1月25日(金)、佛教大学で以下のように、京都・宗教系大学院連合の第4回「仏教と一神教」研究会が行われました。
◎テーマ:仏教と一神教における救済
◎発表者:
安達俊英(佛教大学)「浄土宗と浄土真宗における救済観の違い」
安永祖堂(花園大学)「仏の慈悲と神の愛」
四戸潤弥(同志社大学)「イスラームにおける救済」
◎コメンテーター:大田利生(龍谷大学)、室寺義仁(高野山大学)
司会者:山極伸之(佛教大学)
今回、私にとって興味深かったのは、安達先生による浄土宗と浄土真宗の比較でした。安達先生は、法然と親鸞を比較して、前者を「具体的救済」、後者を「観念的救済」と位置づけていました。「観念的救済」は少々ネガティブなニュアンスを含みますので、コメンテーターの大田先生は浄土真宗の立場から疑問を呈しておられました。
浄土宗と浄土真宗の関係は、自力と他力のバランスの視点から見れば、カトリックとプロテスタントの関係に非常によく似ています。より広い視点からは、他力を強調する浄土系仏教は、プロテスタント(「信仰のみ」)に似ています。このことは、発表者やコメンテーターからも、たびたび言及されていました。
私も質疑応答の際に、ドイツの神学者カール・バルトがプロテスタントと浄土宗との類似性を指摘したことを紹介した上で、他力本願の教えが後の歴史において、解釈のレベルで問題を引き起こしたことはないか、ということを尋ねました。
また、浄土宗の研究者の間でかつて論争になった、浄土の「非神話化」の議論は、現在どうなっているか、ということも聞きました。
質疑応答の時間が30分程度しかなかったのが残念でしたが、京都・宗教系大学院連合ならではの複合的な研究発表となり、おもしろかったです。

小原さん
お久し振りです。研究会での模様を報告して頂き、ありがとうございます。ついつい好奇心を刺激され、コメントを寄せることになってしまいました。
というのは、小原さんが提示された質問に対して、一体どのような返答がなされたのか、知りたく思いまして。
宜しければ、簡潔に(…というのは、かなり暴力的な表現かも知れませんが。)と言わずとも、端的に示して頂けることがありましたら、示して頂けないでしょうか。興味惹かれて止みませんので。
是非是非、お願い致します。
大和さん
お返事、すっかり遅くなってしまいました。
問題点は次の二つでした。
1)他力本願の歴史的な解釈問題については、十分に議論を展開できませんでした。しかし、プロテスタントの「信仰のみ」の原則が、何もしなくてもよい、という自己正当化を生み出したこと理解していただいた上で、それに対応する課題が浄土宗にもあったのではないか、というポイントについては理解していただけたと思います。
2)浄土の「非神話化」については納得のいく回答をいただけました。1970年~80年代頃に、この議論が非常に盛んになり、積極的な「非神話化」の動きも起こったが、現在ではそのような主張は比較的低調になり、むしろ「浄土」の実在性を自信を持って語る方がよい、という考え方が広まってきているとのことでした。このあたりの事情は、私もだいたい理解しているのですが、引き続き、私の関心に引っかかっているのは、それらの緊張関係をどのように整理しているのか、ということです。
この種の葛藤は、キリスト教の「天国」理解についても同様のものを見出すことができます。
小原さん
新しいブログの開設等でお忙しい中、お返事を頂くことが出来、ありがたく思います。
私は、研究会で扱われたという何れの問題にしても、教科書的な知識がわずかにある程度ですが、小原さんに示して頂いたことは、私自身、疑問に思って来たことでもあり、それだけに今更ながら、「だから、あれ以上の知識を得ることは出来なかったのだなぁ。」と、納得が行きました。
過去、日本では、浄土を目指して、浄土を求めて船旅をすることを求められた人たちがいましたが、昔から海運に通じる人たちは、物理的には向こう岸(大陸等)に着くことは分かっていたわけです。その上で、浄土なるものの存在を説くことの難しさ。
無論、大陸等の向こう岸にある世界が、日本よりも文明的に先んじて発展していた時代であれば、そこまで問題はなかったでしょう。が、時代が下る中では、日本としてのアイデンティティを形成しようとする上で、事と場合によっては、それは障害にしかなりません。当然、それへの対応も変わらざるを得ません。そして「宗教を以て庶民を律しようとすればこそ、懸念される問題はあるにせよ他力本願を肯定する他はなかったのではないのか?」と、目下として私は思わざるを得ません。
更に時代が下れば、日本としてのアイデンティティが確立されて来ているわけですから、大陸等の向こう岸にある世界をそれに相対するものとして意識し始めます。そして、「それへの意識が変な方向へと向かわないようにコントロールするためには、浄土なるものが実在することを訴える他はないのだろうな。」と、私としては思うのです。
専門家の方たちとして、私と異なる見解を頂いているのかも知れないのですが、そうしたことを前提とするに、キリスト教における「天国」の位置付け、イスラム教における「天国」の位置付けに、私としては関心を抱かされます。その上で、小原さんの「この種の葛藤は~」という件に目を通すに、「『天国』の位置付けに見え隠れする社会的背景について、私は知りたいのだなぁ。」と、思い至ることが出来ました。ありがとうございます。
長々となってしまい、申し訳ありません。
大和さん
新しいKOHARA BLOGでの初めてのコメント、ありがとうございました。
「天国」や「浄土」はもはや単一のイメージでくくることができないほどに多様化していると思います。実在論的な理解と、象徴的な理解との間にある緊張感は、単に天国論・浄土論の相違だけでなく、聖典そのものの位置づけの相違にまで関係してきます。その意味では、今後も引き続き、探求していきたいテーマです。
また、関係する研究会などがあれば、ここで報告します。
小原さん
お早いお返事、どうもありがとうございます。
私自身、記させて頂いた内容を前提とし、「天国」や「浄土」を説く上でそれらが多様化していることを意識させられます。ですから尚のこと、聖典そのものの位置付けへの視線は大切なものだと、私も思います。是非是非、探求のほど宜しくお願いします。
この先、関係する研究会などがあれば報告して頂けるということで、門外漢の一人に過ぎない私としては、それを楽しみにさせて頂きますので、どうぞ良しなにお計らい下さい。宜しくお願いします。