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研究活動

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「人格と尊厳をめぐる神学的・倫理的考察──古代世界の葛藤から現代の認知症まで」、『日本の神学』第51号、252-255頁

小原克博(同志社大学)

1 はじめに
 我々が日常的に使っている「人格」という概念は長い歴史を持っており、それゆえに多義的である。しかし、医療の現場、とりわけ終末期医療において、人格をどのように理解するかは、患者の延命の仕方にもかかわってくる重要な倫理的次元を有しており、人格およびそれに付随する「尊厳」について問題点を整理することは急務とも言える。特に、この問題が切実となるのは、認知症患者のケアに関してである。そして認知症の患者およびその家族にとって、もっとも悩ましい決断の一つが、胃ろうを設置するかどうかである。胃ろうの設置件数が日本ではきわめて多いのに対し、西洋ではそれがほとんどないことが知られている。医療技術そのものはユニバーサルなものであるが、医療技術をどのように適応するかに関しては、それぞれの国の価値観や法体系に影響されるので、技術論だけでなく倫理的な議論が欠かせない。本稿では、こうした課題に向き合うための準備作業として、西洋における人格概念の形成を素描し、人格概念を受容しながらも、日本社会において(西洋とは異なる)倫理的な問題点がどこにあるのかを考察する。また、一般的な医療倫理に対し、キリスト教神学から、どのような貢献が可能なのかについても示唆したい。

2 「人格」「尊厳」の歴史的変遷
 「人格」は西洋語のpersonの訳語として、日本社会においてすでに定着している。しかし、当の西洋において、この語が人間一般に対して使われるようになったのは、それほど遠い昔のことではない。啓蒙思想の人間中心主義の中で、特にデカルト以降、「人格」概念が広く使われるようになってきたが、それ以前、personと結びつけられてきたのは、もっぱら「神」であった。三位一体をめぐる議論に代表されるように、personとは何かという問いは、高度に神学的な議論に属していた。三位一体のそれぞれの位格(ペルソナ)を実体的にとらえるか、関係論的にとらえるか、という問いもそこに含まれており、これは今日の「人格」理解においても重要な意味を持っている。
  このように、今日に使われている意味での「人格」は比較的新しい概念であるが、それが含み持つ人間の「尊厳」について聖書が触れていないわけではない。一例として、「神の似姿」を取り上げてみよう。創造物語の中に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記一・二七)という表現がある。聖書は、古代オリエント世界にあった王の政治神学を素材として受容しつつ、それを換骨奪胎して、王ではなく、すべての人間の始祖であるアダムとエバに「神の似姿」を帰している。これは、当時の社会通念に対する大きな挑戦であり、王の政治神学に対する痛烈な批判である。特定の人間類型にではなく、人間一般に「神の似姿」を付与しようとする聖書の意図に、現代の「尊厳」につながる理念を認めることができる。
 こうした人間理解はユダヤ教だけでなく、キリスト教やイスラームにも引き継がれていく。神の前での平等、すべての人間がその立場にかかわらず、等しく尊厳を有しているという考え方が、一神教の伝統の中にはある。ただし、理念的に存在することと、それが現実の社会の中で実現していることとは、歴史的には分けて考えなければならない。
 特に西洋社会においては、キリスト教の伝統は、途切れなく受け継がれているわけではなく、啓蒙期を境にキリスト教から独立した社会制度が形成されていった。つまり、西洋社会の近代化・世俗化の中で、「人格」はキリスト教の教義とは切り離される形で、人間の尊厳の根拠として理解されていく。したがって、西洋社会の「人格」「尊厳」の理解は、キリスト教的な伝統と、それを否定して出てきた啓蒙期以降の近代的人間観の複合体として理解するのが妥当である。ただし、二十世紀後半以降、「人格」概念は、医療技術の発展の中で、その定義を大きく揺すぶられており、人格と人格を持たないものの間の境界設定の議論(パーソン論)は、ヒト胚から認知症患者に至るまで、なおも安定した答えを見いだしていない。

3 パーソン論をめぐって
 生命科学が発達することによって、身体に関する多くのことがわかるようになってきた。しかしその反面、今まで自明であったものが、不鮮明になる場合もある。その典型的なものが、人間の生と死の境界設定である。かつて、生と死に関する線引きは明確であった。ところが、ヒト胚は何週から人格や尊厳を認められるべきなのか、認知症の末期においても、なお人は人格を持っていると言えるのか、脳死は本当に人の死なのか等、今日では、身体のメカニズムがわかればわかるほど、簡単な線引きができなくなっている。こうした背景の中で、人格の境界設定をめぐる議論、すなわち、パーソン論も展開されてきた。
 キリスト教神学において、三位一体の神はパーソンであった。近代以降、人もパーソンとして認識されるようになった。ところが、パーソン論の一部には、人にとどまらず、動物にも人格性(パーソンフッド)を認めるべきではないかという議論がある。発達した神経系統を持っている動物は、喜怒哀楽の感覚を持っている。そのような存在に対し、それは「人格を持たないから殺してもよい」と言えるのか。人間が動物をどのように理解しているかは、人間理解、他者理解と表裏一体の関係にある。人間も、言葉を話すことのできない動物のような状態になる場合があるからである。十分な知性を持たないという理由で、人格の線引きをしてよいのかどうかは、倫理的に議論すべき課題である。これを認知症患者に当てはめて考えてみよう。
 「人格」概念を狭く設定することは、認知症患者の排除につながる。しかし、「人格」概念を無制限に拡大すると、限られた医療資源の中で、一切の延命治療(胃ろうの設置もその一部)が正当化され、促進されることになる。日本では、胃ろうの問題に異議を唱えることは長らくタブーとされてきた。患者の家族が医療関係者から胃ろうの設置を示唆された場合、それを断ることは、ほとんどできなかった。それを断るのは「どうぞ死なせてください」と言うのと、ほぼ同じと受けとめられてきたからである。しかし、この数年、状況は大きく変化しており、胃ろう設置が功を奏する場合もあれば、そうならない場合もあるということが、自由に議論されるようになってきた。
 パーソン論の一部に見られるように、「人格」を合理的な思考ができる自律した人間のみに認めると、認知症患者はその対象から外れていく。確かに、末期における理解力の低下、記憶の喪失は顕著であり、その中で、合理的思考を保持することのできる人格は「実体」としては存在しない。それでも、人間に尊厳があると言えるのは、家族をはじめとする人間社会こそが、尊厳という理念を補完することができるからである(人格の関係論的理解)。聖書において「神の似姿」としての尊厳が、神との関係性において成り立っていたように、今日における尊厳も、ただ一人の人間存在の中だけで充足しているのではなく、様々な関係性の中で補完され成り立っている。このような人格および尊厳の関係論的な側面に注意を払わなければならない。

4 自己決定権と個の倫理
 ただし、日本の医療現場では家族の論理が優先され、個人の自己決定権が軽視される傾向が強く、それが過剰な胃ろう設置の一因になっているとも言われているので、個人倫理(実体的人格)と家族倫理(関係論的人格)のジレンマについても考える必要がある。実体的人格と関係論的人格をどのように関係づけるかは、キリスト教にとっては、三位一体論論争以来の問いであるが、この古くて新しい問いに対し、キリスト教は何らかの示唆を現代社会に与えることができるであろうか。
 日本では、患者を個として見る視点、あるいは患者の自己決定権が十分に機能していない場合が多く、関係論としての家族倫理が圧倒的に優先されている。胃ろうの設置についても、本人が重度の認知症になれば、家族がそれを決定するしかない。事前に患者本人の意思を確認し、それを尊重するという精神はきわめて希薄である。個人倫理と家族倫理の両方が重要な要素を持っているが、今後の日本社会にとっては、個人倫理を重視しなければならないと考える。
 その神学的根拠は、イエスの倫理が徹底した「個の倫理」、個に強いまなざしを向ける倫理だという点にある。家族や地域共同体とのつながりや、因習的な人間関係ではなく、人間一人をどう見るかに、イエスは注意を促している。「見失った羊」のたとえ(ルカ一五・一─七)は、その一例である。西洋において、個人主義が発達し、自己決定権が重視される背景には、キリスト教の影響が多少なりとも存在するだろう。他方、わが国においては、儒教文化の中で育まれてきた家庭や共同体を優先する論理、世間体を過剰に意識する習慣が、最先端の医療現場において、なおも影響を与えているかもしれない。あるいは、人間と動物や自然との間に明確な線引きをしない日本の自然観・生命観が、人格の境界設定を無意識のうちに曖昧にし、結果的に、意味のない延命措置を多く生じさせているのかもしれない。
 しかし、そのような状況であればこそ、限られた医療資源の中で、生命の質、生のあり方を考える際に有益な「個の倫理」を、より明確に育んでいく必要があるはずである。これは、キリスト教が日本の医療に貢献できる貴重な倫理的指標となり得る。また、日本的な素材を受容しつつ、それを換骨奪胎し、世間体を重視する日本の「政治神学」に挑戦することは、聖書が求めていることではなかろうか。