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CISMOR公開シンポジウム「イスラームと西欧近代の問題」

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 9月15日、同志社大学 寒梅館ハーディーホールで CISMOR 公開シンポジウム「イスラームと西欧近代の問題―共約不可能性と共存可能性を突き詰める」を開催しました。
 以下のような構成で行い、最後にパネルディスカッションをしました。180名を越える来場者があり、途中で回収した質問数は40近くにのぼり、関心の高さをうかがわせました。
 目下、アメリカで作られた預言者ムハンマドを侮辱する映画をめぐって、中東で反米デモが拡大していますが、まさにそうした問題構造を問うシンポジウムとなりました。

講演
 内藤正典(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授)
 中田考(アフガニスタン平和・開発研究センター客員上級共同研究員)
コメンテーター
 見原礼子(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科助教)
 塩崎悠輝(同志社大学神学部助教)
司会
 小原克博(同志社大学神学部・神学研究科教授、CISMORセンター長)

 世俗主義、政教分離、宗教と政治といった言葉をキーワードにしながら、全体の話が展開しました。西洋型政教分離をイスラームに適用することの無意味さ(共約不可能性)などを論じながら、同時に、ムスリムを多数抱えている欧米社会が、どのように旧来の考え方を改め、新たな共存の仕組みを作っていくべきなのかを模索する議論になりました。
 以下に、簡単ではありますが、私の講演メモをつけておきます。シンポジウム全体の動画は、近々、CISMOR YouTubeで公開される予定です。


■イスラームと世俗主義―共約不可能性から共生への模索
 内藤正典(グローバル・スタディーズ研究科教授、CISMOR幹事)

 「共約不可能性」という言葉に、大学時代、科学史の授業において初めて出会った。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とは交わらない。ニュートン力学と量子力学も異なるが、両者がののしり合う必要はない。イスラームと西洋も同じではないか。

1. 具体的争点に関する考察
1)スカーフ論争
 もっとも論点が噛み合わず、共約不可能性が顕著に表れる例が、スカーフ論争。フランスのような世俗主義国家では、私人の宗教的表象が公的領域に持ち込まれることを拒否。これを「ライシテ」の原則と呼ぶ。
 2004年、公的な場所に宗教的なシンボルを持ち込むことを禁止する法案が成立。他の西洋諸国の場合、フランスほど厳格ではない。
 ムスリムにとっては、スカーフやヴェールは、イスラームという宗教を表象する道具ではない。この点が完全にすれ違っている。「共約不可能性」の例と言える。

2)アフガン問題
 タリバンを現在のアフガン政府を認めない。アメリカ軍によってタリバン政権は掃討された。タリバンを支持している人から見れば、現政権の正当性はない。否定的感情の源泉は西欧中心主義と既存の主権国家体制における覇権。

3)シリア問題
 これだけの犠牲者をだし、惨禍の渦中にあるシリアの人びとに、諸国家体制からなる国際社会は、なぜ、何もできないのか? アナン元事務総長が問題解決のために派遣されたが、結局、何もできなかった。アサド政権は宗教色がない。シーア派とも関係ない。政治的にはイランに近いがシーア派とはほとんど無関係。
 国家の問題を国家が処理するのは当然と考えている。自国の事柄に対して異論を述べることは認めないという価値観を、ロシアや中国は共有している。現在ある国家の枠組みは大前提となっている。

2. 原理的課題
1)人の法と神の法
西洋の世俗主義の国家においては、憲法という人のつくった法が至高の法。ムスリムにとっては、神の法が至高。この点において、両者は共約不可能と言える。

2)国民国家の構造
人間社会に統治制度が必要なことはムスリムも容認。しかし、ムスリムとしての再覚醒の進行に伴い、民族、人種などで括って「国民」を創出し、ナショナリズムを国民国家の提要とすることを否定する方向に進む。

3)世俗主義と進歩史観
 近代以降の西欧諸国の国家制度を支える基盤。世俗主義で国家を作るというコンセンサスができたのは19世紀以降。西洋社会は、こうした制度ができたいことを「進歩」と考えていることに問題の根がある。イスラーム的な制度は「中世的」な「遅れた」ものと見なしてしまう傾向がある。覚醒したムスリムに、こうした価値観を押しつけることは、対立をあおるだけ。

3.共生の可能性
1)19世紀の「西欧の衝撃」以来、近代西欧の擬制としての国民国家建設を志向してきたことが限界に達しつつあるという認識の共有。
2)論理的に整合しない「争点」を提示して執拗に挑発する行為を西欧側が止めること。
3)主権国家の論理によって他者を侵略・支配しようとする衝動を西欧社会がいかにして抑制するか。
4)ムスリム社会は、疑似西欧近代国家の運営を通じて体得した夾雑物を識別して、イスラーム的論理に従って、夾雑物を排除もしくは変えていくことができるか。言い換えれば、正しいイスラームを、どこまで、どれだけの人びとが体得して統治システムを構築できるか。

4.預言者ムハンマド侮辱動画と反米騒乱
 実際に動画を見たが、実にくだらないものだった。目下、犯人捜しをしているが、あまり意味がない。預言者を侮辱した、という噂が、急速に広まった。
 急進的なイスラーム主義者が騒乱を先導したとした説明の仕方があるが、これは違う。
 オバマ政権時代に沈静化した反米感情が一気に噴出した。オバマは、カイロでのスピーチで「一人の命の殺すことは、全人類の命を殺すこと」と語ったが、実際には、アフガニスタンで何人もの命を奪ってきた。
 ドイツの大使館も、イギリスの大使館も襲撃されている。
 異文化への寛容を説く前に、アメリカ主導の戦争における犠牲者への責任を考える必要がある。


■全ては政治、全ては宗教
 中田 考(同志社大学アフガニスタン平和・開発研究センター客員上級共同研究員)

 「全ては政治、全ては宗教」が本日の言いたいこと。イスラームは西洋的な政教分離を認めないと言われてきた。イスラームは政教一致と言われるが、そうではない。
 西洋近代に、我々の社会も決定的な影響を受けている。政治と宗教の区分が前提となっている。
 イスラームの教えは客観的に存在していると考えるが、それはこの世に存在するものだけではない。イスラームは「服従する」という意味。神の意志として、この教えは客観的に存在している。現実のムスリムが何をしているかということとは関係ない。
 神道や仏教を理解すれば、日本人の行動を理解することができるのか。仏教では原則禁酒であるが、日本の仏教徒は飲酒する。現実にイスラーム世界で起きていることと、イスラームとの教えとは別ものである。イスラーム的と言われているものでも、私の視点から見れば、イスラームとは関係ないことが多い。たとえば、イスラーム諸国会議機構というものがあるが、これはイスラーム的ではなく、むしろ反イスラーム的と言える。
 私が考えるイスラームは規範的なものである。
 イスラームは政教一致ではない。「全ては政治、全ては宗教」。現代はすべてが政治化されている。国家が肥大化して、すべての人間の生活にかかわるようになった。しかし、これは比較的新しい現象と言える。
 現代では、生まれたとき、死んだとき、国に届け出なければならないが、本来こういうことは必要ない。義務教育は、拉致・監禁・洗脳と言える。日本では民主主義がすばらしいと考えられているが、果たしてそうか。
 預言者ムハンマドの時代、啓示がくだりジハード(戦争)に向かうことがあった。啓示・政治・軍事は分かれていなかった。
 スンナ派の理解では、預言者が亡くなると、預言者はいなくなる。絶対的な権威をもった人物は、預言者ムハンマド以降には存在しない。支配者は、世俗の事柄を決めるだけ。すべての中心は神であるが、社会機能は分化していく。イスラームは早い段階で「政教分離」している。ただ、それは西洋の政教分離と異なる形を取っている。
 イスラームでは、聖職者のみの規範というものはない。法があって、その元にすべての人間が平等。法に詳しい者とそうでないものとの違いがあるだけ。
 イスラームでは、政治と宗教が分かれている。たとえば、サウジ・アラビアでは、女性は車の免許を取れない。礼拝の時間にはすべての店が閉まる。外から見ると、政教一致の国と見えるが、実際には政教分離がはっきりしている。政治は宗教とは別のものであって、政治は一般の人間が考えることではないとされている。
 教会はもともとは政治組織であった。戦時下において、日本は宗教的な国家であったが、神道が力を持っていたわけではなかった。政教分離は、国によって違う。
 イスラームとは、神に従うことであって、「心の救い」のようなものではない。アッラーだけに従うことがイスラーム。我々は何に従って生きているのかをイスラームは考える。一般的には、我々は国家に従っている。出生届のように、多くは慣習化している。
 現代は、ほとんどすべてのものに国家が関係している。しかし、国家ではなく神に従うことがイスラームである。
 イスラームは一神教。神に従うことを求められるので、同時に神以外のものに従わないという排他的な側面も出てくる。西洋のシステムに従わない、ということもその一例。現代のようにすべてに国家が関係してくると、それに対する否定の契機が生じてくる。これは、国家が肥大化してきた現代特有の現象。国家が人間を管理するというシステムを否定しなければ、ムスリムになることができないという状況がある。逆に言えば、政治を離れてイスラームではあり得ない。政治そのものを変えていかなければ、イスラームではない。

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