研究活動

研究活動

パネル発表「祈りの公益性をめぐる試論──3.11によって照り出される「宗教」の境界」、日本宗教学会 第71 回学術大会 公開シンポジウム「ためされる宗教の公益」、皇學館大学、2012年9月7日

プレゼン資料(PDFファイル、472KB)

■発表要旨(日本宗教学会 第71回学術大会プログラムより)

祈りの公益性をめぐる試論──3.11によって照り出される「宗教」の境界

小原克博(同志社大学)

1.祈りとは何か
 祈りは、宗教や宗派(教派)の違いによって、その様相は大きく異なる。しかし、超越的なものへの希求、死者への哀悼など、形式的な違いを超える「普遍性」を有していると考えられる場合もある。たとえば、比叡山において毎年行われている「世界平和祈りの集い」では、平和という共通善は、宗教の違いを超えた祈りの対象になると考えられている。他方、「祈り」を必ずしも積極的にとらえず、その言葉を使うことに慎重な教団もある。教学上の理由から、浄土真宗では「祈る」ことをせず、祈りの場に招かれることにも慎重である。
 祈りを、宗教の違いを超える形で定義することができたとしても、それは抽象度の高いものにならざるを得ない。原爆記念日の黙祷や、大きな事件や震災の後に、公的な場で黙祷がなされる。しかし、黙祷を通じて、人々は何に対して祈っているのだろうか。ここでは、問題を抽象的に拡散させないために、キリスト教を参照軸として、祈りの公益性を考えたい。また、祈りの「公益性」を問うことから、そこで「宗教」がどのように理解されているのかについて批判的な検証を加えたい。

2.祈りと終末論──日常と非日常の裂け目から
 大きな苦難を個人的・集団的に経験した際に、信仰の違いや信仰の有無を超えて、祈りや、祈りにならない訴え・うめきが発せられるが、ユダヤ教・キリスト教の歴史的文脈の中では、「神義論」というテーマのもと議論が蓄積されてきた。大きな苦難とそれに続く祈り・うめきは、平静な日常の中でなされる祈りとは異なる、終末論的次元を有していると言い換えることもできる。リスボン大地震(1755年)は当時のスペインの政治・経済状況だけでなく、ヨーロッパの思想・神学にも大きな影響を与えたことで今もしばしば参照されるが、神義論的課題は、古くはヘブライ語聖書の「ヨブ記」にも例を見ることができる。また日本では、永井隆(1908-51)の原爆解釈(神の摂理としての原爆投下)が様々な議論を引き起こした。

3.祈りの「公益性」を考えるための事例──祈りの内的力学
 祈りが、ただ個人的な願望だけでなく、社会的側面(公益性に間接的につながる)をも含んでいることを、キリスト教の事例から紹介する。
1)主の祈り(マタイ6:9-13、ルカ11:2-4)
「御国を来たらせたまえ。御心の天になる如く地にもなさせたまえ」
2)ラインホルド・ニーバー(1892-1971)の祈り(Serenity Prayer)
神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
 「変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵」は、現代の日本社会における「公益性」への問いに直結している。原発再稼働をめぐるエネルギー政策は、両者の識別(境界設定)に関係している。祈りの視点から見た場合には、「公益」の内的力学として、現状を甘受すること(諦めの美学)と現状を変革することの間の緊張関係がある。

4.「公益」の範囲(境界設定)──祈りの外的力学
 上述の「公益」の内的力学に対応する外的力学は、公益の範囲をめぐって展開している。具体的には、政教分離(私的領域と公的領域の関係)の問題として顕在化してきた。たとえば、米国ではかつて公立学校で祈りがささげられていたが、1992年、公立学校の卒業式で牧師が祈りをささげたことが違憲とされ、それ以降も同様の訴訟が続き、公立学校での祈りは事実上禁じられていると言ってよい。しかし、アメリカでは、公的領域における宗教活動に対し比較的寛容である(例:faith-based initiativesに対する連邦予算支出)。それに対し、フランスのように、公的領域から宗教性を排除することによって「公益性」が成り立つと考える国々もある。つまり、境界設定のポリティクスを考えなければ、「公益性」を正しく対象化することはできない。
 その意味では、歴史的には祈りが必ずしも「公益」には向けられていないことも考慮すべき点となる。敵対するものを滅ぼすことも祈りの対象となり、また、「公益」は自らが帰属する集団の「公益」として理解されるからである。

5.テーマに対する批判的考察──「宗教」概念との関係で
 宗教が「公益」(=国益)と結びつくことを要求された時代があった。しかし、その時代以降、宗教と公的領域・私的領域の関係論が日本社会で十分に整理されてきたとは言えない。それゆえ、宗教や祈りが公益へと直結させられることにためらいを感じることがある。
 3.11以降強調されてきた公益性は「宗教」概念にも影響を与えているのではないか。公益性が「よい宗教」であるための条件とされ、多くの宗教が「公益」を味方につけようとする。しかし、祈りは包括的・世俗的な「公益性」を拒否する伝統をも有する。ニーバーの祈りに見られたように、祈りを通じて、「公益性」の分断された現実(識別困難な現実)に直面させられることもある。
 「公益性」をめぐる議論の一つに、私的領域と公的領域の区別がある。両者をどのように関係づけるかは世俗化論やポスト世俗化論の重要課題であるが、日本の文脈で「公益性」を問うことは、この課題への糸口を与えるのか、あるいは問題の隠蔽をはかることになるのだろうか。