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研究活動

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論文「エネルギー問題をめぐる倫理的課題と宗教──持続可能な社会のための指針としての「不在者の倫理」」、『電気評論』第660号、10-15頁

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denki_hyoron.jpg1.はじめに──「電気学会行動規範」から

 エネルギー問題は、エネルギー消費のあり方、優先すべきエネルギーの種類などをめぐって、今日、重要な倫理的課題になっている。しかし、その課題に対し、宗教は何か寄与できるのだろうか。取り扱うべき問題は多岐にわたる。しかし、問題の細部に目を奪われるのではなく、それぞれの問題が、どのような人類史的な来歴を持っているのかを解き明かしていくことにより、我々が取り組むべき将来的な課題を俯瞰することができるはずである。科学的な世界観は、現代においては圧倒的な影響力を有している。しかし、その有益性を正しく用いるためには、科学を批判的に対象化する視点が欠かせない。宗教(宗教的世界観)がその一つとなり得るかどうかを本稿では論じてみたい。

 まずは、エネルギー問題において問うべき論点がどこにあるのかを「電気学会行動規範」を手がかりとして抽出してみよう。「電気学会倫理綱領」も別に定められているが、「倫理綱領」で示された指針を具体的に展開したものが「行動規範」と考えてよいだろう。「行動規範」は10項からなる比較的長文であるが、その趣旨は前文にまとめられている。倫理的に重要な部分を以下に引用する。

 

その一方で、急激な人口の増加を背景に、物質的に豊かな社会を追求する人々の願いを重ねあわせ、経済発展を優先した近代文明社会は、大量の資源・エネルギーを消費し、環境への負荷を増大させ続けてきた。エネルギー供給と人・物資の輸送等に関わる技術も、人々に多大な便益をもたらすのと引き換えに、大気汚染など地域的な環境問題から、気候や生態系への影響が懸念される温暖化など地球規模の問題にまで影響を与えている。(中略)このような中で電気学会会員は、電気技術の専門家としての自覚と誇りをもって、主体的に持続可能な社会の構築に向けた取組みを行い、国際的な平和と協調を維持して次世代、未来世代の確固たる生存権を確保することに努力する。

 

 ここでは、現状分析と問題解決の方向性が示されている。すなわち、近代以降、人間は大量の資源とエネルギーを消費し、それが地球規模の環境問題を引き起こしてきたのであり、その問題を解決するためには、次世代・未来世代の生存権を視野に入れた持続可能な社会を目指す必要があることが述べられている。現代社会の利便性と快適さを支える基幹エネルギーは電力であり、電気学会は、現代社会おけるエネルギー問題に向き合う倫理的責任があると言える。自然災害等によって電力供給が停止すれば、都市機能のほとんどが麻痺することを日本は繰り返し経験してきた。こうした電力依存型の社会形成、それに基づく資源・エネルギーの大量生産・消費(廃棄)、さらに、それが未来世代に及ぼす影響を推論し、対策を講じていくことの必要性は、「倫理綱領」や「行動規範」を見る限り、電気学会の中で認識されていると思われるが、問題は、その認識を一般社会にどのように波及させていくかにある。そして、それが本稿で考えたい課題でもある。

 大気汚染から地球温暖化に至るまで環境問題のすべては、人間のエネルギー消費と関係している(松木 2006: 58-65)。20世紀になってから人類はそれ以前と比べ桁違いのエネルギーを消費するようになり、その消費活動が地域環境や地球環境に看過できない影響を及ぼすようになった。そこで、このような変化がどのように引き起こされ、どのような影響をもたらしたのかを、日本における電気時代の幕開けとなった近代の事例を次に取り上げ、考えてみたい。

 

2.電気時代の始まり──日本近代史の教訓から

 19世紀末は、銅の需要が急増した時代であった。そこには、日露戦争等を通じて兵器製造という軍需の側面もあったが、それに並行して社会の電気化が進行したという事情があった。全国に電力網を張り巡らすために、大量の銅が必要とされたのである。

 日本の近代化を支えるために大量の銅の産出を支えた場所の一つが足尾銅山であった。当時、もっとも近代的な採掘機械を導入し、足尾銅山がその需要に応える中で、そこから有毒重金属を含む廃水が流れ、漁業・農業に甚大な被害をもたらした。いち早く、その問題の深刻さに気づいた田中正造は1891年、国会で政府の対応を批判したが、企業も政府も聞く耳を持たなかった。結果的に、1907年、足尾銅山近くにあった谷中村は廃村となった。谷中村は、日本の近代化、「富国強兵」の犠牲になったと言える。

 経済発展のために多少の犠牲はやむを得ないという論理は、今も大きく変わることはない。都会の莫大なエネルギー消費を支えるために、地方に原発が作られ、犠牲を強いられるのは、この論理に適っている。そして、経済成長によってこそ人や社会は幸せになれるという「成長神話」は、その経済成長を支える基幹エネルギーとして期待された原子力エネギーに対する「安全神話」を生み出すことにもなった。2011年の東日本大震災は、その「安全神話」を揺るがすことになったが、その後も日本のエネルギー政策は大きく変更されることはなかった。それが将来世代のためになるのかどうか、議論は尽くされていないが、問題の倫理的争点を見出すために、ドイツにおける対応を参照してみたい。

 

3.東日本大震災への対応──ドイツと日本の間から見えるもの

 ドイツのアンゲラ・メルケル首相はかつて物理学者であったこともあり、エネルギー効率の高い原子力に信頼を寄せた原発推進派であった。そのメルケルが大きな転換をするきっかけとなったのが、東日本大震災の直後に作られた「エネルギーの安全供給に関する倫理委員会」による報告書であった。この委員会は社会学者、哲学者、宗教家、政治家、科学者ら17名で構成されており、その中には、チェルノブイリ原発事故など、致命的な環境破壊をもたらす社会のメカニズムを分析した『危険社会──新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年、原著1986年)で知られている社会学者のウルリッヒ・ベックもいた。委員会は約2ヶ月の作業の後、5月30日、48ページの報告書「ドイツのエネルギー大転換──未来のための共同事業」(Deutschlands Energiewende: Ein Gemeinschaftwerk für die Zukunft)を提出し、その冒頭で「本倫理委員会は、ここに示したエネルギー大転換への対策によって、10年以内に原子力エネルギーの利用から撤退できると強く確信しています」(安全なエネルギー供給に関する倫理委員会、2013、20)と述べている。この報告書を受けて、メルケルは従来の態度を大きく変え、6月6日には、2022年までの原発の全廃を閣議決定した。

 この報告書において「倫理」は、「責任」「持続可能性」「世代間の公平」といった概念と常に結びついているが、報告書の結論に至る倫理的背景を、第4章「倫理的立場」の冒頭で次のようにまとめている。

 

問われているのは、人間の自然とのつきあい方、すなわち社会と自然の関係に関する問いです。キリスト教の伝統とヨーロッパ文化からは、自然に対するひとつの特別な、人間の義務が導き出されます。自然に対する人間のエコロジカルな責任は、環境を保存・保護し、自分たちの目的のために環境を破壊することなく、有用性を高め、未来においても生活条件の保障を維持できるようにめざすことにあります。したがって、後の世代に対する責任は、とくにエネルギー供給や、長期的あるいは半永久的なリスクと負担の公平な分配、これらと結びついたわれわれの行動の諸結果にまで、及ぶものです。(安全なエネルギー供給に関する倫理委員会、2013、40-41)

 

 ここでは、自然環境を将来世代のために保護しなければならない倫理的根拠として、「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」という二つの思想的潮流が挙げられている。それらについて明示的な説明が与えられているわけではないが、次のように理解することができるだろう。西洋のキリスト教には、人間が自らのために自然を利用(搾取)することは神から与えられた権利と考える人間中心主義的自然観がかつては強かったが、近年は、人間にはむしろ自然環境(被造世界)を保護する責務が神により与えられているという考え方が広く共有されてきており、それをここでは「キリスト教の伝統」と呼んでいる。「ヨーロッパ文化」は端的に言えば、啓蒙主義以降の、宗教の違いや有無を超えた普遍的な人権や尊厳を重視する、世俗的でリベラルな価値観や文化を表している。つまり、宗教的な伝統と世俗的な伝統のいずれの視点からも、将来世代のために自然環境を保護することは現代世代の責任であることが結論づけられているのである。

 ドイツと日本の電力供給システム(隣国関係を含む)はかなり異なるので、両者を安易に比較できないにしても、東日本大震災に対する対応の違いは何に起因するのだろうか。日本では、原発の是非はもっぱら技術的に安全かどうか、経済効率がよいかどうかを中心に論じられ、結果的に、既得権益を握る経済界・電力業界の意向が重視される。それに対し、ドイツでは、技術的・経済的視点だけではなく、将来世代への責任や、リスクと負担の公平な分配を含む倫理的視点を議論の中心に据えている(環境問題に関しては、「緑の党」などを中心にした長年の議論と運動の蓄積がある)。

 ドイツには原発問題に限らず、国が設置する倫理委員会の長い歴史があり、そこではES細胞研究、臓器移植、終末期医療など、生命科学に関係する問題も多く扱われてきた。その議論では科学に対する批判的な態度が常に伴っており、先端的な科学研究を単に正当化するためのアリバイ的な議論ではない。このような議論の背景には、戦前のドイツ、特にナチス時代において、当時の最先端科学の一つと見なされていた優生学に基づいて、精神障害者等の安楽死やユダヤ人虐殺を含む人種優性政策が実施されたことへの反省がある。そして、その反省が、安易な科学至上主義に対する批判的姿勢を育むことになったのである。

 日本の場合、こうした姿勢が十分に育つことなく、科学や技術は経済発展に不可欠の道具として称揚されてきた。それゆえ、「科学信仰」とも呼べる現況を、批判的に対象化する視点は決して十分ではない。それゆえ、そのような視点こそが、今、求められていると言えるだろう。また、ドイツにおける「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」とは異なる、日本の宗教的伝統と文化の中で、未来世代への責任はどのように根拠づけることができるだろうか。日本に限らず多くの先進資本主義国家では、科学技術の進展によって現代世代による資源とエネルギー消費が肥大化し、将来世代の資源やエネルギーを先食いしているかのような状況にある。こうした問題を考え、現代世代中心主義を抑制するためには、より広い歴史感覚に支えられたコミュニティ意識(世代間コミュニティ)が必要となる。それを踏まえた後に、日本の文化的文脈で問題を考える一助として「不在者の倫理」を提起したい。

 

4.コミュニティ意識の拡張

 膨大な情報に取り囲まれながら、しかしそれゆえに「記憶喪失」に陥りやすい現代社会において、世代を超えて、場合によっては何世紀にもわたって、出来事や記憶を継承する宗教的作法・儀礼は、潜在的に重要な価値を有している。これは宗教固有の力であり、どの宗教もそれぞれの「記憶の倫理」を持っている。過去の出来事、過去の不在者(死者)を記憶し、同時にそれらを現在化する作法を通じてこそ、未来社会への想像力と未来の不在者(将来世代)への責任意識を喚起することができるだろう。しかし同時に、我々のコミュニティ意識はきわめて限定的なもの、自己中心的なものであり、未来世代をそこに含み入れることの困難さも認識しておく必要がある。

 そもそも、倫理的な課題を考える上で、もっとも困難な問いの一つは、コミュニティの境界線をどのように引くかである。言い換えれば、等しい尊厳を持った「仲間」としての共同体の範囲の問題である。倫理学では、共同体の構成員や非構成員の「道徳的地位」(モラル・ステータス)をめぐる問いとして議論されてきた。そして、道徳的地位を持つ人々の共同体は「道徳的共同体」(モラル・コミュニティ)と呼ばれる(共同体が道徳的に正しいかどうかは関係ない)。たとえば、生命倫理学では、胎児や脳死患者の位置づけをめぐって、それぞれに道徳的地位を与えることの適否やその境界領域(時期)が問われてきた。ちなみに古代ギリシアにおいて、十全な市民的権利を有していた男性自由人から見れば、女性も奴隷も、ましてや動物は同じ「道徳的共同体」に属する存在ではなく、それぞれ境界線の外側で序列化されていた。

 社会階層、人種、性別、宗教の違いなどがコミュニティの内と外を分ける境界線として用いられ、異なるコミュニティ同士が敵対的な関係に置かれてきた。しかし、そうした差別を越えて、普遍的な人権や尊厳が20世紀になって模索されてきた。かつて、動物に尊厳を与えるなど、特定の宗教思想を除けば、問題にすらならなかったが、今日、動物に対する科学的な観察に基づいて動物福祉に関心が向けられるようになった。動物もまた「道徳的共同体」に入れられるべきではないかという議論が真剣になされているのである。

 そもそも、人間に限らず、生物は単独で生存することはできない。どの生命体も群れや共同体の中で自己保存していくが、共同体の大きさや働きは生命種によって大きく異なる。人間の場合、他の霊長類と比して大きく異なる特徴の一つとして、脳に占める新皮質の割合が高く、脳容量が大きいという点がある。また、新皮質の割合が、群れの大きさと正の相関関係を持つことが知られている。たとえば、チンパンジーの場合、群れのサイズは50頭が上限であり、新皮質の割合から人類の集団サイズを割り出すと150人となる(山極、2012、277)。人間が互いに仲間として認知できる生物学的な規模は、150人程度だということだ。ただし、即座に深い感情のやり取りができる「共鳴集団」の規模はもっと小さく、せいぜい10〜15人である。

 ところが、現代人は、100万人を越える都市で生活し、数え切れないほどの人とコミュニケーションする力を得ている。しかも、それはIT技術によって最近ようやく可能になった力ではない。すでに太古より、人間は言語の力により、150人をはるかに超える共同体を構成し、数千人規模の共同体ですら統率する力を持っていたのである。その際、宗教が大きな役割を果たしたことは言うまでもない。宗教は「過去の不在者」(死者)との向き合い方から、生者の今の生き方を照らし出し、「未来の不在者」(未来世代)への責任意識を喚起する可能性を有している。それが決して宗教的世界観に自閉するものではなく、科学的世界観とも接続可能であることを「不在者の倫理」として次に提起したい。

 

5.不在者の倫理──倫理の不在を克服するために

 科学技術によってもたらされる短期的なコストベネフィットの誘惑に現代世代は引き込まれやすい。近代社会は現代世代の人間の利益を最大化することを当然としてきたので、過去に対しても、未来に対しても倫理的な射程はきわめて限られている。科学技術に対する有効な批判とは、遠回りに見えたとしても、こうした倫理的閉塞に対する挑戦でなければならないだろう。

 急速に失われつつあるとはいえ、伝統宗教の多くは「過去の不在者」との対話の作法を有している。ローカルな場においてだけでなく、地球規模の持続可能性を考えるためには、まだ生まれていない「未来の不在者」に対する倫理的責任を欠くことはできない。これら過去と未来に向けられた別々の倫理的ベクトルを統合し、相補的に強化する視点として「不在者の倫理」(Ethics of the Absent)を考えたい。それは「過去の不在者」と「未来の不在者」を統合的に見、その中間存在としての「現在の存在者」(我々)を倫理的に止揚する倫理である(小原、2016、3-17)。

 過去の不在者と未来の不在者は対称的な関係にはない。過去の不在者から我々は様々な影響を受けるが、通常、我々の行為が過去の不在者に影響を及ぼすことはない(もちろん、影響を及ぼすという宗教的理解もある)。他方、我々の行為は未来の不在者の利害に直接的に関与する。現代世代が選択したエネルギー政策や消費行動は、未来世代の住環境や経済活動のあり方に大きな影響を及ぼす。

 「現在の存在者」の利益を最大化するために用いられる科学技術を、ただ現代世代の利害関係、現代世代の公共性・公益性の内部において批判するだけでは十分ではない。宗教がなし得る固有の働きは、「過去の不在者」にかかわる豊穣なリソースを活用し、同時に「未来の不在者」に対する想像力を活性化することを通じて、過去と未来に対する倫理的射程を拡大し、それによって現代世代に課せられた責任を喚起することであろう。

 不在者の倫理は、宗教的世界観(コスモロジー)のみに立脚しているわけではない。それは、この世界における存在は不在のものによって成り立っているという端的な事実を前提にしている。いくつか例をあげてみよう。

 宇宙の誕生・形成プロセスについては、今も宇宙物理学がしのぎを削って研究しているが、宇宙はおよそ138億年前にビッグバンによって始まったことが、もっとも有力な仮説となっている。ビッグバンの直後、物質と反物質が対生成し、そのほとんどは対消滅を起こし、エネルギーに転換された。しかし、最初期の混沌の中で繰り返された対生成と対消滅の中で、反物質だけが消滅するケースがあり、現在の宇宙を構成する物質が残った(「CP対称性の破れ」として研究されてきた)。哲学的な表現を用いれば、宇宙の存在は「不在のもの」を介して形成されている。

 38億年前、地球上で最初の生命が誕生し、より原初的な段階から多様で複雑な生命体を地球環境は生み出してきた。マクロな視点で生命現象を見れば、食物連鎖に代表されるように「食べる」「食べられる」という連鎖の中で生命は自己保存と繁殖をなしている。生きているものは、無数の「不在のもの」の上に成り立っている。またミクロな視点で見ても同様のことが言える。細胞レベルでの死のメカニズムは、一般的な死・ネクローシス(細胞の壊死necrosis)と区別され、アポトーシス(細胞の自死apoptosis)と呼ばれている。特定の細胞が遺伝子によってプログラムされた死を経ることにより、細胞の集合体がより複雑な組織・器官へと分化していくのである。細胞レベルの生命現象もまた「不在のもの」の上に成り立っている。

 今存在しているものが、かつて存在し、今や不在となったものによって生成されているという端的な事実は、あまりにも当たり前すぎて、我々の日常の中で意識されることはない。しかし、そうした事実に、伝承や非日常的な世界観を媒介として、光を当てるのが宗教の役割の一つであり、また、そうした事実に分析的・実証的な世界観から光を当てるのが科学の働きである。その意味で、不在者の倫理は、宗教的コスモロジーと科学的コスモロジーを架橋し、両者の相互補完・相互批判的な関係を構築することを目的としている。

 「現在の存在者」の利益を最大化するように構築された現代の社会システムを相対化することは容易ではない。我々はその一部に組み込まれているからである。しかし、科学的知見や宗教的な知見を手がかりとして、今ある存在が「不在のもの」によって構成されていることを認識し、「過去の不在者」との相互関係を「未来の不在者」への責任へと転換することは可能である。死者とのコミュニケーション作法は、どの文化・宗教にも存在するが、日本の場合にも、地域や時代によって異なる多様な作法が存在していた。自然や動物との関係も、大陸とは異なるユニークな側面を見出すことができる。日本には、動物と人間の関係を語る昔話が多数存在するが、動物が人間と会話を交わしたり、時には化かしたり、また結婚したりする昔話は日常の一部となっていた。人間が動物を犠牲にしなければ生きていないことに対する痛みと感謝をおぼえる回路を、昔の人は持っていた。そして同時に、農耕文化に生きる人々は、世代を超えて維持・保存していかなければならない資源や環境があることを熟知していた。社会の産業化の中で、こうした伝統の多くが失われたとはいえ、先述のドイツにおける「キリスト教の伝統とヨーロッパ文化」とは異なる何かをあらためて対象化し、再解釈することによって、それを日本の宗教的・文化的伝統に根ざした価値判断、エネルギー政策の指針に結びつけることは可能であるし、そのような道を模索しなければ、「地に足の付いた」合意形成をなしていくことは難しいだろう。

 

6.技術倫理への応用

 最後に、これまで論じてきたことは、技術倫理にも応用可能であるという一例を示したい。

 コミュニティの境界線の一つに動物と人間の違いがあったが、その境界線も現代ではかなり相対化されていることを先に述べた。それと並行する議論が、人間と人工物の間の境界線として存在していた。人間が作り出したものが、人間と同じコミュニティ(道徳的共同体)に属するのかどうか、という議論は長い歴史を有している。作り出したものに感情移入し、モノ以上の存在感を感じてしまうのも人間に普遍的な特性である。

 ギリシア神話には、キプロス島の王ピグマリオンが理想の女性(ガラテア)の像を刻み、その彫像に対する愛情が高まる中で衰弱していき、その姿を見かねたアフロディーテが像に命を与え、ガラテアがピグマリオンの妻となったという物語がある。ピグマリオンほどではないにせよ、人工物を擬人化し、気遣いをする心性は、けなげに働く掃除ロボットに感情移入する現代人にまで引き継がれている。

 また、ユダヤ神秘主義の重要文献『セーフェル・イェツィーラー(創造の書)』の読解を確認するために、土から人造人間(ゴーレム)が造られたという説話が、中世ヨーロッパで広まった。ゴーレムは人間と呼ぶに値するのか、また、ユダヤ共同体に入れるべきなのかが議論された。ゴーレムは、ユダヤ共同体を越えて、人造人間の文化的アイコンとして拡散していったが(金森、2010)、そのことは人造人間への関心や恐怖がいかに強いかを物語っている。

 かつては、石や土から疑似人間的な人工物が作り出されたが、現代ではそれは電気仕掛けのロボットやAIが同等の役割を果たそうとしている。電気的なものが人間的な知能やインターフェースを具現化しつつある最先端の姿がAIだと言えるだろう。自由意志を持った汎用型AIが誕生するのかどうかという議論もそこには関係している。特定の目的のために設計された他律システムとしての特化型AI(現在のAI)と異なり、自律システムとしての汎用型AIは、「不在者」の世界から「存在者」の世界へと越境してくる可能性を持つ。しかし、「不在者」の「存在者」の世界への越境行為は決して新しいことではなく、むしろ、両者のコミュニケーション作法に関して、我々は膨大な蓄積を有していることを思い起こすべきだろう。

 歴史的にコミュニティの境界線が可変的であり、越境可能であることを考慮すれば、人間と人工知能を自律システムか他律システムかで区分し、人工知能の道徳性(尊厳)を排除することに安住すべきではないだろう。むしろ、人間と人工物(技術)の根源的な相互浸透性を視野に入れることのできる価値規範こそが求められるのである(フェルベーク、2015)。

 今後、AIはエネルギー消費の最適化にも深く関係してくることが予想される。人工物も視野に入れた「地に足の付いた」技術倫理を構築していくためには、我々の足元にある宗教・文化的伝統への関心を喚起し、同時に、科学的世界観から人間存在を俯瞰することのできる新しい統合的な知恵が必要なのではなかろうか。本稿では、その手がかりとして「不在者の倫理」を提起したのである。

 

【参考文献】

安全なエネルギー供給に関する倫理委員会『ドイツ脱原発倫理委員会報告書──社会共同によるエネルギーシフトの道筋』(吉田文和、ミランダ・シュラーズ編訳)大月書店、2013年。

金森修『ゴーレムの生命論』平凡社、2010年。

小原克博「不在者の倫理──科学技術に対する宗教倫理的批判のために」、『宗教と倫理』第16号、2016年、3-17頁。

フェルベーク、ピーター=ポール『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』(鈴木俊洋訳)法政大学出版局、2015年。

松木純也『基礎からの技術者倫理──わざを生かす眼と心』電気学会、2006年。

山極寿一『家族進化論』東京大学出版会、2012年。