研究活動

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講演「キリスト教の葬儀と死への向き合い方」、本願寺国際センターゼミナール(惠範講座)「葬送儀礼と現代」、本願寺国際センター、2014年2月21日

当日配付資料(PDF, 932KB)
KOHARA Podcasts で講演の後半(下記2章以降)聞くことができます。

1.キリスト教の葬儀

1)礼拝としての葬儀

 以下、「葬儀リーフレット」(日本キリスト教団出版局)より引用
■キリスト教葬儀とは
 キリスト教の葬儀には、3つの意味があります。
1「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11章25節)
 死を超えての希望、復活の約束が主イエスによって与えられていることをおぼえ、また神さまが故人を生前豊かに導いてくださったことを確認し、その神を賛美するために行います。
2「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)
 遺族に対する慰めと励ましのために行います。遺族に心からの共感をささげ、神さまからの慰めを祈ります。
3「生涯の日を正しく数えるように教えてください」(詩編90編12節)
 わたしたち自身も、いつかは死を迎えるという厳粛な事実をおぼえ、神から与えられた限りある命を省みるために行います。

 キリスト教葬儀は、死者を祭ることや、供養ではありません。礼拝の中で、遺体、遺骨、遺影などを拝んだりすることでもありません。死者をおぼえつつ、神への礼拝として行われることをご理解ください。
 こうした思いをもって参列していただければ、それは故人・遺族のためだけではなく、参列者自身にとっても、意義深い経験になることでしょう。

■キリスト教葬儀について
 教会によって多少の違いはありますが、キリスト教葬儀は、おおむね次のような内容を含んでいます。

讃美歌:神の恵みに感謝し、神の御名をほめたたえる歌です。讃美歌は参列者が皆で歌います。
聖 書:聖書全体の中から、特に悲しんでいる人を慰め、悲しみから立ち上がる希望と力を与える神の御言葉が、司式者により朗読されます。
祈 祷:神に対して語りかける言葉です。神の働きかけに応えて、私たちの想いを神に向けて注ぎ出します。
説 教:故人の生涯を想い起こしつつ、聖書の御言葉をもとにして死から復活されたイエス・キリストを信じて歩む生き方が説かれます。
弔 辞:故人に直接別れの言葉を述べるのではなく、故人の地上での歩みのうえに神の導きが注がれていたことをおぼえ、ご遺族と参列の方々に哀悼の意を表し慰めの言葉を語ります。思い出やお別れの言葉ともいいます。
頒 栄:神にすべての栄光を帰す歌です。
祝 祷:参列者一同に神の祝福が与えられるよう願う祈りです。終祷と表現することもあります。
アーメン:元来はヘブライ語の「確かである」という意味で、賛美歌や祈祷の最後に「そうなりますように」「本当にそうです」という思いを込めて唱えます。
献 花:故人を神格化して拝礼するためでなく、お別れのしるしとして行います。

2)葬儀の自由

 キリシタン禁制の間は葬儀の自由がなかった。1873年にキリシタン禁制の高札が撤去されるが、その後も葬儀問題は続いた。キリスト教による「自葬」は許されず、葬儀は神官僧侶によらなくてはならないとされた。つまり、葬儀に関しては、禁制の時代と変わらない状態が続いた。
 キリスト教の葬儀が認められ始めるのは、1884年の教導職の廃止以降(大教院は1875年に解散していた)。しかし、その後も、墓地を管理する寺院側が、各宗派が連合してキリスト教式埋葬を排斥する申し合わせを作っていた。死者儀礼が仏教によって独占されていた時代においては、実質的にクリスチャンにとって「葬儀の自由」はなかった。
(鈴木範久『信教自由の事件史──日本のキリスト教をめぐって』オリエンス宗教研究所、2010年、44-52頁)

2.死を取り巻く課題──死を畏れることと死を美化することの間

1)殉教──初期キリスト教、キリシタン迫害
 殉教者(μάρτυς〔ギリシア語〕, martyr〔ラテン語〕, martyr〔英語〕):元来は「信仰の証人」の意味。初期教会の殉教者は10万人程度、日本での殉教者は4万人から5万人と言われている。
 古代ローマ帝国下による迫害と結果としての殉教の記憶が、感情移入と追体験の対象とされ(殉教教育)、それが宣教師たちによって日本にも伝えられた(「マルチリヨの勧め」)。その教えを不幸にも具現化したのが、日本の殉教者たちであった。
【参考文献】佐藤吉昭『キリスト教における殉教研究』創文社、2004年。

2)メメント・モリ(memento mori 死を記憶せよ)
Holbein-death.jpg もともと郊外にあった墓地が、中世において教会の庭に移される。教会は、生と死の管理者としての役割を強めていく。
 12世紀に「煉獄」思想が形成される。地獄・煉獄・天国が死後生観に大きな影響を与える。
 14世紀、ペストの流行、「死の舞踏」(14-15世紀に流行した寓話・絵画・彫刻)。図は、ミヒャエル・ヴォルゲムート『死の舞踏』(1493年、版画)

3)死をめぐる神学的考察の一例──ディートリッヒ・ボンヘッファー
 僕は、宗教的な人間に向かっては神の名を口にすることをしばしばはずかしく思う。――なぜなら、僕にはこの場合、神の名が何となくいつわりの響きを持つように思われるし、自分自身がわれながら何か不誠実に思われるからだ(特にひどいのは、他の人たちが宗教的用語で話し始める時で、僕はその時ほとんど完全に口をつぐむ。何だかもやもやした感じになり、不決になるのだ)。――それに反して僕は、無宗教的な人に対しては、時おり全く安んじて自明なことのように神の名を口にすることがある。宗教的な人間は、人間の認識が(しばしば考えることをなまけるために)行きづまるか、人間の諸能力が役立たなくなると、神について語る。――しかしそれは、もともといつも、急場を救う機械仕掛ノ神(deus ex machina)だ。それを彼らは解決しがたい問題の見せかけの解決のためか、もしくは、人間が失敗した時の力として、したがって常に人間の弱さを食いものにしながら、つまり人間の限界の所で登場させる。したがって、そういうことが必要であり続けるのは、ただ人間が自分の力で限界をさらにいくらか押し広げて、機械仕掛ノ神が余計なものとなるまでに限る。だが、およそ人間の限界について語ることが、僕には疑問になってきたのだ。(人間は、今日もうほとんど死を恐れなくなったし、罪もほとんど理解しなくなった。だとすれば、死や罪はなお真の限界であろうか。)われわれは、そうすることによってびくびくしながら神のための場所をあけておこうとしていたにすぎないように、僕には思われてならない。――僕は、限界においてではなく真唯中において、弱さにおいてではなくて力において、したがって死や罪を契機にしてではなく生において、また人間の善において神について語りたいのだ。限界にぶつかった時は沈黙して、解決し難いことは未解決のままにして置くことがずっと良いように思われる。復活信仰は死の問題の「解決」であるのではない。神の「彼岸」は、われわれの認識能力の彼岸ではない! 認識論的超越性は、神の超越性とは無関係だ。神はわれわれの生活の真唯中において彼岸的なのだ。教会は、人間の能力の及ばない所や、限界にではなく、村の真中に立っている。それが旧約聖書的ということであり、その意味では、われわれはまだ新約聖書を旧約聖書から読むことがあまりにも少なすぎる。こうした無宗教的キリスト教がどのような外見を呈し、またどのような形態を取るかについて、僕は今、熟考している。近くそのことについてもっと書くことにする。今東と西の真ん中にいるわれわれにこそ、この点で、ある重大な使命が与えられることになるだろう。(1944年4月30日の書簡、E・ベートゲ編『ボンヘッファー獄中書簡集』新教出版社、1988年)

問い: 限界状況としての死(罪)の位置づけ、それを「食い物」(ビジネスの種)にする宗教のあり方について、どのように考えるべきか。

4)死者の顕彰という問題──殉教と殉国
 もし殉教の意味を、聖書本来の意味に解すれば、それは現在この大戦の真っ只中において、切実に求められているものと言わねばならない。聖書に従えば殉教とは、生命を賭して福音を立証することである。それはただ宗教闘争に死することばかりを意味しない。生命を賭して福音を立証することであれば、それはみな殉教である。今は国民総武装の時である。我々一国国民は、皆悠久の大義に生き、私利私欲を捨てて、ひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるにこの国難に殉ずるところにこそ、福音への立証があり、殉教がある。これは殉国の精神を要する時である。全国民をして、この精神にみたしめよ。
(論説「殉国即殉教」、『日本基督教新報』1944年9月10日。高橋哲哉『国家と犠牲』日本放送出版協会、2005年、190-191頁より引用)

問い: 尊いもの(集団や価値観)のために個人の死を正当化(美化)する「犠牲の論理」をいかに相対化することができるか。全体のために個を犠牲にすることの意義(利他主義)と危うさ(全体主義)を、どのように区別することができるのか。
参考: イエスの倫理(個への強いまなざし、個の倫理)。例:「見失った羊」のたとえ(ルカによる福音書15:1-7)
 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

3.まとめ

 葬儀および死が持つ個人的次元と社会的次元への洞察──宗教とナショナリズム、靖国問題

【参考文献】
小河原正道『日本の戦争と宗教 1899-1945』講談社、2014年。
小原克博『宗教のポリティクス──日本社会と一神教世界の邂逅』晃洋書房、2010年。