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研究活動

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「パンデミックとキリスト教──神学的諸問題」、『福音と世界』2020年11月号、6-11頁

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fukuintosekai202011.jpg1.歴史をたどる──因果への問い

 新型コロナウイルスの感染拡大は、人々の健康状態だけでなく、社会構造にも大きな影響を与えた。感染症に限らず、地震や津波などの災害も、多くの人の命と生活に影響を与え、また、いずれも自然災害(天災)と人災の複合体となり得ることを、我々はすでによく知っている。
 ヘブライ語聖書には、戦争・飢饉・疫病が、大量の人の命を奪う災厄として繰り返し言及されている。そして、いつの時代も「なぜ」という因果への問いかけがあり、神学的には後に神義論と呼ばれる議論が重ねられてきた。
 新約聖書にも因果への問いは見受けられる。天災あるいは人災の犠牲者に対し、当時の人々は因果を問うたが、イエスの答えは次のようなものであった。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・4─5)。また弟子たちが、生まれつき目が見えない人がそうなった理由を、本人あるいは両親が罪を犯したからと問うた際、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と答え、弟子たちが立っている論理の外部に、神の業を示したのであった。
 悲惨な事態を天罰として説明しようとする人々は、今でいう「自己責任」の代弁者であった。悪いことをしたら、その報いを受けるのは当然だ、という考えは実に腑に落ちやすく、共感を得やすい。しかし、イエスは、その裁きの論理の外側に出ること、そして同時に自らの内面へと深く目を向けることを求めたのではなかったのか。
 ところが、後のキリスト教は必ずしも因習的な因果論から自由になることはできなかった。人を裁くための原因探しに熱心であった時代すら存在したが、それは異端裁判や魔女狩り、十字軍に限らない。14世紀ヨーロッパにおけるペスト流行の時代、その流行に勝るとも劣らぬ勢いで広がっていったのがユダヤ人元凶説であった。ペストを流行させた原因と見なされたユダヤ人たちの処刑を多くのクリスチャンが望み、町によっては、ユダヤ人ゲットーが丸ごと殲滅させられた。そうした人々はキリスト教的正義を実行していると信じて疑わなかったのである(村上、一九八三、一三九─一四七頁)。自らは正しいことをしていると信じている人によって行われている悪を、どのように受けとめることができるのだろうか。
 善意と悪意をめぐる、この問いは、アルベール・カミュの代表作『ペスト』においても取り上げられているが(カミュ、一九六九、一九三頁)、ここではまず、カミュが登場人物の一人、イエズス会の司祭パヌルーに天罰を語らせていることに触れておこう。ペストが蔓延した後に行われた最初の礼拝でパヌルーは「皆さん、あなたがたは禍いのなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります」(同、一三七頁)と語り始める。そして、それが終わったとき「この説教はある人々に、それまではおぼろげであった観念、すなわち自分たちは何か知らない罪を犯した罰として、想像を絶した監禁状態に服させられているのだという観念を、一層はっきりと感じさせたのである」(同、一四五─六頁)とカミュは述べる。架空の説教ではあるが、無神論者カミュのキリスト教に対する繊細な観察眼を感じさせられる。

 
2.現代における責任論──宗教から科学へ?

 もっとも、現代のリベラルなクリスチャンは、新型コロナウイルスの感染拡大を天罰などとは考えない。しかし、広く宗教界を見渡せば、この事態を天罰あるいは天意ととらえ、道徳的教訓を引き出そうとする動きは決して少なくはない(日本の状況については、藤山、二〇二〇)。では、一般社会は、かつてあったような因果論から、今や自由になっているのであろうか。
 日本では感染者が出るたびに、感染者探しがなされ、また、糾弾する声が絶えない(特に小さな町や村では深刻である)。文部科学省は8月25日、新型コロナウイルス感染症による差別・偏見の防止に向け、児童生徒や学生、学校関係者、保護者や地域住民などに向けたメッセージを発表した(文部科学省、二〇二〇)。こうした注意勧告を文科省が出さなければならない状況は、現代人の精神性が14世紀ペスト蔓延の頃と大きくは変わっていないことを示している。
 とはいえ、明らかに変化している部分もある。京都の祇園祭は、例年、10万人を超える見物客が集まる夏の風物詩であるが、今年は山鉾巡行が中止となった。祇園祭は平安時代に疫病が流行したとき、疫病退散を願った御霊会が起源となっている。起源に即して言えば、今年こそ盛大に疫病退散を祈願すべきであったのかもしれないが、「疫病退散を本義とする祭りで、病人を出しては本末転倒だ」というきわめて現実的な理由により中止が決定された。一言で言えば、宗教的な祈願より、密集を避けるべきという科学的知見が優先されたのである。感染症の拡大という状況の中で、宗教や神学は出る幕があるのだろうか。
 宗教より科学に信頼を置くのが当然とされる時代の中で、確かに感染症に対する見方は大きく変化した。科学や医学こそが、病の因果を明らかにしてくれるのである。しかし、世の不条理は決してなくなることはなく、科学は(そして宗教も)それに対して明快な回答を持ち合わせてはいない。また、今も変わることなく、自己責任や責任追及の論理から逃れることのできない人間心理を我々は目の当たりにしている。こうした人間の実態を冷静に見据えることは、パンデミック時代における神学的営為の大前提となる。

 
3.不条理への対向

 危機的状況の中では、特に宗教的でない人も、日常の裂け目から非日常を見たり、日常の中で意識しなかったことを改めて認識する。その一つは、我々の日常が管理や制御の行き届いたものであり、また、それゆえに予測可能なものであったということである。制御することもできず、正確な予測も難しいウイルスの感染拡大に、安全と健康を脅かされる中で、我々の「生」が根源的に偶然や不条理にさらされていることを垣間見たのである。
 先に挙げたカミュもまた、時代の不条理のただ中にありながら、人間がいかにそれに抵抗し、自由であり得るかを問い続けた。カミュと同時代に生き、同じく抵抗の精神を持った人に、ディートリヒ・ボンヘッファーがいる。無神論者カミュは、不条理からの救済を、決して彼岸や超越的な解決の中に求めなかった。ただの人間として誠実に生きる様々な姿を『ペスト』の中でも描いている。一方で獄中にあったボンヘッファーは「非宗教的キリスト教」という着想を得る中で、「われわれは──「タトエ神ガイナクトモ」──この世の中で生きなければならない。このことを認識することなしに誠実であることはできない。そしてまさにこのことを、われわれは神の前で認識する! 神ご自身がわれわれを強いてこの認識に至らせ給う」(ベートゲ、一九八八、四一七頁)と記した。
 カミュとボンヘッファーの、おそるべき近さをどのように受けとめたらよいのだろうか。『ペスト』の主人公とも言える無神論者の医師リウーが、見解をまったく異にしながらも、ペスト最前線で共に戦う同労者のパヌルー神父(彼はペストを天罰として語ったが、後に態度を変えていく)の手をとり語りかけた、冗談めいた言葉は興味深い。「神さえも、今ではわれわれを引き離すことはできないんです」(カミュ、一九六九、三二四頁)。医療と宗教という異なる領域のすれ違いと邂逅が、新たな神認識を強いている。
 この課題を現代において受けとめようとするなら、科学と宗教のどちらに信憑性があるのかという問いの立て方は間違っていることに気づかされる。いずれの一方も他方の代わりをすることはできない。伝統的な神義論では「(全知全能の)神がいるとすれば」という前提に立って、この世の不条理の形而上学的な説明へと向かう。しかし、カミュとボンヘッファーが垣間見たのは、「タトエ神ガイナクトモ」誠実な行動へと向かわせる実践の地平である。科学では説明できない不条理や限界状況においてのみ宗教を登場させるべきではない。それでは科学的知見を備えた「成人した世界」(ベートゲ、一九八八、三七八頁)において、宗教の出番は極小化していくしかないだろう。
 科学も宗教も、単独では、応報的な因果法則に基づいた自己責任論に支配されやすい。その論理が破綻する地平に立つことによって、支配されていることをようやく認識できる。イエスのたとえは、常識的かつ支配的な因果法則を破綻させる力を持っていた。たとえば、「ぶどう園の労働者のたとえ」(マタイ20・1─6)は、我々の日常的な因果を超えた神の愛を示している。このたとえでは、丸一日働いた者が一時間しか働いていない者と同じ賃金しかもらえず、不平不満を言っている。応報的な因果法則に従えば、その異議申し立ては理に適っている。しかし、そうした論理では計ることのできない神の「気前のよさ」、神のラディカルな愛が、このたとえ話のテーマとなっている。言い換えるなら、イエスのたとえは、応報的な因果法則や自己責任論に縛られている人々を解放する力として立ち現れている。この力は、リウー医師とパヌルー神父が手を取り合ったように、医療と宗教という異なる領域を邂逅させ、新たな神認識へと我々を導く駆動力となり得る。そして、その力はこの世の不条理に誠実に対向する中で顕現するという意味で、地に根ざした根本的(ラディカル)な挑戦となっている。

 
4.バーチャル空間の拡大に対して

 新型コロナウイルスの感染拡大がもたらした社会環境の大きな変化として、人との会食を控えることや、ビジネスや教育の急速なオンライン化をあげることができる。教会では、礼拝のオンライン化が急速に広まり、オンライン聖餐式も行われている。これらは、ウイルス感染拡大防止のための緊急的な措置ではあるが、共同体験としてのオンライン対応は、ポスト・コロナの近未来社会に間違いなく影響を及ぼすだろう。礼拝のオンライン化にとどまらず、こうした社会の変化としっかり切り結ぶことのできる神学的英知が、今、求められていると言える。
 各種のミーティングや大学での授業をはじめ、オンラインでのやり取りが急増し、バーチャル空間での滞在時間が長くなる中で、我々の身体は新しいバランス感覚を必要としている。そして、避けがたく拡大するバーチャルな世界を批判的に対象化しつつ、それを包摂することのできる新しい世界観(コスモロジー)が求められている。
 そもそも、「バーチャル」という概念は、中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入された。彼は、物はその属性(特徴)を形式的にではなく、バーチャル(潜在的)に含んでいると主張した。つまり、リアルを、潜在能力であるバーチャルの現れと見なすことで、リアルの本質を省察できるようになると考えたのである。現代においてバーチャルは「仮想的」と訳されることが多いが、語源的には「仮想」以上の実体的・能動的なニュアンスを持っている。また、「見える教会」(現実の教会)と「見えない教会」(「キリストの体」としての教会)という区別は、リアルとバーチャルの間で展開されるダイナミズムを前提にしている。聖餐論争においても、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血がどの程度リアルに存在しているかを論じて思索が重ねられていったのである。このように、時代を先取りするような思考過程がキリスト教の中には無数に存在している。コロナによって半ば強制的にもたらされた変化によって、そういった遺産を歴史の夾雑物の間から解放し、新たに活性化することもできる。
 また、感染防止の一環として食事作法にも大きな制限が加えられている今日、それを「食」の意義や問題を根本的に問い直す機会とすべきだろう。オンライン聖餐式やオンライン飲み会など、新たな共食の作法が模索されているのは興味深いが、それによって「共食」の伝統や、そこに刻まれた身体経験が完全に代替されるわけではない。オンラインによって代替し得ないものが何なのかを探究するための最適な事例が「食」であると言える。何を食べ、何を食べるべきでないか、誰と食べるのか、といった「共食」の作法は主として宗教によって担われてきた。そして、宗教的・文化的アイデンティティは、食べ物の中に埋め込まれており、また、食べること、あるいは、食べないことを通じて表現されてきたのである。
 バーチャル空間で人は飢えや渇きを満たすことはできない。「食」なしに、人間は身体を維持することができない。また、食物の形で低エントロピー(乱雑さの程度が低いもの)の物質を体内に取り込み、高エントロピーの老廃物を排出することによって、身体内のホメオスタシス(恒常性)を維持しているという点では、人間は他の動物(生物)と何ら変わるところはない。分解と合成の流れを維持し、身体的同一性を保つために必要な「食」は、すべて地球環境が生み出したものであり、食の圧倒的多くは「大地」に関係している。
 しかし、これらの基本要件を西洋キリスト教は正当に取り扱ってきたわけではではなかった。むしろ、精神の身体に対する優位性を語り、人間の動物に対する優越性を大前提とし、自然の支配者としての人間を当然視してきた。しかし、感染症と人類が今後も戦いつつ、共生を続けていかざるを得ないことを覚悟すれば、人間の身体性や動物性、さらには命や食を生み出す大地への再評価を欠くことはできない。端的に言えば、身体性・動物性・大地性を統合する世界観の再構築が必要なのであり、その基盤として「食」の神学を考えることは、新奇な好奇心の発露ではなく、むしろ、神学そのもののあり方を問い直すことになるだろう。
 ただし、食の規範に拘束されない自由を誇ってきたプロテスタントは、その代償として、食に対する繊細な感覚を失ってしまったことを自覚しなければならない。プロテスタントは現状では周回遅れとも言える位置にある。非宗教的であったとしても、「倫理的消費」の理念に基づいて、新たな自己形成をしようとするビーガン(完全菜食主義者)のような人々は、伝統宗教より、はるかに急進的な感覚を有している。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリも、そうした人々の中から生まれてきた。食が気候変動に及ぼす影響が今や明らかにされつつある。食はもはや個人的な行為にとどまらないことを、イエスとの「共食」を信仰の原体験とするキリスト教は、より積極的に受けとめるべきなのである。

 
5.創造的休暇──安息日の現代的意義

 コロナの感染拡大がもっとも大きな打撃を与えたものの一つが経済活動であった。物流や人の動きが止められることによって、多くの産業が苦境に立たされた。しかし、経済成長を至上の価値として、立ち止まることを怠惰と見なす資本主義的道徳の中にあって、幼少期から、ひたすら目的に向かって走らされてきた多くの人々が、一時的とはいえ、立ち止まる時間を与えられたことの意義は大きい。
 17世紀、イギリスのペストがもたらした大きな副産物として語り継がれているエピソードに、ニュートンの「創造的休暇」がある。ニュートンはペストで休校中の大学を離れ、故郷の田舎に帰ったときに科学史上の重要な着想を得たと言われている(村上、一九八三、一八〇─一頁)。都会とは異なる、ゆったりとした時間の流れの中で創造的な着想を得たというこの物語は、現代において、そのままの形で再現することはできないにしても、コロナ下の我々に示唆するものがある。
 日本では、勤勉の美徳が邪魔をするのか、休むことへの罪悪感はなおも根強く存在している。それゆえに、休むことの積極的意義、さらに言えば、その創造的意義を、聖書が示す安息日の視点から力強く提示することは、今後の社会に対し重要な貢献となる(小原、二〇一八、二七一─八〇頁)。幼い頃から、立ち止まり「休む」ということの積極的意味を味わうことなく大人になっていった場合、繰り返す日常を、その外部に立って批判的に見つめる目を養うことは難しい。コロナ下であろうとなかろうと、不自由への忍耐を要求する世界に隷従することなく、複数の世界(たとえば、リアル世界とバーチャル世界)を渡り歩く自由は、充足した安息の内にこそ宿るのである。

 
6.最後に──終末論的課題を抱えて

 ポストコロナの時代を迎えたとしても、次のパンデミックが待ち構えている。グローバルな人口移動・人口集中・人口増加・自然破壊が続く限り、パンデミックが途絶えることはない。その意味で私たちはインター・パンデミック時代を生き続けなければならない。「中間の時間(時代)」をいかに生きるかは、キリスト教神学、とりわけ終末論にとって重要な問いであり続けてきた。終わりはいまだ到来しないが、それを先取りする出来事をイエスの生涯と復活の中に見るとき、私たちは困難の中に希望を見出し、弱いときこそ、強いという逆説的な生へと招かれる。今の時代のパンデミックは、私たちをまだ見ぬ世界へと強制的に投げ出す終末論的契機であるのかもしれない。

 
【参考文献】

カミュ、アルベール『ペスト』(一九六九)『ペスト』(宮崎嶺雄訳)新潮文庫。
小原克博(二〇一八)『ビジネス教養として知っておきたい 世界を読み解く「宗教」入門』日本実業出版社。
藤山みどり(二〇二〇)「新型コロナに対して宗教界はどう対処せよと説いたか?」(https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=8111
ベートゲ、エバハルト編(一九八八)『ボンヘッファー獄中書簡集』(村上伸訳)新教出版社。
村上陽一郎(一九八三)『ペスト大流行──ヨーロッパ中世の崩壊』岩波新書。
文部科学省(二〇二〇)「児童生徒等や学生の皆さんへ」(https://www.mext.go.jp/content/20200825-mxt_kouhou01-000009569_1.pdf