小原On-Line

講演会「一神教と多神教」

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 本日、21世紀COEプログラム公開講演会「一神教と多神教――新たな文明の対話を目指して」が同志社大学で行われました。
 中沢新一氏(中央大学教授)が「一神教と多神教――グローバル経済の謎」と題して講演をし、わたしが「多神教からの一神教批判に応える――文明の相互理解の指標を求めて」と題して講演をしました。その後、司会の森孝一先生を交えて、パネルディスカッションをし、最後にフロアーからの質問に答えました。
 わたしの講演レジュメは下のリンクからご覧いただけます。
 350名くらいの来場者がありました。
 来場者へのアンケートから見る限り、かなり満足していただけたようで、時間が短すぎるとか、パネルディスカッションをもっと長くしてほしい、といった要望もありました。時間は2時間半だったのですが、3時間くらい必要だったのかもしれません。いずれにせよ、こうした要望が出るのは、ありがたい限りです。

 講演会終了後、会場を変えて、中沢先生を囲んでの研究会を行いました。
 本で書かれてるいる主張とは異なる本音のような意見を聞けたのは収穫でした。
 「一神教と多神教」という設定に潜む問題の指摘だけでなく、同様の価値の対立が他の国々でどのような形で現れているのか、特にインドの例などを取り上げて、刺激的な議論が交わされました。
 これらの成果も、なるべく早い内にCISMORのウェブサイトに掲載できればと思っています。
 なお、録画ビデオなどをご覧になりたい方は、CISMORの事務局までお申し込みください(E-mail: staff@cismor.jp、tel: 075-251-3972)。

■「多神教からの一神教批判に応える――文明の相互理解の指標を求めて」
http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/works.nsf/
626e6035eadbb4cd85256499006b15a6/04eed22fb0a285b249256f3d00513090?OpenDocument

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コメント(3)

更新ありがとうございます。

掲載されている内容に限り、一通り目を通させて頂きました。
そして、私として思うことがあったため、少し書かせて頂きます。

日本において、多神教の精神が育まれたのは、日本という国が島国であることと関係が深いのではないのかと思います。
島国であるため、山と海の関係に基づく概念を人々は意識しやすく、
並びに山と海双方においての人と人との交わりが行なわれ易かったことにより、多神教を受け入れる土壌が育まれたのではないかと思います。

そして、一神教についてですが、
一神教は大陸由来であること、つまり、それを奉じる人々は往々にして陸続きの世界の上で生きて行くことを前提としているため、神を1つとすることでそうした人々のまとまりを可能として行こうとしていたのではないかと思います。

そうしたことを考えると、今日の情報機器の発達により支えられるグローバル化の中、一神教と多神教との兼ね合いをどう果たしていくのかが求められているのであって、
どちらが消えるとか消えないとか、そうしたことを論じるべきではないと思います。

それに、教義そのもの自体は、島国人であろうと大陸人であろうと、彼らを惹きつけるに足るものなのですから、
一神教であること、多神教であることに対し殊更に注意を向けるべきことなのか、私には分かりません。
グローバル化とはいっても、一神教の下で一生を過ごす人もいるでしょうし、多神教の下で一生を過ごす人もいるでしょう。
問題は、そんな彼らが、他の教義・宗教に対し寛容さを発揮することの出来る世界を育んでいかなければならないのではないのでしょうか。
勿論、それは理想として、現実は難しいのかとも思いますが、そうしたことが可能とならなければ、この先、同じことの繰り返しになるのではないのかと思います。

私は宗教に関し専門として勉強している訳ではないため、
掲載されている内容に対して理解不足の感は否めませんが、
上記のようなことを思いました。

失礼に当たる内容があれば、申し訳ありません。

大和さん
 かなり誤解されているご様子なので、簡単にポイントだけ指摘させていただきます。
 宗教をそれが生まれた土壌と結びつけて説明する方法は「風土論」の一部として、これまでもありました。しかし、今日の学問的立場からは、宗教を風土から一義的に説明することは非常に難しいとされています。
 日本では、多神教は自然に恵まれたところで発生しやすいと考えられていますが、中東の砂漠地帯でも、イスラーム以前は多神教が基本になっています。
 また、講演の中心ポイントの一つは、一神教と多神教という思考の枠組み自体に疑問を投げかけることです。つまり、優劣の序列をつけたがる思考が、何に由来しているのかを分析することが一つの目的でした。
 大和さんの意見は、日本における平均的なものの見方を反映していると言えます。講演の中では、その問題性や、歴史的な繰り返し構造を指摘いたしました。

お返事、ありがとうございます。

私は、中東の砂漠地帯でも、イスラーム以前は多神教が基本となっていることについて、看過している訳ではありません。

政治において宗教が取り入れる中で、一神教の隆盛を見ることとなったのは、
大陸においては、陸続きである世界観が強調され、外側への意識がより認識されるようになり、様々な人々をまとめる上で一神教の方向へと進められ・進んだのではないのかということ。

それに反し、多神教の呈を示すような日本というのは、
その国土が島国であったことから、海による大陸との隔たりを認識しやすいため、外側への意識と同様に(若しくはそれよりも)内地へと人々の意識は向きやすく、
多神教を受容するようになったのではないのかということ。

そうしたことにより、一神教的価値観・多神教的価値観が成立したのではないのかということ。

こうしたことを、私は述べているだけです。
優劣の序列をつけたがる思考が、何に由来しているのかについて、小原さんのコメントを受けて考えましたが、
(小原さんの意図と同じくするかも分かりませんが)一神教的な価値観に基づくものかと思います。

ですが、グローバル化の中にあるとされる、地球人が全体的にその意識構造を高めていくためには、
「“地球”という惑星にあること」の唯一性を認めるのも大切であり、その上で他の惑星への唯一性も認めることが出来るようになって行くことに繋がらなければなりません。
その思索の上では、一神教的な価値観の枠組み同様、多神教的な価値観の枠組みも必要だと思うのです。
ですから、回帰することではなく、その兼ね合いを果たしていく必要があるのではないのかと、私は考えます。

>日本における平均的な~その問題性や、歴史的な繰り返し構造
私には、平均的なものの見方というのが一体どのようなものなのかは分かりかねるため、
その問題性や歴史的な繰り返し構造についても、よく分かりかねます。
ただ、歴史的な繰り返し構造については、幾ばかりかの理解はしているつもりではあるため、
その繰り返しの中、前に進めていくために、小原さんたちのような学者さんたちの活動が求められるのではないかとは思います。

私は宗教に関し専門として勉強している者ではないため、“平均的なものの見方”と断じられるのは結構ですが、
そう断じられるのでしたら、もう少し私にも分かる言葉で話されて下さい。宜しくお願いします。

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このページは、小原克博が2004年10月30日 23:56に書いたブログ記事です。

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