KOHARA BLOG

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世界宗教者平和の祈りの集い

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 8月3日から4日にかけて、国立京都国際会館および比叡山延暦寺にて、「世界宗教者平和の祈りの集い」が開催され、その全プログラムに参加しました。
 26年前、イタリアのアッシジで、当時のローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世の呼びかけにより、世界平和を祈るための集会が持たれました。その精神を継承するために、翌年、比叡山宗教サミットが開催され、今年で25周年となります。
 今年の全体テーマは「自然災害の猛威と宗教者の役割」でした。プログラムの概要については、こちらをご覧ください。ちなみに、フォーラムなどを組み合わせた二日間にわたるプログラムは毎年行われているわけではありません。前回は20周年の時でした。5年の節目ごとに大規模な企画がなされますが、通常は比叡山延暦寺での祈りの集会のみです。

 一日目、開会式典に続き、梅原猛氏による講演「『草木国土悉皆成仏』という思想」がなされました。開口一番、明確な原発批判を展開し、その後、なぜそうでなければならないのかを、西洋思想(特にデカルト的自然観)と日本の自然観を対比させながら語っていきました。文明論的な視点からの語り口は説得力を持ち、大いに学ぶべきところがありました。
 同時に、

  • 伝統的自然観が日本にあるにしても、果たして現代世代がどれをどのように受けとめることができるのか(今や「草木国土悉皆成仏」的発想は日本においても失われていますので)
  • 脱原発のメッセージを日本の文脈を超えて他国に伝えるために、どのようにすればよいのか(ドイツなど一部の国をのぞけば、世界の多くの国々は原発推進です)
といった問題に思いをめぐらせました。しかし、これは梅原氏よりむしろ、若い世代がこれから考えていかなければならない課題であると思います。
 以下に梅原氏の講演の動画をつけておきます。


 講演の後、「被災者に宗教者はいかに向き合ってきたか」というテーマのシンポジウムがなされ、イタリア、タイ、中国、トルコからのゲスト、および日本から千葉博男師(竹駒神社宮司)がパネリストとして、それぞれ10分程度の話をされました。宗教者は、他の被災者支援ではできない心のケアをすべきである、という点では共通していたように思います。トルコの方は、イスラームを背景にしてのことだと思いますが、神への信仰が苦難に耐える力を与える、ということで、純粋に宗教的な側面を強調されていました。
 1日目の閉会式の中で、緊急メッセージということで、シリア正教のアレッポの大司教マー・グレゴリオス・イブラヒム師が、シリアの現状について話されました。アレッポはもっとも激しい戦いが展開されている場所の一つなので、その中から、よく日本まで来ることができたなと、まずは驚きを禁じ得ませんでした。そして、戦火にあるアレッポを踏まえながら、国際社会への切実な呼びかけをされていました。
 シリア正教は、しばしば政権よりとされてきた少数派勢力ですので、今も非常に微妙な立場にあります。シリア正教徒に対する迫害や攻撃が散発しているとも言われています。イブラヒム大司教は、政府側も反政府側も共に対話のテーブルに、ということなのですが、現状では簡単にはいかないでしょう。「平和の祈り」の場において突きつけられた世界の思い現実です。



 二日目午前中は国際会館でフォーラム「原発事故が提起したエネルギー問題と宗教者の立場」が行われました。重要なテーマであるため、以下、私のメモを付けておきます。

■マイケル・イブグレイブ(英国国教会)
 地震などの天災のあと、人々はどのように対応できるのか。キリスト教では、神の国の訪れについて語ってきた。希望の到来については、他の宗教もそれぞれのメッセージを持っているのではないか。
 松尾芭蕉が松島について詠んだ歌がある。芭蕉は、人々をはぐくんだ自然を歌っている。
 原発によって避難を余儀なくさせられている人々が多くいる。被災者の心の痛みも考えなければならない。3.11は天災と人災の複合であった。自然災害が起こると、なぜ神がこのようなことをお許しになったのかという問いがキリスト教では出てくる。
 原子力をどのようにすればよいのか。芭蕉の歌とは対照的に、被災地はもはや「我が家」とはならなくなっている。
 宗教指導者の役割は? キリスト教の場合、キリストは(1)聖職者、(2)預言者、(2)王としての役割を果たしている。それに対応させれば、宗教者の次のような三つの役割を考えることができる。
(1)社会の末端にいる人々に慰めを与えること。
(2)エネルギー政策への提言。英国国教会では、まだ本格的には始まっていない。
(3)希望のビジョンをもたらすこと。

■ウィリアム・ベンドレー(アメリカ、WCRP事務総長)
 3.11の直後に被災地を訪れたことがある。エネルギー問題に対して宗教指導者は何ができるのか。
 第一に、エネルギー問題の精神的・道徳的側面に焦点をしぼることができる。専門的な知識だけでは不十分。精神的・道徳的な遺産の力を借りる必要がある。エネルギーの専門家と宗教の専門家とが共同の取り組みをする必要があるかもしれない。核廃棄物を残し続けることは、道徳的に許されるのだろうか。昨日の梅原氏の話でも、精神的な遺産について触れていたが、それは重要である。
 第二に、一般の人々を啓蒙するという課題がある。複数の宗教が協力することによって、力を発揮することができる。
 第三に、利害の対立する団体をまとめていくという課題がある。利益団体と市民団体の対立は、これまでも頻繁に起こってきた。宗教指導者は、こうした場でよい役割を果たすことができるかもしれない。宗教的な遺産から力を引き出す必要がある。

■ディーン・シャムスディーン(インドネシア・イスラム最高評議会副議長)
 世界の危機の最大のものはエネルギー危機であると言える。エネルギーが不足する中で、原子力は代替エネルギーとして使われてきた。他のエネルギーと同様に、原子力はプラス面とマイナス面を持っている。
 高いエネルギー需要を満たすために、持続可能なエネルギー開発が進められてきた。チェルノブイリや福島の事故の教訓から学ばなければならない。福島の事故は人為的災害であったと報告書は結論づけている。
 核の安全性。国際的な核の安全保障。
 宗教指導者の役割。預言者ムハンマドは、世界に慈悲を広めるために送られてきた。宗教とは共通の善を広げるもの。人類の生活を守る限りにおいて、原子力を使うことはできる。しかし、そうでなければ、反対しなければならない。
 宗教指導者は、自然エネルギーを用いて環境を保護しなければならない。安全な原子力開発を進めなければならない。賛成・反対の両方の極端を避け、中道を目指さなければならない。

■パロップ・タイアリー(タイ、世界仏教徒連盟事務総長)
 私たちは調和のうちに暮らせていないだけでなく、世界の調和を乱している。自然を征服し、資源を搾取してきた。平和への道から遠ざかっている。 チェルノブイリだけでなく、多くの原発事故がすでに起こっている。自然災害だけでも大変であるが、それ以上の災害を起こす可能性のある技術をコントロールすることができていない。自らを思考に潜んでいる邪悪な力に十分な注意を払ってこなかった。
 進歩の名の下に、自然を極端までに搾取してきた。多くの生命種を危機に追い込んできた。
 平和の構築、自然の調和という点において、我々はかなり遅れている。

■イヴォ・フーバー(ドイツ福音主義教会)
 福島の事故は、原発事故がどれほど大きな被害を引き起こすかを世界に示すことになった。
 核物質のいくつかの半減期は1万年を越える。いったい何世代が影響を受けるのか。
 高レベル放射性廃棄物についての議論をドイツでは続けてきた。何世代のあとも、その危険性は減らない。
 エネルギー政策について、教会関係者も議論に加わってきた。
 私はミュンヘンに住んでいる。学生寮の一つに日本人がいた。事故の二日前に日本に帰った。多くの人にとって、3.11は他人事には思えなかった。日本のために国際的な祈祷会がもたれた。苦しみの中で一緒になるという経験をした。
 大切なこと。(1)教会の預言者的な声。神の創造物に対する責任を世界に呼びかけること。ライフスタイルを変えること。(2)苦難の中にあって希望を持つこと。

■山崎龍明(武蔵野大学教授)
 3・11を通じて、大自然の力の前で人間はなすすべを知らないことを再認識した。この震災は、決して天罰ではない。原発事故は明らかな人災。
 世界で起こる地震の一割が日本で起こる。四つのプレートの上にある日本列島の上に54基の原発がある。なぜ、これほどの原発を作ってきたのか。金儲けのためではないか。日本における原発政策が誤りであったことが、福島の事故で明らかになった。
 高速増殖炉「もんじゅ」「ふげん」という名がつけられたことに対し反対した。原発は高度経済成長を支えるものであった。水俣病と原発は根底において通じ合っている。
 原発依存的ではないエネルギー政策に取り組むべき。しかし現実には世界中が原発設置に向かっている。この課題を、信仰の課題として受け止めたい。欲望を少なくして、公平な分配を求める。小欲知足の経済学。

 このフォーラムが終わり、昼食を食べた後、バスで比叡山に向かいました。午後3時から延暦寺根本中堂で「平和の祈りの式典」が持たれました。以下にその様子をおさめた動画をつけておきます。各宗教の祈りをざっと見ることができます。



 以下、全体の感想を。少し厳しめのコメントも含まれていますので、関係者の方は読まれない方がよいかもしれません。

 25年、こうした式典・プログラムを続けてこられたのは、ともかく立派です。周到に準備されています。これらの点に心からの敬意を表したいと思います。しかし、何事もマンネリ化する危険性はありますので、せっかくの労力とお金をより有効に使うために、あえて以下のような問題点を指摘しておきたいと思います。

1)「対話」がない
 海外から有力な宗教指導者たちを招待しているのですが、実際に日本の宗教指導者たちとの実質的な対話の場がほとんど設定されていません。会議中は何度も「宗教間対話」の重要性が語られるのですが、それに対応する実態がない、ということです。全体がセレモニーなので、そうと割り切っているのかもしれませんが、もう少し少人数でしっかりとした議論ができるような場があれば、海外からのゲストも満足度が高まると思います。

2)「発信力」がない
 これだけのことをしているのですから、結果をしっかりと発信した方がよいと思うのですが、過去においても、また今回のものに関しても、詳細な報告はインターネット上には存在しません。「世界宗教者平和の祈り」という立派な目的をかかげているわけですから、できれば世界に対しても発信するようなものがあってしかるべきだと思います。

3)小さな「配慮」がない
 ムスリムおよび東アジアの仏教指導者の方々が今回少なからず招かれていますが、レセプションの乾杯はビールです。ムスリムおよび日本以外の東アジアの仏教指導者(お坊さん)はお酒を口にしません。せっかくの国際交流の場なので、お酒を避けたい海外からのゲストに対する配慮がほしいところです。日本では何の問題もないかもしれませんが、お坊さんがアルコールを口にする(ビールで乾杯する)というのは、他の国々ではまず目にすることのできない(ショッキングな!)光景です。
 今年はラマダーンと重なっていますので、ムスリムの方々は午後7時5分まで断食で、それまでは飲食ができません。そのあたりの事情をほとんどの人が理解していませんので、グラスをとらないムスリムに無理矢理ビールを勧める、という光景が見られました。主催者がちょっとした配慮あるアナウンスをしていただければと思いました。

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