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立松和平氏・講演会

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 3月28日、京都・宗教系大学院連合(K-GURS)主催の公開講演会を行いました。近年、道元を題材にした著作や歌舞伎の台本で知られている小説家の立松和平氏を講師にお招きし、「禅に学ぶ」と題して講演していただきました(私は司会)。
 立松氏は、禅の専門家ではありませんが、小説家として道元の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を深く読まれ、とてもわかりやすく道元を中心に禅の世界を話してくれました。まさに道元が残した「言葉の森」に分け入るような話しぶりでした。

 禅を理解する上での重要な考え方をいくつも紹介してくださいましたが、その中でも、立松氏が「修行とは一体何なのか」という問いに対して語られ、禅の本質を言い表しているのではないかと紹介されたのが、次の言葉です。

 徧界(へんかい)曽(かつ)て蔵(かく)さず

 真理は(日常世界の)至る所に存在しており、隠されてはいない、という意味なのですが、修行とは何なのか、真理とは何なのか、ということを端的に言い表していると思いました。キリスト教に引きつけていうなら「自然神学」に隣接点をもつ考え方です。

 この講演の前日に、あろうことか偶然にも、私は道元の永平寺を訪ね、実際に修行僧の姿を見て、あれこれ考えさせられていただけに、この日の講演での一言一言が身にしみました。
 特にプロテスタントは、身体的な鍛錬を軽視する傾向にありますので(信仰義認論の影響)、禅の考え方と実践からは学ぶことが多くあるように思います。

 実は、私はドイツ留学中にクラスで『正法眼蔵』の一部をドイツ語で読みながら、禅の勉強をしたことがあり、そのことを懐かしく思い出しました。さらにいうと、座禅のための修養会に参加し、ゼミの学友たちと、ドイツの森の中で、あの阿部正雄氏から指導を受けたことがあります。
 花園大学(臨済宗妙心寺派)とヨーロッパのカトリック教会は、東西霊性交流という形で交流の歴史があるのですが、日本のプロテスタントはほとんど禅に対する関心を持っていません。そりが合わない、といってしまえば、それまでですが、身体的な鍛錬の重要性を知ることは大切だと思います。

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