研究活動

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「『神の像』に関する一考察――フェミニズムとエコロジーへの応答」、『日本の神学』第37号

Ⅰ 問題の所在
 現代社会において人間理解は大きく揺らいでいる。新たに現れた様々な価値観や思想が、伝統的な人間理解に疑問を投げかけているからである。キリスト教の人間理解も例外ではない。特にキリスト教信仰は、人間は神に似せて創造されたという聖書の表現から大きな影響を受けてきたので、今日においても人間とは何かと問うとき、いわゆる神の像(imago Dei)への考察を欠くことはできない。それゆえ、われわれに求められているのは、神の像に基づく伝統的な人間理解を再評価すると共に、現代社会に対してある種の倫理的指標を与え得る神の像を考察することであると言える。
 そのような作業を進めていくために、一方では聖書テキストに即して神の像のリアリティに迫っていく釈義が必要とされ、他方では、その神の像理解がキリスト教世界に必ずしも限定されない人間論の広がりを生み出すことが求められている。神の像という概念が、自己完結した、ただキリスト教の内部でのみ理解可能なものなら、それは文化の相違を越えて人類全体に及んでいる諸問題におそらく対処できないであろう。臓器移植やクローン技術が潜在的にはらんでいる問題性、あるいは自然環境と人間との関係、性差別の問題などは、いずれもある特定の文化圏の中だけに閉じ込めておける事柄ではない。しかも、このような現代的諸問題の背景にこそ、それらを通底する形で神の像理解が潜在的に作用しているとすれば、そのことへの洞察をおろそかに

することはできないであろう。
 そこで、これらの問題を考える端緒として、本論文では、キリスト教の人間理解にしばしば批判的な問いを投げかけてきたフェミニズムとエコロジーの視点を考慮に入れ、それらに対する応答として神の像が何を語り得るのかを考えることにする。


Ⅱ 神の像理解をめぐる諸問題
 キリスト教神学が神の像として解釈の対象としてきたのは、主として創世記1章26―27節にある表現である。もちろん、キリスト教は神の像に関するこの祭司資料の表現を、パウロやパウロ以降の新約文書の文脈の中で読んできた。つまり、イエス・キリストこそが神の像(似姿)であり(二コリ4:4、コロ1:15)、すべての人間はキリストの似姿に変えられなければならない(ロマ8:29、一コリ15:49、二コリ3:18)という基本理解がそこにはある。しかし、創世記1章26―27節を含むヘブライ語聖書のいくつかの箇所(創5:1-3、9:6〔知2:23、シラ17:3〕)によれば、すべての人間はすでに神の像(似姿)として造られていると表現されており、ヘブライ語聖書と新約聖書との間には容易に単一化できない緊張関係が存在している。つまり、アダムとキリストにおける神の像を同一視したり、混同すると、イエス・キリストによってはじめて人間が救済論的な完成を見いだすという新約的メッセージが誤解される危険性があるので、神の像としてのアダムと神の像としてのイエス・キリストをどのように区別するかということが古代教会の頃より問題にされてきたのである1。
 さらに、神の像に関して、始原的な人間と罪に満ちた人間の間にある非連続性を説明するために、創世記1章26節の「我々にかたどり」「我々に似せて」という表現の中にある「かたどり」(ツェレム)と「似せて」(デムート)という類似した概念の二重性が利用された2。例えば、エイレナイオスは、アダムの堕落によってsimilitudoすなわち神との類似性・関係性は失われたが、imagoすなわち神の像は堕落後も残っているとして区別した(ツェレムとデムートはラテン語でimagoとsimilitudoに対応する)。その際、変わらず存在している神の像として彼が考えたのは、魂や理性などの精神的特質であり、そのような神の像理解は、アレクサンドリアのフィロンやアウグスティヌス、トマス・アクィナスらに継承され、さらに宗教改革やそれ以降の神学においても、その理解は自明のものとして前提にされてきたのである。
 他方、広く古代オリエント世界に目を向けると、神の像といった用語法は、地上における神の代理者としての王の称号として用いられていたことが注目される(Schmidt[1967:137-142]参照)。ツェレムとデムートの場合のように、神の像を表現するための類義語が並置されている例はエジプトの資料の中にも見いだされる。おそらく、ヘブライ語聖書における神の像という概念も当時の王侯の神学の中から取られたものであろう。しかし、捕囚期のイスラエルが偶像崇拝の危機に直面しながらも、きらびやかな偶像によって象徴される王ではなく、まさに人間こそが神の像であると語る点に聖書的特質が端的に現れている。そこには偶像崇拝と結びついた王制イデオロギーへの痛烈な批判が含まれている。また同時に、それは十戒に示された偶像否定の内実を失いつつあったイスラエルに対する励ましと慰めの言葉でもあったに違いない(野本[1977:89f.]参照)。
 もっとも、神の像はそのようなイスラエルの歴史的現実からしばしば切り離されて、後の歴史の中で様々な解釈を施されることになる。それらを継承しながら、今日、キリスト教神学の中でこの問題を論じる際の解釈学的枠組みとして、次のような点を指摘することができるであろう。
1)似像と原像との写像関係
 まず、像(似像)は原像を描写しているという考え方がある。例えば、ヴォルフハルト・パネンベルク(Wolfhart Pannenberg)によれば、像(Bild)が原像(Urbild)を映し出すというのは、像が原像に似ているからこそ起こるのであり、この相似性によって、原像は像の中に現存する。そして、この相似性が大きければ大きいほど、原像は明確に映し出され、像における原像の存在感が増してくると言う[1991:248]。このような考え方は、確かに伝統的な神の像理解における前提として共有されてきたが、そこに潜んでいるトートロジー的な誘導について認識しておく必要がある3。なぜなら、二者の間にどのような類似性があるかは、特定の価値の重みを持った比較項目が前提とされているのであり4、この場合、それを決定する価値観は、原像を映し出す像としての人間に依存している。したがって、類似性からさかのぼって原像を特定していく作業の中には、人間の恣意的な願望が投影される危険性がある。後に触れるように、フェミニズム思想はまさにこの点を批判しており、神の像という一見両方の性にとって中立的な概念が、歴史的には、男性の願望をより多く投影した結果を積み重ねてきたという指摘がなされている。
2)原像と三位一体論との対応関係
 第二の解釈学的枠組みとして、神の像の原像が三位一体論の中に対応関係を求められているという点をあげることができる。カール・バルト(Karl Barth)は、創世記1章26節にある神の複数を、それに続く男と女の創造に結びつけ、神の像を男と女の区別と関係性の中に見ることによって、神の像を関係概念として理解する視点を示した[1947:219f.][1948:390f.]。しかし、バルトがこの神の像理解をその原像としての三位一体論に対応させ、男と女の関係を、三位一体論における父と子の関係の似像として理解するとき、それは子の父への従属の中に女性の男性への従属を根拠づけることになるとして、しばしば批判されてきた(Moltmann[1985=1991:369f.]、Pannenberg[1991:235f.]参照)。

 ユルゲン・モルトマン(Jurgen Moltmann)は、バルト同様、神の像・神の似姿がもっとも身近に現れる場所を人間の性的な差異と交わりと考えるが、先の論点においてバルトの神の像理解を神学的主権論として批判する。さらにモルトマンは、神の像を、体を支配する魂といった心理学的な類比の中に見ることに異議を唱えながら、社会的な神の似姿性を追求する。そこで、彼は魂――それは性を持たない――の優位性、男が女を支配するという家父長的類比を拒否し、むしろ、人間にとって決して解消することのできない性における交わり、世代の交わり、人間相互の交わりの中に神の像を見いだそうとする。そのような神の像を映し出す三位一体論はモルトマンの場合、支配・従属の関係ではなく、相互内在(Perichorese)の関係として特徴づけられている[1985=1991:343-354]。
 以上見てきたいくつかの伝統的な神の像理解のモデルと今日的な取り組みを踏まえた上で、とりわけどのような点において、伝統的な神の像理解に疑問が投げかけられているかを次に概観する。


Ⅲ 伝統的な神の像理解への批判
1)フェミニズムからの批判
 まずは神の像に凝縮された家父長制的な人間理解、男性優位主義に対するフェミニズムからの批判をあげることができる。創世記1章27節(「神にかたどって創造された。男と女に創造された」)では表現上、男と女の両性が対等に扱われているが、歴史上、神にかたどられ、神の像とされたのはもっぱら男であり、女が仮に神の像として扱われたにせよ、それは男と比べると不十分なものとして考えられてきたとフェミニズム思想やフェミニスト神学は批判する。
 例えば、この点に関して、フェミニスト神学者ローズメアリ・ラドフォード・リューサー(Rosemary Radford Ruether)は「女性より男性をより『神に似せる』ことは、偶像崇拝的である」[1983=1996:48]と語る。この視点から、神の代弁者として男性を偶像化する家父長制を批判し、そのシステムを宗教的に肯定する原理の一つとして、神の像が性差別的役割を担ってきた歴史性に目を向ける。それゆえ、リューサーはフェミニスト神学の目的の一部を次のように要約することができるのである。「フェミニスト神学は、イマゴ・デイ対堕落したアダムの神学的二元論が、いかに性的二元論、即ち、男と女としてとらえられる人間と関連するかを問う」[1983=1996:136]。ここでは、堕落以前の真正なる人間を象徴するイマゴ・デイが、罪に満ちた低次の人間性を象徴する堕落したアダムと対比されているだけでなく、その対比関係が、より高い霊的特質を持つ男性と、より低い霊的特質しか持ち得ない女性という性的二元論に投影されてきた問題性が指摘され、その克服が求められている。
 ヘレニズム思想の中には、男性を霊的・理性的存在と見なし、女性を肉体的・性的・非理性的・感情的存在と見なす性的二元論が存在していたが、その思想的傾向をキリスト教は少なからず受容し、それを神の像理解に統合していったのである(Johnson[1996:149f.]参照)。そして、より十全たる人間性を備えている男性が神の像の直接的な体現者とされ、同時に、神の像をより少なく分与され、より多くの不純物を持つ女性が、より神に近い男性に従属するよう求められたというのが歴史の趨勢であった。
 神の似姿としては男性に劣るものとして考えられた女性は、神の像から引き離された結果、自らを違う似姿に近接させるよう強いられることになる。例えば、カレン・アームストロング(Karen Armstrong)は、似姿という点について、女性は神の像・似姿というよりは、むしろ男性を誘惑し堕落させたエバの「似姿」として規定されてきたと指摘する[1988=1996:389]。

 また、社会学的な調査や生物学的な研究成果によって、人間の性の多様性が明らかにされつつある今日において、男性と女性の組み合わせを前提とする神の像理解は、旧態依然としたヘテロセクシャルな性倫理を代弁するものとして批判されることがある。今日のフェミニズム思想は、男性支配からの女性の解放を求めるだけでなく、男性支配を結果的に支持してきたヘテロセクシュアルな性的二元論に対する批判的検討を展開しており、その点において、同性愛者たちの権利主張と軌を同じくしている。その意味で、性の結びつきの多様性を拒絶する神の像理解が、フェミニストおよび同性愛者の権利主張を疎外する一因として、批判の矛先を向けられてきたのは当然であった。
 いずれにせよ、フェミニズムの立場においては、神の像についての伝統的理解は両性を対等に含む人間論を根拠づけてきたというよりは、男性による女性の支配を巧みに隠蔽し、あるいはそれを正当化し、また、多様な性のあり方を排除してきたという印象が強いと言える。


2)エコロジーからの批判
 エコロジーの視点からなされる批判は、端的に言えば、支配する人間と支配される自然という二元論的構図における人間中心主義に向けられている。神の像理解は創世記1章28節と結びついて「地の支配」(dominium terrae)の教説を生み出し、それは被造世界全体における人間の圧倒的優位性を説明する働きを歴史的に担ってきた。それが概念的なレベルでとどまっていた時代においてはまだしも、近年の急速なテクノロジーの進展にともなって、人間が自然環境を破壊し、自らの危機を招くほどに生態系を乱すようになったとき、あらためて神の像に基づく人間中心主義を見直そうとする声が高まってきたのである。
 その代表例として、リン・ホワイト(Lynn White, Jr.)の「現代の生態論的危機の歴史的源泉」("The Historical Root of Our Ecological Crisis", 1967)5をあげることができるであろう。ホワイトは今日の生態論的危機の元凶をキリスト教の人間論に求め、様々な議論の端緒をつくった。彼は創世記の創造物語の記述に言及しながら、それを次のように解釈する。「物理的創造のうちのどの一項目をとっても、それは人間のために仕えるという以外の目的をもってはいない。そして人間の身体は粘土から作られたけれども、人間は単なる自然の一部ではない。人間は神の像を象って作られているのである」[1968=1972:87]。ここで神の像は、人間を自然一般から超越させ、自然を支配させるための特権的シンボルとして理解されている。それゆえ、続けてホワイトは「キリスト教の、とくにその西方的な形式は、世界がこれまで知っているなかでもっとも人間中心的な宗教である。......キリスト教は古代の異教やアジアの宗教(おそらくゾロアスター教は別として)とまったく正反対に、人と自然の二元論をうちたてただけではなく、人が自分のために自然を搾取することが神の意志であると主張したのであった」と語り得るのである[1968=1972:87f.]。
 しかし、なぜホワイトはこれほどまで手厳しくキリスト教を批判するのであろうか。彼は、生態学的危機を招いた根本原因であるキリスト教を破棄し、もはや宗教によらず科学的な方法で問題解決をはかるべきだと考えているのであろうか。いや、彼は「不吉な生態学上のきしみが単に、より多くの科学とより多くの技術をこの問題に適用するだけでは避けられると思っていない」[1968=1972:92]。彼は科学と技術の成長に影響を与えてきたキリスト教の自然観を過小評価せず、むしろ、原因が宗教的である以上、問題解決の方法も宗教的にならざるを得ないと考えている[1968=1972:96]。それだけに、「自然は、人間に仕える以外になんらの存在理由もないというキリスト教の公理が斥けられるまで、生態学上の危機はいっそう深められつづけるであろう」[1968=1972:95]というホワイトの批判が、キリスト教に非常に大きなインパクトを与えたのである。確かに、ホワイトに対しては、近代の世俗主義に基づく産業社会の文化構造とキリスト教の人間論とを混同している、などの逆批判もなされてきたが6、今なお、生態論的な危機とキリスト教の関係を問うとき、彼の論点を無視することはできないであろう。
 もちろん、リン・ホワイト論争以降、キリスト教の側からも様々な対応が試みられてきた。例えば、ジョン・パスモア(John Passmore)は、人間は神の代理人として世界を世話することを委託されている、という意味でstewardshipという概念を、専制君主的な自然支配の代案として展開した[1974=1979:48-71]。この言葉は一般的にも好んで用いられ、またそれに類似した概念が積極的に考案されてきたが7、それらの対応は、基本的には、人間中心主義を少しでも相対化しようとする試みとして総括できるであろう。しかし、そのことによってキリスト教の生態学的危機に対する歴史的責任が免責されるわけではない。むしろ、自らに向けられた悪評から逃れ出ようとする護教的かつプラグマティクな応答ではとても対処しきれないほどに、その問題群は重層的な重みをともなっていることが明らかになりつつある。キリスト教文化圏において誤用され、濫用された創造信仰は「今日の世界危機に対して無実ではないのである」(Moltmann[1985=1991:47])。
 ここでの問題は神の像を人間の占有物として実体的に考えてもよいのか、という問いにつながっていく。伝統的には、人間と他の被造物を区別し、序列化する神学的な根拠の一つをこの神の像という概念が与えてきたのだが、その正当性が今問われているのである。


Ⅳ 神の像の新しい理解を求めて
 様々な批判の声に積極的に応答していくために、聖書テキストを引き続き釈義的に考察すべきことは言うまでもない。その上で、神の像を性差別的でなく、また、自然搾取的でない形で解釈することが、どのような洞察を促すかを次に示唆したい。


1)性差を考慮した神の像理解
 すでにフェミニズム思想が明らかにしてきたように、キリスト教の中には少なからず男性中心的・家父長制的な側面が認められる。そのような指摘を積極的に生かしていくためには、神の像理解をも男性中心的なイメージから解放しなければならない。神の像を理性や魂など人間の精神的特質に還元しがちであった伝統的理解に対し、ここで考慮すべきなのは、神の像としての人間を性をともなった身体的な存在として把握することであろう。
 近代においては「人間」という概念が第一次的なものとされ、性的な区分は二次的なものとされてきた。それゆえ、初期のフェミニズム運動の中では、女性も人間である、という権利主張が基本的な戦略となっていた。しかし、今日、多くのフェミニストは、抽象的な人間概念に回収されない性的なアイデンティティの根源性に着目している(吉澤[1997:36-44]参照)。ただし、フェミニズム思想やフェミニスト神学における性差の扱いは決して一様ではない。そのことを性差の最大化と最小化という二種類のモデルによって示したい(Mulder[1996]参照)。

 まず、性差の最小化に関して言うと、例えばリューサーは、性差を認識する重要性を踏まえた上で、両性のみならず、すべての社会集団、人種を含むような「十全たる人間性」(full humanity)、「包括的な人間性」(inclusive humanity)をフェミニスト神学の批判原則として提示する[1983=1996:43-44, 161]。女性が女性のためにこの批判原則を用い、男性中心主義を拒否すると同時に、ある特定の集団を人間性の規範とするような一切のショーヴィニズムを批判しなければならない、とリューサーは考える。それを前提にした上で、両性が、言語的には中性的なこの規範を共通に用いることにより、それぞれの性の固有性を生かす道を模索するのである。
 他方、フェミニスト思想家リュース・イリガライ(Luce Irigaray)に代表される性差を最大化する立場からは、抽象的な概念――例えば「人間性」――の中に女性性を解消してしまうことに対し徹底した異議が唱えられる。性に中立であろうとして性差を解消するのではなく、むしろ、女性あるいは男性という性が果たす役割を最大限に明示することによって、歴史の中で抑圧され、埋もれてきた女性性を具体的に顕在化させようとする。

 聖書から例をあげると、かつてガラテヤ書3章28節の「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」という表現は、しばしばフェミニスト神学の出発点となってきたが、今日では性差を安易に解消してしまうという危惧から批判的にも受けとめられている。この表現には「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」という言葉が続くが、本来多様なものが安易に「一つ」に集約されるという発想は、結局、男性中心主義に荷担することになるといった批判もある8。
 ただ、われわれはここで性差の最大化と最小化を二者択一的に選択する必要はなく、それらの問題の広がりを認識した上で、一方では性差の自明性に簡単に埋没しないこと、言い換えれば、社会や文化によって規定されている性のイメージを無批判に受け入れないこと、他方で性差の自明性を簡単に相対化しないこと、つまり、性別が持つ逃れ難い拘束力を軽視してはならないこと(吉澤[1997:12]参照)、この二点に留意して、性差を備えた人間を考慮することのできる神の像を考える必要がある。その際の神の像とは、無性的な魂や理性を本質要素とするのではなく、性を含む身体全体として理解される9。そのような視点からこそ、神の像を「男と女」と言い換える創世記1章26節後半の意図する世界が開かれてくる。それは、人間が共同体性へと規定された存在であることを象徴的に語っている。
 その意味で、モルトマンが提起した社会的な神の似姿性は、意義ある洞察として評価することができる。彼は、ニッサのグレゴリウスからアダム―エバ―セトという起源的核家族のモデルを継承し、それによって社会的三位一体論を説明しようとする。しかし、その際、モルトマンは起源的核家族によって「宗教的家族イデオロギーが意味されているのではない」[1985=1991:352]と言うものの、「いかなる人間も男か女であり、かつ自らの両親の子である。男―女の関係は、解消することのできない人間の社会性を表わしている。また両親―子供の関係は、同じように放棄することのできない人間の世代継続性を表わしている」[1985=1991:352]と語るとき、やはり伝統的なヘテロセクシャルな男女観・家族観を前提にしてはいないだろうか。人間は男か女である、という一見価値中立的な言説が男性優位の家族形態と社会構造を生み出してきたという、フェミニストや同性愛者たちからの批判に対し、モルトマンのジェンダー理解・家族理解は十分に応えることができるであろうか。われわれはモルトマンが射程に収めきることのできなかった性の多様性の問題に直面しているのであり、そういった課題を考慮した上で、性の創造性・関係性を活かす人間論や倫理の基盤となり得る神の像理解を模索する必要がある。


2)自然(被造世界)を考慮した神の像理解
 人間の身体性に含意される内なる自然は、おのずと外なる自然を志向する。ただし、魂が身体を支配することと人間が自然を支配することとをアナロジカルに了解する神の像概念は、もはや適切であるとは言えない。そのような神の像理解によって支えられる神学は、モルトマンの言葉を借りれば「中央集権的神学」ということになる[1985=1991:20]。ここで考えたいのは、自然をも救済のドラマの一部として取り入れるような、サクラメンタルな自然理解を可能とする神の像である。サクラメントは、パンとぶどう酒といった自然物が神と人間の間を仲介して新たな共同体性を開示していくドラマであり、それは十字架におけるイエスの苦難を想起させながら、ロゴスだけでなく、ロゴス化されないロゴス以前の「うめき」(ロマ8:22f., 26参照)をもとらえる。イエスの苦難によって刻印された神の像10は自然を抑圧・排除せず、むしろ自然を自らに負わされた責任を果たすべきトポス(場)として尊重する。
 このような態度は、ある意味で、『リマ文書』(1982年)以降の聖餐に関する議論の中で展開されてきた、聖餐の生態論的理解にも対応関係を見いだすことができる。そこでは、神の宣教(Missio Dei)から見た世界は、自然のいのちを包含する被造世界であることが重視されているからである(神田[1997:267-270]参照)。また、同様の関心事をゲルハルト・リートケ(Gerhard Liedke)は次のように語っている。「水、パンおよびぶどう酒を聖礼典のしるしとして用いることにおいて、われわれは被造物とのつきあいの新たな仕方を学ぶことができ、また、聖霊がこれらの要素を自然全体の救済のために用いていることが示される。そのことは、宇宙の諸要素を対象とする(誤った)祭儀を意味するものではない。そのことは、自然の聖化ではなく、自然の聖礼典化である。この聖礼典化が、世界にその価値を与える」[1979=1989:141]。
 さらに、新しい神学的模索の一例として、世界そのものを「神の体」として理解しようとするサリー・マクフェイグ(Sallie McFague)の試みをあげることができる[1993]。彼女の理解によれば、自然に対する神のラディカルな超越性や内在性は、伝統的な親子のメタファーでのみ理解される三位一体論からはとらえることができない。そこで彼女は三位一体論の新しいモデルを提示しながら、被造世界全体を有機的な「神の体」であると見なす。先の議論で、神の像の身体性について言及したことからも類推されるように、ここでマクフェイグが言う「神の体」は神の像と重なる部分を多く持っていると言える。したがって、マタイ福音書25章40節「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉を人間の倫理的な問題だけに限定せず、環境倫理にまで拡張しなければならないという彼女の主張[1993:195]は、自然を考慮した神の像理解に内包される倫理的帰結の一つとなる。マクフェイグはその方向を見定める中で、自然を人間の恣意的操作の対象物とするのではなく、むしろ、身体的なつながりを通じ、隣人を愛するように自然を「愛する」という地平にまで到達する可能性を示している[1997]。パスモアやリートケらに端を発し、人間中心主義的自然観は徐々に相対化されてきたが、マクフェイグの試みは、そういった方向性を徹底して押し進めた結果の一つとして見ることができるであろう。
 ところで、近年、心身一元論や自然との共生、全体論的な理解などが、近代的な二元論・機械論・還元論を越えようとする試みとして評価されてきた。確かに、これらの主張は、肥大化した意識が身体や自然をないがしろにしてきたことに対する現代人の罪責感を一時的にいやしてくれる。また、分節化された自然と人間の関係に対し、全体論的洞察は新しい視点をもたらしてくれるであろう。しかし、人間の所有欲あるいは被造世界における優越感は、実際には二元論や機械論に基づく科学技術の成果を手放すことなく、ただ全体論的な理解や自然との共生という思想を消費しながら、罪を隠蔽するためのアリバイ作りをすることも可能である。また、全体性を主張するときにしばしば生じるある種のトートロジー――それは特定の価値観を偏重することに

仕え得る――や、全体論が実体論として展開される危険性を看過することはできない。ただ自然や「自然の秩序」の賛美へと転身するだけなら、かつてのナチズムの例をあげるまでもなく、全体主義的誘惑に対し、きわめて無防備となるであろう11。
 それに対し、イエスの苦難をサクラメンタルな緊張としてはらんだ神の像理解は、自然に対する人間の安易な依存心に対しても批判的な距離を取ることができる。理性によって代弁される神の像は、身体的痛みを顧慮しない。そして、痛みや苦しみを軽視する人間論は、搾取的な態度で自然に依存し、それゆえ自然の緩慢な死に対して無関心であり、被造物のうめきを分かち合うことができない。しかし、イエスの身体を重ね合わすことのできる神の像は、もはや人間を被造物から超越させる指標となるのではなく、むしろ被造物とのサクラメンタルな交わりの中にその本来の豊かさを顕現させるのである12。


3)適用例
 最後に、これまで考察してきた神の像理解が、今日の人間論的諸問題に対する批判的指標となり得る一例を示したい。近年、遺伝子治療、体外受精、クローン技術などの進展とともに、人間が神の領域を侵犯しているのではないか、神を演じている(playing God)のではないか、といった問いかけが頻繁に出されてきた(Peters[1997]参照)。キリスト教文化圏において、それらを容認する暗黙の根拠の一つが、人間には神の像が与えられているということに求められている。つまり、神とまったく同じではないにせよ、人間には神に由来する創造性が与えられており、それを適切に行使すること求められているという納得が一般的になされる。
 しかし、これらの領域で言及されている「神」や神の像は、これまでの議論をふまえると、明らかに男性的・自然搾取的なイメージを具現していることがわかる。なぜなら、その神は生命や自然を超越的に支配し、整然と操作する創造力を備えた神であり、その力のイメージが神の像として科学者や技術者およびその恩恵にあずかる人間に投映されているからである。そのような神の像は性差や自然を考慮するどころか、それらをコントロールするための道具として機能化されている。だからこそ、人間も自らの身体、とりわけ女性の母体を管理・操作し、自然をほしいままに支配することができると考えるのである。別の視点から考えると、神による生命創造を科学の担い手である男性が代替することによって、逆説的に神の男性としてのジェンダーを保持

し続けようとしている点も見えてくる。こういった世俗的に流布している神の像のイメージが、人間の恣意的な欲望を正当化しがちであることに注意しなければならない。
 また、性的二元論に見られたように、神の像が存在論的・本質論的に扱われると、社会的に規定された人間的価値の差異が神の像の質的差異へと容易に転写され、固定化される。しかし、女性は不十分にしか神の像を持ち合わせていないために、男性に比べ人間としての価値が劣るという主張を、もはや、われわれは受け入れることができない。むしろ、われわれはこの種の本質主義・決定論に裏づけられた人間理解に警告を発しなければならない。神の像がかつて家父長制社会の中で果たした社会的機能は、今日、世俗化されながら科学的な装いをともなって継承されていると思われるからである。例えば、人間のアイデンティティを遺伝子やDNAに還元する遺伝子本質主義・遺伝子決定論のような考え方が広く受け入れられている13。存在論的・本質論的な

神の像理解では、こういった社会的言説を補完することはあっても、それに対し積極的な異議を唱えることは困難である。それだけに、性の関係性や自然との関係性を積極的に包含する神の像は、関係創出的な働きを担うと共に、恣意的な決定論・運命論の呪縛から人間を解放することを求められている14。関係概念としての神の像は15、人間と人間、あるいは被造物同士の交わりの多様性と豊かさを神の祝福として明らかにしていくのである。
 神の像は男性が女性に対してであれ、人間が自然に対してであれ、優越性の根拠であるのではない。むしろ、神の像が新たな祝祭的コムニオ(交わり)を生み出していく可能性と責任への呼びかけであることを実践的に受けてとめていくべきであろう。





 本文および注における文献表示は、著者名[出版年(=訳書の出版年):頁]のように記され、当該の文献は末尾の「参考文献」において知ることができる。

1 例えば、エイレナイオスは、キリストを原像とし、アダムをその似像として両者を区別した。また、プラトニズムからの影響を受けた原像と似像という考え方は、すでに新約聖書のキリスト論にも見いだされる(コロ1:15、ヘブ1:3)。もっとも、神の像に関する原像と似像という区別は、ユダヤ教における「知恵」解釈においてすでに準備されていたとも言える。箴言8章22節以下に見られるような、人格的に自立した「知恵」理解はその一例である。
2 現代の旧約聖書学者の多くはこれら二つの概念の間に根本的な意味の相違を認めていない。例えば、Schmidt[1964:127-149]を参照。
3 Gustafson[1996:92]は、倫理的基盤として「神の像」を用いることが、神の像と人間の本質規定の間の意味的循環にしばしば陥ることを指摘している。
4 類似は、二者の間の<同>と<他>の矛盾を解消しようとするが、それは存在論的に固定され得るものではなく、むしろ、特定の視点を前提にしている。つまり、比較の視点をあいまいにするなら、いかなる二者の間にも何らかの類似を見出すことが可能であり、さらに言えば、いかなる二者の間にも同数の類似点をあげることができる(渡辺[1986:63-66]を参照)。

5 この論文は最初にアメリカ科学振興協会の機関誌『サイエンス(Science)』に掲載され、大きな反響を呼んだ。この論文は、White[1968=1972:76-96]に収録されている。
6 例えば、Pannenberg[1991:234]を参照。また、村上[1994:95-114]は科学史的な視点から、リン・ホワイト論争の説明と彼に対する批判を記している。
7 近年、様々な教派が自然と人間の新たな関係を模索する声明を出している(Gottlieb[1996:230-269])。例えば、米国福音ルーテル教会は被造物を人間の「隣人」として位置付けている(Gottlieb[1996:246f.])。
8 例えば、Gunter[1996:21]を参照。また、ガラテヤ書3章28節に対するフェミニスト神学の視点からの釈義についてはFiorenza[1983=1990:300-346]を参照。
9 神学的身体論を特に倫理学的な視点から論じたものとして、小原[1998]を参照。また、ボンヘッファー[1958=1962:63f.]は次のように語ることによって、身体(肉体)を持つことが、他者との交わりだけでなく、自然との交わりをも形成することを示唆している。「肉体をとるにもかかわらず神のかたちであるのではなく、肉体をとるからこそ神のかたちである。なぜなら、肉体をとることによって、人間は地と関係をもち、また他の肉体とも関係をもつからである。人間は他のためにあり、他に依存して存在する。肉体をとることによって、人間は兄弟と地とを発見する」。

10 ユンゲルは「イマゴ・デイ(神の似姿)というカテゴリーはイエス・キリストという歴史的な名と同一である」とさえ言う(Jungel[1980:297])。
11 例えば、マクフェイグは、あるべきキリスト教的な自然愛を、ロマン主義的な自然賛美や、神秘主義(あるいはディープ・エコロジー)に見られる自然への没入的一体感などから区別している[1997:98]。
12 この点を釈義的に押し進めるためには、創世記1章27―28節を、エコロジーの関係で注目されている他のテキストとの関係の中で解釈していく必要がある。例えば、Liedke[1979=1989:192-200]、安田[1993:268-270]を参照。
13 D・ネルキンとM・S・リンディーは、遺伝子本質主義や遺伝子決定論がいかに大きな社会的な影響力を持っているか、そして、それがキリスト教的伝統からいかに多くのイメージを借用しているかを、多くの事例を通じて説明している(Nelkin; Lindee[1995=1997])。

14 興味深いことに、近年、生物学(とりわけ免疫学)は、遺伝子の文脈依存性、つまり、遺伝子は一義的にある結果をもたらすのではなく、むしろ環境に応じて解釈されていることを明らかにしつつある。例えば、多田[1997:54]は、遺伝子決定論を批判しながら、その論点を次のように要約している。「DNAはすべてを前もって決定していたのではない。偶然や後天的な経験を通して、生物はDNAの利用の仕方を変え、遺伝子を異なった文脈で読みかえるようになるのだ」。
15 W・フーバーとH・E・テートは、神の像を人間に内在する性質としてではなく「関係概念」としてとらえ、人間の根本規定を関係における生として理解する(Huber; Todt[1977=1980:235-237])。同様に、C・リンクによれば、神の像は存在論的な規定ではなく、機能的な規定であり、また、それは人間の性質や所有物ではなく、むしろ実現しなければならない目標(関係)を示している(Link[1991:393f.])。



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付記 本論文は、日本基督教学会第45回学術大会(1997年8月29、30日)で行った研究発表に加筆訂正したものである。