研究活動

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書評「増澤知子著『世界宗教の発明──ヨーロッパ普遍主義と多元主義の言説』」、『図書新聞』3217号、2015年8月1日

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 今日「世界宗教」という言葉を耳にしたとき、多くの人は、信者数が多く、比較的安定した構造をもつ、いくつかの宗教を並列的に思い浮かべることだろう。キリスト教、仏教、イスラーム、ヒンドゥー、ユダヤ教、儒教、道教、神道等々である。どの宗教を「世界宗教」のリストに入れるかの細部に関して意見が分かれることはあるにしても、現代の日本社会においても、世界の宗教について学ぶための本が次々と出版され、また、多くの大学で世界の諸宗教を学ぶ授業が用意されている。こうした世界の主要宗教のリストは、1920年代の北米で急速に一般化し、そのリストがほとんど変わらずに今に受け継がれている。限られた数の「大」宗教だけではなく、世界各地にある複数の宗教が列挙されているのは、きわめて平等で現代的ではないか、と考えてもおかしくはない。

 しかし本書は、それが私たちの思い込みであることに気づかせてくれる。「世界宗教」というカテゴリーの系譜(主として19世紀から20世紀前半まで)を描くことを目的とする本書は、「世界宗教」という言葉や、そこに含まれる宗教一覧が近代ヨーロッパの中で「発明」されたことを明らかにしている。宗教という言葉だけにとらわれると、その系譜は宗教の研究者の間のマニアックな議論ではないかと思うかもしれない。しかし、本書が示している射程はそれより、はるかに広い。キリスト教や他の宗教をヨーロッパの思想の中にどのように位置づけ、再定義するかは、近代ヨーロッパ人のアイデンティティに直接かかわる問題であり、そのポイントは、本書の副題にもある「ヨーロッパ普遍主義と多元主義の言説」という言葉に示されている。近代以降、非西洋世界における膨大な多様性と否応なく向き合う中で、西洋人たちは、自らの普遍性をどのように維持できるのか、という難問に取り組むことになった。西洋社会やその思想の根拠となる普遍性の基盤が模索されたのである。

 「世界宗教」という言葉の生成には、多様な宗教の分類と類比の試みだけでなく、西洋的アイデンティティの再構築が伴っていた。本書を通じて強く感じさせられるのは、我々が世界をありのままに見たり、表現したりすることが、いかに難しいかということである。人間は誰しも、分類することによって、未知の対象をわかったつもりになる。そして多くの場合、自分に都合よく、対象との類似性や相違を強調する。たとえば、今も繰り返されている、西欧世界における反イスラーム的な感情や表現は、9・11以降に突発的に現れたものではなく、少なくとも数世紀さかのぼることのできる深い根を持ち、精緻に構成された言説の歴史があることを本書は教えてくれる。

 17世紀から19世紀の前半まで、世界の諸民族(宗教)を語る四つのカテゴリーが繰り返し用いられてきた。それはキリスト教、ユダヤ教、マホメット教(イスラーム)、その他(偶像崇拝、異教、多神教)であり、三つの一神教の間にすでに様々な軋轢があったとはいえ、この一神教トリオは、その他もろもろの多神教的異教とは一線を画する存在として、一体性(普遍性)を有していた。もちろん、その場合も、キリスト教が普遍性の中心基盤と見なされていたことは言うまでもない。ところが、この四分法が19世紀前半には衰退し、19世紀は新たなカテゴリーを模索する時代となった。そのきっかけを作ったのは、新しい言語の科学、すなわち、比較言語学であった。

 セム語族とアーリア語族(インド=ヨーロッパ語族)が発見され、同時に、アーリア語族に属する仏教がキリスト教に並ぶ世界宗教と見なされるようになった。そして、その反動を受けるかのように、一神教トリオは解体され、キリスト教はアーリア語族に、ユダヤ教とイスラームはセム語族に結びつけられていった(「ユダヤ=キリスト教」という新たな結合表現はアメリカの政治事情の中から形成されている)。キリスト教がセム的な起源を持つことは歴史的には明らかであるが、その連続性よりも、ギリシア的・アーリア的な特性に自己同一化することによって、新たな普遍性獲得の道を選んだのであった。そして、比較言語学の副産物の一つである、科学に依拠した反セム主義が、ユダヤ教およびイスラームに対する差別的な言説を生み出した。それがさらに何をもたらしたかについては歴史が教える通りである。

 このような経緯を経て、十数個の世界の諸宗教を共存させる多元主義的言説が生じていく。それはかつてあったヨーロッパ中心主義・覇権主義からの解放として祝福すべき変化なのであろうか。著者の批判的視線は、多元的な普遍主義とも言える西洋的イデオロギーへと向けられていく。キリスト教的残滓を執拗に抹消し、多元主義を称揚することに満足しているだけでは、なお十分ではない何かがあることを本書は示唆している。

 本書が描き出すヨーロッパ近代の知的営為は、宗教的伝統と近代的合理性のはざまでアイデンティティ形成を行った近代日本の営みにも響き合う点が少なくない。そして、「一神教」対「多神教」といった安直な対立図式が、なぜ今も日本社会において繰り返されるのかを、日本史的文脈だけでなく、世界史的な文脈においても批判的に考えることの必要性を本書は促してくれている。