ちなみにバルトは、多くの多元主義者によって、排他主義の代表的人物として引き合いに出されている。
 (d)排他主義者が他の宗教と対話する際の最終的な目的は、福音宣教にある。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)という宣教命令は、彼らの宣教的情熱を駆り立てる典型的表現の一つである。
 以上、排他主義者の神学的特徴を概観してきたが、排他主義者は宗教間対話に関心がないとされてきた従来の説明には修正が必要である。排他主義的・保守的キリスト教グループは、今や教派の枠組みを越えたつながりを形成している。たとえば米国では、「キリスト教徒連合」(Christian Coalition)や「フォーカス・オン・ザ・ファミリー」(Focus on the Family)などの宗教右派を中心に、保守的なプロテスタント、カトリック、ユダヤ教が相互に共有可能な政治的・社会的課題(中絶問題や同性愛問題など)に対し、連合して取り組もうとしている。具体的な政策を中心にした教派間対話や宗教間対話は、単なる神学理論ではなく、一般信徒にまでフィードバック可能な現実感を伴っている。ただし、宗教間対話といってもユダヤ・キリスト教的伝統の域を出ないのが彼らの特質であり、それはまさに彼らの宗教理解を反映している。

2)包括主義
 広い意味での排他主義がキリスト教とほぼ同じ長さの歴史を有しているのに対し、自覚的な包括主義者が現れてきたのは比較的最近のことである。第二バチカン公会議での宣言「我らの時代に」(Nostra Aetate)において、カトリックは他の宗教の真理性を否定しないことを確認し、宗教間対話は新たな時代を迎えた。それに連動するかのように、1960年代以降、プロテスタントの側でも、世界教会協議会を中心に宗教間対話をテーマとする様々なプログラムが展開されてきた。WCC内部における他宗教理解は、排他主義者と包括主義者との間の緊張関係のもとに形成されてきたと言えるが、着実に宗教間対話の方法論を築きつつある。ただし、宗教間対話と言っても、様々な宗教に対し等しく関心を向けているわけではない。WCCでは、ヨーロッパ各国の影響力が強いこともあり、イスラームとの対話への関心が、他の宗教への関心に比べ、圧倒的に大きい。同じことは、カトリック内部における宗教間対話への取り組みに関しても言える。
 包括主義者の神学的特徴を次のように要約することができるであろう。
 (a)救済はキリスト教以外の宗教においても成し遂げられる。ただし、それはキリストにおける神の恵みが普遍的な効力を持っているからである。
 (b)包括主義者にとっても、排他主義者と同様、救済はキリスト論的に根拠づけられている。ただし、それは排他主義のように認識論的な意味においてではなく、存在論的な意味においてである。つまり、排他主義では、キリストにおける神の恵みを認識することなしに救いへと至ることはできないが、包括主義では、キリスト論的な意味での恵みを認識しなくても、キリストの普遍的恵みが存在論的に救いを保証してくれる。この考え方から、万人救済論も出てくる。
 (c)包括主義者は、他の宗教の中に真理契機を認めるが、それは彼らが所有している本来の真理の一部、あるいは、その不完全な形に過ぎないと考える。キリスト教は完全な真理を有しているが故に他宗教に対し優位に立っており、逆に、キリスト教以外の宗教はキリスト教の真理にどの程度一致しているかによって、その価値を計られることになる。このようにキリスト教と他宗教の間には原則的な区別が存在しているが、それは排他性へ向かうのではなく、包括的な上下関係へと置き換えられる。下部には基本的・一般的なものが位置し、それを統括、支配する形で上部には高次・特殊な存在としてのキリスト教が位置するのである。

3)多元主義
 多元主義者は排他主義者・包括主義者の後に現れ、先行する二つの類型に内包されているキリスト教の優越性を批判する。今日、宗教の神学の領域において展開されている議論のほとんどは、多元主義者と包括主義者によってなされている。すでになされてきた議論の中で、多元主義者の主張は次のような共通した論点を有している。
 (a)宗教的多元性は恒常的なものであり、それはいかなる単一の宗教にも取って代えられることはない。(b)諸宗教の中には固有の真理契機がある(ただし、すべての宗教が救済的意義を持っているわけではない)。(c)いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。(d)キリスト教信仰にとってイエスは独特の意味を持っているが、その独自性は排他的な形で優越性や超越性と結びつけられるべきではない。
このような共通点を持ちながらも、多元主義者の中で争われる論点がある。それは多元性の根源を一つと見なすか、複数と見なすか、という議論である。多元主義の代表的人物ジョン・ヒック(John Hick)は「実在者」(the Real)という概念を措定し、それを、どの特定の宗教の神的実在をも超えた「一者」(the One)と考える。その一者に連なる道が多数存在するという意味での多元主義であり、その限りにおいて、どの宗教も全体的真理の一部を占めるに過ぎないために、諸宗教は互いに相補的な関係にある(ヒック 199074)。しかし、インドの神学者レイモン・パニカー(Raimon Panikkar)のように、多元主義は統一を必要とせず、多元性そのものが究極的実在の構造そのものを表していると考える者もいる(Panikkar 1981, 29)。またマーク・ハイム(Mark Heim)は、ヒックの多元主義の考え方を西欧的な価値観に基づいた「メタ理論」として批判し、複数の救済(salvations)、複数の正義(justices)を認めなければならないと主張する(Heim 1995, 6-7, 30)。


3.多元主義モデルに対する批判的考察
 多元主義に対する問題の指摘はすでに様々になされてきており(代表的なものとして(デコスタ 1997))、中には傾聴に値するものもあるが、ここではそれらを反復して取り扱うことはしない。また、宗教の神学における類型論をめぐる議論も繰り返されてきたが、ここでは煩雑さを避けるため、この種の議論には立ち入らない(2)。三つの類型だけでは、複雑な現実をカバーし切れていないという理由から、別の類型が加えられることもある。いずれにせよ、キリスト教が他の宗教との関係を考える際に、すでに述べてきた類型が広く用いられてきたのであるが、宗教間対話を促進しようとするリベラルな神学者の多くが、多元主義の立場に立ってきた点に注目する必要がある。多元主義者の間では、先にも述べた通り、キリスト教の優越性と結びついた排他主義や包括主義は克服されるべき対象であった。この多元主義モデルがキリスト教の自己検証や自己批判として用いられる限りにおいては、神学的にも十分意味があると言える。しかし、多元主義モデルは、すべての宗教に等しく価値を認めようとする意図とは裏腹に、それが前提としている進歩史的な枠組みによって、信仰的判断や他宗教理解の序列化を行っている。排他主義より包括主義が望ましく、包括主義より多元主義が望ましいという思考の枠組みがキリスト教だけでなく、他の宗教に適用されるときには十分な慎重さが求められる。
 それぞれの類型においてキリスト教の自己理解と他者理解が反映されているために、その類型論を土台にして、たとえば、救済論をめぐる比較宗教学的な考察を行うことは可能であろう。しかし、類型の間に優劣をつけるときに、大きな問題が立ち現れる。一言で言うなら、それは「優越的置換主義」(supersessionism(3)の問題である。優越的置換主義とは、後にあらわれたものが先のものを克服し、先のものは基本的な意義を失う、という考え方である。科学の世界では、これはパラダイム変換として知られている。たとえば、天動説が地動説に置き換えられることは、大きなパラダイム変換であり、地動説がいったん確立してしまえば、天動説は用済みの迷信となる。科学の世界では古いパラダイムを新しいパラダイムが完全に置き換えてしまうことはめずらしいことではない。しかし、宗教の世界においては、新しいパラダイムが生じたとしても、古いパラダイムとしばしば併存していくのであり、科学と同じように、新しいパラダイムの方が優れていると断定することはできないはずである。
 ところが、キリスト教の中には、その歴史の始まりから優越的置換主義への傾斜が存在していた。それはユダヤ教とキリスト教の関係において典型的に見られる。キリスト教が「新しいイスラエル」として、「古いイスラエル」であるユダヤ教に取って代わるという考え方は、「ヘブライ人への手紙」をはじめとし、新約聖書の中に見られる。ユダヤ教の「聖書」は「旧約聖書」と呼ばれ、「新約聖書」が「旧約聖書」に取って代わる。旧約聖書も新約聖書もキリスト教の正典とされたが、両者の間には救済論的な序列があると言わざるを得ない。このようなユダヤ教に対するキリスト教の優越的置換主義が、ヨーロッパ社会における反ユダヤ主義の一因になったと考えられる。その意味でも、優越的置換主義は、単に神学的な議論にとどまらない社会的影響力を持っていると言える。そして、そうであるからこそ、多元主義モデルの中に潜んでいる優越的置換主義を見過ごしにすることはできないのである。また、排他主義、包括主義の中に、それぞれの体系内部で自足した、キリスト教中心の優越的置換主義が機能していることは言うまでもない。
 ところで、多元主義モデルの推進者は、優越的置換主義の問題を自覚していないのであろうか。初期の頃、その自覚はなかったと言ってよい。しかし、ヒックと共に多元主義を牽引してきたポール・ニッター(Paul F. Knitter)は、近年、多元主義に向けられた様々な批判に応える形で、新たな類型を提示すると共に、従来のモデルが前提としていた多元主義を頂点にした序列化の問題を克服しようとしている(Knitter 2002)。彼が提示する新たな類型は、置換モデル(Replacement Model)、成就モデル(Fulfillment Model)、相互性モデル(Mutuality Model)、受容モデル(Acceptance Model)の四つであり、それぞれのモデルに固有の神学的意義を与えようとしている。大雑把に言えば、置換・成就・相互性モデルは、それぞれ、排他主義・包括主義・多元主義に対応している。受容モデルは、従来の多元主義に向けられた、多元主義は「相対主義」「帝国主義」ではないか、という批判を意識し、あるがままの多様性と相違の受容を中心に据えている。その際、ジョージ・リンドベック(George A. Lindbeck)の『教理の本質』(The Nature of Doctrine, 1984)によって触発された、言語の通約不可能性(incommensurability)を方法論上の前提としている。ニッターの試みは、今日における宗教の神学の一つの到達点を示しており、興味深い。
しかし、先に指摘した優越的置換主義の問題をニッターのモデル論は克服できているであろうか。彼は結論的に、行動に基づいた倫理的な宗教間対話を進めることを推奨し、それには、どのモデルに依拠するかにかかわらず、すべての信仰者が関わることができるという(Knitter 2002, 245)。ニッターが繰り返し用いる言葉の一つに「シーソーのバランス」(balance of the teeter-totter)があるが、まさに四つのモデルをバランスよく理解して、平和、正義、環境など、人類共通の課題に取り組めば、宗教間の軋轢は解消されるということであろう。しかし、これもまた「多元主義」の一種ではないのか。特定モデルの優位性は、従来の多元主義モデルと比べれば抑制されているとはいえ、これはモデル間の(動的)等価性を受け入れることのできるリベラリストに有利に働く論理であり、そもそも「シーソー」に乗ろうとしない者(排他主義者)や、圧倒的重みで「シーソー」の一方に座している者(包括主義者)を動かす論理となるかどうかは疑わしい。ニッターの新しい類型論は、多元主義への批判に巧妙に対応しているが、優越的置換主義の問題は、なお残存していると言わざるを得ない。
しかも、この問題は狭い神学サークルの中だけの事柄ではなく、現実の宗教界や政治の世界などにおいても反映されている。しかし、そのことが従来の宗教の神学では十分に認識されてこなかったので、次に、西洋と日本における事例をあげ、問題の広がりと深さを探るためのケース・スタディとして考察する。


4.ケース・スタディ
1)ヨーゼフ・ラッツィンガー
 ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)は2005年、ローマ教皇ベネディクト16世となり、それまでヨハネ・パウロ2世が推進してきた他宗教との対話を基本的には継承することになった。しかし、その後、ドイツ・レーゲンスブルク大学においてイスラームに言及した講義内容が、世界各地のムスリムからの批判にさらされた事件(2006年)を筆頭に、イスラームやキリスト教の他の教派との間で摩擦を引き起こしてきた(4)。これらはローマ教皇が排他主義的立場を取ったから起こったのであろうか。あるいは、従来のカトリックの立場を踏襲して、包括主義的な態度を示したことが原因となったのであろうか。ベネディクト16世は、ラッツィンガーの時代から、多元主義に近接するような多宗教理解・異文化理解を、少なくとも表現上は示していた。その典型的な論考の一つが、ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas)との討論に先立ってなされた講演「世界を統べているもの――自由な国家における政治以前の道徳的基盤」(2004年)である(ハーバーマス、ラッツィンガー 200727-48)。
 この論考の中で、ラッツィンガーは、キリスト教信仰と(西洋の)世俗的合理性が共に普遍性を持っていないことを認め(同、42)、ヨーロッパ中心主義の傲慢、それに対して支払わなければならない代償についても言及している(同、45)。それゆえに、この講演の強調点の一つは異文化対話の必要性に置かれている。基本的な論調を見る限り、キリスト教中心主義やヨーロッパ中心主義の功罪に対し、きわめて自覚的であり、異文化対話を通じて、自文化中心主義を相対化しようとする姿勢が感じられる。そして、結論部分では次のように語られている。
    つまり、こうしたさまざまな文化との真の相関性にコミットすることこそ重要である。こうしたもろもろの文化を多声的な相関性へと受け入れることが重要である。この相関性のなかで、さまざまな文化が理性と信仰の本質的な相関性を受け入れるようになれば、普遍的な浄化のプロセスが働きはじめ、そのプロセスのなかで最終的には、すべての人間がなんらかの感じで知っている、あるいは感じている本質的な価値や規範が新たな輝きを得て、世界を統べているものがふたたび人類において働く力となりうるのである(同、45-46)。

 「もろもろの文化を多声的な相関性へ」という表現に表れているように、一見すると、伝統的なカトリックの包括主義を離れ、多元主義に限りなく近づいているかのような印象すら与える。しかし同時に、この多元主義的装いの中に、先にニッターにおいて指摘したのと同様の優越的置換主義が巧妙に残存していないであろうか。一方で、多様な「相関性」に開かれ、それを受け入れる姿勢を示し、他方、予定調和的にすべての相関性を浄化・総合する「世界を統べているもの」が再起することへの期待が述べられている。「世界を統べているもの」は、キリスト教的な価値や西洋的な価値と同じものではないと言うことは簡単である。しかし、ヒックの「実在者」「一者」が西洋的価値に基づいた「メタ理論」との批判を受けたように、「世界を統べているもの」の外装がいかに「相関性」の総和として語られようとも、その内実は西洋的な価値の終末論的展開として読み解くことができるのではないか。ベネディクト16世が引き起こした数々の軋轢が、その証拠に他ならない、と言うつもりはない。しかし、ラッツィンガーとベネディクト16世をつないだベクトルの先に、西洋的な価値が最終的に多様な相関性を統べる、諸価値の〈原器〉として想定されているという意味での優越的置換主義を見たとしても、それを過剰な解釈と言うことはできないであろう。

2)トニー・ブレア
 宗教間の対話をもっとも必要としているのは、まさに今、衝突のさなかにある宗教同士であろう。そしてテロの危機に怯えている西洋社会にとって、向き合うべき最大の相手はイスラームであり、とりわけ、テロの主たる担い手とされるイスラーム過激派である。ただし、テロ対策は通常の宗教間対話や宗教の神学の範疇を超えており、それは国際政治的な課題とされる。米国と共に「テロに対する戦い」を積極的に主導してきた国の一つが英国であり、その第73代首相のトニー・ブレア(Tony Blair19972007年、首相在任)はクルアーン(コーラン)に親しみ、イスラームに対する敬意を払うことのできる人物であるが、同時に、イスラーム過激派に対する強硬なポリシーを持っている。
 20072月にブレアが『フォーリン・アフェアーズ』誌に寄稿した「グローバルな価値を求める戦い」(A Battle for Global Values)は、ブレアの対イスラーム政策を如実に語っている。彼は「力の領域においてだけでなく、価値をめぐる闘いで勝利を収めない限り、イスラム過激主義の台頭というグローバルな流れを抑え込むことはできない」(ブレア 200750)と語り、イラク戦争のような軍事的な戦いだけでなく、イデオロギーの戦いにおいても勝利しなければならないと考えている。そして、その際、ブレアが帰属する価値は西洋的な価値と切り離されている。
    われわれの価値観は西洋的なものではないし、ましてやアメリカ的、アングロサクソン的なものでもない。それは人類社会が共有する普遍的な価値であり、地球市民が権利として持つべき普遍的価値である。この点を広くアピールする必要がある(同、61)。

 自らが主張する価値は西洋的なものではなく、より普遍的な価値であると語る点において、ブレアの言葉は先のラッツィンガーの言葉を彷彿とさせるほどに、両者は近似した価値構造を有している。しかし、先と同様に問わなければならないのは、ブレアが語る「普遍的価値」は、本当に普遍的なのであろうか、という点である。ブレアは「イスラーム対西洋の戦い」という構図は、イスラーム過激派によって作られたと論じており(同、53-54)、彼の依拠する価値を西洋的価値と同定してしまうと、イスラーム過激派の土俵の上に乗ってしまうという懸念を抱いているのであろう。しかし、歴史的には「西洋対イスラーム世界」という二項対立的な世界認識を生み出したのは19世紀の西洋であり(羽田 2005139)、そのような事実と、それに起因する反西洋思想を封じ込めるため、ブレアは彼が依拠する西洋的価値を「普遍的価値」によってカモフラージュする必要があったと言える。したがって、ここでも、外装においては、西洋的価値を相対化しているように見えるが、その内実は、西洋的価値がイスラーム過激主義に勝利しなければならないという確信(優越的置換主義)に満たされていると言わざるを得ない。

3)井上哲次郎
これまで、多元主義的・相対主義的に偽装された、西洋的価値の優越的置換主義の事例を見てきたが、これらは圧倒的な文明の力を誇ってきた西洋世界に特有のディスコース(言説)なのであろうか。ここでは非西洋世界の事例の一つとして、近代日本において典型的に見られたディスコースを、東京帝国大学の哲学教授・井上哲次郎(1855-1944)を通じて見てみたい。井上は教育勅語を中心とした国家主義的道徳主義のイデオローグとして活躍し、内村鑑三の不敬事件(1891年)の際にも、内村批判の急先鋒として論陣を張っていた。井上に限らず、明治期の知識人たちの多くは、西洋近代や、それによって規定された「宗教」(≒キリスト教)に対する抵抗原理として天皇制(万世一系の天皇神話)を掲げていたが、井上はそれを明確にするため、伝統宗教に対し、道徳(国民道徳)を優位させるという論を展開した。『倫理と宗教との関係』(1902年)には次のような表現が見られる。
    人類の生命には、仏教若くは基督教よりも尚ほ重大なるものありて存するなり、其重大なるものといふは、進歩に外ならず、進歩の為には唯〃道徳を要するのみ、道徳は仏教若くは基督教に代はりて宗教の地位を占むべきものなり、是れを理想教となす、(井上 190284
    今後は世界及び人生観を基礎とせる倫理(即ち宗教的倫理)さへあれば足れり、是れ即ち将来人類の宗教たるべきものにして、一切過去の宗教の如き、最早其必要あるを見ざるなり、(同、90-91

 井上は、進歩主義的な立場から道徳を宗教の上位に立て、それを「理想教」と呼ぶ。そして、その理想教(倫理的宗教)があれば、伝統宗教は必要ないとさえ言う。こうした見解は、井上独自の突出した考え方のようにも見えるが、同時代の啓蒙主義的知識人には、かなり理解しやすいものであったはずである。欧米では、すでに宗教の道徳化・倫理化が進行しており、そうした時代の風潮は、進歩主義(宗教進化論)と共に比較的早い段階から日本においても受容されていた。仏教にせよ、キリスト教にせよ、自宗教を他宗教に優位する形で進化論的な論法を使うことが多かったが、優位の序列をのぞけば、宗教者も啓蒙主義的知識人も、類似した思想構造を共有していたと言ってよい。
端的に言えば、純粋に日本的なものこそが、西洋的なものに優位するという信念がそこには存在しており、そのような風潮の中にキリスト教も取り込まれていったのである。そして、それは単なる風潮にとどまらず、政教関係を含み込む国体イデオロギーとして精緻化されていくことになった。諸宗教はたとえ相互には排他主義的関係にあったとしても(たとえば、仏教とキリスト教)、国体イデオロギー(国民道徳)というシステムから見れば、多元主義的な共存関係に置かれていた。道徳によって既成宗教を置き換える、あるいは、道徳との距離によって宗教の価値を計るという近代日本の優越的置換主義は、オクシデンタリズム(反西洋思想)の一種であり、その限りにおいては、他の非西洋世界においても類例があることを予期させる。また同時に、この時期に醸成された日本的な優越的置換主義のディスコースは、太平洋戦争の敗戦と共に終わりを告げたのではなく、形を変えて現在に至るまで引き継がれている。その典型的な例が、一神教と多神教をめぐる議論である。

4)一神教と多神教をめぐるディスコース
近年、特に米国同時多発テロ事件(2001年)以降、日本の論壇で繰り返し現れているのが、多神教が一神教を乗り越えるという意味での優越的置換主義である。代表的な例を一つだけあげておく。
    私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったように、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思います。狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほうがはるかによいのです(梅原 1995158)。

多神教の時代を「ジャヒリーヤ」と見なし忌諱するムスリムの目には信じがたいこととして映るであろうが、暴力的・独善的・自然破壊的な一神教の価値観は、平和・寛容で自然と共存する多神教的な価値観によって克服されるべきであり、それが人類に貢献する道であると考える人が日本には少なくない。これまでの議論に即して言えば、日本の多神教は、他の宗教に対する寛容な態度を持った多元主義の代表例と見なされていると言ってよいであろう。しかし、一神教の暴力性を止揚する平和・協調的な多神教という語りは、その趣旨に反して、偏見や憎悪を生み出す暴力的なディスコースへと転移する危うさを持っている。このようなディスコースの問題点については、すでに別の場で詳細に考察したので(小原 2005)、ここでは要点だけを指摘する。
 多神教を一神教に優位させようとするディスコースでは、一神教がオクシデンタリズムの中に配置され、多神教がリバース・オリエンタリズム(逆オリエンタリズム)の中に配置されている。ここでリバース・オリエンタリズムとは、歴史的な実像を離れた「表象」によって、外向き(西洋向き)の自画像を本質主義的に描こうとする傾向のことである。つまり、そこでは多神教は、しばしば、多様な実態を単純化(一元化)し、歴史的な文脈から遊離した抽象的実在として描写されている。多神教がいかに多元主義的な寛容さを主張したとしても、そのディスコース自体がオクシデンタリズムとリバース・オリエンタリズムの複合体として機能している以上、多神教の歴史的実相を隠蔽し、同時に、単純化され、偏見に満ちた一神教のイメージを再生産する危険性を免れ得ない。この日本流の優越的置換主義では、一神教世界とのコミュニケーションを取り結ぶことはきわめて難しいと言わざるを得ない。


5.結論
 多元主義モデルの問題点を、特に優越的置換主義の視点から論じてきたが、最後に、多元主義モデルでは、もっぱら否定的な位置を与えられてきた包括主義と排他主義の価値を再検討し、そこから導き出される今後の課題を示して、結論としたい。

1)包括主義の再考
 キリスト教の包括主義の場合、他の宗教の中に真理契機を認め、同時にそれをキリスト教的な真理の枠組みに統合しようとする特徴があった。このような包括主義は、他の宗教にも多く例を見ることができる。日本の新宗教の多くはシンクレティズムを好み、多様な宗教伝統を取り込んでいることを誇りとするような包括主義的性格を持っている。
 他の宗教に対する肯定的な関心をもつチャンネルを包括主義が確保していることを考えるなら、包括主義の立場を簡単に否定すべきではない。また、包括主義は、いずれの宗教も、自分たちの宗教言語や思考の枠組みの中でしか、他の宗教との関係を位置づけることはできないこと(通約不可能性)を端的に教えている。したがって、他宗教を理解する際の基本形として包括主義を評価すべきであろう。
 宗教の神学において提起されてきた課題を仏教の側で受けとめようとするものも最近出てきているが、それも包括主義を採用すべきモデルとして考えている。たとえば、キーブリンガー(Kristin Beise Kiblinger)は、仏教研究の中に比較宗教学的な視点はあるものの、宗教の神学に見られる排他主義、包括主義、多元主義を仏教の視点から分析することがきわめて少ない現状を認識した上で、仏教の文脈にもっとも適合性が高いと考えられる包括主義の意味を考察しようとしている(Kiblinger 2005,2)。
 日本の神仏習合は神と仏の双方向からの包括関係を成り立たせたものと言えるであろう。それを理論的に整えたのが本地垂迹説であるが、中世前期には仏本神迹の本地垂迹説が現れ、中世後期には神本仏迹の本地垂迹説が形成された。〈本源的なもの〉と〈その現象形態(化身)〉という区分とその理論化は、多神教や一神教という区別を超えて、かなり普遍的に見られる思想であるが、仏教と神道それぞれの視点からの本地垂迹説の展開が、両者の比較的良好な共存関係の基盤になっていたことは、その限界の認識と合わせて、積極的に評価してよいのではなかろうか(5)。明治政府により、神仏習合が破棄され、神仏分離が推し進められた。それは国家の近代化政策の一環として位置づけられたが、神仏習合という理論的後ろ盾を失い、突如として劣勢に立たされた仏教は、結果的に、キリスト教を含む他の宗教と同様、国家イデオロギーへの従順を競わざるを得なくなった。前近代において育まれていた神仏習合の包括主義は、近代において、国体との習合という包括主義に置き換えられていく。多元主義的立場から包括主義を棄却するだけでは、国家と宗教を絡めた複雑な関係を読み解くことはできないのである。

2)排他主義の再考
従来の多元主義モデルでは、排他主義という呼び名や、その代替名称にはネガティブなイメージがすり込まれているために、それらを一般的な文脈で用いることには慎重でなければならない。具体的な問題の分析のためには「総称」あるいは「他称」「蔑称」としての排他主義ではなく、それぞれの宗教思想や運動が持つ個別の「自称」を用いるべきであろう。排他主義であれ他の名称であれ、一般化の下に隠された細部の問題が、これまでの宗教の神学においては見過ごされることが多かったからである。そうした点を踏まえた上で、圧政や暴力的支配、文化的侵略に対する「抵抗勢力」として排他主義の意義を正当に評価すべきではないか。
キリスト教の場合には、近代主義の脅威の中でファンダメンタリストが誕生し、信仰の原点を確認する作業がなされた。他の宗教の場合も、近代化や世俗化に直面し、また植民地支配という経験を経ることによって〈ファンダメンタルなもの〉への探求が深まることが少なくなかった。そのような例として、イスラーム主義運動やインドのヒンドゥー・ナショナリズムをあげることができる。西欧的価値に基づく近代(モダン)を批判的にとらえ、その問題点を適切に指摘するためには、〈ファンダメンタルなもの〉を再発見し、そこに立とうとする立場(排他主義者)を、単に前近代的(プレモダン)として切り捨てることはできない。たとえば、ネグリ(Antonio Negri)、ハート(Michael Hardt)の次の言葉は、そのことを明瞭に物語っている。
    原理主義を定義づける反近代の衝迫は、したがってプレモダンではなくポストモダンのプロジェクトとして、よりよく理解されるだろう。原理主義のポストモダン性とは、何よりもヨーロッパ-アメリカによるヘゲモニーの武器としての近代性を拒絶するところにある――そしてこの点において、イスラーム原理主義はじっさいに範例的なケースである――ことが認識されなければならない(ネグリ/ハート 2003197)。

 原理主義と排他主義を完全に同一視することはできないにしても、排他主義者として分類される人々の中には、かなりの程度、リベラルな近代的価値に積極的に対峙しようとする、広い意味での原理主義者が含まれている。上の引用文中の「イスラーム原理主義」は、西洋近代を批判するポストモダン的位置づけを与えられているが、こうした問題の見方は、従来の多元主義モデルには、ほとんど存在していない。なぜなら、多元主義モデルの提起者のほとんどは近代的価値を共有する人々であるからである。したがって、「多元主義モデルは巧みにカモフラージュされているが、結局のところ、搾取的な西洋の押しつけなのではないか」という問いが、特に非西洋世界から出てくるのも当然と言えよう(Knitter ed. 2005, 28)。かつて非西洋世界は、西洋による文明化の恩恵を受けるべき対象とされたことを考えるなら、多元主義モデルが形成される、はるか以前から、帝国主義や植民地政策と結びついた西洋文明の中に、すでに優越的置換主義が内蔵されていたと言うことができる。多元主義モデルが、その亜流ではないことを示すためには、逆説的ではあるが、それがもっとも卑下してきた排他主義に対し、より繊細な眼差しを注がなければならないのではなかろうか。
排他主義を再考するということは、それを正当化する、ということではない。いかなる形であれ、排他主義が暴力と結びついた場合、それを正当化することはできない。しかし、ある特定の集団(たとえば「テロリスト」や武闘派集団)を追い詰め、排除するだけでは、問題を根絶できないことが多い。今日のパキスタンにおけるタリバーン勢力や、パレスチナにおけるハマスをめぐる事態の拘泥は、その典型的な事例と言える。暴力や紛争が続いている原因は、暴力的な集団にのみ存在しているのではない。暴力を単純に「外部化」してしまうのではなく、どのような内的要因が暴力を引き起こしているのか(構造的暴力)についての冷静な分析が求められる。ある集団を暴力的として排除するだけでは、なぜ暴力と結びつくのか、それを回避するために何ができるのかという問いの芽を摘むことになってしまうであろう。
先に「包括主義の再考」において、近代日本における宗教と国家との包括主義的関係について言及したので、ここではナショナリズムの興隆の中で、「排他主義的」集団がどのような働きをしたのか一瞥しておきたい。ドイツではナチスが台頭する中で、それに抵抗する「告白教会」のような勢力が誕生した。従来の宗教多元主義モデルでは、排他主義の代表格として引き合いに出されるバルトが、ナチズムに対し、もっとも先鋭的な神学的批判をなし得たのは偶然ではない。状況適応力の高い自由主義神学や、家族・民族・国家こそ神によって創造された特別の秩序だと考えた「創造の秩序の神学」などが、国家主義イデオロギーに迎合する中、バルトのような正統主義神学者や「告白教会」の群れは、バルメン宣言(1934年)に顕著に見られるように、国家の「絶対主義」が持つ神学的問題点をもっとも鋭く指摘したのであった。
翻って日本の場合はどうであったか。結果的に、ほとんどすべてのキリスト者が国家主義イデオロギーに引き込まれていくことになるが、1890年代に日本にもたらされた新神学もその例外ではなかった。新神学の柔軟な聖書理解や教義解釈が、時代の趨勢であったナショナリズムとの結合をも容易にしてしまった。それに対し、聖書に忠実であろうとした正統主義信仰の人々(排他主義者)の方が、新神学の自由主義者たちよりも、相対的にナショナリズムに対する免疫力を備えていたのである(宮田200372)。
多元主義的視点から見た「排他主義」は、時代錯誤的な態度として、もっぱら批判の対象とされてきたが、それがかえってナショナリズムという時代の潮流に迎合しない側面を持っていたことは正当に評価されるべきであろう。そして、宗教の神学は、諸宗教とその関係とを考察の主たる対象としてきたが、「宗教」に分類されない教育勅語、国民道徳のような「非宗教」の中にも、宗教に大きな影響と制限を与え、宗教の根幹を瓦解させていく力(擬似宗教的な力)があることを十分に認識しなければならない。

3)他者認識の検証――文脈化神学との総合を目指して
 包括主義と排他主義が有する意義ついて触れたが、もちろん、そのままで何の問題もないわけではない。注意すべき最大の課題は、自らの立場を無批判に正当化したり、絶対視してしまう罠からどのように逃れ出ることができるか、という点にある。信じるものに対して強い確信をもちながらも、同時に自らを絶対視しないために必要なのは「他者」の視線である。
ここで他者とは、単に自分以外の存在というだけでなく、本来自分の意のままにならない予測不可能・制御不可能な存在であると言える。神学的に言えば、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に〈他者性〉の起源でもある。それゆえ、神や人の〈他者性〉を顧慮しない者は、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性――偶像崇拝の危険性――を絶えず内包している。すなわち、他者の〈他者性〉を受け入れることのできない者は、他者を自己に従属させようとするのである。このような緊張の中で、氾濫する相対性に平衡をもたらし得る価値規範を我々は模索しなければならない。それゆえ、他者認識を曖昧にする優越的置換主義を前提とした多元主義モデルを、宗教間対話の最終ゴールとすることはできないのである。
 多元主義モデルは確かに西洋世界において多くの賛同者を得た。しかし、非西洋世界においても多元主義モデルと表裏一体の優越的置換主義があることを、近代日本の事例において確認した。また先のケース・スタディ全体を通じて考察したように、多元主義が内包する問題は、狭い意味での宗教研究に帰属するのではなく、近代とは何かを問う、具体的な政治・文化の理解や世界観にも関わっている。それゆえに、近代日本の形成期において、特にキリスト教が、どのような対象に対し、その〈他者性〉との対話を拒んだのかを考察しておくことは、日本において宗教の神学を展開する上で重要である。
明治の初期に「宗教」の対象外としてふるい落とされ、抑圧の対象となった〈民俗的なもの〉は、キリスト教にとって対話の相手であるどころか、単に「迷信」――キリスト教によって置き換えられるべき優越的置換主義の対象――に過ぎないか、あるいはそもそも関心の対象にすらならなかった。「宗教」の範型と自認したキリスト教が対話すべき相手は、たとえ敵対的関係であったとしても、自らにふさわしい「宗教」(仏教など)であるべきであったのである。今日「スピリチュアリティ」と呼ばれているものの日本様式の多くは、〈民俗的なもの〉にその歴史的起源を持っているが(島薗 20075965)、それらが宗教間対話や宗教の神学のテーマとなることはほとんどない。
 〈民俗的なもの〉は宗教対話の王道から見れば、些末なものに過ぎないであろう。しかし、〈民俗的なもの〉には、人々が生きる生活空間(土地)に根ざした「パトリア」(patria、郷土)が含まれていた。そして、個別のパトリアを切断することから成り立っている近代国家から見れば、このパトリアや、その現象形態としての〈民俗的なもの〉は、もっとも警戒すべき対象の一つであった。明治初期に、民俗信仰が開化主義の秩序を乱すものとして抑圧の対象とされたのは、その証左である。盂蘭(うら)盆会(ぼんえ)や盆踊りまでもが、禁止の対象になることもあった。民俗信仰が持っている、人々の欲求を解放する力は、権力の目からはあるべき近代的秩序からの逸脱と映ったのである(安丸 2007193-194)。
 つまり、近代日本のキリスト教が〈民俗的なもの〉を「宗教」にあらざる迷信として、ほとんど目もくれなかったことは、結果的に、土地に根ざしたパトリアとの多様な出会いを損ない、それらを超越した「想像の共同体」(アンダーソン 1997)としての国家に一体化することを急がせてしまった。戦後のキリスト教は、戦前への強い反省から、国家との関係を「反国家的」「非愛国的」な形でしか取り結べなくなってしまった。キリスト教が、この世における預言者的役割を担う限り、もちろん、こうした姿勢は十分な聖書的根拠を持っている。しかし、国家との関係性が否定的に固定化されることによって、戦後においても、日本のキリスト教はパトリアと対話する契機を見出すことなく現在に至っている。
 昨今世間を騒がせているスピリチュアル・ブームを、キリスト者の多くは羨望の眼差しで見るか、あるいは、侮蔑的な態度で切り捨てているのではなかろうか。スピリチュアルな語りが、単に人の好奇心を商業主義的に駆り立てているだけでなく、何かしら土着的霊性のパトリアを励起させているとすれば、そこに日本の神学の課題、そして宗教の神学が射程に収めなければならない問題群の一部が見えないであろうか。従来の宗教の神学に不可避的にまとわりついてきた、西洋的価値を中心とする優越的置換主義を積極的に相対化していくためには、宗教の神学を、非西洋社会のコンテキストにおいて解釈し直すこと、言い換えれば、宗教の神学と文脈化神学(contextual theology)を総合していく作業が不可欠なのである。それによって、宗教間対話や宗教の神学を優越的置換主義に陥ることなく成立させるための一つの道が見えてくる。
日本の文脈に即して言えば、それは「宗教間」対話を成り立たせるための種々の作法(類型論の考察)を突き詰めていくだけでなく、むしろ、「宗教」概念からこぼれ落ちてきたものが何であったのかを歴史的に遡及する道程である。この作業を軽んじて、いきおい「ポストモダン」や「ポスト多元主義」を語ることは、結局、一部リベラリストの嗜好を満たす新たな優越的置換主義を生み出すことつながりかねない。近代日本の「宗教」概念の外延の一方の彼方には、「宗教」を超越する秩序原理として位置づけられた国民道徳や天皇制イデオロギーがあり、もう一方の彼方には、そうした秩序原理に反する「迷信」として抑圧された〈民俗的なもの〉があった。近代において見過ごしてしまったこのような要素を射程に収めることのできる宗教の神学が模索されていくならば、それは「アジアの神学」に接合していく文脈化神学への貢献ともなるであろう。


(付記)
本稿は、2007年度 日本基督教学会 近畿支部会(2007329日、神戸女学院大学で開催)における研究発表「宗教多元主義モデルに対する批判的考察――「排他主義」「包括主義」の再考を通じて」を、大幅に加筆修正したものである。また本稿は、科学研究費補助金(基盤研究(C))「非欧米型宗教間対話と政治状況の相関関係――東アジア・中東を中心にして」(課題番号:18520056)の研究成果の一部である。




1「宗教の神学」で用いられる類型論とその現代的意味については拙論を参照(小原 2001)。本稿での議論も、それを踏まえて展開されている。
2 シュミット-リューケルは、従来の類型論に対する批判や代案を網羅的に整理した上で、これまで用いられてきた三つの類型論が、分類学的にはなおも十分な有効性を持っていることを、説得力を持って語っている(Schmidt-Leukel 2005)。
3 supersessionismに対する定訳はまだ存在していない。単に「置換主義」と訳すと、等価なものの(一時的)役割交代というニュアンスになりかねない。しかし、supersessionismはラテン語のsupersedere=to sit upon)に由来することからも推察できるように、明確に価値の優劣関係を前提とする置き換えを意味として持っている。したがって、ここではこの語に対して、さしあたっての訳語として「優越的置換主義」を用いる。
4 主な事件として次のようなものがあった。20069月、レーゲンスブルク大学(ドイツ)での講義内容がムスリムからの批判を受ける。「ムハンマドが新たにもたらしたものは、邪悪で冷酷なものだけだ」(14世紀のビザンチン皇帝を引用)という表現に批判の矛先が向けられた。なお、講義のテーマは信仰と理性の関係についてであり、西洋を理性の伝統の継承者と考えている。20075月、ブラジルでの発言が現地の人々からの批判にさらされる。「福音を説くことでコロンブス到達前の文化の自主性を奪ったことはなく、外国文化の押しつけでもなかった」「先住民は聖職者の到来を歓迎した」と語ったことに対し、「虐殺や奴隷労働の歴史を無視した」と批判を受ける。200777日、「1970年の改革以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発教令」を発表。ラテン語ミサの復活を目指す。これに対し、カトリック内部からも、第二バチカン公会議の精神に反するとして批判的意見が出る。2007710日、声明「教会についての教義をめぐる質問への回答」を発表。カトリック以外の教派は「適切な意味では教会でない」とし、WCC、ルーテル世界連盟、世界改革教会連盟などから批判・懸念の声が発せられる。
5 『宗教研究』第353号(2007年)は「神仏習合とモダニティ」の特集を組み、興味深い論考を多数掲載している。近代日本が排除しようとした神仏習合が、逆説的に、モダニティを相対化する契機となり得ることを、この特集は示唆している。


引用文献一覧

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小原克博 2001 「現代神学における宗教的多元性――グローバル化する世俗化社会の行方」、『宗教研究』第329号、221-245頁。
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島薗進 2007 『スピリチュアリティの興隆――新霊性文化とその周辺』岩波書店。
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