研究活動

研究活動

「現代神学における宗教的多元性――グローバル化する世俗化社会の行方」、『宗教研究』329号

一 はじめに

 宗教的多元性という言葉はきわめて形而上学的な響きを持つが、それが前提としている社会状況は、今や多くの地域で日常的な風景の一部となっている。もっとも、宗教多元的状況を太古の昔から今に至るまで経験的事実として知っているアジアやアフリカのような地域と、支配的宗教の足下を揺るがすような形で宗教の多元化が進展しつつある西欧社会とでは、同じ宗教的多元性という言葉であっても、意味合いはまったく異なる。本論文では、宗教的多元性をめぐる議論の震源地である西欧社会を中心にして、キリスト教世界や神学がどのような変容を遂げ、またその変化に応答しようとしているのかを考察する。
 昨今、宗教的多元性という言葉そのものが多義的に用いられているが、キリスト教世界に限定して考えると、そこには区別すべき二つの意味の層がある。一つは記述的な意味であり、もう一つは規範的な意味である。すなわち一方では、単一の支配的宗教が社会的影響力を失っていく中、複数の宗教が社会的に認知されていく一連のプロセスと状況を描写する「記述的」働きをその言葉は担わされている。他方、複数の宗教が存在する状況を評価するために、あるいは、社会における宗教的自由を擁護するために、特定の宗教を優位に置く絶対主義でもなく、また、すべての宗教を同列に置く相対主義でもない別の価値観として宗教的多元性を措定するという「規範的」用い方がなされる。
 この二つの側面は、宗教的多元性が欧米で課題として問われるようになってきた要因とも関係している。そこには歴史的・文化的要因と神学的要因があるが、宗教的多元性が社会の中に現象化してきた歴史的・文化的背景を探り、そこから得られる状況理解を前提にしてはじめて、神学的な考察は解釈の基盤を得ることができる。したがって、以下において、まず宗教的多元性の歴史的経緯を素描し、次にそれに応答する神学的規範の模索を取り上げることにする。


二 宗教的多元性をめぐる歴史的経緯

 宗教的多元性というテーマが神学の大きな課題の一つになってきたのは、比較的最近のことであるが、宗教多元的な状況はキリスト教の最初期から、その信仰理解に大きな影響を与えてきた。一言で言うなら、他の諸宗教との関係の中で、キリスト教はそのアイデンティティを形成してきたのであり、宗教的多元性は神学的営みの背景として存在していた。パレスチナ地方に出現したイエスの弟子集団は、当初、ユダヤ教の一派としてユダヤ教会堂を拠点に活動を展開していたが、彼らのメシア信仰は既存のユダヤ教的伝統に解消しきれない差異を有していることが双方に認識され始めることによって、ユダヤ教から独立した教会組織が形作られていった。また、パウロらによって宣教活動が西方へと拡大されていく際、ギリシア・ローマ的な宗教との接触は不可避なものであった。パウロがアテネのアレオパゴスで偶像崇拝批判をしつつ、復活信仰を説明する場面(使徒言行録一七・一六―三四)や、偶像に備えられた肉を食べる是非をめぐって議論を展開する場面(第一コリント書八・一―一三)などは、キリスト教信仰と当時の通俗的宗教理解との間の摩擦と葛藤を表す典型例と言える。さらに、パウロの後継者の時代になると、宗教祭儀にかかわる軋轢に加えて、より思弁的な対決が現れてくる。グノーシスは広範囲に見られた宗教思想・運動であったが、救済論をめぐってキリスト教はグノーシスとの違いを明示する必要に迫られたのであった。
 このような他宗教との接触を通じて、キリスト教は自らの宗教的アイデンティティを弁証することをしばしば余儀なくされてきたが、そうした努力も四世紀以降のコンスタンティヌス体制下においては不要なものとされていった。コンスタンティヌス大帝がキリスト教をローマの宗教として公認するようになってから、ヨーロッパでは、キリスト教がみずからを唯一妥当な宗教と見なすことが広く許容されてきたからである。実際には、ユダヤ教を除き、キリスト教以外の宗教はほとんど存在しなかった。そのユダヤ教も、単一の支配宗教であるキリスト教のもとで、長期にわたって反ユダヤ主義的な抑圧を甘受せざるを得なかった。この「宗教的一元性」がイデオロギー的な力と結びつくことによって、少数者の徹底した排除へとつながっていく暴力性を容易に胚胎することは、二〇世紀前半のドイツ史において悲劇的な形で露呈された。その悲劇は、当時のドイツの社会事情にのみ還元しきることのできない歴史的要因を持っていたと考えるべきであろう。
 宗教的多元性は突如として神学的議論の舞台に躍り出たわけではない。そこには、先立つ西欧社会の急激な変化と、それを主題とした議論の土壌があった。神学の中でそれは世俗化論として扱われてきた。世俗化は一般的に、宗教が社会や文化の中心的存在から周辺的存在へと変化していくプロセスとして理解されているが、もともと、この言葉は、宗教改革の時代に、教会の財産(土地や建物など)を行政に譲渡することを指して用いられ始めた。そこから、土地などが教会の支配から解放されるのと同様に、社会や文化が教会権力から解放され、キリスト教の影響が次第に減退していく現象を広く世俗化と呼ぶようになったのである。このような変化は、第二次世界大戦後、ヨーロッパを中心にさらに進行していくが、とりわけ既成教会にとっては、礼拝出席者の激減として大きな危機感をもって受けとめられた1。キリスト教神学や宗教社会学において、世俗化の歴史的意味を問う世俗化論が、戦後盛んに議論されるようになったが、そこではキリスト教の危機と言うより、むしろ、世俗化が近代社会にもたらしたポジティブな面に関心が寄せられた。キリスト教と他の諸宗教との関係への神学的関心も、そうした経緯の中から生まれてきた。
 また諸宗教への関心は今や学問的領域にとどまらず、生きた日常として市民生活の中で経験され、議論されている。それがしばしば問題として現れてくるのは教育の現場においてである。キリスト教の伝統的位置づけと政教分離の原則との関係が争われてきた米国の事例は比較的よく紹介されるので、ここでは隣国同士でありながら、宗教教育に関して対照的とも言える方針を打ち出してきたフランスとドイツから具体的事例を紹介する。
 一九八九年、イスラム教徒の女子生徒がヒジャーブ(ベール)を着用して登校してきたことが、フランス教育界を揺るがす大きな議論となった。これは、イスラム教を背景に持つ移民たちの間に、自らの宗教的アイデンティティの確認と連動した宗教回帰現象が興隆してきたことを示す象徴的な出来事であった。従来、公教育の場へ宗教性を持ち込むことを「ライシテ」(Laicite、非宗教)の原則(フランス憲法第二条)から禁止してきたフランス政府は、ライシテの原則と表現の自由の原則の間で板挟みになりながら、一九九四年、ようやく次のような結論を出すに至った。すなわち、極端に目立つものでなく、改宗の呼びかけを目的にしていなければ、ヒジャーブを含む宗教的シンボルの着用を認める、としたのである。政教分離の原則を適用する際に、宗教=キリスト教と同一視できた時代であれば、これほどまでに問題は大きくならなかったであろう。しかし、イスラム教徒の側から出された、ヒジャーブ着用が認められないなら、同様に十字架やキッパ(ユダヤ教男性が頭部に乗せる丸い布)の着用も禁止せよ、という批判の前で、ライシテに基づく政教分離の原則は有効な反論をすることができなかった。宗教多元社会が到来する中で、キリスト教世界において前提とされてきた原則が、その根拠を問い直されているのである。
 また、ドイツでは国内に三百万人いると言われているイスラム教徒の子どもの宗教教育をどのように行うべきか、ということがしばしば問題になってきた。連邦国家であるドイツでは、教育制度は基本的に各州に任せられている。ドイツ基本法に記されているように、教会の指導のもと宗教教育を正規の科目として行っている州が大半であるが、カトリックとプロテスタントの授業の他、どちらも受けたくない生徒には「倫理」の授業も認めている。現時点では、まだイスラム教宗教教育は公立学校では行われていないが、ドイツ福音主義教会(EKD)は一九九九年に「イスラム教徒児童に対する宗教教育」2 という報告書をあらわしている。そこでは、ドイツ基本法第七条第三項の「宗教教育は、国の監督権をさまたげることなく、宗教団体の教義にしたがって行われる」という条文にある「宗教団体」をキリスト教会に限定せず、イスラム教団体にまで拡張して解釈する方針を打ち出している。そこでは同時に、イスラム教徒のための宗教教育実現に至る様々な問題点も指摘されているが、従来、「宗教教育=キリスト教教育」とされてきた構図に、宗教的寛容の精神を大胆に取り入れた姿勢は、EU時代の宗教教育に先鞭をつけたものとして評価してよいだろう。


三 宗教的多元性に対する神学的応答

 宗教的多元性がはらむ問題は、世界のグローバル化に伴って、数多くの宗教に影響を与えつつある3。とりわけキリスト教はこの問題に多大な関心を払い、思想的・実践的な応答を試みてきた。その代表的なものとして「宗教の神学」4をあげることができる。宗教の神学における議論は多岐にわたり、それに関する文献もすでに膨大なものになっているが、その課題は主として次の二つにまとめることができるであろう。第一は、キリスト教は他の宗教をどのように理解するか、という課題であり、第二は、他の宗教に直面して、キリスト教は自らをどのように理解するか、という課題である。そういった二つの思考軸を織り交ぜながら、宗教的多元性の神学的解釈が多様に展開されてきたのである。そして、そのモデルのいくつかは、精緻な神学的解釈がなされる以前から、具体的な宣教論の中に見いだされることは言うまでもない。
 宗教の神学は、そうした歴史的経緯を振り返りながら、他宗教に対するキリスト教の態度を、しばしば、排他主義(exclusivism)、包括主義(inclusivism)、多元主義(pluralism)といった類型を用いて考察してきた5。これらの類型は複雑な問題状況に見通しを与えてきたという点で評価できるが、同時にその類型自体が固定的なイメージをともなって流布することにより、それぞれの内部にある微妙な差異や、あるいは、それぞれの類型に横断的に存在している問題が見過ごされがちであったことも認めるべきであろう。ここでは、自己充足的な類型論に陥らないよう、それぞれの類型の具体的な「担い手」を考慮しながら三つの類型を取り上げ、宗教的多元性の今後の課題を考察していくための一助としたい。

1 排他主義者
 排他主義者は、キリスト教と他の宗教との間に質的な相違・断絶を前提とする。その際、正義と悪、光と闇、生と死といった二元論的区分を強調する表現が好んで用いられる。伝統的な宣教論においては、しばしばキリスト教の絶対性が排他的に主張され、非キリスト教世界に対し、その絶対性への服従を要求することになった。排他主義的立場が単なる神学的見解を越えて、近代の植民地主義政策の思想的根拠の一つとして機能してきた一例を、カトリックの宣教学者G・ヴァルネック(Gustav Warneck)に見ることができる。彼の主著『福音的宣教論』(全五巻、一八九二~一九〇五年)は第二次世界大戦にいたるまで、ドイツ語圏を越えて、カトリック教会の宣教論全体に大きな影響を与えていた。広く共感を得た彼の宣教に対する定義は次の言葉に集約されている。「キリスト教宣教のもとで、我々は非キリスト者の中にキリストの教会を植え付け組織化することに対して向けられた、全キリスト教徒の全体的活動ということを理解する」6。ヴァルネックによれば、宣教は自分自身にしろ他の教派にしろ、キリスト者に向けられたものではなく、その目的は非キリスト者を改宗させ、洗礼を授けることにある。したがって、キリスト教は「人類の一般宗教となるように定められている」7。 彼は西欧化(Europ?isierung)とキリスト教化(Christianisierung)の同一視を拒絶するが、彼にとってキリスト教の普遍性は、絶えず問題の中心にある。人類のためのキリスト教であり、キリスト教のための人類なのである8。
 この排他主義的類型に属するのは、「教会の外に救いなし」(extra ecclesiam nulla salus)という考えを長い間保持してきたカトリック教会だけではない(ただし第二バチカン公会議[一九六二~一九六五年]以降、カトリック神学者の多くは排他主義的立場を離れていく)。プロテスタントの保守派の中には、かつてのカトリック以上に、他宗教に対する排他的立場を取るものが少なくない。冷戦時代において、プロテスタント保守派の関心は共産主義思想との対決に向けられていたが、冷戦構造の解体後、彼らの伝道熱は今やイスラム世界へと向けられつつある。また、米国最大教派の南部バプテスト会議をはじめ、ユダヤ人の改宗を宣教方針の中に入れることによって、ユダヤ人団体からの批判を浴びてきた例もある。
 主流派の教会や神学者たちは、今日では排他主義的立場を一様に拒絶しているが、排他主義的態度を取る教会は今なお多様な形で存在している。しかし、彼らの神学的特徴を次のようにまとめることは可能であろう。
 (a)排他主義者は、キリスト教と他の宗教との間に越えがたい断絶があると考える。すなわち、キリストにおける神の啓示は、他宗教の啓示(真理性)に優越するだけでなく、そもそも両者は異なるカテゴリーに属するという認識論的な相違が前提にされている。また、その啓示の保持者として教会の権威が強調される(教会中心主義)。
 (b)その主張は聖書の権威に基礎づけられている。彼らが好んで引き合いに出す聖書箇所として、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録四・一二)、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)などをあげることができる。イエスの独自性や、イエスの生涯・十字架での死・復活が持つ普遍的な意義は、どのようなリベラルな聖書解釈学によっても相対化されることはないと彼らは考える。その意味では、近代以降蓄積されてきた膨大な聖書学的知見に対し、排他主義者は絶えず一定の距離を置いており、「逐語霊感説」か、それに近い解釈学的態度を取ることが多い。
 (c)救済に関して、排他主義者はキリスト論に大きな価値を置く。救いは他の宗教における神的存在によって成し遂げられることはなく、ただキリストによってのみ可能となると考える(キリスト中心主義)。排他主義者の神学的理解の中では、先の素朴な聖書解釈とは対照的に、キリスト中心的救済論は比較的緻密に組み立てられている。その際、神学的基礎づけのためにプロテスタント神学者K・バルト(Karl Barth)のキリスト中心的救済論が用いられることが多い9。
 (d)排他主義者が他の宗教と対話する際の最終的な目的は、福音宣教にある。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ二八・一九)という宣教命令は、彼らの宣教的情熱を駆り立てる典型的表現の一つである。
 以上、排他主義者の神学的特徴を概観してきたが、従来、排他主義者は宗教間対話に関心がないとされてきた言説には修正が必要であることを強調しておかなければならない。排他主義的キリスト教グループは、今や教派の枠組みを越えたつながりを形成している。たとえば、「キリスト教徒連合」(Christian Coalition)や「家族重視」(Focus on the Family)などの宗教右派を中心に、保守的なプロテスタント、カトリック、ユダヤ教が相互に共有可能な政治的・社会的課題に対し、連合して取り組もうとしている。具体的な政策を中心にした宗教間対話は、単なる神学理論ではなく、一般信徒にまでフィードバック可能な現実感を伴っている。ただし、宗教間対話といってもユダヤ・キリスト教的伝統の域を出ないのが彼らの特質であり、それはまさに彼らの宗教理解を反映している。また、排他主義的とされるグループの中には、女性を中心にした超教派的な活動も存在している。「女性と社会に関するエキュメニカル連合」(The Ecumenical Coalition on Women and Society)は、多文化主義や宗教間対話に同調してきた近年のフェミニスト神学を偶像崇拝的であると批判する10。そして、離婚・中絶・同性愛に決然と反対する、宗教右派の立場に立つ超教派的ネットワークを形成しようとしている。
 宗教的多元性に対する排他主義的態度の強みは、自らの宗教的信念に対する日常的かつ実践的な参与にある。排他主義者が理想とする人間理解・家族理解が結果的に社会的・宗教的マイノリティを排除しているとすれば、それは等閑視できない問題を含んでいると言わざるを得ない。しかし、彼らの運動が少なからぬ支持を得ていることは、今日の価値多元的な社会――それは政教分離の原則に基づき、宗教に対する中立性が形式的に求められる社会でもある――が、宗教的心情の発露に必ずしも安定した場所を与えていないことを示唆している。

2 包括主義者
 先の排他主義的立場がキリスト教とほぼ同じ長さの歴史を有しているのに対し、自覚的な包括主義者が現れてきたのは比較的最近のことである11。第二バチカン公会議での宣言「我らの時代に」(Nostra Aetate)において、カトリックは他の宗教の真理性を否定しないことを確認し、宗教間対話は新たな時代を迎えた。それに連動するかのように、一九六〇年代以降、プロテスタントの側でも、世界教会協議会(World Council of Churches)を中心に宗教間対話をテーマとする様々なプログラムが展開されてきた12。WCC内部における他宗教理解は、バルト主義的な排他主義者と包括主義者との間の緊張関係のもとに形成されてきたと言えるが、一九七九年には『諸宗教と諸イデオロギーに生きる人々との対話に関するガイドライン』を刊行し、一九九五年、ダブリンの協議会では、エコロジーやフェミニズムの視点を交えながら「多元主義の諸宗教」というテーマで討議がなされたことからもわかるように、着実に宗教間対話の方法論を築きつつある。
 包括主義者の神学的特徴を次のように要約することができるであろう。
 (a)救済はキリスト教以外の宗教においても成し遂げられる。ただし、それはキリストにおける神の恵みが普遍的な効力を持っているからである。つまり、この考えの前提には、宗教によって呼び名は異なっても、一つの神的実在が存在するという神理解がある。
 (b)包括主義者にとっても、排他主義者と同様、救済はキリスト論的に根拠づけられている。ただし、それは排他主義のように認識論的な意味においてではなく、存在論的な意味においてである。つまり、排他主義では、キリストにおける神の恵みを認識することなしに救いへと至ることはできないが、包括主義では、キリスト論的な意味での恵みを認識しなくても、キリストの普遍的恵みが存在論的に救いを保証してくれる。このような救済論は伝統的な「自然啓示」の理解の上に立脚していると言える。自然啓示の考え方によれば、人間は自らの自然的な能力(理性など)によって神を知ることができるとされるからである。
 (c)包括主義者は、他の宗教の中に真理契機を認めるが、それは彼らが所有している本来の真理の一部あるいは不完全な形に過ぎないと考える。キリスト教は完全な真理を有しているが故に他宗教に対し優位に立っており、逆に、キリスト教以外の宗教はキリスト教的真理にどの程度一致しているかによって、その価値を計られることになる。このようにキリスト教と他宗教の間には原則的な区別が存在しているが、それは排他性へ向かうのではなく、包括的な上下関係へと置き換えられる。下部には基本的・一般的なものが位置し、それを統括、支配する形で上部には高次・特殊な存在としてのキリスト教が位置するのである。この上下関係は決して対立的なものではなく、弁証法的関係にある相補的な二つの極であると考えられる。その二局構造の具体的表現は聖書中および神学史の随所に見られるが、その例を次にあげる。非キリスト教世界:キリスト教=一時的:永遠、約束:成就、律法:福音、部分:全体、一般:特殊、自然:超自然。
 包括主義的立場を明瞭に語る考え方として、しばしば、カトリック神学者K・ラーナー(Karl Rahner)の「匿名(無名)のキリスト者」があげられてきた。キリスト教以外の宗教においても、キリスト教的観点から見て救いに値する生き方をしている人は、たとえ本人が意識していなくても、すでに事実上のキリスト者だ、というのである13。プロテスタントの側では、P・ティリッヒ(Paul Tillich)が包括主義的な立場を取りながら宗教間対話の可能性を先駆的に示した14。いずれにせよ、包括主義者の主たる関心は、キリスト教と他宗教とをどのように「統合」するのか、あるいは両者の関係をどのように「構造化」するのか、に寄せられてきたと言える。今日では、包括主義的理解がより洗練された形で展開されており、自由派プロテスタント教会のほとんどは包括主義的立場を取っている(ただし、必ずしも自覚されているわけではない)。

3 多元主義者
 西欧世界においては、多元主義者は排他主義者・包括主義者の後に現れ、先行する二つの類型に明示的および暗示的に内包されている「キリスト教の絶対性要求」を批判する。今日「宗教の神学」の領域において展開されている議論のほとんどは、多元主義者と包括主義者によってなされている。多元主義者はキリスト教を徹底して相対化しようとするが、その程度・方法をめぐって、包括主義者との論争は絶えない。また、多元主義者が自らの果敢な試みを「神学的なルビコン渡河」15と呼ぶことに対し、包括主義者(あるいはポスト多元主義者)は、それは「解釈者が諸宗教を自分のシステムの土俵に組み入れて理解しよう」とする帝国主義的態度に他ならないと批判する16。こうした議論の中で、両者とも、それぞれの神学的主張を成り立たせるための方法論を模索しつつ、既存の方法論に修正を加えている。結果的に、かつてほど包括主義者と多元主義者との差異が明瞭でなくなってきたことは、昨今の特徴としてあげることができるだろう。きわめて包括主義に近い多元主義者、きわめて多元主義に近い包括主義者、あるいは多元主義を批判的に克服しようとするポスト多元主義者などが現れており、一様に分類することは困難である。しかし、すでに積み上げられてきた議論の中で、多元主義者の主張は次のような共通した論点を有していると言える。
 (a)宗教的多元性は恒常的なものであり、それはいかなる単一の宗教にも取って代えられることはない。(b)諸宗教の中には固有の真理契機がある(ただし、すべての宗教が救済的意義を持っているわけではない)。(c)いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。(d)キリスト教信仰にとってイエスは独特の意味を持っているが、その独自性は排他的な形で優越性・超越性と結びつけられるべきではない。
 これらの論点を緩やかに共有しながら、多元主義者は、それぞれの方法論を規定する次のような動機づけを持っていると言える。
 (ⅰ)倫理的・実践的動機づけ。宗教間および宗教内の対話や協力、平和を推進するための実践的なモデルを作り出すために、多元主義的な立場に立とうとする人々は少なくない。L・スウィードラー(Leonard Swidler)、R・R・リューサー(Rosemary Radford Ruether)、T・ドライバー(Tom Driver)、P・ニッター(Paul Knitter)らは、その代表的な人物である。各人の方法論は異なるが、いずれも、宗教多元的な現代世界において絶対的・普遍的な宗教的真理を主張することは非倫理的な行為であると理解している。彼・彼女らの理解によれば、キリスト教が対外的に絶対性・優位性を主張し、また、対内的には支配・従属の関係を基軸とするキリスト論を保持してきた結果、宣教論的に正当化された宗教戦争や植民地主義政策、あるいはキリスト教内部における反ユダヤ主義、家父長的な女性支配を生み出してきた。そうしたキリスト教内外の倫理的問題を実践的に解決するために、宗教多元主義的な立場からキリスト教を相対化する作業が必要だというのである。
 この種の多元主義者は、一九六〇年代以降、神学の主要テーマとなってきた解放の神学とフェミニスト神学から大きな影響を受けている。実践的な多元主義者は、宗教的多元性への取り組みが形而上学的な理論構築に陥ることを警戒しながら、「抑圧された人々」に目を向けることを求めている。ニッターが解放の神学の視点から宗教の神学を構想しようとしているのはその典型的な例であるが、彼はキリスト教の他宗教理解の中心点が教会中心主義からキリスト中心主義そして神中心主義へと移ってきたことを指摘しながら、それをさらに「救済中心主義」「神の国中心主義」へと進めなければならないという17。つまり、そこでは抑圧された人々・貧しい人々への実践的行為を通じて、救済や解放がどの程度実現されているのかが問われるのである。
 同様の視点は、フェミニスト神学からの宗教多元主義へのアプローチの中にも見られる。フェミニスト神学者の多くは、他宗教に対するキリスト教の排他主義的・包括主義的態度と、キリスト教内部にある男性の女性に対する支配的・抑圧的態度との間にアナロジーを見いだす。「男性の普遍性の中に女性を包摂することによって女性の経験を消去する性差別(包括主義)と、女性の独自性を認めて女性にある性質を割り当てる性差別(排他主義)との違いは、結局成り立ちえない違いなのである。第二の場合は、第一の場合の一例にすぎない。というのは、女性に割り当てられる性質は、女性自身の証言から引き出されたものではなく、男性が女性に投影したものだからである」18。こうした洞察のもとに、男性による女性支配を克服していこうとするフェミニスト神学者たちの関心は、キリスト教内部における支配・従属の構造を醸成してきたキリスト教の絶対性要求を解体することにも向けられるのである。加えて、フェミニスト神学者たちの国境を越えたグローバルなつながりが形成されつつある中、各地における宗教的多元性が大きなテーマとされてきた。その背景には、フェミニスト神学が主題としてきた「女性」とは、結局のところ、欧米世界における中産階級の白人女性のことではないか、他の国々の貧しい女性たちの視点が欠落しているのではないか、という批判があり、そうした批判に触発されて、多様な宗教的・文化的背景を持った多様な女性の声に耳を傾けようとする動きが生じてきたのである。
 解放の神学の場合も、フェミニスト神学の場合も、伝統的な欧米型神学からの解放に大きな関心を寄せてきた。同時に、アジアの神学者たちが、自らの置かれた宗教多元的環境の中でどのようにキリスト教信仰を経験するのか、という問いに対し、積極的な応答を試みている。その典型的な例として、インドでのR・パニカー(Raimon Panikkar)、台湾でのC・S・ソン(Choan-Seng Song)、韓国でのH・K・チャン(Chung Hyun Kyung)、日本での八木の経験などをあげることができるであろう19。本論文の最初に述べたように、アジアやアフリカの人々にとって宗教的多元性は経験的事実として眼前に存在しており、そうした経験と折り合いをつけながらキリスト教信仰を語るためには、排他主義・包括主義とは一線を画する神学的アカウンタビリティが要求されているのである。
 (ⅱ)宗教哲学的・理論的動機づけ。上記の倫理的・実践的理由による多元主義的立場と決して無関係ではないが、より理論的な関心に根ざして、異なる宗教間の対立する真理主張に整合的な説明を与えようとする宗教哲学的な思索がなされてきた。その筆頭にあげられるべき人物は、J・ヒック(John Hick)であろう。ヒックによって宗教多元主義をめぐる論争に火がつけられたと言っても過言ではないからである20。宗教多元主義に対する彼の理解は次のように述べられている。「多元主義とは、偉大な世界宗教はどれでも〈実在者〉なり、〈究極者〉なり対するさまざまな覚知と概念、またそれに応じたさまざまな応答のしかたを具体化し、加えて、その各々の伝統内において〈自我中心から実在中心への人間存在の変革〉が明確に生じつつある(中略)とみなす見解のことである。したがって、偉大な宗教的伝統はそれぞれ代替的な救いの『場』、あるいは救いの『道』と見なすことができる。そしてこの場なり、道なりに沿って、人は救い・解放・悟り・完成に達することができるのである」21。彼は、どの特定の宗教の神的実在をも超えているという意味で「実在者」「究極者」という呼び名を用いているが、それが「一者」であることを一貫して主張している。その一者に連なる道が多数存在するという意味での多元主義であり、その限りにおいて、どの宗教も全体的真理の一部を占めるに過ぎないために、諸宗教は互いに相補的な関係にある。それが宗教間対話を推し進めていく根拠とされるがゆえに、その対話は真理探究的対話となるべきなのである。
 ヒックの宗教多元主義をキリスト教に適用した場合、伝統的なキリスト中心主義は神中心主義へと移行する。また、そのためにキリスト論の相対化が必要であるが、ヒックは従来のキリスト論における受肉の教理がキリスト教の絶対性・優越性の主張を招いたと考え、受肉の教理の再解釈を試みる22。彼の理解によれば、イエスが受肉した神の子や三位一体の第二格として形而上学的な神性を与えられたのは、弟子たちの宗教経験にギリシア的な言語表現が与えられた結果であり、そもそも、イエスに付与された神的呼称はメタファーとして理解すべきなのである。もっとも、イエスの自己理解を含め、史的イエスの再構成は今日の聖書学においても、容易に一致点を見いだすことはできない。しかし、聖書学の最先端の成果を用いることによって、教義学的に固められてきたキリスト論を相対化しようとする方向性は多元主義者の特徴の一つであり、それは逐語霊感説的な解釈学的立場に立つことの多い排他主義者とは対照的である。
 また、宗教多元主義者の中には、ヒックのように神的実在を「一者」として宗教的多元性を収斂させる考え方の他、多元性を究極的実在の構造そのものを表していると考える非収斂的な理解もある。パニカーは後者の代表的人物であるが、彼によれば、多元主義は統一を必要とせず、それは「最後にすべてがひとつになるという終末論的期待ではない」23。彼はヒックに対する批判を込めて次のように述べている。「この実在は、その名前の他にあたかも一つの実在が存在するかのように多くの名前を〈持っている〉のではない。その実在が多くの名前で〈ある〉。そして、それぞれの名前が一つの新しい見地なのである」24。ヒックとパニカーは対照的な見解を示しているが、彼らに限らず、多元主義者たちの神的実在の理解や問題の設定の仕方にはかなりの幅があると言える。ただし、収斂的モデル、非収斂的モデルのいずれの立場も、宗教多元的状況の中で宗教間対話の可能性を説いており、また、それを伝統的キリスト教に教義上の再考を促すラディカルな問題提起としている点で共通している。
 (ⅲ)キリスト論的動機づけ。先のヒックによるキリスト論の相対化においても言及したが、特に北米を中心として、過去数十年の新約聖書学におけるイエス理解の急速な変化が、神学そのものに大きな影響を及ぼしてきている。イエス研究は、従来の文献学的方法に加え、文化人類学・考古学・社会学などの洞察やモデルを体系的に利用することによって、様々な新しい成果を生み出しつつある。端的に言うなら、広く共有されてきた終末論的預言者としてのイエス像が大きく揺らいできているのである。そして、新たなイエス像として、とりわけ非黙示文学的な「知恵の教師」としての姿が活発な議論の対象とされている25。もちろん、確固としたイエス像が新たな形で成立しているわけではないが、多くの聖書学者にとって、史的イエスと、終末論的・キリスト論的な神性を付与されたイエスとを区別することはすでに合意事項とされていると言ってよい。排他主義者や包括主義者にとっては、これまでキリスト論が、多元主義的動向を神学的にくい止める防波堤の役割を果たしてきたが、それが今や聖書学からの揺さぶりを大きく受けている。つまり、イエスの独自性のみならず、キリスト教の絶対性・優越性を裏付ける働きを担ってきた「受肉した神」「神の子」といったキリスト論的理解は、もはや存在論的な前提とされず、むしろその概念形成の歴史的経緯にメスが入れられているのである。そうした聖書学的成果の追い風を受ける形で、多元主義者は伝統的なキリスト論から比較的自由な問題設定の場を得ることができるようになっている。同時に、欧米の宗教多元主義者とは別に、欧米以外の国々ではすでにそれぞれの文化・伝統に根ざしたイエス理解が多様に展開されている26。


四 今後の展望

 排他主義、包括主義、多元主義という類型は神学的・宗教哲学的な議論の中から生まれ、専門家たちが宗教的多元性に対する立場を表明するための、いわば座標軸のような役目を果たしてきた。しかし、すでに見てきたように、それぞれの類型が指示する信仰理解や宗教経験の具体的な担い手は、学問的領域に限定されない広がりを有していると言える。その意味で、宗教的多元性は宗教哲学や組織神学における形而上学的テーマである一方、それは実践神学や歴史神学の考察対象ともなり得る、生きた日常なのである。また、議論の焦点であり続けるキリスト論の解釈は、イエスの実像を問う聖書学的成果から絶えず影響を受けている。神学の諸学科は細分化されて久しいが、宗教的多元性は現代神学の総合的な力を問う、良い試金石になっていると言える。
 自らの宗教的信念に真摯に参与しようとする排他主義者と、既存の宗教経験の間に意味ある関係づけを模索する包括主義者と、自己批判と自己変革を同時に求める多元主義者との間に価値の序列を付けるべきであろうか。確かに、多元主義者の中には、排他主義から包括主義、さらに多元主義へと移行することが望ましいと考える者が少なくない。しかし、そうした進歩史観に従って、世界の宗教状況が推移していくとは到底考えられない。科学技術が宗教的伝統の古層を一掃するどころか、昨今の宗教右派の興隆に見られるように、社会の複雑性が増せば増すほど、より単純明快な宗教的アイデンティティへの希求が増大する場合もある。社会の世俗化とそのグローバルな進行が、伝統宗教の社会的影響力の低下を促しているだけでなく、同時に局地的な宗教回帰現象をも引き起こしているという時代の中で、排他主義、包括主義、多元主義の境界は自ずと流動的なものとなっている。したがって、今後、求められるのは、それぞれの神学的立場をより進歩的なモデルに収斂させていくことではなく、それぞれの立場に立つ者どうしが共存可能な条件を現実に即して設定していくことである27。また近年、宗教間対話に関する様々な声明28が出されてきたが、それが誰にとっての対話であり、誰にとっての合意であるのか、という点がしばしば問われてきた。つまり、そうした合意は主流派のリベラルな学者の間だけ成立可能なものではないか、異質な者を排除した上で提示される諸宗教の共存可能性はどの程度意味を持つのか、という批判がそこにはある29。
 そうした文脈の中で宗教的多元性を神学的に受けとめていくための重要な要素の一つとして、他者性の認識がある。先に解放の神学とフェミニスト神学の取り組みをあげたが、そこで示されていたのは、キリスト教内部の「他者」の認識と、キリスト教外部の「他者」の認識には平行関係があるということであった。すなわち、キリスト教の他宗教に対する関係は、富める者の貧しい者に対する、男性の女性に対する、支配者の被支配者に対する関係と通底しているのであり、そのいずれもがキリスト教神学の今日的課題を形成している。ここで他者とは、単に自分以外の存在というだけでなく、本来自分の意のままにならない予測不可能・制御不可能な存在であると言える。その意味で、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に他者性の起源でもある。それゆえ、神や人の他者性を顧慮しない者は、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性を絶えず内包している。すなわち、他者の他者性を受け入れることのできない者は、他者を自己に従属させようとするのである。解放の神学の立場に立つ多元主義者は、まさにこの人間論的問題を洞察し、克服するために「正義」という概念を積極的に用いる。つまり、すべての宗教を等価と見なす宗教相対主義と宗教多元主義とを区別する規範として、正義の実践を強調するのである。他者性を認識する正義の視点がなければ、多様に宗教的装いをした「悪魔的なもの」(解放の神学者たちは植民地主義・帝国主義・戦争・社会的弱者の搾取などをあげる)が持つ強力な同化作用を見過ごすことになりかねない。また、正義とは何かを、現実社会(そこでは特定宗教内の自明性は異化される)の中で実践的に問うことによってはじめて、信仰者や宗教組織が保持している内面世界と、宗教的多元性を前提とする外部世界との間での往復運動を可能にする、宗教の公共性が醸成されていくのである。しかし他方では、正義という概念は西欧的であり、宗教的多元性をめぐる議論全体が西欧の自由主義的な宗教思想の一部に過ぎないのではないか、という批判も繰り返しなされてきた。このような緊張の中で、氾濫する相対性に平衡をもたらし得る価値規範を現代神学は模索しなければならないのである。
 宗教的多元性は宗教的一元性のアンチテーゼとしての役割も果たしている。宗教的一元性は、排他主義者の例に見られるように、キリスト教や他の諸宗教の支配イデオロギーとして機能してきただけではない。第二次世界大戦下のドイツや日本において典型的に見られたように、国家主義的イデオロギーを強化する際に宗教のあり方は一元的に統制され、宗教的一元性は、国家に対し疑似宗教的な能力を付与する一翼を担った。近未来社会において、かつてのようなファシズムが席巻するということは直接的には考えられない。今や国家という枠組みを超えて、世界のグローバリゼーションの原動力となっているのは科学技術である。テクノロジーは宗教や文化の相違を容易に超え、まさに普遍的な適用可能性を誇示している。しかし、現代のわれわれはテクノロジーが生み出した負の遺産(核兵器・核廃棄物、環境問題など)に直面しているだけでなく、人の生命の尊厳にかかわるような新たな難題(先端医療技術の利用など)を刻々と突きつけられている。しかし、そこでもテクノロジーの恩恵を受ける人々と、その犠牲になっている人々との間に歴然とした差異が存在している。しかも、テクノロジーと社会とのインターフェイスが画一化し、機能不全に陥ると、テクノロジーが暴走する危険性があることを、ナチス・ドイツの場合に限らず、二〇世紀の歴史は多く語っている。したがって、同様の近未来的悪夢を未然に防ぐためにも、宗教的多元性が社会における多様性の源泉であり続けることには大きな意味があると言える。その上で、それぞれの宗教が、その外部にある共通の経験的事実としての科学的普遍主義とその帰結に対峙できる対話的実践を行うことが、今後求められる新たな課題の一つにあげられるであろう30。




1 今日のEUにおいて世俗化の影響が、国家と宗教の関係・教会税・閉店法・宗教教育の変容など多方面において顕在化していることについては次の文献を参照(以下の記述においても適宜参照している)。小原克博「EU時代の宗教――宗教多元社会の成熟に向けて」(小倉襄二他編『EU世界を読む』世界思想社、二〇〇一年)。
2 "Religionsunterricht f?r muslimische Sch?lerinnen und Sch?ler. Eine Stellungnahme des Kirchenamtes der Evangelischen Kirche in Deutschland".この全文はEKDのウェブ・サイト(https://www.ekd.de/)から入手可能である。
3 現在、もっとも大きなリアリティを持ってキリスト教的西欧に対峙している宗教はイスラムであろう。そうした構図をセンセーショナルに描き出したのがサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』(鈴木主税訳、集英社、一九九八年)であった。ハンチントンは、今後の戦争は、異文化間の接点における断層線の戦争(フォルト・ライン戦争)として多発すると分析している。そして、フォルト・ライン戦争の典型として、イスラム教徒と非イスラム教徒との間の争いを取り上げている。彼の説の是非はともかく、彼が西欧とイスラムとの近未来的関係を描写するために持ちだした「衝突」というメタファーが、多くの人々の関心を引いたという事実を見逃すことはできない。実際、世界教会協議会における宗教間対話のプログラムにおいても、イスラムとの関係が最重要視されている。他方、すでに対話の歴史を積み重ねている仏教とキリスト教の関係は、たいていの場合、思想的なものに限定されている。また、仏教の中でも宗教間対話に関心を持ってきたのは禅仏教や浄土真宗などごく一部の宗派に限られる。
4 一九六〇年代以降展開されてきた多様な議論は「宗教の神学」「諸宗教の神学」「宗教史の神学」「宗教多元主義」「多元主義の神学」などの名称のもとに展開されてきたが、本論文ではそうした議論の総称として「宗教の神学」を用いる。
5 この類型はA・レイスによって提案され、J・ヒックらによって積極的に用いられてきた(次の文献を参照)。Alan Race, Christians and Religious Pluralism: Patterns in the Christian Theology of Religions (Maryknoll, New York, Orbis Books, 1983). ジョン・ヒック、間瀬啓允訳『宗教多元主義――宗教理解のパラダイム変換』法蔵館、一九九〇年、六五―八六頁。この類型に関して理解のずれがあったり、類型の立て方そのものに対する批判があるにせよ、この類型は宗教的多元性を扱うための有力な方法論的モデルの一つとして評価されている。
6 Gustav Warneck, Evangelische Missionslehre, 1.Bd (Gotha, 1892), S.1.
7 Ibid., S.96.
8 Ibid., S.319.
9 バルトはキリスト教を「真の宗教」と呼ぶが、それはトレルチが言うようにキリスト教が宗教の最高形態であるからではなく、他宗教と同じく「不信仰」でありながら、「イエス・キリストの名」を信じている限りにおいて、そうなのである(カール・バルト、吉永正義訳『教会教義学』Ⅱ/二、新教出版社、一九七六年、二六七頁)。このようにバルトは無条件にキリスト教を絶対視しているわけでは決してないが、排他主義者はバルトの意図を離れて、バルト的なキリスト論集中を用いることが少なくない。また、バルト神学に啓発されながら、仏教との対話可能性を提示した人物に滝沢克己がいる。彼は、キリストは聖書の外においても認識され得ることを「インマヌエル神学」の中で根拠づけようと試みた。それは、バルト神学が排他主義的類型にとどまらない解釈学的広がりを持っていることを示す好例であると言える。
10 Anne Bathurst Gilson, The Battle for America's Families: A Feminist Response to the Religious Right (Cleveland, The Pilgrim Press, 1999), p.49.
11 潜在的な形では、すでにユスティヌス、エイレナイオス、オリゲネスなどの教父の著作において、イエスが神的ロゴスと同一視されるロゴス・キリスト論が示されており、ストア哲学の影響を受けたその理解は、非キリスト教的な伝統における真理契機を否定しない。
12 次の文献を参照。神田健次「宗教間対話の軌跡と課題――エキュメニカルな視座から」(『神学研究』四七、二〇〇〇年)。
13 Karl Rahner, Foundations of the Christians Faith (New York, The Seabury Press, 1978), pp.311-321.
14 次の文献を参照。Paul Tillich, Christianity and the Encounter of the World Religions (New York, Columbia University Press, 1963).
15 ジョン・ヒック、ポール・F・ニッター編、八木誠一・樋口恵訳『キリスト教の絶対性を超えて――宗教的多元主義の神学』春秋社、一九九三年、三頁。
16 ゲイヴィン・デコスタ、森本あんり訳『キリスト教は他宗教をどう考えるか――ポスト多元主義の宗教と神学』教文館、一九九七年、七頁。
17 ヒック、ニッター、前掲書、三六四―三六五頁。
18 ヒック、ニッター、前掲書、二九六頁。
19 たとえば、次の文献を参照。Raimon Panikkar, The Cosmotheandric Experience: Emerging Religious Consciousness (Maryknoll, New York, Orbis Books, 1993). Choan-Seng Song, Third Eye Theology, revised edition (Maryknoll, New York, Orbis Books, 1991). Hyun Kyung Chung, Struggle to Be the Sun Again: Introducing Asian Women's Theology (Maryknoll, New York, Orbis Books, 1990). 八木誠一『フロント構造の哲学――仏教とキリスト教の相互理解のために』法蔵館、一九八八年。
20 ヒックに対して様々な批判もなされてきた。『宗教がつくる虹――宗教多元主義と現代』(間瀬啓允訳、岩波書店、一九九七年)では、仮想的な二人の批判者(哲学者と神学者)と対論する形で、宗教多元主義をめぐるこれまでの主要な争点を網羅的に扱っている。
21 ジョン・ヒック、間瀬啓允訳『宗教多元主義――宗教理解のパラダイム変換』法蔵館、一九九〇年、七四頁。
22 John Hick, The Metaphor of God Incarnate: Christology in a Pluralistic Age (Louisville, Westminster John Knox Press, 1993).
23 ヒック、ニッター、前掲書、二二一頁。
24 Raimon Panikkar, The Unknown Christ of Hinduism, revised edition (Maryknoll, New York, Orbis Books, 1981), p.29.
25 たとえば、次の文献を参照。マルクス・ボーグ、小河陽監訳『イエス・ルネッサンス――現代アメリカのイエス研究』教文館、一九九七年。ジョン・ドミニク・クロッサン、太田修司訳『イエス――あるユダヤ人貧農の革命的生涯』新教出版社、一九九八年。
26 概観するものとして次の文献を参照。Volker K?ster, Die vielen Gesichter Jesu Christi: Christologie interkulturell (Neukirchen-Vluyn, Neukirchener Verlag, 1999).
27 山折は、従来の宗教間対話が一神教的伝統を方法論的な前提としてきた限界を指摘し、そうした対話の方法を経ずに、「棲み分け」によって宗教的共存に至る可能性を示唆している(次の文献を参照)。山折哲雄「『宗教的対話』の虚妄性――『宗教的共存』との対比において」(南山宗教文化研究所編『宗教と文化――諸宗教の対話』人文書院、一九九四年)。
28 たとえば、次の文献を参照。Hans K?ng and Karl-Josef Kuschel ed., A Global Ethic: The Declaration of the Parliament of the World's Religions (New York, Continuum, 1993).
29 Sallie King, "A Global Ethic in the Light of Comparative Religious Ethics" in: Explorations in Global Ethics: Comparative Religious Ethics and Interreligious Dialogue, ed. by Sumner B. Twiss and Bruce Grelle (Boulder, Westview Press, 2000), pp.126-133.
30 こうした課題の一つに環境問題がある。たとえば米国では、市民レベルの運動体として「環境のための全米宗教連合」(The National Religious Partnership for the Environment)が活動をはじめており、そこにはユダヤ教、カトリック、プロテスタントの諸教派がかかわっている。また、学問的な取り組みとしては、ハーバード大学の世界宗教センターが、諸宗教(仏教、儒教、神道、ヒンドゥー教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)とエコロジーの関係をテーマにしたプログラムを一九九六年から一九九八年にかけて開催し、先駆的な役割を果たしている。