研究活動

研究活動

「新約聖書の性倫理――テストケースとしての同性愛」、『福音と世界』1998年10月号

1 問題の所在
 教会は自らが置かれた社会的・文化的コンテキストから様々な問題を提起され、それらに具体的に応答するために、いつの時代も何らかの倫理的規範を保持してきた。その都度の倫理的判断は、聖書や教会的伝統との対話の中から生まれてくるのであるが、その判断や要請が時代の影響を強く受けていることは言うまでもない。それゆえに、伝統的倫理の中で強力な規範となってきた考え方が、別の時代に根本的に問いなおされるということも起こり得る。
 今日におけるその典型的な例の一つが、性に関する倫理である。その具体的な課題としては、女性と男性の平等性の問題、ジェンダーやセクシュアリティの問題、性の多様性の問題などをあげることができる。こういった問題群は一般社会の中ですでに議論されてきているが、キリスト教はただその議論に追随するだけでなく、自らの聖書的・教会的伝統に照らし出した上で、社会的に価値のある問題提起や解決を示していくべきであろう。社会的な価値や有効性を考えなければならないのは、この種の問題が教会というサークルの中で完結しないからである。教会の内側でのみ適用可能な倫理を構築することは、問題の本質を見誤ることになりかねない。

 しかもキリスト教には、伝統的な性道徳を追認するような形で聖書を解釈し、また性に関する事柄を一般的に軽視あるいはタブー視してきた歴史的経緯があるので、これらの問題を受けとめていくためには、キリスト教的性倫理の再構築が不可欠なのである。
 性に関する規定はヘブライ語聖書(旧約聖書)にも見られる。例えば、同性愛に関してしばしば言及される箇所として創世記一九・一―二九やレビ記一八・二二、二〇・一三などがある。しかし、ここではキリスト教的生活の中でより倫理的規範性の高い新約聖書を中心的に取り上げることにする。


2 テストケースとしての同性愛
 一般的なキリスト教性倫理の可能性を論じる前に、しばしば議論の対象とされてきた同性愛をテストケースとして取り上げる(同性愛をめぐる裁判の事例や統計的な調査については大河原[1998: 147-196]が参考になる)。伝統的価値観の中ではもっぱら批判されることのみ多かった同性愛について、新約聖書は実際、どの程度、具体的な指針となり得るであろうか。
 ここでは同性愛を批判する際の聖書的根拠として繰り返し引き合いに出されてきた一コリ六・九―一〇、一テモ一・九―一〇、ロマ一・二六―二七を取り上げる。これらの箇所が同性愛批判のために取り上げられる場合の方法論ははっきりしている。つまり、第一に、同性愛に関連する表現を文脈から切り離して、特別の倫理的禁止事項として強調すること、第二に、それらの表現を文化的コンテキストから切り離して、今日の同性愛という言葉と並列させ、意味的に直結させることである。しかし、こういった方法論によって、事柄の真相に立ち入ることができるのであろうか。


(a)一コリ六・九―一〇
 「......男娼(malakoi)、男色をする者(arsenokoitai)、......は、決して神の国を受け継ぐことができません」。
 この箇所のように悪徳が列挙される表現形式は「悪徳表」(catalog of vices)と呼ばれてきた。同様の形式は当時、ギリシア・ローマの文学の中だけでなく、ヘレニズム・ユダヤ教の中でも一般的であった(例えば『ソロモンの知恵』一四・二五―二六)。また、パウロは他の箇所においても同様のリストを好んで用いている(ガラ五・一九―二一、一コリ五・一〇―一一、二コリ一二・二〇、ロマ一・二九―三一、一三・一三)。ただし、このようなリストを作成・使用する人は、必ずしも注意深く、一つひとつの項目を文脈に合わせて選び出しているわけではなく、伝統的表現のまとまりを踏襲している場合が多い。
 第一コリント書では三つの悪徳のリスト(五・一〇、五・一一、六・九―一〇)がある。それは教会で起こっているとパウロが聞いている次のような行為に対する攻撃を意図している。(1)父の妻をわがものとしている(五・一―五)、(2)言い争うものを教会の外で訴える(六・一―八)、(3)娼婦と交わるものがいる(六・一二―二〇)。こういった状態を批判するために、彼は三つの悪徳のリストを注意深く用いている。つまり、最初のリストは四つの悪徳を含み、第二のリストは最初のものをすべて含んだ上で、さらに二項目(「人を悪く言う者、酒におぼれる者」)が追加され、第三のリストは第一・第二のリストのすべてを含んだ上で、さらに四項目(「姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒」)が追加されている。コリントの教会が抱

えている問題の深刻さを、このようなレトリカルな重層構造によって際立たせているのである。悪徳として列挙されている項目の一つひとつに視点を定めさせることが、パウロの目的ではない。
 むしろ、ここでテーマとなっているのは、キリストによって与えられた清さであり、古い生活との明確な相違である。パウロは「古いパン種をきれいに取り除きなさい」(五・七)と命じ、今や各人が「神の霊によって洗われ、聖なる者とされ」(六・一一)、「聖霊が宿ってくださる神殿」(六・一九)となったことを語る。そして、かつての不純さと、現在のあるべき清さとの違いを際立たせるために一連の悪徳リストが用いられているのである。
 こういった文脈の中に位置付けられていることを十分に意識した上で、問題となってきたマラコス(malakos)とアルセノコイテース(arsenokoites)という言葉の意味内容を検討したい。マラコスをどのように翻訳するかについてはかなり議論の余地がある(Boswell[1980=1990: 337ff.])。マラコスは元来「男らしくない」という程度の意味であるが、それが転じて俗語では、同性愛行為の〈受け身の〉パートナー(しばしば、それは少年であった)という意味で広く用いられていた。それに対し、アルセノコイテースは第一コリント書以前のギリシア語テキストには見当たらないので、パウロが作ったか、ヘレニスト・ユダヤ人たちが作った言葉を借用したと思われる。アルセノコイテースは、arsen(男)とkoite(ベッド)という部分から成り立っているが、その両方の言葉がセプチュアギンタのレビ記一八・二二、二〇・一三に見られるからである。つまり、パウロはユダヤ教的な同性愛禁止の神聖法集を前提にしていたと言える。いずれにせよ、アルセノコイテースをマラコスとの関係で考えるなら、おそらく、受け身的なパートナーであるマラコスに対する積極的なパートナー、つまり、自らの性的欲望を満たすために少年を金銭や権威によって手に入れる人物像を想定することができる。言うまでもないが、これらの言葉は男色の特殊な形態を指し示しており、今日の同性愛という言葉とは対応関係がない。


(b)一テモ一・九―一〇
 「律法は、......(1)不法な者や不従順な者、(2)不信心な者や罪を犯す者、神を畏れぬ者や俗悪な者、(3)父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、(4)みだらな行いをする者(pornoi)、男色をする者(arsenokoitai)、誘拐する者(andrapodistai)、(5)偽りを言う者、偽証する者のために与えられ、......」。
 この箇所では、同性愛との関係でもっぱら「男色をする者」が注目されがちであるが、前後の言葉と合わせて考えると、さらにその意味を具体的にイメージすることができる。
 このリストの項目は先に示したように内容的に五つのグループに分けられる。アルセノコイタイ(arsenokoitai)をポルノイ(pornoi)とアンドラポディスタイ(andrapodistai)と同一のグループと見なせば、これらは互いに意味のつながりを持っていることが推測される。ポルノイは新約聖書中の用例としては「性的に不道徳な行いをする者」というように比較的広い意味で理解されることが多いが、一般的なギリシア語の用語法としては、自分自身を売り物にする「男娼」や売春宿にいる奴隷のことを意味する。この箇所では、ポルノイは、アルセノコイタイとの関係から本来的な狭義の意味で理解したほうがよいと思われる。つまり、一コリ六・九のマラコイとアルセノコイタイの関係と、ここでのポルノイとアルセノコイタイの関係は、ほぼ同等であると考えられる。この視点からアンドラポディスタイを考えると、「誘拐する者」が特に誰を対象としているのかがはっきりしてくる。つまり、誘拐された者は通常奴隷として売り飛ばされるのであるが、美少年・美少女はしばしば売春宿に奴隷として売られたのである。すなわち、アルセノコイタイによって用いられるポルノイを調達するのがアンドラポディスタイなのであり、この三者によって展開されている非人間的な現実に対し批判がなされるのは聖書的倫理観にかなっていると言えるだろう。このようにアルセノコイタイが性的目的のために少年の誘拐・奴隷化を前提にしているとすれば、それが取り持つ行為は、一コリ六・九のアルセノコイタイ以上に非人間的であると言える。


(c)ロマ一・二六―二七
 この箇所は同性による性行為をはっきりと拒絶する、新約聖書中唯一の箇所であるが、まずこれがどのような神学的意図の内に配置されているかを確認する必要がある。ロマ書の神学的モティーフは、キリストの出来事から啓示された神の義と恵みを語ることにある。また、すべての者が例外なく罪に服していることも同様に強調されている。つまり、一・二六―二七もそのような論点に仕えるのであって、同性愛そのものを裁くことを目的としているのではない。神を神として認めることを拒絶すること、これこそが罪の根源であり、最終的に「死に値する」(一・三二)とパウロは考えている。
 この箇所が女性の同性愛に言及しているかどうかは明確ではない。しかし、前後の関係から考えると、女性同性愛者のことも念頭に置かれているだろう。女性の同性愛を禁じる戒めはヘブライ語聖書の中に見られず、またギリシア・ローマの文献の中でも見られない。その意味では、パウロが両性の同性愛に言及していることは特異な感じがするが、すべての者が罪の状態に置かれているありさまを例示しようとするパウロの意図をくめば、男性だけでなく女性の行為についても言及されていることは、この文脈に合致していると言える。

 パウロは、他の罪と比べて特に強調しているわけではないが、確かに同性愛を批判している。しかし、その根拠となるのはギリシア的な「自然に反する」という考え方だけである。「自然に反する」(para phusin)という表現は、ギリシア・ローマの文化圏において少年を対象とする男色を批判する際の一般的論拠とされていた。ただし、ギリシア・ローマの文献の中でも、〈なぜ〉同性愛が自然に反するのか、を説明しているものは見当たらない。
 また、偶像崇拝との関係で、同性愛を批判する考え方(一・二五)をパウロはヘレニスト・ユダヤ人の伝統から取っている(『ソロモンの知恵』一四・一二参照)。ユダヤ教的伝統の中では同性愛が「自然に反する」ということは当然視されており、ここでもその根拠は語られていない。


(結 論)
 以上取り上げてきた聖書箇所は、その細部において当然様々な解釈をなし得るが、全体として次のようにまとめることは可能であろう。
 第一に、新約聖書では同性愛への言及はごくわずかであり、しかも、それらは決して著者の関心の中心として描かれてはいない。また、いずれの言及も、特定の文献的・伝統的背景に依存する形でなされている。第二に、新約聖書中には性的指向(sexual orientation)に対応するような同性愛の概念は存在しない。聖書は常に具体的な性行為(sexual practice)として同性愛を語っている。第三に、新約聖書がはっきりと敵視しているのは、少年を対象とする男色としての同性愛であり、その非人間的な次元を問題としている。第四に、同性による性行為は一様に悪と見なされているが、なぜ悪なのかという理由はあげられていない。

 結論的に言うと、新約聖書が問題としている同性愛と、今日のわれわれが考える同性愛とはまったく異なる。すなわち、新約聖書の特定箇所から、今日の同性愛問題全般に対し有効な指示を引き出すことは不可能である。

3 性倫理の基礎としての新約聖書の可能性と限界
 同性愛批判の根拠として引用されてきた新約聖書の表現が、今日の同性愛の問題に直接的な回答を与えないことがわかった。ただし、そのことによって新約聖書に基づいた性倫理の構築を放棄すべきではなかろう。むしろ、新約聖書の特定の箇所を文脈から切り離し、字義どおりに理解することが、偏った性道徳を生み出してきたという経緯を考慮に入れれば、聖書が新たな性差別の温床となること防ぐためにも、何らかの規範的な性倫理の可能性とその限界を考える必要がある。


(a)イエス伝承と伝統的性理解の相克
 最初に、なぜ新約聖書の中に性に関するまとまった言及がないのか、その歴史的経緯を概観してみたい。
 最初期の教会の性理解は、ユダヤ教の理解を前提にし、またそれから影響を受けていた。ユダヤ教の性的規範は、家父長制的特質を有し、女性は家父長の所有物のように見なされることが少なくなかった。同性愛は、男女の生殖によって基礎付けられている家父長制的社会システムに対する明らかな脅威であった。
 性にかかわる問題は、イエスによるユダヤ教的価値観の変革の中心テーマではなかった(福音書の中では、石を投げられようとしている姦淫の女に対するイエスの反律法的応答が記述されている程度である)にせよ、新約聖書中には伝統的性理解の他に、明らかに非伝統的な性理解・女性理解が見うけられる。例えば、マルタとマリアの物語におけるマリアの位置付け(ルカ一〇・三八―四一、ヨハ一一、一二・一―三)、女性たちと旅をしたということ(ルカ八・二―三)、復活の最初の証人はすべての福音書で女性であること、これらはきわめて非伝統的な色彩を放っている。また、同様のことは、最初期の教会において女性が重要な宣教の担い手であったことに対しても言える(Fiorenza[1983=1990: 240ff.])。例えば「苦労した」同労者としてマリア、トリファイナ、トリフォサ、ペルシス(ロマ一六・六、一二)、「奉仕者」(diakonos)「援助者」(prostatis)としてフェベ(ロマ一六・一―二)、使徒としてユニアス(ロマ一六・七)らがあげられている。
 また、新約聖書中の女性観の多様性を荒井献は次のように要約している[1988: 327f.]。マルコは、男女の平等を反映するイエス伝承を受容し、それを男弟子優位の伝承に批判的に対置させることにより、男女の読者にイエスの弟子になるよう促している。そのようなマルコを資料の一部として使いながらも、マタイはユダヤ人キリスト者としてイエス伝承をユダヤ社会の家父長制に適合させ、ルカは異邦人キリスト者としてイエス伝承をヘレニズム・ローマ社会の家父長制に適合させようとした。ヨハネは固有な伝承を多用することにより、男女平等の弟子像を提示している。パウロの場合は、男女平等のイエス伝承を継承しながら、同時に地中海沿岸の家父長制的世界に適合しようとしたため、きわめてアンビバレントになっている。そのパウロの両義性の

うち、男性優位の側面を継承し、「家の教会」を家父長制化していったのが、第二パウロ書簡や牧会書簡である。
 このように教会は既存の家父長制的価値観の影響から免れたわけではないが、イエスによって促された伝統的価値観からの自由は、特に終末待望に裏付けられた宣教的情熱と結びついて存続したのであった。しかし、その自由は新しい性倫理を生み出すほどには明示化されなかった。なぜなら、終末が間近に待望されていた時期においては、性愛のあり方や結婚・家庭のことは二次的な問題とみなされ、性倫理の再構築という課題は特に優先されるべきことではなかったからである。パウロの場合を見ても、性倫理が関心の中心となっている箇所はまったくない。
 それゆえ、終末待望が希薄化し、教会の組織化が重視されていく中で、イエス伝承に根拠付けられた伝統的規範からの自由も徐々に狭められていくことになる。それは、特にユダヤ教的コミュニティの中で顕著であったと考えられる。終末の遅延が受容されるようになるにつれ、教会はユダヤ教から受け継いだ家父長制的な女性理解、およびヘレニズム・ローマ社会の家父長制や性的二元論に順応するようになっていくのである。


(b)新約聖書内の矛盾
 以上の経緯から明らかなように、性に関する新約聖書の諸表現を統合して、首尾一貫した論理を見い出すことはきわめて困難である。むしろ、内容的にはっきりと矛盾する箇所があることを認識することによって、ある特定の箇所が排他的に用いられることの無意味性と危険性とを喚起することの方が有益であろう。
 例えば、ガラ三・二八「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男と女もありません」とコロ三・一八「妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい」が指示する方向は、かなり異なっている。前者は男女の支配・服従の関係を否定しているが、後者はそれを強化している。
 また、一テモ二・一五「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます」とルカ一一・二七―二八「『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人である』」の間にも安易な妥協点を見出すことはできない。前者は、性と生殖とが一致した家父長制社会を代弁する言葉であるのに対し、後者はそれを破棄する言葉だからである。

 新約聖書中にある、こういった意味的に対立する諸表現を調停することは、非歴史的な思弁になりかねない。むしろ、われわれは、性理解の歴史的な推移とその結果としての多様性に十分注意を払わなければならないのである。

(c)新約聖書と今日の経験的規範との対立
 新約聖書はユダヤ教からにせよ、ギリシア・ローマ文化からにせよ、家父長制的な影響を不可避的に受けている。それゆえ、性に関する記述の中には、今日のわれわれの信仰と相容れないものがある。例えば、両性の平等というわれわれの経験的規範に反するような箇所を、聖書の他のメッセージの中で、どのように位置付けていくべきであろうか。
 われわれは矛盾する複数の内容に直面した場合、しばしば価値の序列化を行っている。つまり、聖書を正典として受け入れながらも、そのすべての部分を同一の価値を有するものとして並置させずに、より重要なものを正典性の土台部分として理解している。もちろん、その選択・序列化が時代の影響を免れ得ないことは確かであるが、同時に時代に応じた意味の再構成をしなければ、聖書の言葉は生きた言葉とはなり得ないであろう。

 その視点に立って考えるなら、今日、聖書にある家父長制的諸表現を問いなおす一つの根拠は、セクシュアリティに対する積極的な経験的規範に求められるべきである。伝統からの拘束にとらわれず、経験に即して理解が変わっていく例は新約聖書自体の中にもある。割礼や食事規定をめぐる初代教会内での理解の変遷はその一例である。われわれが十分に聞いてこなかった「声なき声」が、むしろ逆説的に、新たな倫理的規範性を生み出す内的な力となり得ることを聖書は語っているのではなかろうか。

4 課題と展望
 同性愛に関する理解が深まりつつある北米においては、逐語霊感説的立場を除けば、同性愛批判の根拠とされてきた聖書箇所に対し、伝統的解釈を是正する方向にあると言える。しかし、そのようは作業を共有しながらも、例えば、次のような点に関して解釈は必ずしも一致しない。(1)教会は同性愛者の市民権を擁護すべきか。(2)同性愛者は教会のメンバーになることができるか。(3)同性愛キリスト者が同性愛的ライフスタイルを維持することは適切か。(4)教会は同性愛者の「ユニオン」(結婚)を祝福すべきか。(5)同性愛キリスト者は、自らの性的指向を変えるよう努力すべきか。(6)同性愛者は按手の対象となるのか。
 これらの点に対して、肯定的にせよ否定的にせよ、明快な解決をもたらし得る特定の聖書箇所は存在しない。しかし、旧来の固定的解釈を相対化する試みは、性に関する聖書的言説の再考を着実に促し、新しい性倫理への道を開いてきたと言える。また、そうした成果に支えられながら、上述の諸問題についての議論を建設的に組み立てていくためには、何らかのガイドラインが必要とされる。そこで、新約聖書が旧来の伝統的性理解を越えて、今日のわれわれの問いかけに対する指針となるために、どのような課題があるのかを次に提示したい。


(a)異性愛主義(heterosexism)・生殖主義(procreationism)の見直し
 異性愛を聖書的規範と主張する者は、マコ一〇・二―九、一テサ四・三―八、一コリ七・一―九、エフェ五・二一―三三、ヘブ一三・四などの箇所をその根拠としてあげる。しかし、これらの箇所は異性愛のみを支持する根拠とはなり得ない。なぜなら、これらの箇所はいずれも、一般的な夫婦関係のあり方に言及したものであり、それ以外の愛のあり方を積極的に否定しているわけではないからである。むしろ、われわれは、同性同士の関係の肯定的な表現として、トリファイナとトリフォサ(ロマ一六・一二)、エボディアとシンティケ(フィリ四・二)などが言及されていることに注目すべきであろう。
 また異性愛主義の論理的帰結の一つとして生殖(至上)主義を見逃すことはできない。両者は表裏一体の関係にあると言える。生殖主義の考えによれば、性は必然的に人間の生命の創造に向けられている。本来の性は、生殖にのみかかわるという理解がそこにはある。このような考え方が、結果的に、生殖を伴なわない性、つまり、同性愛者、障がい者、高齢者らの性行為を除外し、多様な快楽のあり方を否定することは明らかである(Gudorf[1994: 29-32])。

 新約聖書の中には一テモ二・一五の表現があるが、他に生殖至上主義を支える直接的な根拠があるわけではない。しかし、教会の伝統の中ではこの考え方は少なからぬ影響を及ぼした。性の目的を生殖のみに限定し、機能的に特化することによって、結果的にヘレニズム思想から継承した性的二元論を促進することにもなった。その性的二元論は、男性を霊的・理性的存在と見なし、女性を肉体的・性的・非理性的・感情的存在と見なすのである。
 そのような伝統が不当な性差別を生み出したとするなら、今日、われわれは聖書本文および聖書解釈史の中にある異性愛主義・生殖主義的傾向を相対化するよう努めなければならないであろう。そして、異性愛に対し宗教的により高次の価値を与えることにより、それが内包する家父長制的構造を暗黙のうちに承認してきたことをまず認識すべきである。かつてパウロがマラコイやアルセノコイタイを非人間的と見なし批判した緊張感を誠実に受けとめるなら、われわれが今日同じ迫力を持って批判・追及する矛先は、同性愛ではなく、むしろ異性愛の暗部にあると言えるのではなかろうか。


(b)自然科学(特に生物学)との対話の必要性
 固定化した伝統的価値観を変えていくためには、それを相対化して洞察することのできる外からの視点が必要となる。そのために神学が他の諸学の成果に学ぶ点は少なくない。実際、同性愛の問題を教会の重要な問題として取り上げるに至るまでには、社会学や、とりわけフェミニズム的視点からの洞察が重要な役割を果たしてきた。それに加え、今日では性の問題をより広い視野から論じるために自然科学、特に生物学の研究成果を考慮する必要がある。
 人間の性についての生物学的な研究成果には目を見張るものがある。精子と卵子が受精し、一個の個体が誕生するまでの間には、多様な性分化のプロセスがある。従来考えられてきたように、性染色体にのみ注目して、女性はXX染色体、男性はXY染色体を持つという区分をするだけでは、人間の性を表現するのにあまりにも不十分である。性染色体によって決定される遺伝的性だけでなく、内性器・外性器の性分化、ホルモンの働きによる脳の性分化など様々なプロセスの複合として人間の性は決定されていくのである。

 しかも、それらの研究によれば、男のあばら骨から女が作られたという創世記二・二二の表現より、男が女から作られたという説明の方がはるかに現実に合致している。そのことを免疫学者の多田富雄は「女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎない」[1997: 116]と語り、さらに「女と、その加工品である男だけという単純化された二つの性と、それによって営まれる生殖行動しか存在しないよりも、さまざまな間性と間性的行動を持った人間の方が、生物学的にも文化的にもより豊かな種のように思われる」[1997: 117]と結論づける。
 もちろん、今日の生物学の研究成果は、性のあり方の現象面について語っているのであり、それは倫理的規範と区別されなければならない。しかし、それらは、家父長制的伝統の中で積み重ねてこられた長年の偏見を除去するのに少なからず役立つはずである。伝統的性理解がユダヤ教の家父長制や、ギリシアの性的二元論をコンテキストとして形成されたことをある種の反面教師としながら、それを克服するために、われわれは自然科学の成果を同時代の有意味なコンテキストとして把握する必要がある。


(c)経験的規範による聖書解釈
 われわれは意識するとしないとにかかわらず、すでに新約聖書のテキストに異なる価値の重みを与え、それによって信仰的意味の構造化をはかっている。その際、この時代に生きるわれわれの経験的規範が影響を与えているのである。ただし、経験的規範は正典としての聖書の規範性とどのような関係にあるのか、その方法論的な問題を十分に考えなければ、単に人間の恣意性の発露となってしまう危険性も秘めている。
 経験的規範による聖書解釈の必要性は、主としてフェミニスト神学から主張されてきた。そこで、現代の代表的なフェミニスト神学者がこの点についてどのように考えているかを紹介することによって、方法論的な広がりと共通性を確認したい。
 (1)E・S・フィオレンツァ「新約聖書は啓示された真理の源であるだけでなく父権制の従属と支配の源でもあるという歴史的・神学的洞察から、聖書解釈学と神学のための新しいパラダイムが必要となる」[1983=1990: 75]。「それゆえに私はこう提案したい。聖書の男性中心的諸伝承とそれらに伴う解釈の神学的評価にとって、啓示の規範となるものは聖書そのものから引き出すことはできない。それは全ての父権制的抑圧からの解放を目指す女性の闘いによって、またこれをとおして、明文化され得るのである」[1983=1990: 78]。

 (2)E・モルトマン=ヴェンデル「ルターは彼の判断基準にもとづいて、ヤコブ書簡は信仰による義ではなく業による義を教えているがゆえに「藁の書簡」だとけなすことができた。今日、女性はこの判断基準に立って、聖書の反女性的な箇所は私たちの神の子としての立場を傷つけるがゆえに、それを拒み、あるいは解釈しなおす権利をもっている」[1985=1988: 275]。
 (3)R=R・リューサー「フェミニズムは、聖書の筆者とは異なる方法で、つまりほとんど批判に曝されたことのない家父長制の枠組みを批判するために、予言者の原則を利用する。......聖書をフェミニスト的に読めば、聖書的信仰の中に、聖書の文書そのものを批判する規範が認められる。聖書の文書は、この規範となる原則を反映している限りにおいて、神聖なものとみなしうる。この原則に基づき、聖書の中の多くの側面が率直に切り捨てられ、拒絶されるべきである」[1983=1996: 48]。

 これらはもっぱら女性という視点を強調しているが、反父権制という点において、これらの方法論は等しく旧来の性倫理の再構築に関与する。それゆえ、フェミニスト的洞察は、父権制の犠牲者としての同性愛者との方法論的連帯をもたらすことができるのである。

(d)終末論的なヴィジョンの中での共同体的取り組み
 性倫理を構築するのに、性に直接関与する表現を聖書から集めるだけでは不充分である。性の問題を適切に位置付けることのできる身体理解を聖書の中から汲み取っていく必要がある。その身体は「キリストの体」である教会に連なり、新しい「神の民」としての身体である。また、ユダヤ人も異邦人も、女性も男性も、奴隷も自由人も、貧しい者も豊かなものも、すべての者が同じ聖霊を分かち合っているという確信が、初期のキリスト教宣教において、それぞれの隔ての壁を越えさせたように、われわれは今またあらためて終末論的なビジョンや霊性を必要としている。そして、それは個人的な偏見の除去という次元にとどまらず、新たな身体的共同体としての終末論的先取り、またそれによる新たなコスモロジーの顕現を意味している。



 ※本文における文献表示は、著者名[出版年(=訳書の出版年): 頁]のように記され、当該の文献は末尾の「参考文献」において知ることができる。
 なお、本稿では性倫理の聖書学的・神学的枠組みを中心に述べたので、現実に、世界のキリスト教各教派が聖書に即してどのような解釈をし、決定をしてきたかという経緯についてはまったく触れることができなかった。この点に関心のある方は、「教会と神学」ホームページ
内の「同性愛特集」を参考にしていただきたい。過去数年の同性愛関係の記事を集めており、解釈の幅を知ることができるだろう。また、それ以降の記事に関しても同ホームページ内の「世界キリスト教情報」で随時紹介されている。


参考文献

荒井献 1988 『新約聖書の女性観』岩波書店。
Boswell, John 1980 
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Moltmann=Wendel, Elisabeth 1985 
Das Land wo Milch und Honig fliesst: Perspektiven einer Feministischen Theologie, Gutersloh=1988 大島かおり訳『乳と蜜の流れる国――フェミニズム神学の展望』新教出版社。
Nelson, James B.; Longfellow, Sandra P. eds. 1994 
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大河原眞美 1998 『裁判から見たアメリカ社会』明石書店。
Ruether, Rosemary Radford 1983 
Sexism and God-Talk: Towards a Feminist Theology, Boston=1996 小檜山ルイ訳『性差別と神の語りかけ――フェミニスト神学の試み』新教出版社。
Scroggs, Robin 1983 
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