KOHARA BLOG

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続・小沢一郎発言

 先日触れた小沢発言に対し、日本キリスト教連合会が抗議文を送り、それを受ける形でさらに小沢氏が自説開陳という記事をいくつか目にしましたので、成り行き上、少しコメントしておきたいと思います。

■asahi.com:「成仏するのは仏教だけ」小沢幹事長、改めて文明観披露

 上の記事から一部抜粋します。

 10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。
 これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。

 日本キリスト教連合会の抗議文の全文を知ることができませんので、記事に紹介されている文章だけから判断せざるを得ないのですが、ここだけを見ると「あんたこそ排他的でっせ!」と水掛け論に終わってしまっている印象を受けます。
 日本語の「排他的」「独善的」は、一般的に悪い意味を持ちますので、けなし合いの様相を呈しているといってもよいでしょう。
 ちなみに、「排他的」に対応する英語は exclusive ですが、これは必ずしも悪い意味を持たないばかりか、かなりポジティブに使われる場合も多くあります。たとえば、あるお店が顧客に対して Exclusive for You というメッセージを送れば、それは「お客様への特別ご奉仕!」となりますし、また、私が毎日のようにチェックしているCNNの動画には、しばしば CNN EXCLUSIVE という文字が入っています。CNN による独占取材(放送)という意味です。

 わたしは「排他的」な要素を持つこと自体が悪いとは思いません。キリスト教には排他的なグループが今も昔もたくさん存在していますし、それは将来も存在し続けるでしょう。それはキリスト教をキリスト教たらしめるための生命線の一部にもなっています。
 そうした部分を内包していることを率直に認めながら、どうすれば、そうした排他性が、他者(他宗教)への優越や排除に結びつかずにすむのか、つまり、どのように排他性を抑制・コントロールできるのかという、そういったレベルの知恵を語るべきではないのでしょうか。
 互いに「排他的」と言い合っていては、双方に敵対的な感情が残るだけだと思います。

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